18 / 35
第2章 歪む因果・集う災厄
9. 無音の見世物
しおりを挟む
グラードが何もしていないのに、『強制の静寂』が滲み出していた。戦闘時のスイッチを入れるような鋭い発動ではない。コップの水が溢れるように、あるいは重たい霧が立ち込めるように、音のない領域がとろりと周囲へ広がっていく。
ザワザワ……と騒がしかった野次馬たちの声が、遠のいていく。いや、実際に音が消えているのだ。口笛を吹いていた男が、酸欠の金魚のように口をパクパクさせている。小石を投げようとした子供が、腕を振り上げたまま、糸が切れたように白目を剥いて倒れた。
バタッ、バタッ。一人、また一人。グラードに近い位置にいた者から順に、意識を刈り取られていく。静寂の圧力に、三半規管も脳も耐えきれなくなったのだ。
「…………」
グラードは、倒れていく人々を見ても眉一つ動かさなかった。むしろ、騒音が消え、静寂に満たされたその空間に、深い安らぎを感じているように見えた。彼にとって、今の世界は「うるさすぎる」のだ。だから、自分の周りだけを切り取って、快適な無音の部屋に変えてしまった。そこにいる他人がどうなろうと知ったことではない。
遠巻きに見ていた残りの観客たちが、悲鳴を上げようとして──喉が凍りついたように沈黙する。恐怖で動けないのではない。彼らもまた、グラードという巨大な「現象」の一部として取り込まれ、背景と化してしまったのだ。
街の一角が、完全な死の世界のように静まり返る。その中心に立つグラードだけが、正常な呼吸をしている。
(……違う。これはもう、戦いじゃない)
ピクスは、倒れた野次馬たちの間を縫って歩くグラードの背中を見つめ、戦慄していた。以前のグラードなら、邪魔なら殺していたし、邪魔でなければ無視していた。だが今は。「存在しているだけ」で、周囲を塗り替えている。
まるで、深海の底を歩く巨大生物だ。彼が歩けば、水圧で周りの小魚は勝手に死ぬ。彼はそれに気づきもしない。この静寂は、グラードにとっての羊水であり、防壁であり、世界を拒絶するための殻なのだ。
「……行くぞ」
不意に、グラードが振り返らずに言った。その声は驚くほど穏やかで、しかし酷く空虚だった。
「ここはうるさい」
静寂の犠牲となり、倒れ伏した人々の山を残し、グラードは再び歩き出す。ピクスは慌ててその後を追った。もう、気軽に話しかけることさえ躊躇われた。うっかり話しかけて、その「快適な静寂」を破ってしまったら──次は自分が、あの野次馬のように押し潰されるのではないか。そんな予感が脳裏をよぎったからだ。
ザワザワ……と騒がしかった野次馬たちの声が、遠のいていく。いや、実際に音が消えているのだ。口笛を吹いていた男が、酸欠の金魚のように口をパクパクさせている。小石を投げようとした子供が、腕を振り上げたまま、糸が切れたように白目を剥いて倒れた。
バタッ、バタッ。一人、また一人。グラードに近い位置にいた者から順に、意識を刈り取られていく。静寂の圧力に、三半規管も脳も耐えきれなくなったのだ。
「…………」
グラードは、倒れていく人々を見ても眉一つ動かさなかった。むしろ、騒音が消え、静寂に満たされたその空間に、深い安らぎを感じているように見えた。彼にとって、今の世界は「うるさすぎる」のだ。だから、自分の周りだけを切り取って、快適な無音の部屋に変えてしまった。そこにいる他人がどうなろうと知ったことではない。
遠巻きに見ていた残りの観客たちが、悲鳴を上げようとして──喉が凍りついたように沈黙する。恐怖で動けないのではない。彼らもまた、グラードという巨大な「現象」の一部として取り込まれ、背景と化してしまったのだ。
街の一角が、完全な死の世界のように静まり返る。その中心に立つグラードだけが、正常な呼吸をしている。
(……違う。これはもう、戦いじゃない)
ピクスは、倒れた野次馬たちの間を縫って歩くグラードの背中を見つめ、戦慄していた。以前のグラードなら、邪魔なら殺していたし、邪魔でなければ無視していた。だが今は。「存在しているだけ」で、周囲を塗り替えている。
まるで、深海の底を歩く巨大生物だ。彼が歩けば、水圧で周りの小魚は勝手に死ぬ。彼はそれに気づきもしない。この静寂は、グラードにとっての羊水であり、防壁であり、世界を拒絶するための殻なのだ。
「……行くぞ」
不意に、グラードが振り返らずに言った。その声は驚くほど穏やかで、しかし酷く空虚だった。
「ここはうるさい」
静寂の犠牲となり、倒れ伏した人々の山を残し、グラードは再び歩き出す。ピクスは慌ててその後を追った。もう、気軽に話しかけることさえ躊躇われた。うっかり話しかけて、その「快適な静寂」を破ってしまったら──次は自分が、あの野次馬のように押し潰されるのではないか。そんな予感が脳裏をよぎったからだ。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
婚約者の番
ありがとうございました。さようなら
恋愛
私の婚約者は、獅子の獣人だ。
大切にされる日々を過ごして、私はある日1番恐れていた事が起こってしまった。
「彼を譲ってくれない?」
とうとう彼の番が現れてしまった。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる