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11話
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南国仕込みの果実酒で心地良い熱と浮遊感を授かったような、ぷかぷかとした意識の中で、幻想と記憶が継ぎはぎになった夢をいくつも見た。
万華鏡のように目まぐるしく場面が転換し、息をつく暇もない。望むものも、望まないものも、望んでいる事を認めたくないほど無遠慮に心の内を暴かれるものもあった。共通点は、ただ一つ、とても他人には話せない、という事だ。
最後に見たものはとびきり悪質だった。
銀箭が自分に覆い被さっている。
一瞬にして意識が現実に引き戻され、起き上がりざま、思い切り拳を振ったが、実際には夢と現実が混濁していて、わずかに布団の端を引っかいただけだった。
「利玖様」誰かの手が肩に触れる。「ご無礼、お許し下さい。柑乃で御座います」
利玖は、びくっと震え、目を開けた。
室内灯の眩しさで、しばらく視界がハレーションを起こしたように真っ白だったが、やがて方々から物の色と輪郭が浮かび上がってくる。枕元に跪いて自分を見下ろしている人物の顔にも、ようやくピントが合った。
銀箭ではない。
「お体の具合はいかがですか」
柑乃が囁くような声で訊ねた。
大丈夫だ、と返事をしたかったが、口を開くと粘っこい血の鉄臭さと花の残り香がこみ上げてきて、どうしても喋る気になれず、利玖は布団の下から片手を出して親指を一本立ててみせた。
柑乃はきょとんとした様子で瞬きをしながらそれを見た後、ふっと表情をほころばせた。
「利玖様がお目覚めになったら、薬湯をお持ちするように仰せつかっております。お体に辛い所がないようでしたら、今、ご用意させて頂きたいのですが、いかがでしょうか?」
利玖が頷くと、柑乃は律儀に半歩下がって畳に三つ指をつき、一礼してから部屋を出て行った。
立ち上がった時、彼女の白い狩衣の帯に刀が差し込まれているのが見えた。
足音はすぐに聞こえなくなる。
利玖は、天井を見つめ、生ぬるい脱力感が全身を覆っていくのを感じた。
(今、わたしは……)
柑乃が部屋を出て行った事に、安堵した。
一瞬だったかもしれないが、紛れもなく、自分を脅かす存在がいなくなったと感じた。それは、花の香りに浮かされて見る奇妙な夢から解放されたとわかった時よりも、ずっと深い安らかさだった。
史岐はどうなったのかという事さえ、柑乃には訊けなかった。彼女の口からどんな答えが出ても、自分はそれを信じられないと思ったのだ。
柑乃が自らの意思で利玖を傷つけようとした事はない。だが、彼女は、匠の命令さえあれば、迷う事なく同胞の命を奪い、史岐にすら刃を向ける。
いや……。
そんなものは、後になってから付け足された理屈だ。
本当は……。
襖の向こうで名前を呼ばれた。
利玖は驚いて目を開ける。いつの間にか、頭まで布団にくるまって体を丸めていた。
慌てて起き上がりながら、髪と服をざっと手で整え、
(薬湯を飲んだら、銀箭と間違えて殴ろうとした事をちゃんと謝ろう)
と決意を固めて返事をした。
襖が開き、片膝をついて控えていた柑乃が軽く頭を下げてから部屋に入ってくる。彼女は、湯呑みと急須が乗った盆を利玖の枕元に置いた。
湯呑みの中には、とろっとした鶯色の液体が入っている。透明度は無いに等しく、湯呑みの底が見えなかったが、量はごくわずかだった。
柑乃が湯呑みを取って利玖に渡す。
利玖は、それを受け取ると、漢方薬を飲む時のように息を止めて一気に中身をあおった。
「あっ」柑乃が小さく声を上げる。
直後、信じられない苦味が口中に広がった。
嗅覚を遮断していてもなお、液体に触れた部分の粘膜がじーんと痺れるほどの強烈さだった。普段口にしている物とは次元の違う刺激の強さに、体が即座に危険物判定を下したのか、ぐっと喉がつまりそうになったが、意思の力で何とかそれをねじ伏せて飲み込む。
「苦味が強いので、湯で溶きながら飲むようにと……」柑乃が躊躇いがちに利玖の背中をさすりながら言った。「申し訳御座いません。先にお話ししておくべきでした」
「いえ……」
喋ろうとするだけで涙が出てくる。
しかし、苦味は有機的で、最初の衝撃こそ凄まじかったものの、喉を通り過ぎた後はすんなりと消えていった。
それどころか、鼻の奥にしつこくわだかまっていた血腥さも、花の匂いも消えている。出血を意識する事で始終体が興奮していたのか、それが消えた今は、柔らかい風に肌をさすられるように穏やかな心地だった。
「ああ、びっくりした……」利玖は深呼吸をする。「早まった事をするものじゃありませんね。おかげで、話せるようになりましたが」
「史岐様にも同じ薬湯を飲んで頂きました。お二方は、蕾が開花した時に放つ強い精気を多量に吸い込んでしまった事で、一時的にあてられたような状態になったのだろうと」
「え、誰が?」
とっさに訊き返して、利玖は突然、ここに至るまでの経緯を思い出した。
「待って……、業者の方、もう到着されたのですか?」利玖は布団を剥いで立ち上がる。「いけない、こんな所で休んでいる場合じゃ──」
だが、急に頭を動かしたせいで眩暈がした。
ふらついて倒れそうになった所を、片側から柑乃に抱き止められる。
その手首を強く握ると、柑乃は驚いたように息をのんだ。
「柑乃さん。急いで離れに戻って、伝えてください。あの花の所有者はわたしです」利玖はぎらついた眼差しで柑乃を見る。「花の本質を見誤り、軽々しく近づいて、皆様にご迷惑をかけた事は謝ります。ですが、それはわたしの落ち度が招いた事態です。二度と油断しません。だから、花を切り取ってしまうのは……」
「お待ちください」柑乃は戸惑った表情で利玖を押し止めた。「その事は、ご心配要りません。確かに、先ほどの薬湯を調合したのは、真波様がお呼びになった業者と、その助手の方です。ですが、真波様も匠様も、利玖様がお戻りになるまで、花にいかなる手出しもしてはならないと厳しく仰せつけになりました。ですから、無断で花が傷つけられる事はなかろうと存じます」
利玖の息遣いが徐々に落ち着き、手首からするっと指が離れると、柑乃は慎重に利玖の肩を押さえて布団の上に座らせた。
「利玖様がお目覚めになった事は、皆様、もうご存知でいらっしゃいます。少し休んで、お体の調子が良くなりましたら、お召し物を替えて離れのお庭にいらして下さい」
それを聞いて、ようやく自分の体を見下ろすと、倒れた時に着ていた服ではなくパステルカラーのパジャマ姿だった。きっと、あの服には鼻血がついてしまって、染みになる前に洗濯する為に母が着替えさせてくれたのだろう。
利玖は、のっそりと布団に足を潜り込ませたが、柑乃が立ち上がるのを見て「あ……」と口を開いた。
「柑乃さん、あの、さっきは……」
しかし、柑乃は何かを察したのか、にこっと微笑みを浮かべて一礼すると、止める間もなく身を翻して部屋から出て行ってしまった。
彼女の線の引き方を体現するように、慎み深く、しかし、固く閉ざされた襖を、利玖はしばらく、声もなく見つめていた。
薬湯が花の匂いをさらったおかげで、夢の内容はほとんど思い出せなくなっていた。だが、最後に見た一つはまだ脳裏に焼き付いている。あれだけは、花の精気と関係なしに見た幻覚だったのだろう。
利玖は、一度は布団に横たわったが、眠る気になれずに身を起こした。
用済みになった布団を畳み、部屋の隅に寄せて、反対側の壁際に行って腰を下ろす。そこには、昔ながらの木製の鏡台が置かれていた。
鏡にかけられたレースをめくると、自分の顔が映った。
顔色は思っていたほど悪くない。刺激の強い夢を、取っ替え引っ替え見せられたせいか、頬にはうっすらと赤みがさしている。
ただ、寝癖がひどく、軽く手櫛を入れてみたが何の効果もなかった。霧吹きで全体を湿らせてからブローしなければ元に戻す事は出来なさそうだ。
ため息が漏れる。
利玖は鏡に映る自分の瞳を一度睨み付けてから、背筋を伸ばして髪を編み始めた。
万華鏡のように目まぐるしく場面が転換し、息をつく暇もない。望むものも、望まないものも、望んでいる事を認めたくないほど無遠慮に心の内を暴かれるものもあった。共通点は、ただ一つ、とても他人には話せない、という事だ。
最後に見たものはとびきり悪質だった。
銀箭が自分に覆い被さっている。
一瞬にして意識が現実に引き戻され、起き上がりざま、思い切り拳を振ったが、実際には夢と現実が混濁していて、わずかに布団の端を引っかいただけだった。
「利玖様」誰かの手が肩に触れる。「ご無礼、お許し下さい。柑乃で御座います」
利玖は、びくっと震え、目を開けた。
室内灯の眩しさで、しばらく視界がハレーションを起こしたように真っ白だったが、やがて方々から物の色と輪郭が浮かび上がってくる。枕元に跪いて自分を見下ろしている人物の顔にも、ようやくピントが合った。
銀箭ではない。
「お体の具合はいかがですか」
柑乃が囁くような声で訊ねた。
大丈夫だ、と返事をしたかったが、口を開くと粘っこい血の鉄臭さと花の残り香がこみ上げてきて、どうしても喋る気になれず、利玖は布団の下から片手を出して親指を一本立ててみせた。
柑乃はきょとんとした様子で瞬きをしながらそれを見た後、ふっと表情をほころばせた。
「利玖様がお目覚めになったら、薬湯をお持ちするように仰せつかっております。お体に辛い所がないようでしたら、今、ご用意させて頂きたいのですが、いかがでしょうか?」
利玖が頷くと、柑乃は律儀に半歩下がって畳に三つ指をつき、一礼してから部屋を出て行った。
立ち上がった時、彼女の白い狩衣の帯に刀が差し込まれているのが見えた。
足音はすぐに聞こえなくなる。
利玖は、天井を見つめ、生ぬるい脱力感が全身を覆っていくのを感じた。
(今、わたしは……)
柑乃が部屋を出て行った事に、安堵した。
一瞬だったかもしれないが、紛れもなく、自分を脅かす存在がいなくなったと感じた。それは、花の香りに浮かされて見る奇妙な夢から解放されたとわかった時よりも、ずっと深い安らかさだった。
史岐はどうなったのかという事さえ、柑乃には訊けなかった。彼女の口からどんな答えが出ても、自分はそれを信じられないと思ったのだ。
柑乃が自らの意思で利玖を傷つけようとした事はない。だが、彼女は、匠の命令さえあれば、迷う事なく同胞の命を奪い、史岐にすら刃を向ける。
いや……。
そんなものは、後になってから付け足された理屈だ。
本当は……。
襖の向こうで名前を呼ばれた。
利玖は驚いて目を開ける。いつの間にか、頭まで布団にくるまって体を丸めていた。
慌てて起き上がりながら、髪と服をざっと手で整え、
(薬湯を飲んだら、銀箭と間違えて殴ろうとした事をちゃんと謝ろう)
と決意を固めて返事をした。
襖が開き、片膝をついて控えていた柑乃が軽く頭を下げてから部屋に入ってくる。彼女は、湯呑みと急須が乗った盆を利玖の枕元に置いた。
湯呑みの中には、とろっとした鶯色の液体が入っている。透明度は無いに等しく、湯呑みの底が見えなかったが、量はごくわずかだった。
柑乃が湯呑みを取って利玖に渡す。
利玖は、それを受け取ると、漢方薬を飲む時のように息を止めて一気に中身をあおった。
「あっ」柑乃が小さく声を上げる。
直後、信じられない苦味が口中に広がった。
嗅覚を遮断していてもなお、液体に触れた部分の粘膜がじーんと痺れるほどの強烈さだった。普段口にしている物とは次元の違う刺激の強さに、体が即座に危険物判定を下したのか、ぐっと喉がつまりそうになったが、意思の力で何とかそれをねじ伏せて飲み込む。
「苦味が強いので、湯で溶きながら飲むようにと……」柑乃が躊躇いがちに利玖の背中をさすりながら言った。「申し訳御座いません。先にお話ししておくべきでした」
「いえ……」
喋ろうとするだけで涙が出てくる。
しかし、苦味は有機的で、最初の衝撃こそ凄まじかったものの、喉を通り過ぎた後はすんなりと消えていった。
それどころか、鼻の奥にしつこくわだかまっていた血腥さも、花の匂いも消えている。出血を意識する事で始終体が興奮していたのか、それが消えた今は、柔らかい風に肌をさすられるように穏やかな心地だった。
「ああ、びっくりした……」利玖は深呼吸をする。「早まった事をするものじゃありませんね。おかげで、話せるようになりましたが」
「史岐様にも同じ薬湯を飲んで頂きました。お二方は、蕾が開花した時に放つ強い精気を多量に吸い込んでしまった事で、一時的にあてられたような状態になったのだろうと」
「え、誰が?」
とっさに訊き返して、利玖は突然、ここに至るまでの経緯を思い出した。
「待って……、業者の方、もう到着されたのですか?」利玖は布団を剥いで立ち上がる。「いけない、こんな所で休んでいる場合じゃ──」
だが、急に頭を動かしたせいで眩暈がした。
ふらついて倒れそうになった所を、片側から柑乃に抱き止められる。
その手首を強く握ると、柑乃は驚いたように息をのんだ。
「柑乃さん。急いで離れに戻って、伝えてください。あの花の所有者はわたしです」利玖はぎらついた眼差しで柑乃を見る。「花の本質を見誤り、軽々しく近づいて、皆様にご迷惑をかけた事は謝ります。ですが、それはわたしの落ち度が招いた事態です。二度と油断しません。だから、花を切り取ってしまうのは……」
「お待ちください」柑乃は戸惑った表情で利玖を押し止めた。「その事は、ご心配要りません。確かに、先ほどの薬湯を調合したのは、真波様がお呼びになった業者と、その助手の方です。ですが、真波様も匠様も、利玖様がお戻りになるまで、花にいかなる手出しもしてはならないと厳しく仰せつけになりました。ですから、無断で花が傷つけられる事はなかろうと存じます」
利玖の息遣いが徐々に落ち着き、手首からするっと指が離れると、柑乃は慎重に利玖の肩を押さえて布団の上に座らせた。
「利玖様がお目覚めになった事は、皆様、もうご存知でいらっしゃいます。少し休んで、お体の調子が良くなりましたら、お召し物を替えて離れのお庭にいらして下さい」
それを聞いて、ようやく自分の体を見下ろすと、倒れた時に着ていた服ではなくパステルカラーのパジャマ姿だった。きっと、あの服には鼻血がついてしまって、染みになる前に洗濯する為に母が着替えさせてくれたのだろう。
利玖は、のっそりと布団に足を潜り込ませたが、柑乃が立ち上がるのを見て「あ……」と口を開いた。
「柑乃さん、あの、さっきは……」
しかし、柑乃は何かを察したのか、にこっと微笑みを浮かべて一礼すると、止める間もなく身を翻して部屋から出て行ってしまった。
彼女の線の引き方を体現するように、慎み深く、しかし、固く閉ざされた襖を、利玖はしばらく、声もなく見つめていた。
薬湯が花の匂いをさらったおかげで、夢の内容はほとんど思い出せなくなっていた。だが、最後に見た一つはまだ脳裏に焼き付いている。あれだけは、花の精気と関係なしに見た幻覚だったのだろう。
利玖は、一度は布団に横たわったが、眠る気になれずに身を起こした。
用済みになった布団を畳み、部屋の隅に寄せて、反対側の壁際に行って腰を下ろす。そこには、昔ながらの木製の鏡台が置かれていた。
鏡にかけられたレースをめくると、自分の顔が映った。
顔色は思っていたほど悪くない。刺激の強い夢を、取っ替え引っ替え見せられたせいか、頬にはうっすらと赤みがさしている。
ただ、寝癖がひどく、軽く手櫛を入れてみたが何の効果もなかった。霧吹きで全体を湿らせてからブローしなければ元に戻す事は出来なさそうだ。
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