華と毒薬

アザミユメコ

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第二章 乱れ桜に幕が下りる

エピローグ

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 あれから、数週間が経過し──すっかりと以前の生活に戻っていた。

「飯、うめぇー。おかわりある?」
「はいはい、志千しちさん、どうぞ。百夜ももやさんもちゃんと朝ご飯食べないと、仕事中に倒れちゃいますよ」
「まだねむたい……」
「ほら、お顔洗うの手伝ってあげますから」

 ご飯をよそったり、膝枕から引き剥がしたり、てきぱきと家主たちの面倒を見ながら、平和な日々は何事もなく過ぎていく。
 
 なにか変わったことといえば。
 のぎとその取り巻きがいっさい手出しをしてこなくなった。時折道端ですれ違うこともあるが、目も合わせずに通り過ぎていく。
 戸籍取得の手続きのほうは、銘酒屋めいしやの女性たちも協力してくれて順調に進んでいるらしい。

 あとは、背まで伸びていた髪を切った。
 もう振袖を着るために結うことはない。男娼はしないという意思表明みたいなものだ。
 といっても、みんなしてもったいないと止めてきたため、女子のおかっぱのように顎下まであって男にしては長いのだが。

 そして、自分の体について。
 桜蒔おうじに連れられて初めて大きな医院にかかり、検査を受けた。
 その結果、生まれ持った心臓の病と診断された。
 現代の日本医療では治せない。普段は元気なように見えても、ある日突然爆発するという。
 可能性ではない。必ず起こる未来だ。
 その時間制限がだいたい二十歳くらいだと高名な医者も言っていたから、私娼窟にいた産婆の見立ても馬鹿にならないものだ。

 残された時間がいつまであるのかわからない。
 本当は寂しがりやのあの人を置いていきたくはないけど、自分がいなくなっても、きっとひとりぼっちではない。彼には家族だっている。

 まだ死ぬ実感が湧かないからだろうか。
 不思議と怖くはなく、ただ静かな気持ちで過ごしていた。
 毎日美味しいご飯を作って、家を掃除して整え、家主の青年たちを送り出し、迎え入れる。
 炊事や人の世話は自分の性に合っていたし、満ち足りた気分だった。

 やり残したことはないのかと、自問自答もしてみた。
 だが、当たり前に虐げられず、奪われず、否定されず、大切に扱われるこの暮らしがすでに──人生に望んでいた以上のものなのだ。

 桜蒔は新しい脚本の方向性が定まったからか、近頃とても忙しそうにしている。
 時折この家に寄ることもあるが、だいたいは百夜か志千に台詞や構成の意見を聞きにくるだけで、用が済めばさっさと帰っていく。
 百夜に「もっと拗ねたほうがいいぞ」と言われたが、じつはさほど気にしていなかった。

 もっとふたりでいたいとか、構ってほしいとか、案外そういった気持ちは湧いてこない。

「なんだか、燃え尽きちゃったのかなぁ……」

 お茶を淹れながらつぶやいた独り言に、志千が反応した。

「お、両想いになった途端? まさか、落とすまでが楽しかったとかそういう感じ? 魔性じゃん」
「違いますよぉ。単に、気が抜けてるだけっていうか」

 自身に刺さっていた様々な棘。
 これまで棘の痛みと戦いながら生きていたのに、失くしたら失くしたで戸惑ってしまっている。

 あんなに焦がれていた桜蒔とも、以前の距離感に戻ったような気がする。

「あれ? これほんとにただ戸籍上の弟になるだけ?」

 いいのかそれで。
 残り少ない時間を、もっと情熱的に使わなくても。

「う~ん……でもなんかオージさんも、ずっとひとりで忙しそうにしてるしぃ。あっちこそ僕のこと忘れてるんじゃないかな~」

 今度は百夜が、手渡された茶を一生懸命に冷ましながら言った。
 
「心配するな。先生は薄情なようで、一旦自分の懐に入れたら、徹底的に囲い込んで溺愛する質だからな。あまり舐めていると、いきなり驚かされるぞ」

 時計を見あげ、志千が湯呑みを食卓に置いた。

「そろそろ行くか。俺は夜の部まで出演するから晩飯はいらない」
「おれは次作の打ち合わせだけだ。夕方には帰る」
「はあい、わかりました」
「じゃあ家のことは頼むな、こま──」

 言いかけて、言葉をつぐんだ。

「悪い。つい小幕こまくって呼んじまう」
「今までどおりでいいですよ。僕は僕なんで。はい、お弁当どーぞ」

 もう名前に縋る必要もなくなったから、どちらでも構わない。
 ここにいるだけで、自分は自分でいられる。

 青年たちの仕事にいく準備が整い、送り出そうとしたところで──
 玄関から、聞き慣れた声がした。

「うい、邪魔するでー」
「オージさん!」

 赤髪を揺らし、桜蒔が戸を引いて居間に入ってきた。

「よお、先生。俺らもう家を出るぜ」
「あー、時間は取らせんけん、報告だけ聞いてけ」
「報告? なんだ?」

 すでに上着を着ていた志千と百夜が食卓の前に座り直した。
 自分には関係のない話題だろうと最初から決めつけて、少し後ろで桜蒔のために新しい茶を注いでいたら、いきなり驚愕の発言をし始めた。

「わし、もっかい亜米利加あめりかに行くことにしたわ」
「え」 
「は!?」 

 百夜たちが声をあげる。

「……えっ」

 湯呑みから茶が溢れても手が止められない。息が喉に詰まって、絶句してしまった。

「あ、旅行か!? そうだよな!?」
「いや、長期で。しばらく移住する」
「しばらくって」 
「さあー、たぶん一年以上? いつ帰れるか未定じゃ」

 こちらの様子にも頓着せず、桜蒔は平然と話を続けていく。

「蝶子さんはどうするんだよ?」
「連れていくに決まっとるじゃろ。尋常小学校を出たら女学校に入れる予定じゃったけど、よう考えたら日本の良妻賢母教育なんか、いまさらお嬢には要らんのよな。向こうのほうが女子教育は進んどるし、もっと勉強したいって希望しとるけえ、本人のためにもそっちのほうがええ」

 それらしい会話をしているが、ほとんど耳に入ってこなかった。
 以前のようにいつのまにかいなくなるのではなく、ちゃんと報告してくれるだけ待遇は変わったのかもしれない。

 でも、だからといって、納得いかないのは贅沢なのだろうか。
 平和だからこのままでいいかなんて、悠長に構えていたのは自分だけだった。

「仕事は? せっかく劇作家として脂乗ってんのに」
「また洋行して本格的な映画を学び直したいってのは、わしもずっと前から考えとった。べつに日本におらんでも書けるし、船便でもやり取りできるしな。もも主演の脚本を他の作家に譲る気はさらさらない。きっちり書き溜める予定じゃけえ、心配すんな。出発もすぐじゃなくて年明けじゃ。それまでに仕事はちゃんと残していくって」
「ん~、先生が抜かりねえのはわかったけど、でも……」

 志千が心配そうな表情で、こちらをちらっと見た。

「あ……」

 指が震えて、急須が盆上に落ちた。
 陶器のぶつかる音と、こぼれたお茶の水音。

 以前のように、笑えばいい。
 客たちに褒められてきた愛らしい笑みを浮かべ、なんでもないことみたいに「わかりましたぁ。寂しくなりますね」と。
 それだけ発すれば、困らせずに済むのに。

「ああ、こいつがおらんあいだは、代わりにうちの通いの女中をこっちに来させる。おどれらの飯は心配すんな」
「べつに飯の心配してるわけじゃ……えっ、つーことは」

 桜蒔が立ちあがって、背後に回ってきた。
 後ろから抱きしめられて、切ったばかりの髪をくしゃくしゃと乱される。

「おどれの心臓は、亜米利加なら手術できる。年内に戸籍取って渡米の準備したり、有名な外科医の予定押さえたり、ってな感じで、いろいろせんといけんけえあと半年くらいはかかるけど、無理せず元気で待っとれよー」

 固まって動けずにいると、今度は百夜が首をかしげて尋ねた。

「手術云々も初耳なんだが、とりあえず……いっしょに連れていくってことで、合ってるか?」
「そりゃそうじゃ。こいつのために行くのに。出発までは今までどおりここの女中として置いとくけど、あんま酷使したらわしが怒るで」
 
 視界がぼやけて、温かい液体が頬を伝っていく。

「なして泣く!?」
「だ、だって、ずっとこのまま平穏な日が続いて、幸せだからもう死んでもいいかなぁなんて思ってて……」
「いや、死ぬな死ぬな! 勝手に死ぬな、阿呆か!」
「そしたら急に、もっと幸せな先があるって言うからぁ」
「ほんまに阿呆か! こがいなもんはまだまだ序の口じゃ。死んでもええって考える余裕なんか永遠に訪れんくらい、未来は続くし、世界は広いで。わしを誰じゃと思っとる? このまま日本だけで終わる気ィはないけん。『世界の小山内桜蒔』に選ばれたってのがどういうことか、いちばん近くで一生見せちゃるわ」

 手を引かれて、立ちあがった。

「どこまでも連れていくけん覚悟せえよ、サクラ」

 悪戯っぽく、幼さの残る表情で笑う。
 自分より少し背の低い、赤茶色の瞳に射抜かれて──

「──はい!!」

 少しも繕うことのない笑顔が自然とこぼれた。

 ふたりの時間は、続いていく。






【第二章 乱れ桜に幕が下りる】 了
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