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第三章 胎動と陰謀
第二節
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どれほど時間が経ったであろうか。美咲の目の前に、桜の花びらが舞う光景が広がっていた。
夢だと分かっていても、ついこの間までは怖くて堪らなかった景色だが、今は不思議と恐怖心が全くない。むしろ、この場所に来て、安らかな心地になっている。これはきっと、美咲のもう一人の存在である桜姫の感情だろう。
不意に、どこからともなく一人の男が現れた。考えるまでもない。桜姫が遥か昔、ヒトとして生きる道を棄てるほど恋焦がれた存在――鬼王だった。
「鬼王……」
美咲のすぐ側まで近付いてきてから、美咲は初めて名前を口にする。いや、鬼王は呼称のようなものだから真名ではないのだが。
しかし、鬼王は美咲に『鬼王』と呼ばれると、わずかに目を見開いた。ただ、それもほんの一瞬のことで、すぐに無表情へと変わった。
「――あの者から、聴いたのだな?」
あの者――美咲は少し考えてから、南條のことを指しているのだと察した。
「聴いたよ」
美咲は鬼王の金の双眸を真っ直ぐに見据えながら、続けた。
「南條さんは教えてくれたよ。何故、私があなたを求めてしまうのか。そして、南條さんの〈もう一人の存在〉のことも……。
私――ううん、桜姫もずっと、鬼王を想い続けていたんだね、長い間ずっと。けど、一途な想いは叶うはずもなくて……」
語っているうちに、美咲の視界がぼやけた。眼まなこが熱を帯び始め、涙が頬を伝ってゆく。浴室で自分の中の桜姫に語りかけていた時と同様、胸の奥が締め付けられるように苦しくなった。
(桜姫……)
美咲は心の声で桜姫の名を呼ぶ。桜姫の深い哀しみ、無念な想い、全てが美咲に流れ込んでくる。
不意に、美咲の頬にひんやりとしたものが触れた。驚いて、閉じていた瞼を上げると、鬼王の白い指先が、優しく、涙を拭ってくれている。
「――あの者は、私に言った」
一頻り拭い終えると、鬼王はゆったりと口を開いた。
「肉体を持たぬお前が、どうやってそなたを愛することが出来るのか、と。
確かに、私はそなたをこの身体で温めてやることは出来ぬ。温めるどころか、そなたを凍えさせてしまう。だからこそ、ココロだけでも繋がっていたいと強く願った」
そこまで言うと、鬼王は美咲を真っ直ぐに見据えた。
「そなたは、自分の子を欲しいと思うか?」
突然の問いに、美咲は目を見開いたまま絶句した。もしかしたら、美咲という〈媒体〉ではなく、美咲の中の桜姫に語りかけているのだろうと思ったから、心の中で、「どうなの?」と桜姫に重ねて問い質してみても、返答はやはり戻ってこない。
「――私は、よく分かんない……」
ようやくの思いで口にしたものの、これは美咲の答えであって、桜姫の答えではない。美咲は鬼王の反応が気になりつつ、しかし、あえて自分の正直な気持ちを語った。
「桜姫が生きていた時代だったら、私ぐらいの年で結婚して子供が出来てもおかしくなかったかもしれないけど、今は違うし。もちろん、そういう子が全くいないわけじゃないけど……。
私はまだ未熟だから、恋だとか愛だとか言われてもピンとこない。――本音を言えば、南條さんのことが気になってるけど、その感情が『恋なのか?』って訊かれても、はっきりと肯定出来ない」
一気に言い切った美咲は、フウと息を吐く。そして、今度はじっくりと、鬼王の変化を見極めようと窺った。
鬼王の表情は変わらない。笑いもせず、怒りもせず、無機質な人形のように、ただ美咲を見つめ返す。
「――分かった」
そう口にしたのと同時に、無表情だった鬼王から、微かだが笑みが零れた。
「そなたは自らの想いにとても正直だ。そして強い。あの者もきっと感じ取ったであろう。そなたは、そなた以上にそなたなのだ、と」
「私以上に、私……?」
言わんとしている意味が理解出来ず、美咲は眉根を寄せながら首を傾げた。
そんな美咲を、鬼王はまた、眩しそうに見つめる。
「もしかしたら、自分のことは自分では気付かぬものなのであろうな。ヒトのココロというものほど複雑なものはない。
いずれ、そなたもそなた自身の真の姿に気付くであろう。そして……」
鬼王から、フッと笑みが消えた。
「これから、そなたとあの者は、想像を絶する困難にぶつかる。それは、少なからず私にも影響を及ぼす……」
◆◇◆◇
瞼の奥に光が差し込んだ。
「ん……」
美咲は気だるそうに小さく呻き、ゆっくりと目を開いた。真っ先に飛び込んできたのは、いつも見ている自分の部屋の天井だった。
「今何時……?」
半身を起こし、ヘッドボードから携帯電話を手にした美咲は、片手で広げてデジタル時計を凝視する。表示されている時間は〈05:30〉。実際の起床時間よりも一時間も早く目が覚めてしまった。
一瞬、時間まで寝直そうかと考えた。しかし、思いのほか目が冴えてしまい、横になっても睡魔が襲ってこない。
結局、美咲は再び起き上がり、ベッドの上に横座りして、壁に寄りかかりながら携帯を眺めた。と言っても、携帯の画面は美咲の目には入っておらず、たった今、夢で交わした鬼王との会話を思い返していた。
鬼王を求める桜姫と、南條に特別な感情を持っている自分自身。美咲はまさに、両方のココロと対立している。しかし、桜姫は鬼王に全てを捧げることを望む一方で、実の兄であった南條の〈もう一人の存在〉も愛おしくて堪らなかった。それは昨晩、浴室で桜姫の想いがシンクロした瞬間に気付いてしまった。
(鬼王も、ほんとは知ってたんだね……)
美咲に、『自分の子が欲しいか?』と訊ねてきたということは、美咲だけではなく、桜姫の揺れる想いも察していたからなのだろう。だが、同じヒト同士であっても、実の兄妹ならば結ばれることは決して叶わない。どちらにしても、桜姫はヒトとしての本当の幸せは決して手に入れることは出来なかったのだ。そう思うと、あまりにも桜姫が憐れだ。
(けど、今の私と南條さんなら……)
美咲は、携帯を弄りながら考えた。過去世はどうであれ、現世では、美咲と南條は兄妹ではない。今も微かでも血の繋がりはあるかもしれないが、実の兄妹でないならば、南條と添い遂げたいと望んだとしても、誰も口出しはしてこないだろう。
しかし、最後に鬼王が口にした言葉も気になる。
これから、そなたとあの者は、想像を絶する困難にぶつかる。それは、少なからず私にも影響を及ぼす……――
鬼王の言う〈困難〉とは何を指しているのか、また、それが鬼王にも影響を及ぼすとは、いったいどういうことなのだろうか。
(他に敵がいるってこと……?)
まさか、と思いつつ、あり得なくはない。今のところは南條と鬼王に守られている状態だが、逆に美咲を消そうと企む存在はあるかもしれない。ただ、その正体が分からないから非常に気味が悪い。
不意に、背中にゾクリとした戦慄が走った。また、桜姫からの警告だろうか。
「桜姫は、気付いてるの……?」
声に出して訊ねると、やはり、辺りには沈黙しか流れなかった。しかし、桜姫ならば全てを知っていてもおかしくはない、と美咲は確信していた。
「怖い、けど……」
真実をしっかり見極めたい。美咲はそう思いながら、ゆっくりと携帯を閉じた。
◆◇◆◇
結局、美咲は携帯のアラームが鳴るまで、ベッドの上でぼんやりし続けた。その後は洗顔し、着替えをしてから朝食を摂り、理美に見送られる形で家を出た。
外に出ると見事な快晴だった。透き通った空にうっすらとした雲が流れ、自分の存在を一番に主張するかのように太陽が浮かんでいる。
美咲は歩きながら、人目も気にせず背中を伸ばす。夢で鬼王と会話してからは鬱々としがちだったから、せめて天気だけでも良いのは救われる。
だが、そんな晴れやかな気分も、再び翳りを差し始めた。
家を出て数分と経たないうちに、差すような視線を感じた。美咲は怪訝に思い、一度立ち止まって、グルリを周囲を見回す。だが、ちょうど通勤と通学の時間にかち合っていることもあり、誰が自分に視線を注いでいるかが分からない。こうなると、全員が妖しいとすら思えてくる。
美咲は眉をひそめつつ、しかし、あまり辺りをジロジロ見るのも逆に不信に思われそうな気がして、再び足を動かした。
〈誰か〉は相変わらず、美咲を監視している。人混みに紛れ、想像ではあるが、一定の距離を保ち続けながら跡を着けて来る。
一瞬、南條かと思った。だが、南條であればもっと上手な追跡をするだろうし、何より、すぐに声をかけてくるはずだ。それに、南條が持つ気は、〈誰か〉よりも遥かに安心感を与えてくれる。
(まさか、これが鬼王の言う〈困難〉……?)
美咲は逸る鼓動を落ち着かせようと、深呼吸を繰り返す。そして、〈誰か〉に不自然に想われない程度に、少しずつ歩く速度を上げていった。
(とにかく、少しでも早く学校に行けば……)
そう言い聞かせながら、駅に向けてひたすら進もうとした。まさにその時だった。
「おい!」
テノール調の男物の声と同時に、背中越しに肩を強く掴まれた。美咲はギョッとして足を止め、恐る恐る振り返った。
そこには、美咲とそれほど年齢差のなさそうな青年が立っていた。あからさまに眉根を寄せながら自分を見つめる青年を睨み返しながら、この人誰? と思ったが、よくよく考えたら、昨晩、南條に連れられて行った樋口夫妻の家にいた青年と同一人物だった。確か、名前は雅通だったはずだ。
「――あなただったんですか……」
不満を露わにして口にする美咲に、雅通は「は?」と、美咲に負けず劣らず、不機嫌そうに返してくる。
美咲はさらに顔をしかめ、「だから」と続けた。
「あなただったのかと訊いてるんです! 今までずーっと私を着けてたでしょ?」
「は? お前を着けてた? んなの知るかよ! だいたいどうして、俺が黙ってお前を着けなきゃならねえってんだよっ?」
開き直りとも取れる雅通の態度に、美咲の怒りは頂点に達し始めた。ここが公衆の面前であることも忘れ、「とぼけんじゃない!」と声を荒らげた。
「だったら他に誰が私の跡を黙って着けるってのっ? 南條さんはそんなセコい真似なんて絶対しないし! 別の〈誰か〉かってことも考えたけど、タイミング良くあんたが声をかけてきたってことは、あんたが私を着けてたってことになるじゃない!」
もう、雅通に対して敬語は一切使わなくなってしまった。しかも、『あなた』から『あんた』へと呼び方が変わっている。
雅通もまた、先ほど以上に表情を険しくさせた。大袈裟なまでに歯を剥き出しにして、「てめえ……」と美咲を威嚇する。
「何誤解してんだか知らねえけど、俺は潔白だ! さっきから言ってんだろっ? お前を着けなきゃならない理由なんてこっちにはねえんだよ! てかお前、自意識過剰なんじゃねえの?」
「なっ……!」
美咲は目を剥いたまま絶句した。自意識過剰――確かにそうかもしれない。悔しいが、雅通の指摘は的を射ている。
言葉を詰まらせた美咲を、雅通はさも面白そうに、ニヤリと口の端を上げながら眺める。
「お前は確かに特別な存在なんだろうし、あの南條さんも目をかけてるぐらいだ。姫様気分で調子に乗っちまう気持ちも分からなくはねえけどよ。でも、俺はぶっちゃけ、お前のようなお子様には全く興味ねえから。まあ、見た目は悪くねえだろうけど、性格はちっとも可愛くねえしな」
勝手なことばかり並べ立てる雅通に、美咲は再び、怒りが沸々と湧き上がる。感情の赴くまま、「あんたもヒトのこと言えないから!」と怒鳴りつけてやりたかったが、グッと抑えた。
「とにかく、私急ぐから」
美咲は、もう関わるまいと踵を返した。
「ちょっと待て!」
背を向けたのと同時に、雅通に引き止められた。
美咲は一瞬、無視してこの場を去ろうとしたが、何となく振り返ってしまった。
「まだ何かあるの?」
美咲の問いに、雅通は一呼吸置いてから、「気を付けろ」と声を潜めて言ってきた。
「は?」
怪訝に思いながら首を傾げていると、雅通は再び、じれったそうに忠告する。
「だから、気を付けろっつったんだよ。あ、これは南條さんからの伝言だから。じゃあな」
言うだけ言って、雅通は、美咲の脇をすり抜けるようにさっさと行ってしまった。
残された美咲は、眉根を寄せながら呆然と雅通の背中を見送る。
「わけ分かんない……」
ひとりごちると、美咲もゆっくりと歩き始めた。
夢だと分かっていても、ついこの間までは怖くて堪らなかった景色だが、今は不思議と恐怖心が全くない。むしろ、この場所に来て、安らかな心地になっている。これはきっと、美咲のもう一人の存在である桜姫の感情だろう。
不意に、どこからともなく一人の男が現れた。考えるまでもない。桜姫が遥か昔、ヒトとして生きる道を棄てるほど恋焦がれた存在――鬼王だった。
「鬼王……」
美咲のすぐ側まで近付いてきてから、美咲は初めて名前を口にする。いや、鬼王は呼称のようなものだから真名ではないのだが。
しかし、鬼王は美咲に『鬼王』と呼ばれると、わずかに目を見開いた。ただ、それもほんの一瞬のことで、すぐに無表情へと変わった。
「――あの者から、聴いたのだな?」
あの者――美咲は少し考えてから、南條のことを指しているのだと察した。
「聴いたよ」
美咲は鬼王の金の双眸を真っ直ぐに見据えながら、続けた。
「南條さんは教えてくれたよ。何故、私があなたを求めてしまうのか。そして、南條さんの〈もう一人の存在〉のことも……。
私――ううん、桜姫もずっと、鬼王を想い続けていたんだね、長い間ずっと。けど、一途な想いは叶うはずもなくて……」
語っているうちに、美咲の視界がぼやけた。眼まなこが熱を帯び始め、涙が頬を伝ってゆく。浴室で自分の中の桜姫に語りかけていた時と同様、胸の奥が締め付けられるように苦しくなった。
(桜姫……)
美咲は心の声で桜姫の名を呼ぶ。桜姫の深い哀しみ、無念な想い、全てが美咲に流れ込んでくる。
不意に、美咲の頬にひんやりとしたものが触れた。驚いて、閉じていた瞼を上げると、鬼王の白い指先が、優しく、涙を拭ってくれている。
「――あの者は、私に言った」
一頻り拭い終えると、鬼王はゆったりと口を開いた。
「肉体を持たぬお前が、どうやってそなたを愛することが出来るのか、と。
確かに、私はそなたをこの身体で温めてやることは出来ぬ。温めるどころか、そなたを凍えさせてしまう。だからこそ、ココロだけでも繋がっていたいと強く願った」
そこまで言うと、鬼王は美咲を真っ直ぐに見据えた。
「そなたは、自分の子を欲しいと思うか?」
突然の問いに、美咲は目を見開いたまま絶句した。もしかしたら、美咲という〈媒体〉ではなく、美咲の中の桜姫に語りかけているのだろうと思ったから、心の中で、「どうなの?」と桜姫に重ねて問い質してみても、返答はやはり戻ってこない。
「――私は、よく分かんない……」
ようやくの思いで口にしたものの、これは美咲の答えであって、桜姫の答えではない。美咲は鬼王の反応が気になりつつ、しかし、あえて自分の正直な気持ちを語った。
「桜姫が生きていた時代だったら、私ぐらいの年で結婚して子供が出来てもおかしくなかったかもしれないけど、今は違うし。もちろん、そういう子が全くいないわけじゃないけど……。
私はまだ未熟だから、恋だとか愛だとか言われてもピンとこない。――本音を言えば、南條さんのことが気になってるけど、その感情が『恋なのか?』って訊かれても、はっきりと肯定出来ない」
一気に言い切った美咲は、フウと息を吐く。そして、今度はじっくりと、鬼王の変化を見極めようと窺った。
鬼王の表情は変わらない。笑いもせず、怒りもせず、無機質な人形のように、ただ美咲を見つめ返す。
「――分かった」
そう口にしたのと同時に、無表情だった鬼王から、微かだが笑みが零れた。
「そなたは自らの想いにとても正直だ。そして強い。あの者もきっと感じ取ったであろう。そなたは、そなた以上にそなたなのだ、と」
「私以上に、私……?」
言わんとしている意味が理解出来ず、美咲は眉根を寄せながら首を傾げた。
そんな美咲を、鬼王はまた、眩しそうに見つめる。
「もしかしたら、自分のことは自分では気付かぬものなのであろうな。ヒトのココロというものほど複雑なものはない。
いずれ、そなたもそなた自身の真の姿に気付くであろう。そして……」
鬼王から、フッと笑みが消えた。
「これから、そなたとあの者は、想像を絶する困難にぶつかる。それは、少なからず私にも影響を及ぼす……」
◆◇◆◇
瞼の奥に光が差し込んだ。
「ん……」
美咲は気だるそうに小さく呻き、ゆっくりと目を開いた。真っ先に飛び込んできたのは、いつも見ている自分の部屋の天井だった。
「今何時……?」
半身を起こし、ヘッドボードから携帯電話を手にした美咲は、片手で広げてデジタル時計を凝視する。表示されている時間は〈05:30〉。実際の起床時間よりも一時間も早く目が覚めてしまった。
一瞬、時間まで寝直そうかと考えた。しかし、思いのほか目が冴えてしまい、横になっても睡魔が襲ってこない。
結局、美咲は再び起き上がり、ベッドの上に横座りして、壁に寄りかかりながら携帯を眺めた。と言っても、携帯の画面は美咲の目には入っておらず、たった今、夢で交わした鬼王との会話を思い返していた。
鬼王を求める桜姫と、南條に特別な感情を持っている自分自身。美咲はまさに、両方のココロと対立している。しかし、桜姫は鬼王に全てを捧げることを望む一方で、実の兄であった南條の〈もう一人の存在〉も愛おしくて堪らなかった。それは昨晩、浴室で桜姫の想いがシンクロした瞬間に気付いてしまった。
(鬼王も、ほんとは知ってたんだね……)
美咲に、『自分の子が欲しいか?』と訊ねてきたということは、美咲だけではなく、桜姫の揺れる想いも察していたからなのだろう。だが、同じヒト同士であっても、実の兄妹ならば結ばれることは決して叶わない。どちらにしても、桜姫はヒトとしての本当の幸せは決して手に入れることは出来なかったのだ。そう思うと、あまりにも桜姫が憐れだ。
(けど、今の私と南條さんなら……)
美咲は、携帯を弄りながら考えた。過去世はどうであれ、現世では、美咲と南條は兄妹ではない。今も微かでも血の繋がりはあるかもしれないが、実の兄妹でないならば、南條と添い遂げたいと望んだとしても、誰も口出しはしてこないだろう。
しかし、最後に鬼王が口にした言葉も気になる。
これから、そなたとあの者は、想像を絶する困難にぶつかる。それは、少なからず私にも影響を及ぼす……――
鬼王の言う〈困難〉とは何を指しているのか、また、それが鬼王にも影響を及ぼすとは、いったいどういうことなのだろうか。
(他に敵がいるってこと……?)
まさか、と思いつつ、あり得なくはない。今のところは南條と鬼王に守られている状態だが、逆に美咲を消そうと企む存在はあるかもしれない。ただ、その正体が分からないから非常に気味が悪い。
不意に、背中にゾクリとした戦慄が走った。また、桜姫からの警告だろうか。
「桜姫は、気付いてるの……?」
声に出して訊ねると、やはり、辺りには沈黙しか流れなかった。しかし、桜姫ならば全てを知っていてもおかしくはない、と美咲は確信していた。
「怖い、けど……」
真実をしっかり見極めたい。美咲はそう思いながら、ゆっくりと携帯を閉じた。
◆◇◆◇
結局、美咲は携帯のアラームが鳴るまで、ベッドの上でぼんやりし続けた。その後は洗顔し、着替えをしてから朝食を摂り、理美に見送られる形で家を出た。
外に出ると見事な快晴だった。透き通った空にうっすらとした雲が流れ、自分の存在を一番に主張するかのように太陽が浮かんでいる。
美咲は歩きながら、人目も気にせず背中を伸ばす。夢で鬼王と会話してからは鬱々としがちだったから、せめて天気だけでも良いのは救われる。
だが、そんな晴れやかな気分も、再び翳りを差し始めた。
家を出て数分と経たないうちに、差すような視線を感じた。美咲は怪訝に思い、一度立ち止まって、グルリを周囲を見回す。だが、ちょうど通勤と通学の時間にかち合っていることもあり、誰が自分に視線を注いでいるかが分からない。こうなると、全員が妖しいとすら思えてくる。
美咲は眉をひそめつつ、しかし、あまり辺りをジロジロ見るのも逆に不信に思われそうな気がして、再び足を動かした。
〈誰か〉は相変わらず、美咲を監視している。人混みに紛れ、想像ではあるが、一定の距離を保ち続けながら跡を着けて来る。
一瞬、南條かと思った。だが、南條であればもっと上手な追跡をするだろうし、何より、すぐに声をかけてくるはずだ。それに、南條が持つ気は、〈誰か〉よりも遥かに安心感を与えてくれる。
(まさか、これが鬼王の言う〈困難〉……?)
美咲は逸る鼓動を落ち着かせようと、深呼吸を繰り返す。そして、〈誰か〉に不自然に想われない程度に、少しずつ歩く速度を上げていった。
(とにかく、少しでも早く学校に行けば……)
そう言い聞かせながら、駅に向けてひたすら進もうとした。まさにその時だった。
「おい!」
テノール調の男物の声と同時に、背中越しに肩を強く掴まれた。美咲はギョッとして足を止め、恐る恐る振り返った。
そこには、美咲とそれほど年齢差のなさそうな青年が立っていた。あからさまに眉根を寄せながら自分を見つめる青年を睨み返しながら、この人誰? と思ったが、よくよく考えたら、昨晩、南條に連れられて行った樋口夫妻の家にいた青年と同一人物だった。確か、名前は雅通だったはずだ。
「――あなただったんですか……」
不満を露わにして口にする美咲に、雅通は「は?」と、美咲に負けず劣らず、不機嫌そうに返してくる。
美咲はさらに顔をしかめ、「だから」と続けた。
「あなただったのかと訊いてるんです! 今までずーっと私を着けてたでしょ?」
「は? お前を着けてた? んなの知るかよ! だいたいどうして、俺が黙ってお前を着けなきゃならねえってんだよっ?」
開き直りとも取れる雅通の態度に、美咲の怒りは頂点に達し始めた。ここが公衆の面前であることも忘れ、「とぼけんじゃない!」と声を荒らげた。
「だったら他に誰が私の跡を黙って着けるってのっ? 南條さんはそんなセコい真似なんて絶対しないし! 別の〈誰か〉かってことも考えたけど、タイミング良くあんたが声をかけてきたってことは、あんたが私を着けてたってことになるじゃない!」
もう、雅通に対して敬語は一切使わなくなってしまった。しかも、『あなた』から『あんた』へと呼び方が変わっている。
雅通もまた、先ほど以上に表情を険しくさせた。大袈裟なまでに歯を剥き出しにして、「てめえ……」と美咲を威嚇する。
「何誤解してんだか知らねえけど、俺は潔白だ! さっきから言ってんだろっ? お前を着けなきゃならない理由なんてこっちにはねえんだよ! てかお前、自意識過剰なんじゃねえの?」
「なっ……!」
美咲は目を剥いたまま絶句した。自意識過剰――確かにそうかもしれない。悔しいが、雅通の指摘は的を射ている。
言葉を詰まらせた美咲を、雅通はさも面白そうに、ニヤリと口の端を上げながら眺める。
「お前は確かに特別な存在なんだろうし、あの南條さんも目をかけてるぐらいだ。姫様気分で調子に乗っちまう気持ちも分からなくはねえけどよ。でも、俺はぶっちゃけ、お前のようなお子様には全く興味ねえから。まあ、見た目は悪くねえだろうけど、性格はちっとも可愛くねえしな」
勝手なことばかり並べ立てる雅通に、美咲は再び、怒りが沸々と湧き上がる。感情の赴くまま、「あんたもヒトのこと言えないから!」と怒鳴りつけてやりたかったが、グッと抑えた。
「とにかく、私急ぐから」
美咲は、もう関わるまいと踵を返した。
「ちょっと待て!」
背を向けたのと同時に、雅通に引き止められた。
美咲は一瞬、無視してこの場を去ろうとしたが、何となく振り返ってしまった。
「まだ何かあるの?」
美咲の問いに、雅通は一呼吸置いてから、「気を付けろ」と声を潜めて言ってきた。
「は?」
怪訝に思いながら首を傾げていると、雅通は再び、じれったそうに忠告する。
「だから、気を付けろっつったんだよ。あ、これは南條さんからの伝言だから。じゃあな」
言うだけ言って、雅通は、美咲の脇をすり抜けるようにさっさと行ってしまった。
残された美咲は、眉根を寄せながら呆然と雅通の背中を見送る。
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