宵月桜舞

雪原歌乃

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第三章 胎動と陰謀

第四節

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 電車に揺られること十分、自宅の最寄り駅に到着した。美咲は人の波に押されるようにホームに降り立ち、改札へと向かう。
 ふと、自動改札を通り過ぎ、駅の外に出たのと同時に〈何か〉を感じた。最初は気のせいかと思い、そのままやり過ごすつもりだったのだが、しばらく歩いているうちに美咲の中で警鐘が鳴り響いた。実際は、その警鐘も〈聴こえた〉というよりも〈感じた〉ものだ。
(桜姫……?)
 警鐘を送ってきたのが桜姫だと察した美咲は、自分の中の桜姫に呼びかける。だが、やはり何も反応は示してこない。
 美咲の脳裏に、今朝の出来事が浮かび上がった。
(まさか……)
 美咲は眉をひそめ、ピタリと立ち止まる。そして、キッと表情を険しくして振り返る。
 ところが、振り返った先には誰もいない。
(どうゆうこと……?)
 美咲は足を止めたまま、その場で首を傾げる。てっきり、雅通だと思い込んでいたのだが、どんなに辺りを見回してみても、彼の姿どころか影すらも見当たらない。
(やだ……、まだ明るいのに……)
 急激に悪寒が走り、美咲は自らの身体を両腕で抱き締めた。身動き一つせず立ち尽くす美咲の側を、一緒に電車から降りた人々は、怪訝そうに一瞥し、あるいは関わるのを一切避けるようにわざと視線を逸らして通り過ぎて行く。
『……気を付けろ……』
 突然、頭の中に直接声が飛び込んできた。そう言えば、雅通は今朝、南條の言伝だと言って忠告してきた。そして、鬼王もまた――
(桜姫)
 はっきりと声を聴き取れたことで、美咲は再び、桜姫に呼びかけてみた。
『……すぐ……こ……から……は……れ……』
 まるで、壊れた機械のように声が途切れながら聴こえてくる。だが、美咲は、『すぐ、この場から離れろ』と伝えているのだと察した。
(離れろ、ったって……)
 美咲は少しばかり考えたが、桜姫からの忠告は素直に受け入れた方がいいと察し、脇目も振らずに駆け出した。
 とにかく、すぐに家に帰ろう。外にいつまでもいるより、両親のいる家の方が確実に安全だ。
(お願い! 早く家に……!)
 息を切らし、全力で走っていた時だった。
「すいませーんっ!」
 後ろから声をかけられた。しかし、美咲は聴こえないふりをして、なおも走り続ける。
「定期落としてますよーっ!」
 この呼びかけに、さすがに美咲も足を止めた。肩で息を繰り返し、ゆっくり振り返ると、全く知らない一人の青年が美咲の元へと駆け寄って来る。
「どうぞ」
 青年は美咲に追い着くなり、定期の入ったパスケースを美咲に手渡す。
「ありがとうございます」
 美咲はパスケースを受け取ると、「すいません、急いでるので……」と踵を返した。
 しかし――
「ちょっと待て」
 青年が、美咲の手首を掴んだ。気のせいだろうか。美咲を逃がすまいと、握る手に力が籠もっているように感じる。
 美咲は恐る恐る振り返った。先ほどから鳴りやまない警鐘。もしかして、と思いながら青年を睨むと、ニヤリと不敵に笑む彼と視線が合った。
「そんなに慌てなくたっていいんじゃねえの? 大丈夫、時間はたっぷりある」
「何を……、言ってるの……?」
 震える唇で言葉を紡ぎながら、青年の手を振り払おうとする。だが、やはり、青年の握力は美咲の力とは比較にもならない。
「全力疾走された時はさすがに焦っちまったけど、定期落とすってベタなドジをやらかしてくれたお陰で手間が省けたわ。――とにかくこれで、俺も無事に命令を果たすことが出来る」
「命令……? いったい誰が……? てゆうか、公衆の面前でこんなこと……」
 言いかけて、美咲はハッと息を飲んだ。いつの間にか、美咲と青年を取り囲むようにヒトが数人群がっている。
「四面楚歌、っつうわけだ」
 青年は得意気に頷くと、美咲の手首を握っている反対側の右手をスッと差し出す。仄かに、青年の手の周囲が青白く発光した。
 美咲は瞠目したままそれを見つめていると、そこから徐々に、青年の腕の長さほどのものが形成されてゆく。形は微妙に違っているものの、紛れもなく、南條と同じ日本刀だった。
「見たことあるだろ、こいつ?」
 青年の問いに、美咲は肯定も否定もしない。ただ、呆然と、禍々しく光る銀の刃を凝視し続ける。
 青年が、日本刀の刀身を美咲の喉元に突き付けてきた。触れるか触れないかの位置で止めたまま、「分かってるよな?」となおも念を押してくる。
「こいつさえあれば、桜姫もろともお前を消せる。けど、あの方は、お前をただ消滅させることを望んじゃいねえ。時間をかけて、じーっくり、ゆーっくり、苦しませてやりたいんだとよ」
 青年の言葉に、美咲はあからさまに眉をひそめた。じっくりゆっくり苦しませたい、なんて悪趣味にもほどがある。そして何より、青年の言う〈あの方〉というのが気になった。
「――あんたは……、誰なの……?」
 美咲が質問するも、それには青年は何も答えず、気持ち悪いほどに口元を歪める。
「とにかく俺と来い。あ、逃げようったって無駄だぜ? ま、この様子を見りゃ分かるだろうけどよ」
 美咲は背中に流れる冷たい汗を感じながら、グルリと周囲を見回す。そこにいる大勢のヒトは、物言わぬ人形のように美咲に視線を注ぐ。それがよけいに美咲の中の恐怖心を煽った。
(選択の余地はない、ってことだね……)
 美咲は小さく溜め息を漏らし、「分かった」と頷いた。
「状況はまだ飲み込めてないけど、あんたの言う通りにする」
「賢明な選択だな」
 美咲に選択出来る権利など最初からなかったのだから、〈賢明な選択〉というのはおかしな表現だと思ったが、突っ込むことはせずに口を噤んだ。いや、緊張が極限まで達し、口を挟むだけの余裕がなかった、という方が正しい。
「それじゃあ着いて来い。近くに車を待たせてる」
 青年に促されるがまま、美咲は何も言わずに青年の後に続く。青年が動くと、周りに壁を作っていたヒトの群れが崩れ、興味を失ったとばかりに、わらわらとこの場を去って行った。

 ◆◇◆◇

 青年に連れて行かれた場所は、駅の駐車場だった。小さい駅ということもあって、敷地内には片手で数えられるほどしか車が停まっていない。
 青年はその中の黒いミニバンに向かい、車の前に着くと後部ドアを開けた。そのまま、美咲をやや乱暴に押し込むように乗せる。続いて青年も乗り込んで、力いっぱいにドアを閉めた。
「あら、上手く連れて来れたみたいね」
 車内に落ち着くなり、運転席に座っていた女性が肩越しにこちらを振り返る。年の頃は、隣にいる青年と同じか少し下ぐらいだろうか。二十代前半辺りだろうとは思うが、鋭い目付きをした美人だった。
「何だその言い草は? 俺がしくじるとでも思ってやがったのかよ?」
 青年は女性に凄んでみせるも、女性の方は気にした様子もなく、むしろ涼しげな表情で、「ええ」とサラリと言ってのける。
「だってあなた、肝心な時に必ずしくじるじゃない? 今朝だって、結局は何にも出来ないでのこのこ戻って来たじゃないの」
「今朝のは仕方ねえだろ! ヒトが周りにいたし、俺より先にこいつに声をかけた野郎がいたから仕方なく……」
「けど、チャンスを作ろうと思えば作れたはずだけど?」
 女性の冷ややかな突っ込みに、青年はグッと言葉を詰まらせる。何を言い返しても無駄だと思ったのか、チッと舌打ちをしてそっぽを向いてしまった。
 女性は、不貞腐れた青年から美咲に視線を移した。ニッコリと笑いかけてきたが、本心から笑っていないのは美咲も何となく察した。
「ずいぶんと見苦しい姿を見せちゃったわね。このヒトも口の利き方はぞんざいだけど根っから悪い人間じゃないから。勘弁してくれる?」
 美咲は肯定も否定もせず、女性を真っ直ぐに見据える。だが、女性の圧倒的な眼力に負け、結局は俯いてしまった。
 とにかく、これではっきりした。今朝から感じていた視線は、雅通ではなく隣に座っている青年だったこと、そして、美咲を拉致しようと企てた黒幕が存在すること。ただ、その黒幕はまだ分からない。先ほどの青年の口振りから、恐らく、これから連れて行かれる場所で待機しているのだろう。
「では、行きましょうか」
 女性は前を向き、エンジンをかける。ゆっくりと車は動き出し、どこかへと向かう。
(多分、私の存在している意味が分かるかもしれない。――また……)
 車窓を通して流れる景色を眺めながら、美咲はぼんやりと思う。自分が何者なのか、美咲は完全には理解していない。しかし、全てを知り尽くした時、同時に、今の生活が音を立てて崩れてしまうのではないか。考えながら、美咲はブルリと身を震わせた。
(大丈夫、きっと……)
 自分に言い聞かせながら、深呼吸を何度も繰り返した。
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