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二章 銀箭に侵された地
疑念
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自分の鼓動すら消えるような喪失感が、一瞬にして全身を包むのを利玖は感じた。
「潮蕊に封じられた悪しき神。若い娘を好んで喰う。湖のそばに現れる……」開いたままの引き戸から外を眺めながら、詩を諳んじるように美蕗は呟く。「それだけ揃えば、あんな小さな山のヌシでも、銀箭が絡んでいると当たりを付ける事は出来るでしょう」
美蕗は、つっと利玖に視線を移した。
「それで? 銀箭に住み処を脅かされて、自分達だけでは二進も三進も行かない。ヒトの前に姿を見せる危険を冒してでも、彼の手先である千堂を排除しようと決めた。そうして最初に声をかけたのが、偶然にも、銀箭と因縁のある利玖さんだった。そんなに都合良く出来たお話ってあるかしら? もしかしたら、柏名山の妖達だってとっくに銀箭に支配されていて、助けてもらう振りをして貴女を自分の元に連れて来いと命じられているのかもしれないわ」
「それは……」利玖は唾を飲み込んだ。「そうかもしれません。しかし、それを確かめるには、やはり、一切の争いが禁じられ、ただ対話のみが許される《とほつみの道》が必要です」
利玖は両手をつき、畳に額がつくほど低く頭を下げた。
「〈宵戸の木〉で助けて頂いたご恩、忘れておりません。今回の件で得た報酬、有益な情報は、すべて美蕗さんにお渡しします。わたしのような人間がもらっても身に余る物でしょうから……。ですから、どうか、わたし達を《とほつみの道》まで導いて頂けませんか」
「ありがとう」美蕗は優しく言う。「でも、確かめて、やっぱり出来ません、では通らないと思うわ」
「その場合は僕が引き継いでやり遂げると約束する」
美蕗が史岐に顔を向け、首をかしげる。
「どうして、この件で史岐が命を投げ打つのかしら」
「妖、土地神、呪いや祟り。そういうものと関わって、無事で済む事は確かに少ない」史岐はまっすぐに美蕗を見つめて話す。「だけど、必要以上の恐れが厄を招く事もある。妖や物の怪は理の外にあるもの。だからこそ、安易に人間の生活に介入する事を忌避するきらいがある。今回は、ヌシの方から《とほつみの道》の使用を申し入れてきている事からも、僕達の心象を損ねないようにして、穏便に人間側の協力を取り付けたいという意図が汲み取れる。こちらが一方的に搾取される条件だとは断定出来ない」
「話が長い、つまらない」美蕗が溜息をついて微笑む。「わたしは、どうして貴方が利玖さんの為に命を懸けるのか、って訊いたのよ」
「今日、僕らの求めに応じたのは何故だ?」史岐が口調を変えた。「あの妖が柏名山のヌシの使いであるという証拠も、今回の件に銀箭が関わっていると判断出来る根拠もない。なのに、こうして時間を取って、屋敷に呼び寄せて話を聞くほど、貴女も暇じゃないはずだ」
美蕗と史岐は、長く睨み合っていたが、やがて美蕗が優艶に口元をほころばせて頷いた。
「そう……、史岐の言うとおり、わたしの所へも同じ訴えがありました。こちらは、柏名山のヌシ殿から直々に。だから、貴方達の話が作りものでない事はわかっています」
美蕗は、自分の前に落ちていた資料を取り上げ、史岐に向かって振ってみせた。
「この資料、銀箭についての記述はほとんどない。調べなかったのではなく、調べたのに何も出てこなかった。そうね、史岐?」
史岐が息を止める気配が伝わってきた。
美蕗は打掛を羽織ったまま、衣擦れの音をさせながら板の間から畳に下りてきて史岐の前に立つ。
「銀箭という名で調べても何も出てこないのは当然よ。それは彼の存在『のみ』を示す為に人間達がつけたもの。自分達の間だけで通じる名で呼ぶ事で、名前以外の奇蹟、伝承、呪い、彼の力の一切を秘そうとした。本当は別の名があるのかもしれないし、元々、名など持たないのかもしれない」
美蕗は手に持った資料で口元を隠し、目を細めた。
「それでも、こうしてその名を知り、調べようとする者がいれば、縁が結ばれ、彼の力は増すかもしれない。当然、その事は承知しているわね?」
利玖と史岐は即座に頷いた。
「わかりました」美蕗もゆっくりと頷く。「ついて来なさい。《とほつみの道》へ案内する前に、教えておきたい事があります」
「潮蕊に封じられた悪しき神。若い娘を好んで喰う。湖のそばに現れる……」開いたままの引き戸から外を眺めながら、詩を諳んじるように美蕗は呟く。「それだけ揃えば、あんな小さな山のヌシでも、銀箭が絡んでいると当たりを付ける事は出来るでしょう」
美蕗は、つっと利玖に視線を移した。
「それで? 銀箭に住み処を脅かされて、自分達だけでは二進も三進も行かない。ヒトの前に姿を見せる危険を冒してでも、彼の手先である千堂を排除しようと決めた。そうして最初に声をかけたのが、偶然にも、銀箭と因縁のある利玖さんだった。そんなに都合良く出来たお話ってあるかしら? もしかしたら、柏名山の妖達だってとっくに銀箭に支配されていて、助けてもらう振りをして貴女を自分の元に連れて来いと命じられているのかもしれないわ」
「それは……」利玖は唾を飲み込んだ。「そうかもしれません。しかし、それを確かめるには、やはり、一切の争いが禁じられ、ただ対話のみが許される《とほつみの道》が必要です」
利玖は両手をつき、畳に額がつくほど低く頭を下げた。
「〈宵戸の木〉で助けて頂いたご恩、忘れておりません。今回の件で得た報酬、有益な情報は、すべて美蕗さんにお渡しします。わたしのような人間がもらっても身に余る物でしょうから……。ですから、どうか、わたし達を《とほつみの道》まで導いて頂けませんか」
「ありがとう」美蕗は優しく言う。「でも、確かめて、やっぱり出来ません、では通らないと思うわ」
「その場合は僕が引き継いでやり遂げると約束する」
美蕗が史岐に顔を向け、首をかしげる。
「どうして、この件で史岐が命を投げ打つのかしら」
「妖、土地神、呪いや祟り。そういうものと関わって、無事で済む事は確かに少ない」史岐はまっすぐに美蕗を見つめて話す。「だけど、必要以上の恐れが厄を招く事もある。妖や物の怪は理の外にあるもの。だからこそ、安易に人間の生活に介入する事を忌避するきらいがある。今回は、ヌシの方から《とほつみの道》の使用を申し入れてきている事からも、僕達の心象を損ねないようにして、穏便に人間側の協力を取り付けたいという意図が汲み取れる。こちらが一方的に搾取される条件だとは断定出来ない」
「話が長い、つまらない」美蕗が溜息をついて微笑む。「わたしは、どうして貴方が利玖さんの為に命を懸けるのか、って訊いたのよ」
「今日、僕らの求めに応じたのは何故だ?」史岐が口調を変えた。「あの妖が柏名山のヌシの使いであるという証拠も、今回の件に銀箭が関わっていると判断出来る根拠もない。なのに、こうして時間を取って、屋敷に呼び寄せて話を聞くほど、貴女も暇じゃないはずだ」
美蕗と史岐は、長く睨み合っていたが、やがて美蕗が優艶に口元をほころばせて頷いた。
「そう……、史岐の言うとおり、わたしの所へも同じ訴えがありました。こちらは、柏名山のヌシ殿から直々に。だから、貴方達の話が作りものでない事はわかっています」
美蕗は、自分の前に落ちていた資料を取り上げ、史岐に向かって振ってみせた。
「この資料、銀箭についての記述はほとんどない。調べなかったのではなく、調べたのに何も出てこなかった。そうね、史岐?」
史岐が息を止める気配が伝わってきた。
美蕗は打掛を羽織ったまま、衣擦れの音をさせながら板の間から畳に下りてきて史岐の前に立つ。
「銀箭という名で調べても何も出てこないのは当然よ。それは彼の存在『のみ』を示す為に人間達がつけたもの。自分達の間だけで通じる名で呼ぶ事で、名前以外の奇蹟、伝承、呪い、彼の力の一切を秘そうとした。本当は別の名があるのかもしれないし、元々、名など持たないのかもしれない」
美蕗は手に持った資料で口元を隠し、目を細めた。
「それでも、こうしてその名を知り、調べようとする者がいれば、縁が結ばれ、彼の力は増すかもしれない。当然、その事は承知しているわね?」
利玖と史岐は即座に頷いた。
「わかりました」美蕗もゆっくりと頷く。「ついて来なさい。《とほつみの道》へ案内する前に、教えておきたい事があります」
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