小説探偵

夕凪ヨウ

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Case153.容疑者・江本海里①

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 私の人生の中で、これほど混乱したことはないように思う。
 目の前に広がる惨状が、夢ではないかと私は目を深く瞑って、開いた。が、目の前は何も変わっていない。

「つまり、あなたが朝起きたらこの部屋に遺体があった・・と。逮捕には十分な理由です。」

 立派な口髭を撫でながら刑事は声高々に宣言した。刑事は私の腕を掴み、手錠をかけた。手首に冷たい感触が走る。

「柄本海。殺人容疑で逮捕する。」

 頭の中に、闇が走った。            

 ーーー江本海里・『犯人は探偵』より

         ※

「明後日には帰ってきますから、留守番よろしくお願いしますね。真衣。」
「うん、いってらっしゃい!兄さん。」
「行ってきます。」

 海里はキャリーケースを引きながらエレベーターに乗った。1階まで降りると落ち着いた足取りで駅へ向かう。

「おはようございます。」
「おはよう、江本君。」

 駅のホームには編集者とアシスタントが2人いた。海里は3人の側へ行き、足を止める。

「今日から3日間、よろしくお願いします。」
「ああ。君のアイデアが浮かぶことを祈るよ。」

 海里は、小説の原案を探す旅行に出ようとしていた。彼は事件の小説を書く傍ら、短編のフィクション小説を書いていた。
原案を探すには写真を撮ったり、アイデアをまとめたりと試行錯誤の時間が必要なので、今回は編集者・アシスタントと一緒に行く、ということになったのだ。

「まあ神奈川だから、そんなに遠くない。何かあったら帰れる距離だ。妹さんは普通に?」
「はい。同行しても大丈夫だと伝えましたが、仕事があるから行かないとのことです。」
「そっか。あ、電車が来たね。行こうか。」

 電車で話をしていると、神奈川県に到着した。駅から立派な街が見え、人が大勢歩いている。

「じゃあ、ホテルに行きましょうか。私の名前で予約していますから、江本君は気楽に。参考になりそうなものが言ったら言ってくれ。」
「ありがとうございます。」

 チェックインを済ませて海里は部屋のベッドに横になった。息を吐き、ぼんやりと輝く灯りを見つめる。

(アサヒさんの父親は、東堂さんたちが追っているテロリストたちの仲間だった。彼女は知っているのだろうか?そもそも、なぜ不仲なのだろう。結婚はしていないと言った日菜さんと苗字が違う理由は?アサヒさんは・・・何を思って父親と話をしていたのだろう。)

「・・・・今考えても仕方ありませんね。少し歩きますか。」

 海里はホテルの周囲を散歩し始めた。ホテル自体は高級だが、周囲は静かなものである。遠くの方で人々の笑い声が聞こえ、そよ風が吹いている。

「江本君、何かいいものあった?」
「いえ・・まだ見つかりません。少し1人で歩いてくるので、皆さんも観光してください。」
「ありがとう。じゃあ晩まで別行動だね。」

 海里は頷き、レンタカーを借りて神奈川の街を回った。車を走らせ、横浜へ行った。

「いつ来ても綺麗ですね、ここは。やはり東京より落ち着く・・・。」
「海里?」

 突然名前を呼ばれ、海里は振り向いた。彼の後ろには、喫茶店の制服らしき服を着た青年が立っていた。海里は驚いて目を見開く。

「正樹さん⁉︎」
 
 青年は茶髪に黒目。黒いメガネをかけており、細身の体をしていた。

「久しぶりだね。高校以来?」
「はい。お元気そうで。」

 青年は、海里の中高時代の友人・城戸正樹だった。海里と同じく部活動に所属しておらず、落ち着いた性格も相まって仲が良かった。

「横浜にいらっしゃったんですね。今は何を?」
「そこの喫茶店の店長だよ。お茶飲む?」
「是非。」

 海里は正樹に連れられて側の喫茶店に入った。客はまばらにおり、落ち着いた雰囲気の中で小さく音楽が流れている。

「大学は神奈川だったんですよね。卒業後にすぐここへ?」
「いや。元々サラリーマンとして普通に働いていたんだ。ここは祖父母が経営していたお店で、継ぐ人間がいなくて孫の僕に回ってきた。正直仕事がしんどいと感じていた時期だったから、良い機会と思って継いだんだ。」
「良い決断だと思いますよ。制服似合っています。」
「ありがとう。海里は小説家としてずっと?」

 海里は頷いた。出された紅茶を一口飲み、ふっと息を吐く。

「忙しい毎日ですが、真衣も無事退院しましたし、一安心です。」
「それは良かった。で、探偵業の方は?」

 正樹はいたずらっぽい笑みを浮かべて尋ねた。海里は苦笑する。

「大変ですよ。事件に立ち会うのは慣れたんですが、偶に理不尽にぶつかる・・・。ある3人の警察官は私を信頼してくださっていますから、苦労せずにやれていますけど。」
「警察官からの信頼?すごいじゃないか。警察官は人を疑うのが仕事だと言われているんじゃないの?」
「ええ。でも同時に、私も彼らを信頼しています。彼らがいるから、安心して事件に立ち向かえるんですよ。」

 海里はそう言うと、店の厨房にある大きな荷物に目を止めた。正樹は彼の視線に気が付いたのか、ああ、と言う。

「今夜神奈川ホテルでパーティーがあってね。色んな店が料理を出すことになってるんだ。僕も声をかけられたから受けて、昼食後には店を閉めるつもり。」
「神奈川ホテル?」

 海里は尋ねた。正樹は驚く。

「あれ?もしかしてそこに泊まってる?」
「はい。しかしパーティー・・・ですか?有名人でも来ていると?」
「うん。財務省の田村恵一郎って知ってるだろ?彼が財務大臣になるお祝いに、生まれ故郷の神奈川でパーティーをしたいって話になったんだ。
と言っても政界の人間だから、前に出過ぎれば命すら狙われる。結果、横浜から少し離れた神奈川ホテルでやることになったんだ。」

 海里は感心したように息を吐いた。

「へえ。1階のホールが慌ただしいと思っていましたが、そういうことですか。」

 正樹は頷いた。空になった紅茶を入れながらケーキを置く。海里は礼を言いながら受け取り、口に運んだ。

「もしかしたらホテルで会えるかもしれませんね。」
「そうだね。あ、これ新しい連絡先。突然連絡消えてごめんね。携帯変えてさ。」
「大丈夫ですよ。わざわざありがとうございます。」

 海里は連絡先を書いた紙を受け取り、店を後にした。

 その後、海里は横浜をゆっくり観光し、原案になりそうなものは写真を撮っていった。

「ただいま戻りました。」
「おかえり、江本君。いい案は浮かんだ?」
「元になりそうなものはありました。夕食まで部屋でゆっくりしますよ。」

 20時になり、1階からクラッカーの音がした。海里はノートに走らせていた手を止め、呟く。

「今夜は・・・寝不足になるかもしれませんね・・・・。」

         ※

 翌朝、目を覚ました海里はベッドの横を見て、頭を殴りつけたような衝撃に駆られた。ぼんやりとしていた意識が、急にはっきりしたのだ。

「えっ・・・?」

 無理もない。海里のベッドの横には、遺体となった田村恵一郎がいたのだから。
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