モノクロォムの硝子鳥

ヒソリ

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06.微熱

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ひゆが目を覚ましたのは真夜中だった。

中天近くに昇った半月が薄雲を纏って淡く輝いているのが大きな窓越しに見えて、その幻想的な光がまだ夢の中かと思わせた。
どれくらい眠っていたのか……頭が靄がかってぼんやりとする。

(…からだ、重い……)

目を開けるのも億劫で、意識がはっきりとしてくるにつれて自分の身体が重く気怠いのに気付いた。
明瞭としない頭で記憶をたぐり寄せれば、おぼろげながらも記憶が断片的に甦る。
途端に、顔と言わず身体中がカッと火照る。

(―――…なんで、あんな事……!)

九鬼に強引に口付けられ、身体を開かれた恥辱にゾクリと身体が震える。
焦燥と不安に駆られて、ベッドの中で小さく身を縮こまらせるとギュッと自分の身体を抱き締めた。

手繰り寄せた記憶の端々から、肌に味わった九鬼の掌の感触がじわりと呼び起こされていく。
彼の手が、唇が触れるたびに自分の肌が違うものに塗り替えられていくようだった。
触れた箇所からひゆの知らない感覚を引き出され、一つ一つ丁寧に覚え込まされていくのに何も抗えなかった。

耳奥にまだ痺れるような甘い低音が残っているようで、掻き消そうと小さく頭を振る。

(……なんで――…?)

繰り返す疑問符はもう何度目か分からない。
幾度と繰り返しても答えの見えない問いは九鬼ばかりでなく、自分自身に対する疑問でもあった。
九鬼にされるがまま、強引に肌を滑る掌の熱さに最初のうちは逃げ出したくて抵抗していた。
けれど、事が進むにつれ自分の意思とは全く別の処で感覚が暴走して、最後の方には自ら九鬼の腕に縋っていたような気がする。

一度達しただけでは九鬼はひゆを離さず、昇りきった快感に震え、感じ過ぎる身体にまた新たな熱を注がれた。

何度もあの指と口付けに追い上げられて、最後の方はあまり覚えていない。
ただ、狂おしいほどの喜悦を受け入れられず、「怖い」と繰り返すのを九鬼は優しい声音でひゆの名前を呼びながら抱き締めてくれた。
九鬼の腕に抱かれて彼の匂いに包まれると、より深く見えない淵へと堕ちていった――…。

思い起こせば、酷く矛盾している。
望まない行為を強いられて恐怖や嫌悪感を持つどころか、意識が曖昧だったとはいえそれを与えている本人に縋ってしまうなんて。
けれどあの時は…、九鬼の腕だけが自分を掬い上げてくれるような、そんな気がしたから――…。

こうして思い出している今でも、あの熱が呼び起こされても九鬼に対して黒い感情は芽生えてこない。
自分の感情すら持て余している今のひゆは、些細な事で均衡が崩れてしまいそうなほど不安定だった。
九鬼が何を思って、どうしたいのか何も見えてこない。それと同時に、ひゆもまた自分がどうしたいのか…九鬼を嫌悪出来ない自分自身に困惑していた。

冷えた心と対照的に、暖かな羽毛のベッドの中で身体を縮めていると、ふと視界に入った服が昼間に着ていた物と違う事に気付いて、改めて身に着けている物を見下ろす。
身体に纏っているのは、昼間に着ていたツイードのワンピースではなく、重ねシフォンで作られた柔らかなナイトドレス。
自分で着た覚えが無いのだから、おそらく九鬼が着替えさせてくれたのだろう。

(……もしかして、身体も洗われちゃったのかな……)

肌はさらりとしていて、不快感はどこにも無い。
それが余計にひゆを気落ちさせて、深い溜め息を吐くと柔らかな枕へ顔を埋めた。

仮に、九鬼では無い誰かがひゆの意識の無い間に、身体を綺麗にして服を着せ付けてくれたのだとしても、それはそれで恥ずかしい。
どちらにせよ、恥ずかしい事に変わり無いのに嘆息する。
これ以上は深く考えないようにしようと自分に言い聞かせながら、無理矢理眠ろうと眼を閉じた。

――このままじゃダメだ。こんな理由の付かない感情は自分には必要ない。
今までのように何も考えず、何も感じないようにしなければ。
そうすれば、九鬼の真意も理由のつかない感情も自分にとっては何の意味も持たなくなる。

ゆっくりと訪れて来た睡魔に引き込まれながら心の中で呟いてみるが、どうやって感情を持たずに居られたかひゆは思い出せないまま眠りに堕ちていった。
――それから更に半日、ひゆは眠り続けた。

次に目が覚めた時は夜中に目が覚めた時よりもずっと気分が悪くなっていた。
動きたくても動けず、胸のあたりに吐き気に似た不快感がある。
せめて水を飲めたら…そう思って重い身体を起こそうとした時、ドアを軽くノックする音が聞こえた。

隣の部屋ではなく寝室の扉を叩く音に、ビクリと反射的にひゆの身体が強張る。
返事をしようかどうしようかと悩みながら声を出そうと口を開くが、躊躇ってなかなか言葉出てこない。
返事をしないままベッドの中で身構えていると、ひゆの返事を待たずに扉は開かれた。

「失礼致します、お嬢様」

(…お嬢、さま……?)

警戒してギュっと目を閉じていたひゆの耳に届いたのは、予想していた相手の声ではなく優しい女性の声だった。
聞き覚えの無い声に、閉じていた瞼をそっと開いて恐る恐る相手の姿を確認する。
すると、ひゆの反応に気付いたその女性は優しい笑顔で微笑みかけてくれた。

年のほどは40代後半くらいだろうか…。
一般的にメイド服と言われるようなものよりは、幾分落ち着いた雰囲気の清楚な濃紺のワンピースに真っ白なエプロン姿。
この屋敷で仕えている使用人の女性は何人か見かけたが、着ている服は彼女達のものより少しデザインが異なっていて上品な気がする。

(……誰だろう…)

ぼんやりと相手を見ていたひゆに、その女性は心配そうに表情を曇らせて、ベッドのすぐ側に寄るとひゆの顔を覗き込んだ。

「お嬢様、お顔の色がすぐれないようですが……どこかお加減が悪いのでしょうか?」

優しいその声が心に沁みて、暖かなものがじんわりと広がっていく。

「…すみま、せん……。お水、もらえませんか…?」

掠れた小さな声で告げると女性はすぐさまグラスに水を注いでくれた。
自分が思っていた以上に喉は枯れていて、ヒリヒリと痛みを感じる。

身体を起こそうとするが思うように動けず、なかなか起き上がれないでいるひゆを、女性はやんわりと制して再びベッドへと寝かしつける。
そうして、枕で少しだけ高さを取ると、グラスを口元へ寄せて水を少しずつ飲ませてくれた。

喉を潤す冷たい水が心地良い。
溶けたレモンの味とほんのりと香るミントが身体に沁み込んでいくようで、グラスの水はあっという間に無くなってしまった。
ひと心地つけて、ほっと安堵の吐息を零すと空になったグラスに水を注ぎ足してくれている女性を改めて見上げる。

「……あの、ありがとうございます…」

「どうぞお気になさらず。他に何かございましたら何なりとお申し付け下さい。今、お医者様を呼んで参りますので…」

(……医者…?!)

サイドテーブルの上にグラスを乗せると、そのまま急いで部屋を出て行こうとする女性に驚いて、ひゆは慌てて身体を起こす。

「だ、大丈夫ですっ。ちょっと気分が悪かっただけなので…お水飲んだら少し楽になりましたから…っ」

寝起きの時よりは吐き気もだいぶ収まっていたし、冷たい水のお陰で身体の方も幾分かすっきりとしている。
これくらいの症状なら、暫く安静にしていれば直る程度のものだろう。
身体の調子が悪い時はよっぽどの事がない限り薬には頼らず、じっと静かに寝て苦しさが無くなるのを待つのがひゆの癖だった。

くるりと振返り、ひゆの顔色をじっと見つめる女性は、やはり心配だと表情を曇らせる。

「いいえ、きちんとお医者様に見て頂いて何か処方をして頂いた方が宜しいかと思います。お顔の色もあまり良くありませんし」

「本当に大丈夫なんで…、あの……すみません…」

彼女の立場上かも知れないが、親切心で言ってくれているのを断るのが申し訳なくなってきて、語尾がだんだん小さくなっていく。
折角の申し出なのだから素直に甘えれば良いかもしれないが、右も左も分からないような場所で、少しばかり体調を崩したくらいで医者を呼んで診てもらうのはひゆにはとても心苦しく思えた。
そこまで迷惑を掛けたく無いという気持ちも大きかったし、何より体調を崩してしまったのは自分のせいだ。

肩を小さく窄ませて俯くひゆに、その女性は慌ててひゆの側へと戻りそっと肩に手を添える。

「謝られることは何もございませんよ。どうぞお顔をお上げになって下さい」

優しい手つきで背中を撫でられると、肩に入っていた余計な力が解れていく。
俯いていた顔をゆるゆると上げれば、ふわりと穏やかな表情を向けられた。

「お嬢様がそうおっしゃられるのでしたら、こちらで安静になさって下さいませ。ですが、もし具合が悪くなったり、何か有りましたら直ぐにお申し付け下さいね」

「…はい、有難うございます」

素直にお礼を言って小さく頭を下げる。
名前も知らない相手なのに、彼女の持つ雰囲気や声がとても穏やかなのがひゆの警戒心を和らげていた。

(……名前、何て呼んだら良いのかな)

それを問おうと側にいる女性の顔を見上げると、彼女は「あっ」と小さく声を漏らした。

「申し訳ございません、私ったらまだ名前も申し上げておりませんでしたね。私はこちらの御屋敷に勤めさせて頂いております、木南きなみと申します」

「…木南、さん」

「はい。どうぞ宜しくお願い致します、お嬢様」

ふわりとした笑顔につられて、ひゆも表情が柔らかくなる。が、そのまま雰囲気に流されそうになってしまい、はたと我に返ると気を引き締めた。

「私は……蓮水って言います。一昨日にここに来たばかりで…その、木南さんが言われるようなお嬢様とかじゃ無いです」

「一昨日にこちらの御屋敷にお越し頂いたのは存じておりますよ。むしろ、この御屋敷で知らない者は居りません」

木南の言葉にひゆは驚いて目を瞠る。
この屋敷に居る人間で自分を知らない人間が居ないなんて。どんな風に自分の事を知られているのかざわりと不安が頭を擡げた。
まさかもう、志堂院の孫として認知されてしまっているのだろうか。

「お嬢様は旦那様がお招きされた大事なお客様です。粗相の無いようにと皆仰せつかっております」

ひゆの驚く表情に何か感じたのか、フォローのように付け足された言葉にひゆはほっと胸を撫で下ろす。

「可愛らしいお客様でしたのでついお嬢様…と。お嫌でしたでしょうか?」

「…あ、いいえ……嫌とかというよりは、聞き慣れないので変な感じがして…」

視線を逸らしてぽつりと漏らしたひゆに、木南は子供を見つめるような優しい眼差しで微笑んだ。
名前で呼んで下さい、と言おうと思っていたのに木南があまりにも申し訳なさそうに言うので、つい曖昧な返答をしてしまった。
普段の自分なら、きっと無機質にこうして下さいと意見出来ただろうに。
いつもの調子が出ないのは体調が悪いせいだ、と自分に言い訳をする。

「何かお召し上がりになりますか?ご気分が悪いのでしたら口当たりの良い物を作らせますが…」

「……じゃぁ…」

そう言われた時、ふと頭に浮かんだのは紅茶だった。
九鬼の、彼の淹れる美味しい紅茶が飲みたい。柑橘系のすっきりとしたフルーティーな甘さのアイスティーをリクエストしたら、作ってくれるだろうか。
思うまま口にしようとして、はっとひゆは言葉を喉奥に飲み込んだ。

九鬼の名前を出しそうになってひゆの表情は硬く強張る。
ほんの少し前、木南が訪れた時に九鬼が来たのだと勘違いして警戒していたのは誰だったか。

……逢いたくない、心の中でそう思っている自分が居る。

彼に逢ってどんな表情をすれば良いのか。それ以上にどんな反応をしてしまうのかひゆ自身想像出来なかった。
けれど、それと同時に何故この場へ九鬼が訪れないのか気になっていた。
あんな事をしてしまって、顔を出し辛いのか……それとも何か他の理由で?

「お嬢様…?」

「あっ…えと、すみません…」

声を掛けられ、はっと顔を上げる。脳裏に浮かんだ九鬼の事を押しやって表情を取り繕う。

「今は良いです。お水も有るし……もう少し休みます」

「左様でございますか。それでは私はこれで失礼致しますね」

再びひゆをベッドへ寝かし付け、丁寧な手つきで羽毛布団を掛け直すと木南は小さく頭を下げてその場を離れる。
柔らかな布団に包まれながら、ひゆは木南の後姿を視線で追った。

「……あの…」

意識せずに言葉が口から飛び出す。
木南に聞いたら分かるだろうか。どうして九鬼がこの場に来ないのか。

今、彼がどうして居るのか―――…。

「はい、何でございましょう」

にこやかに振り向く木南と視線が合い、思うまま尋ねてみようとしたがそれ以上言葉が出て来ない。
頭の何処かで、九鬼の事を聞いてどうするんだと問いかける声が聞こえる。

本当に……聞いてどうしたいのか……。

「…いえ、何でも無いです。ごめんなさい」

小さく首を振って見せて、ひゆは深くベッドに潜り込む。
九鬼を意識している自分を否定出来ない。
人付き合いに線を引いて、自分を育ててくれたあの女性に対しても意識なんてしなかったのに、誰かを自分の心の中に住まわせるなんて。
落ち着かない気持ちが煩わしい。
眠り直そうと、ひゆは瞼を閉じて何も考えないように意識を閉ざした。


----------


木南は何も言わず、そのまま部屋を後にすると静かに扉を閉めた。
持ち場へ戻ろうと廊下を歩む木南の視界に人の姿が止まると、少し早足でその人の元へと歩み寄る。

「…宜しいのですか?お逢いにならないで」

「すみません、木南さんにお手数をお掛けしてしまって……」

「いいえ。私の事は良いのです。それよりも、お嬢様のお傍には私などでは無く九鬼様がいらっしゃるべきかと」

ひゆの部屋の扉を振り返ってから、改めて九鬼を見上げる。
九鬼はそれには答えず曖昧な笑みを浮かべて見せた。

「……ひゆ様のご様子は?」

「少し、体調を崩していらっしゃるようで……お医者様に診て頂こうと思ったのですが、ひゆ様に断られてしまいました。何かあれば呼んで下さいとお伝え致しましたが、あのご様子では何かあっても呼んで下さらないのではと、少し気掛かりでございます」

水だけを求めて他は要らないと言ったひゆの様子をそのまま九鬼に伝える。
心からひゆを心配しているのだろう。
木南の不安な表情に九鬼は僅かに眉を寄せてひゆの部屋の方へと視線を向けた。

「そうですか…では、後ほど私がご様子を伺う事にします」

「はい。そうして頂くのが一番かと」

九鬼の台詞に、木南はほっとして声を和らげた。
昨日の朝食の後からひゆは何も食べていないはずだ。
それなのに食事を頼まず、水だけで良いだなんて…容態がかなり悪いのではと九鬼も心配になってくる。

やはり医者を呼ぶべきかと九鬼は思案しながら、再び木南へと視線を移した。

「木南さん、お医者様に連絡を取って頂けますか?なるべく詳しくひゆ様のご容態をお伝えして、何かお薬を処方して頂いて下さい」

「分かりました、直ぐに連絡致します」

「お薬の処方が出来ましたら、私が後ほどお食事と一緒にひゆ様にお届け致します」

返事の代わりに木南はコクリと一つ頷いて見せると、くるりと背を向けた。
立ち去る木南に九鬼は小さく声を掛けて呼び止める。

「他に何かございましたでしょうか?九鬼様」

振り向く木南に九鬼はいつもの穏やかな顔を見せる。

「……一介の執事に「様」付けは不自然ですよ。普通に呼んで下さい」

「ですが、九鬼様は…!」

とんでもない!と首を左右に振る木南に九鬼は自分の唇に指を当てて、静かにとジェスチャーを送る。
その仕草に、木南はそれ以上の言葉を噤んだ。

「私は、こちらの御屋敷に勤めさせて頂いている執事です。それ以上も、それ以下でも有りませんよ」

にこり、と綺麗な笑みを浮かべて見せると、九鬼は自分の為すべき事の為にその場を離れた。
木南はこの志堂院の屋敷に仕えるメイド達を統括する立場にある、メイド頭にあたる。
志堂院家に仕える女性の中では一番歴が長く、もう20年以上にもなる。

九鬼の指示を忠実に守り、素早い行動で志堂院家が昔からお世話になっている病院の担当医から薬を処方して貰い、それを九鬼に届けた。
薬が届くまでの間、九鬼は厨房へ向かいひゆが少しでも食事が摂れるようにと、口当たりの良い軽食を作らせ一通りの準備を済ませる。
ひゆの容態が悪化していないだろうか、と逸る気持ちは良くない方向へと思考を傾けさせる。
薬と食事を銀のワゴンへ乗せ、ひゆの寝室へと向かった。

部屋の前に来ると、軽く扉をノックしてひゆの返事を待つ。
ひゆが起きていて、九鬼と顔を合わせるのが嫌で返事をして貰えないのでは…そんな懸念は確かにあった。

暫くしても中から何の反応も無いのに少し心を重くさせて、九鬼は「失礼します」と断ってから扉を開いた。
静かな部屋にワゴンの進む音だけが小さく響く。
真っ直ぐにひゆの寝室へと向かい、再び扉を小さくノックする。
こちらでもやはり返事が無く、仕方ないと胸の内で呟いてドアノブを回した。

「失礼致します。ひゆ様、お食事と薬を――…」

部屋に入り、ひゆへと声を掛ける九鬼は、中の様子に言葉が途中で途切れてしまった。
忍び寄る夜の影に僅かに残る外の明かりが薄暗い部屋を差す中、そこだけが浮かび上がったような白いベッドから苦しそうな息遣いが聞こえてくる。
ワゴンを傍らに置いて、すぐさまベッドに寄り覗き込む。

額に玉の汗を浮かべ、苦しそうに呼吸するひゆの姿がそこにあった。
時折、小さく咳き込みながら苦しそうに呼吸する姿が痛々しい。

「ひゆ様」

肩に手を掛け軽く揺さぶってひゆを呼ぶ。
布越しに触れたそこが熱いのを感じて、九鬼は表情を曇らせる。

「ひゆ様」

もう一度、今度は少し強めに呼び掛けてみる。
するとピクリとひゆの眉が動いて反応を見せた。

少し間を置いて、重く閉ざされていた瞼がゆっくりと持ち上がる。
焦点が合わない視線を虚ろに彷徨わせ、ひゆの顔を覗き込む九鬼をぼんやりと見上げる。
薄暗い部屋の中で目が慣れないのか、ひゆの反応は鈍い。

「お薬をお持ち致しました。飲めますか?」

取り出したハンカチで、そっとひゆの汗を拭いながら問う。
ひゆは熱で潤んだ瞳でゆるく瞬きを繰り返していたが、震る唇で何かを紡ごうとしているのに九鬼は気付いた。

「何か、欲しい物はございますか?」

汗で額に張り付いた髪をそっと横へ流してやりながら優しく問いかける。
額に触れた指先の冷たさが心地よく、ほぅ…とひゆは吐息を漏らした。
浮かんだ汗を指先で拭いながら、九鬼は静かに言葉を待つ。

「……を…」

荒い呼吸の合間、紡がれた声は熱っぽく掠れ、耳を澄まさなければ聞こえないほど小さい。
九鬼は耳を寄せ、もう一度と促すようにそっとひゆの頬を撫でた。

「…みず…を……」

「かしこまりました」

薄明りを残していた日の光も完全に消えて、いつしか部屋は夜の色に溶け込んでいた。
ベッドの側にあるランプシェードを灯すと、温もりのある柔らかなオレンジの光が部屋をほんのり明るくする。
ワゴンで運んだ水をグラスに注ぎ、ひゆの肩を抱いて少しだけ上体を起こしてやると、口元にグラスを寄せた。

慎重に少しずつグラスを傾けながら水を飲ませようするが、ひゆの意識がはっきりしていないせいか、水を飲もうと唇は動くが上手く取り入れられず淵から零れ落ちてしまう。
水に濡れてしまった肌を丁寧に拭い取り、ひゆの表情を伺う。

再び眠りの淵へと引き寄せられたのか、身体が辛いのか…ひゆの瞼は閉じられて、呼吸はいまだ苦しげなままだった。

「…失礼致します」

手にしていたグラスの水を口に含むと、指でひゆの唇を開かせて、静かに唇を触れさせる。
少しずつ、九鬼は熱い口腔へと水を注いだ。
ひゆの身体がピクンと震えたがそれは一瞬で、口の中を満たす潤いをコクリと喉を鳴らして飲み込む。
口に含ませた水は、熱を冷まし喉の痛みを緩和してくれているようで、ひゆは小さく喉を上下させながら水を飲み干した。

水が飲める事に、九鬼はほっと安堵する。
もっと欲しいのか、まだ離れていなかった九鬼の唇をひゆは幼く吸い付く。
名残り惜しげに、一旦唇を離し九鬼は再びひゆの唇を塞いだ。

待ちかねていたのか、今度は自ら唇を開いてくれるのに愛おしさを感じながら、再び優しいく塞さいだ。

「……ッ…ん…」

鼻に掛かった甘い声が漏れると、もっと深いものに変えてしまいたくなる衝動が走る。
コクリコクリと、新たに含まされる水を夢中で求めるひゆが可愛いくて、指に絡む細い髪を優しく撫でた。
水と一緒に、するりと口腔へ舌先を忍ばせる。
最初は唇の辺りを擽っていたそれが、まだ水の残る口腔へと深く入っていく。

ひゆの舌に触れた瞬間、驚いたのか奥の方へと引っ込んでしまった。
それを慎重に追い掛けて、今度は怯えさせないようにやんわりと擽ると、縮こまっていた舌が九鬼の舌にそろりと絡んだ。
触れているのが九鬼の舌だと気付いていないのだろう。
暫くすると、ひゆは自分から舌を絡めて吸い上げた。
欲しい…と言葉は無くても、九鬼のスーツを握りながら唇で求めてくるひゆに、九鬼は繰り返し口移しで水を与えた。

何度目かの口付けの後、満足したのかひゆは小さく息をつく。

九鬼の袖口を握っていた手も力が抜けて、柔らかなベッドに落ちていた。
とろりと寄せる睡魔に身を委ねて、身体から力が抜けていく。
ひゆの表情が幾分和らいだのを確認して、九鬼はまどろみを誘う優しい手つきでひゆの髪を梳いていく。

「もう暫く、お眠り下さい。次にお目覚めになられたら、食事を摂りましょう」

自分の声が彼女に届いているのか、そうで無いのかどちらでも良い。
眠るひゆの表情が、落ち着いて穏やかになったのなら。

ベッドを軽く整えて、最後にもう一度髪を梳いてやる。
眠るひゆを起こしてしまわぬように、九鬼は静かにその場から消えた。

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