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序章 荒野の静寂
* * *
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世界が腐る音がする──。
そんな錯覚を覚えるほど、グラウル荒界の風は乾ききっていた。赤茶けた砂塵が舞う荒野の街道。かつて文明が繁栄した時代のコンクリート片が墓標のように突き出し、その陰には飢えた捕食者たちが息を潜めている。だが今日、この街道で死ぬのは捕食者のほうだった。
「ひ、ひぃッ……! あ、足が、動か──」
男の絶叫は、唐突に断ち切られた。喉を潰されたわけでも、舌を引き抜かれたわけでもない。ただ、音そのものが死んだのだ。
世界が息を止めた。風が、音を忘れた。
カツン──硬い靴音だけが響く。陽炎の向こうから一つの巨大な影が歩み出る。身長二メートルを超える巨躯。全身に刻まれた古傷と、焼け焦げたような呪刻。片手には、男の胴ほどもある無骨な戦斧。
グラード・バロッグ。その歩みは、一歩踏み出すたびに大地が彼を避けて沈むように見えた。
彼が纏う『魔王の遺物』が強制する、絶対的な静寂。盗賊の一人が、見えない重圧に押し潰されるように膝を震わせ、口をパクパクと動かす。だが無駄だ。グラードは表情一つ変えず、あたかも「通行の邪魔だ」とでも言うように、歩きながら戦斧を軽く薙いだ。
――グシャァ。
静寂の中、人体が熟れた果実のように弾ける音だけが、やけに鮮明に響いた。一人、二人。抵抗も命乞いも許されない。ただの一撃で上半身と下半身が泣き別れる。圧倒的な暴力。あるいは災害。そこに善悪は存在しない。ただ「強さ」という事実だけが、死体の山を築いていく。
やがて最後の盗賊が動かなくなると、ふっと世界に音が戻った。風の音が戻る。遠くの鳥の声が戻る。そして──。
「お、……ぅ、えええっ……!」
グラードの背後、数メートル離れた岩陰で、小柄な少年が胃の中身を吐き出していた。ピクスだ。ボロ布を纏い、腰には不釣り合いな短剣。年齢は十五にも満たないだろう。顔色は死人のように青白い。目の前で繰り広げられた一方的な殺戮劇。飛び散る臓物の臭気。普通なら悲鳴を上げて逃げ出す場面だ。
(逃げろ。逃げろよ。まだ間に合う)
脳内で警鐘が鳴り響く。こいつは化け物だ。イカれてる。関わっちゃいけない──そう理解しているのに、足は巨人の影へ吸い寄せられていく。
口元を乱暴に拭い、ピクスは震える足で立ち上がった。グラードは振り返らない。ただその背中で語る。『ついてくるなら勝手にしろ。死んでも知らん』と。
ピクスは知っていた。この男は本当に、自分を助ける気などないことを。先ほどの虐殺も、ピクスを守るためではない。ただグラードの進路を盗賊が塞いでいただけだ。それでも──。
(だけど、こいつの影にいれば……少なくともハイエナどもは寄ってこない)
台風の目。そこだけが唯一の安全地帯。ピクスにとって、グラードという災厄は、恐怖の対象でありながら、同時にすがるべき最強の盾でもあった。
「……へへ。今日もツイてたな、俺」
引きつった笑みを浮かべ、ピクスは巨人の足跡をなぞるように歩き出す。その背中に、ゆっくりと、しかし確実に──“沈黙”が牙を剝き始めていることなど、誰も知らなかった。
* * *
グラードの歩幅は広い。人間というより、巨大な獣が地を這うような歩みだ。ピクスは小走りでなければ、すぐに背中を見失ってしまう。
「はぁ、はぁ……ッ、くそ、速えな……」
息を切らしながら、ピクスは砂を踏みしめる。靴底越しに伝わる荒野の感触。いつもと変わらない──そう思った次の瞬間だった。
(……ん?)
奇妙な感覚が足裏を走った。くすぐったい、というには不快すぎる微弱な震動。地震か? いや、違う。もっと粘着質に、何かが地面の下を這い回っているような嫌悪感。
「おい、グラード……なんか変じゃねえか?」
思わず声をかけるが、巨人は答えない。違和感の正体を確かめようと足元を見る──そして息を呑んだ。
(砂が……動いてる?)
風のせいではない。足元の砂粒が、意思を持った蟲の群れのように、チリチリと音もなく移動している。それも風下ではなく、道の「前方」へと吸い寄せられるように。
(なんだよこれ……磁石に吸われる砂鉄みたいだ)
冷たいものが背筋を走る。荒野で生き抜いてきた勘が告げる。これは自然現象ではない。世界そのものが歪む予兆──。
ピクスは青ざめた顔で、前を行くグラードの背中を見つめた。彼が放つ暴力の磁場が、何かとんでもないものを呼び寄せている。
* * *
それは唐突だった。一定のリズムで響いていた重い足音が、ふっと途絶える。
「ひっ……! な、何だよ、急に……」
ピクスは慌てて足を止め、前のめりに転びそうになりながら巨人の背後に縮こまった。グラードはただ立ち止まっただけ。しかし、その場の空気は、巨大な岩壁が道を塞いだかのような圧迫感に満ちていた。
彼が足を止めた瞬間、世界もまた凍りつく。風の音が消え、砂粒さえ空中で縫い止められたように動きを失う。
(……なんだ、この静けさは?)
耳が痛くなるほどの無音。これはグラードが纏うあの静寂なのか? それとも別の何かなのか? 判断はつかない。ただ、空気が明らかに変質している。乾いた空気がコールタールのように粘り、喉に張り付くような息苦しさを孕み始めていた。
敵の姿はない。だが、いる。目に見えない巨大な刃がすでに首元に添えられているような、逃げ場のない圧迫感。
心臓の早鐘だけがやけに大きく響く。来る。決定的な何かが、この静寂を裂いて現れようとしている。
* * *
ザッ、と乾いた音がした。ピクスが瞬きをした、その一瞬の間だった。
足元で蠢いていた砂粒が、突如として爆発的な勢いで「逆流」を始めたのだ。風ではない。まるで時間が巻き戻されたかのように砂煙が重力に逆らって舞い上がり、彼らが来た背後へと吸い込まれていく。
「う、わっ……!?」
平衡感覚が狂う。血が逆流するような嫌悪感。激しい吐き気が込み上げる。
(気持ち悪ぃ……! 心臓が裏返しになったみたいだ)
うずくまるピクスの視界の隅で、枯れ木が一本、地面から引き抜かれ、矢のように彼方へと飛び去っていく。常識ではありえない光景。だが、荒界には物理をねじ曲げる者が存在する。
──『災厄者』。
その中でも特に悪名高い男の気配が迫っていた。世界の流れを反転させる遺物『時喰らいの反響』。その持ち主──《逆巻きのソルガ》。
姿は見えない。ただ、歪んだ殺意だけがねっとりと肌にまとわりつく。
ピクスの本能が、けたたましい警報を鳴らしていた。盗賊なんかとは次元が違う。出会ってはいけない類のものだ。こんな場所に、そんな化け物が潜んでいるなんて──。
* * *
狂った風が吹き荒れる中、グラードだけが、まるでそこだけ重力が正常であるかのように悠然と立っていた。男は、ゆっくりと戦斧の柄を握り直す。その巨大な背中から、どす黒い闘気が立ち昇り、周囲の逆流を強引にねじ伏せていくように見えた。
そして、低い唸り声が、静寂の底に落ちた。
「……来るか」
それは、獲物を待ちわびていた獣の歓喜ではない。ただ、目前の障害物を認識し、それを粉砕することを決定した──冷徹な破壊の合図だった。恐怖も、迷いもない。来るなら潰す。それだけの事実。
(や、やめろよ……ッ!)
ピクスは音にならない悲鳴を上げ、ガチガチと歯を鳴らした。冗談じゃない。盗賊相手ならまだしも、あんなわけの分からない理不尽とやり合う気なのか。巻き込まれれば、自分ごとき雑魚は、余波だけで消し飛ぶ。
(俺は……まだ、死にたくねぇ……!)
* * *
砂が逆流し、風が悲鳴を上げている。生物としての生存本能が「逃げろ」と叫ぶその方向へ、グラードは迷いなく足を踏み出した。
一歩。その足音だけが、狂った因果の只中で、唯一正常なリズムを刻んでいる。男は戦斧を無造作に担ぎ直し、逆巻く風を切り裂いて進んでいく。まるで、この先にある災厄こそが、自分が行くべき目的地であるかのように。
「……ッ、ま、待てよ!」
ピクスは乾いた唇を噛み締め、慌ててその背中を追った。逃げ道なんてない。後ろに戻ればハイエナの餌食。ここにとどまれば、見えない斬撃の餌食。生き残る道はただ一つ。この「歩く災害」の、ほんのわずか後ろ──台風の目の中にしがみつくことだけ。
(最悪だ……)
砂塵にまみれながら、ピクスは泣きそうな顔で走る。分かっていたはずだ。強者の影に隠れるというのは、こういうことだと。だが、現実は想像を遥かに超えていた。
(俺は……ほんとに、世界で一番最悪な相手に拾われちまった……!)
少女のような悲鳴を上げる風の向こうへ、巨人と少年が消えていく。その先に待つのが、さらなる地獄だとしても。二人の暴力の旅路は、まだ始まったばかりだった。
そんな錯覚を覚えるほど、グラウル荒界の風は乾ききっていた。赤茶けた砂塵が舞う荒野の街道。かつて文明が繁栄した時代のコンクリート片が墓標のように突き出し、その陰には飢えた捕食者たちが息を潜めている。だが今日、この街道で死ぬのは捕食者のほうだった。
「ひ、ひぃッ……! あ、足が、動か──」
男の絶叫は、唐突に断ち切られた。喉を潰されたわけでも、舌を引き抜かれたわけでもない。ただ、音そのものが死んだのだ。
世界が息を止めた。風が、音を忘れた。
カツン──硬い靴音だけが響く。陽炎の向こうから一つの巨大な影が歩み出る。身長二メートルを超える巨躯。全身に刻まれた古傷と、焼け焦げたような呪刻。片手には、男の胴ほどもある無骨な戦斧。
グラード・バロッグ。その歩みは、一歩踏み出すたびに大地が彼を避けて沈むように見えた。
彼が纏う『魔王の遺物』が強制する、絶対的な静寂。盗賊の一人が、見えない重圧に押し潰されるように膝を震わせ、口をパクパクと動かす。だが無駄だ。グラードは表情一つ変えず、あたかも「通行の邪魔だ」とでも言うように、歩きながら戦斧を軽く薙いだ。
――グシャァ。
静寂の中、人体が熟れた果実のように弾ける音だけが、やけに鮮明に響いた。一人、二人。抵抗も命乞いも許されない。ただの一撃で上半身と下半身が泣き別れる。圧倒的な暴力。あるいは災害。そこに善悪は存在しない。ただ「強さ」という事実だけが、死体の山を築いていく。
やがて最後の盗賊が動かなくなると、ふっと世界に音が戻った。風の音が戻る。遠くの鳥の声が戻る。そして──。
「お、……ぅ、えええっ……!」
グラードの背後、数メートル離れた岩陰で、小柄な少年が胃の中身を吐き出していた。ピクスだ。ボロ布を纏い、腰には不釣り合いな短剣。年齢は十五にも満たないだろう。顔色は死人のように青白い。目の前で繰り広げられた一方的な殺戮劇。飛び散る臓物の臭気。普通なら悲鳴を上げて逃げ出す場面だ。
(逃げろ。逃げろよ。まだ間に合う)
脳内で警鐘が鳴り響く。こいつは化け物だ。イカれてる。関わっちゃいけない──そう理解しているのに、足は巨人の影へ吸い寄せられていく。
口元を乱暴に拭い、ピクスは震える足で立ち上がった。グラードは振り返らない。ただその背中で語る。『ついてくるなら勝手にしろ。死んでも知らん』と。
ピクスは知っていた。この男は本当に、自分を助ける気などないことを。先ほどの虐殺も、ピクスを守るためではない。ただグラードの進路を盗賊が塞いでいただけだ。それでも──。
(だけど、こいつの影にいれば……少なくともハイエナどもは寄ってこない)
台風の目。そこだけが唯一の安全地帯。ピクスにとって、グラードという災厄は、恐怖の対象でありながら、同時にすがるべき最強の盾でもあった。
「……へへ。今日もツイてたな、俺」
引きつった笑みを浮かべ、ピクスは巨人の足跡をなぞるように歩き出す。その背中に、ゆっくりと、しかし確実に──“沈黙”が牙を剝き始めていることなど、誰も知らなかった。
* * *
グラードの歩幅は広い。人間というより、巨大な獣が地を這うような歩みだ。ピクスは小走りでなければ、すぐに背中を見失ってしまう。
「はぁ、はぁ……ッ、くそ、速えな……」
息を切らしながら、ピクスは砂を踏みしめる。靴底越しに伝わる荒野の感触。いつもと変わらない──そう思った次の瞬間だった。
(……ん?)
奇妙な感覚が足裏を走った。くすぐったい、というには不快すぎる微弱な震動。地震か? いや、違う。もっと粘着質に、何かが地面の下を這い回っているような嫌悪感。
「おい、グラード……なんか変じゃねえか?」
思わず声をかけるが、巨人は答えない。違和感の正体を確かめようと足元を見る──そして息を呑んだ。
(砂が……動いてる?)
風のせいではない。足元の砂粒が、意思を持った蟲の群れのように、チリチリと音もなく移動している。それも風下ではなく、道の「前方」へと吸い寄せられるように。
(なんだよこれ……磁石に吸われる砂鉄みたいだ)
冷たいものが背筋を走る。荒野で生き抜いてきた勘が告げる。これは自然現象ではない。世界そのものが歪む予兆──。
ピクスは青ざめた顔で、前を行くグラードの背中を見つめた。彼が放つ暴力の磁場が、何かとんでもないものを呼び寄せている。
* * *
それは唐突だった。一定のリズムで響いていた重い足音が、ふっと途絶える。
「ひっ……! な、何だよ、急に……」
ピクスは慌てて足を止め、前のめりに転びそうになりながら巨人の背後に縮こまった。グラードはただ立ち止まっただけ。しかし、その場の空気は、巨大な岩壁が道を塞いだかのような圧迫感に満ちていた。
彼が足を止めた瞬間、世界もまた凍りつく。風の音が消え、砂粒さえ空中で縫い止められたように動きを失う。
(……なんだ、この静けさは?)
耳が痛くなるほどの無音。これはグラードが纏うあの静寂なのか? それとも別の何かなのか? 判断はつかない。ただ、空気が明らかに変質している。乾いた空気がコールタールのように粘り、喉に張り付くような息苦しさを孕み始めていた。
敵の姿はない。だが、いる。目に見えない巨大な刃がすでに首元に添えられているような、逃げ場のない圧迫感。
心臓の早鐘だけがやけに大きく響く。来る。決定的な何かが、この静寂を裂いて現れようとしている。
* * *
ザッ、と乾いた音がした。ピクスが瞬きをした、その一瞬の間だった。
足元で蠢いていた砂粒が、突如として爆発的な勢いで「逆流」を始めたのだ。風ではない。まるで時間が巻き戻されたかのように砂煙が重力に逆らって舞い上がり、彼らが来た背後へと吸い込まれていく。
「う、わっ……!?」
平衡感覚が狂う。血が逆流するような嫌悪感。激しい吐き気が込み上げる。
(気持ち悪ぃ……! 心臓が裏返しになったみたいだ)
うずくまるピクスの視界の隅で、枯れ木が一本、地面から引き抜かれ、矢のように彼方へと飛び去っていく。常識ではありえない光景。だが、荒界には物理をねじ曲げる者が存在する。
──『災厄者』。
その中でも特に悪名高い男の気配が迫っていた。世界の流れを反転させる遺物『時喰らいの反響』。その持ち主──《逆巻きのソルガ》。
姿は見えない。ただ、歪んだ殺意だけがねっとりと肌にまとわりつく。
ピクスの本能が、けたたましい警報を鳴らしていた。盗賊なんかとは次元が違う。出会ってはいけない類のものだ。こんな場所に、そんな化け物が潜んでいるなんて──。
* * *
狂った風が吹き荒れる中、グラードだけが、まるでそこだけ重力が正常であるかのように悠然と立っていた。男は、ゆっくりと戦斧の柄を握り直す。その巨大な背中から、どす黒い闘気が立ち昇り、周囲の逆流を強引にねじ伏せていくように見えた。
そして、低い唸り声が、静寂の底に落ちた。
「……来るか」
それは、獲物を待ちわびていた獣の歓喜ではない。ただ、目前の障害物を認識し、それを粉砕することを決定した──冷徹な破壊の合図だった。恐怖も、迷いもない。来るなら潰す。それだけの事実。
(や、やめろよ……ッ!)
ピクスは音にならない悲鳴を上げ、ガチガチと歯を鳴らした。冗談じゃない。盗賊相手ならまだしも、あんなわけの分からない理不尽とやり合う気なのか。巻き込まれれば、自分ごとき雑魚は、余波だけで消し飛ぶ。
(俺は……まだ、死にたくねぇ……!)
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砂が逆流し、風が悲鳴を上げている。生物としての生存本能が「逃げろ」と叫ぶその方向へ、グラードは迷いなく足を踏み出した。
一歩。その足音だけが、狂った因果の只中で、唯一正常なリズムを刻んでいる。男は戦斧を無造作に担ぎ直し、逆巻く風を切り裂いて進んでいく。まるで、この先にある災厄こそが、自分が行くべき目的地であるかのように。
「……ッ、ま、待てよ!」
ピクスは乾いた唇を噛み締め、慌ててその背中を追った。逃げ道なんてない。後ろに戻ればハイエナの餌食。ここにとどまれば、見えない斬撃の餌食。生き残る道はただ一つ。この「歩く災害」の、ほんのわずか後ろ──台風の目の中にしがみつくことだけ。
(最悪だ……)
砂塵にまみれながら、ピクスは泣きそうな顔で走る。分かっていたはずだ。強者の影に隠れるというのは、こういうことだと。だが、現実は想像を遥かに超えていた。
(俺は……ほんとに、世界で一番最悪な相手に拾われちまった……!)
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