華と毒薬

アザミユメコ

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第二章 乱れ桜に幕が下りる

二十一 逃げられない過去

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 かつての掏摸スリ仲間──のぎが進路を塞ぐように立ちはだかり、低い声で言った。

「おい、こま。雇い主を刺して逃げたくせに、なんでまだ目と鼻の先でうろついてやがんだ。もしかしてバカなのか、おめぇはよ?」

 そのうち来ると思っていた。
 芒が小幕こまくを血眼で捜しているという噂は、ずっと耳に入っていたからだ。

 先日まで身を置いていた蕎麦屋には博徒『一雁組いちがれぐみ』の息がかかっている。
 小幕が男娼で稼いだ金は、彼らと蕎麦屋の主人が上前をはねて、自分自身のもとにはほとんど入らない。
 最低限の衣食住、そして、この街で生きていても構わないという、言うなれば生存の許可を得るための支払いである。

「べつに逃げてませんよぉ。蕎麦屋の件は、嫉妬した奥さんが刃物を振り回して、止めてるうちに僕が刺したみたいになっちゃったんですって。向こうもそれをわかってるから追ってきませんし」

 笑顔の仮面をつけて、上目遣いに彼を見あげた。

「それに、男娼をやるのは今年の春までだって、親分さんと約束したって言ったじゃないですか。それをご主人が反故にしようとしたから、ちょこっと揉めただけで。僕だって円満退職したかったのになぁ」
「親父の布団んなかで、その気持ち悪ィ喋り方で媚びて、魔羅をねぶりながらした約束か? んなもん無効だって言ってんだろ。もう年季はなくなった。死ぬまで女郎として使えと蕎麦屋に命じたのは俺だ」

 まだ下っ端のはずの芒がここまで強気でくるということは、博徒の親玉は成長した小幕に興味を失くしたのだろう。
 数年前まではしょっちゅう呼びだされていたが、年を経るごとに頻度は減って、この一年はほとんどお呼びがなかった。
 無論失くしてくれたほうがありがたいのだが、小幕の始末を芒に一任されたあろうことはだいたい想像がつく。

 芒にさえつけ狙われていなければ、用済みとしてさほど頓着されずに抜けられたはずだった。
 奴らの縄張りである浅草を出ればよかったのかもしれない。
 だが、桜蒔のいない場所で生きていても意味がない。

 それに自分だけ逃げたところで、代わりに大事なひとたちを狙ってくるのもわかっていた。
 芒はそういう奴なのだ。肉体だけではなく、精神的に小幕をとことん痛めつけないと気が済まない。
 思わず舌打ちが漏れそうになった。
 
「じゃあ、また刺して逃げようかな? てめぇを」
「物騒だなァ。新しいお仕事を紹介してくれた文士だかの偉い先生に迷惑かけんなよ? おめぇはガキん頃からあのオッサンに付きまとってたよな。新しく雇われた不気味な家もうちのシマだぜ? あそこに幽霊以外が住んでたとは、笑える」

 今日見つかったわけではなく、もっと前から嗅ぎまわられていたようだ。
 いなくなった小幕の近辺を調べ、弱点をさらってから満を持して目の前に現れた。
 たいしたシノギにもならないだろうに、この執着はなんだろう。

 口調を戻し、にこやかに答えた。

「連れ戻しても、もう限界ですよ? 男娼の花盛りは過ぎちゃいました。僕、じつは結構骨とか太いし、今まで慎重に削ぎ落してただけで、ほんとは筋肉つきやすいんですよね~。最近はいっぱいご飯食べさせてもらえるから、背丈もまだ伸びるかも」
河岸見世かしみせと同じで、需要なんかあるとこにゃあんだよ。ほら、今晩の客だ」

 走り書きの紙切れを渡される。
 場所と客の名前。
 何度か相手をしたことがある。嗜虐しぎゃく趣味の変態親父だ。
 
「作家先生が大事なら妙な気ィ起こすなよ。『浅草の子供たち』は一蓮托生だ。足抜けできるのは死んだときだけ。それまで、生きていることの罰金をきっちり払い続けな」


 ***


 牡丹荘に瓦斯がす七輪しちりんなどというハイカラな設備はない。
 かまどの火で揚げ物をするには、慎重に油の温度を調整する必要がある。
 馬鈴薯ばれいしょを潰したものを俵型に丸め、メリケン粉と溶き卵と天日干しで作ったパン粉をまぶす。狐色になるまでからっと揚げる。

 筍と絹莢きぬさやの煮物は先に作っておいたので、味が染みている頃だ。
 おひつにご飯を入れ、料理と食器を食卓に並べた。

「よし、ぜんぶうまくできた。待ってるって言っておいて、揚げたてじゃなくて申し訳ないけど……」

 完成した夕飯に布製の蝿帳はいちょうを被せる。
 用があって出かける旨を一筆書いて、残しておいた。

 そのうち売っ払おうと思っていた振袖や化粧品をふたたび引っ張りだし、身支度をする。

 前は毎日の習慣だったから、じっくり眺めることはなかったが──
 数週間ぶりに女装した自身の姿を鏡に映すと、若干の違和感を覚えた。
 ほんの一、二年前なら、初見の相手には男だとばれない自信があったのに。

「顔は、まあ……お化粧すればまだ可愛いかな。肩まわりがなぁ~」

 やはり体格の変化は大きい。女物では身頃みごろと袖の境目の位置が大きくずれる。
 今日は暖かいのだが、陰間らしく振袖のうえから羽織を着て誤魔化すことにした。

 牡丹荘を出て、まずは六区のミルクホールに向かう。
 桜蒔がなにもされていないかの確認だ。

「オージさん♡」

 後ろ姿を見つけて抱きつくと、鼻先を赤茶の猫っ毛がくすぐった。
 
「あー、くっつくな」
「一度もお見舞いに来てくれないなんて、冷たいじゃないですかぁ」
「行ってもできることないじゃろ」

 まったく予想していたとおりの返答があって、思わずにんまりしてしまった。
 桜蒔は筆が乗っているようで、いつになく上機嫌だ。
 
「悩んどった次の脚本、ようやく固まってきた。『ドラキュラ伯爵』を翻案しようと思っとってのう」
「どらきゅら? なんですそれ」

 文学などよく知らない。
 でも、彼の話ならなんでも聞きたかった。

 こう見えて日本一頭のいい学校を卒業しているらしいが、皮肉屋のわりに桜蒔から馬鹿にされたり、見下されたことは一度としてない。
 わざと知識をひけらかすこともないし、えば小幕にもわかるようにちゃんと教えてくれる。
 働くうえで困らない程度の読み書きができるのも、桜蒔のおかげだ。

 権威や世間の評判に興味を持たず、自分の目で見て、頭で考えた物事でのみ判断する。そして自分の芸術を追求し、自分の好んだ相手のみを愛でる。
 べつに桜蒔が本当に冷たい人間だとは思っていない。ただ、自分の物差しが明確だからそう見えるだけだ。

 そういう人物だからこそ、浮浪児の掏摸なんかをまともに相手にしてくれたのである。
 これまで受けてきた視線は、蔑みか憐れみのどちらかだった。誰も小幕がどう感じて、どう考えて生きているかを見ようともせず、誰も同じ人間だと思っていなかった。
 小幕の人格を初めて認めてくれたのが、桜蒔だ。

 彼が脚本を担当している舞台、活動写真は劇場に忍び込んだり、なけなしの生活費をはたいて観に行った。
 あの頭のなかではいったいどんな物事が起こっているのだろう。なにもかも知りたかった。
 付きまとって、いろんなことを尋ねて、話をした。

 そのせいで、桜蒔が隠していたつもりだった残菊への深い愛情にも早々に気づいてしまったのだが。

 力を込めて、後ろからぎゅっと抱きしめる。
 幼い頃の小幕にとってあんなに大きかった体が、今は腕のなかにすっぽり収まるほど小さい。

「……ほんで、なして女装しとるん?」
「似合いますか? 可愛いですか?」

 正面に立って平然と振袖を見せつけたが、その視線にわずかな失望が含まれているのは気づいていた。
 せっかくちゃんとした仕事を紹介してくれたのだから、呆れられて当然だ。

 狐のお面みたいに鋭い、一見なにを考えているのかわからない目。色つきの眼鏡がよけいに感情を覆い隠す。
 でも、その奥に隠れた瞳は、明るく澄んだ茶色をしている。

 いつもぶかぶかの羽織を着ているのは、締めつけられるのが嫌いだからだ。
 男にしては小さめの手が指先だけ覗いていて、だいたいの場合、万年筆か煙管きせるが握られている。

 左手で綴られるせっかちそうで流暢な文字も、紡がれるロマンチックな物語も。
 西の訛りが混ざった早口の巻舌も、年齢にしては幼くて出会った頃とそう変わらない声と顔も。

 ぜんぶが好きだった。
 十年以上、六区で毎日姿を捜し求めてきた。
 こうして、興行街のどこかに存在していてくれるだけで幸せだった。

 ──素直に、そう言えればいいのに。

 でも、こんな恰好で伝えられるはずもない。
 新しい道を示してくれたのに、その厚意を裏切っているのだから。

 せっかく親身になってくれた百夜ももやたちに対しても罪悪感を抱えながら、心の奥底を隠すために無理やり笑顔を張りつけた。

「常連客から呼び出しがありましたし、夜のお勤めをしてきます!」

 柄だけは豪華な袖を振って、店を出る。
 桜蒔とは反対方向に大通りを進むと、道端にしゃがみ込んで待ち伏せしていたらしい大柄な男が隣にやってきた。

 小幕がちゃんと仕事・・に向かうか確認しにきたらしい。
 芒は勝手に並んで歩きだし、挑発的に言う。

「今日の客、相当な変態だよなァ。毎回ぐちゃぐちゃにヤられてるが、大丈夫か?」

 そんなことは百も承知のくせに。
 自分で斡旋しておいて、白々しい。

「べつに、なんとも思ってませんよ。心は無なんで~」
「本当はよろこんでんじゃねェだろうなぁ。あんな年上のオヤジと寝て」
「やめてくださいよぉ。反吐がでる。金を引っ張れる相手なら、誰でもいいです。今の状況から早く抜け出したいので」

 どうせ拒否権はないのだ。客なんか誰でもよかった。
 それより、今回の分を収めたらしばらく放っておいてほしい。

 早く芒から離れたくて足早に歩いていると、いきなり腕を掴まれた。

「……なんだよ、まだ時間になってないだろ。いまさら逃げやしねぇっての」

 つい、昔の喋り方に戻っていた。

「いいから来いっつってんだよォ、こま」

 半ば引きずられ、路地裏に連れ込まれてしまった。
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