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米と麦

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6.交渉(Ⅰ)

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 (さて、どうしたものかしら。)

 クラリスはカミラを横目で見やりながら悩んでいた。あの日から数日、特に目立った動きはない。今のところフローラにちょっかいも出してないようなので少し安心しているが、早くしないとまた次のイベントが起こってしまう。
 あの食堂の一件は、間違いなくゲームイベントの一つだろう。カミラは確かに嫌味な女だが、稚拙ちせつないじめをするような馬鹿ではない。むしろ公爵令嬢としての誇りを持ち、どんな時も淑女として恥ずかしくない振る舞いのできる聡明さを持ち合わせた人間だ。それがどうもフローラがやってきた頃からおかしくなり始めたのだ。人々はみな、嫉妬が彼女を狂わせたのだと噂した。クラリスも「恋とはこうも人を盲目にするのか」と驚愕したものだ。しかし、今なら分かる。

 (ゲーム補正が入ったわね。)

 おそらくエリオットもだろう。このゲームが盛り上がるように、ヒロインにとって最高の舞台になるようにとシステムから操作が入るのだ。たとえ己の意思と反するものでも、逆らえない仕組みになっているのだろう。世界から干渉されるとは、まったくとんだ茶番である。決して人を笑えない立場にいるクラリスは、思わず苦虫を噛み潰したような顔になった。
 ゲームの進展を回避する為に、まずはカミラに接触を試みたいが、いかんせん派手にやりあったばかりである。しかも喧嘩をふっかけたのは自分。謝ろうにもあのカミラが素直に話に応じるとは思えない。どうしたものかと考えあぐねているうちに、今日もまた終礼が鳴ってしまった。仕方なくとぼとぼと図書室に向かう。いつもの癖だ。
 図書室は北校舎一階の一番隅に位置する。日当たりはあまりよろしくないので、夕方は少し薄暗く寂しい雰囲気に包まれている。クラリスがゆっくりと戸を開けると、そこにはすでに先客がいた。ハワード=スタンフォードである。彼は本から顔を上げこちらを向いた。

「やあ、クラリス。久しぶりじゃあないか!」

 嬉しそうに顔をほころばすと、切れ長で少し冷たそうに見える瞳も、目尻が垂れて柔和な印象になる。

「久しぶり、ハワード。会えて嬉しいわ。最近色々あってなかなかここに来れなかったの。」
「そうだったのか。毎日ここにやって来る君がここ数日は姿を現さないから少し心配したよ。おまけに最近、妙な噂ばかり聞くし。」
「噂?」
「なんでも君が実はとんでもなくとんちんかんだとか、最近学園中を調べまわっているとか、しまいには君が黒魔術師に取り憑かれて学校を乗っ取ろうとしてるなんていう話まで聞いたぞ!?」

 ハワードが険しい顔でこちらを見る。ひ、飛躍している……どうやらあの噂に随分とおひれはひれがついたらしい。黒魔術師などは空想もいいところである。

「ず、随分すごいことになってるのね……安心して、どれも根も葉もない噂話だから。」
「黒魔術師に憑かれた者は皆口を揃えてそういうんだクラリス!ああ、僕は心配だよ……いったい何があったというんだね。」

 まさかハワードまで噂を信じるとは、しかもよりによって黒魔術師の方を。意外と信用されてないのだなと思うと、少し悲しくなってしまう。いや、ただ単にハワードがお人好しなだけだと思うことにしよう。クラリスは適当に話を誤魔化すと、本棚の方にさして読む気のない本を探しに行った。
 今日は魔法学の本にしよう。奥の方にある学術書コーナーからちょうど良さそうな本を手に取って席に戻る。とりあえずページを開いてみたものの、元々あまり読むつもりもなかったので、いまいち内容が入ってこなかった。今、クラリスの頭の中はカミラのことでいっぱいだった。あまりうかうかしていられないのに、彼女に近づく口実がない。一体どうしたものか…

「その本はつまらなかったかい?」
「え?」
「全然ページが進んでいない、おまけにさっきから溜息ばかりついているじゃないか。」

 ハワードが苦笑しながら問いかける。どうやら無意識に溜息までしていたらしい、クラリスは少し申し訳なさそうな顔でハワードを見る。

「ごめんなさい。実はちょっと憂鬱なことがあって…」
「ほう、なんだろう。人見知りな君のことだ、来週の遠足のことでも考えていたのかな?」

 そう、二年生は来週に遠足と呼ばれる行事が控えている。正式名称は「二学年次野外学習」なのだが、少し遠くの湖とその近くの城下町に出かけるだけの、いわばお遊びみたいな行事なので、生徒達は遠足と呼んでいた。もっとも、貴族学校なだけあって、徒歩で目的地に向かうことはないが。
 遠足といえば、当然クラスメイトや友達と仲良く回って楽しむものである。つまりこれは、友達のいない可哀想な連中にとっては、一日中居場所がなく惨めたらしい気持ちで過ごす、地獄のようなイベントなのだ。おそらくハワードは、友達の少ないクラリスがそれを気に病んでいると思ったのだろう。しかし実際は違った。

 (湖に城下町……ゲームイベントとしてはうってつけの場所ね。)

 きっとフローラとエリオットは何かしら行動を起こすだろう。たとえ彼女達が望まなかろうと、世界がゲームを前提に回っているのだから、どんな偶然を装ってでもことは起こるのである。
 いったいどちらで発生するのだろうか、もしくは両方……?そう考えるともう頭が痛い。なんとかしてカミラの気をフローラ達から離せられればいいのだが、生憎彼女とは喧嘩中の為、一日中くっついているのは難しい。色々考えてみるものの、これといった手立ては思い浮かばない。

「君が嫌じゃなければ、いつもみたいに僕のところに来るといい。学年委員の仕事が忙しい時もあるかもしれないが、ずっと縛られることはないだろう。」

 クラリスの悩みなどつゆ知らずに、ハワードは優しく言葉をかける。彼なりにクラリスを心配しているのだろう。見当違いとはいえその心遣いはありがたいもので、思わず気分が上がってしまう。

 (……って!!だから私もハワードから自立しなきゃダメだったでしょうが!!)

 心の中でツッコミを入れる。危ない危ない、うっかりまたハワードに依存するところだった。これは己の成長を促す為にもカミラに接触するしかない。

「お気遣い嬉しいわ、ハワード。でも私、お友達になりたい方がいて、今回はその方をお誘いしてみようと思うの。」
「む、なんだ急に。……もしやクラリス、君、お、お、おおお想い人でも出来たのかい!!??」

 急にハワードの顔に焦りが見え始めた。これはもしや……と思ったのもつかの間、

「一体それはどこの誰なんだね!?学年、クラス、名前、身長、髪の色に瞳の色、それに足のサイズも確認しておこうか!!……ああ、僕は嬉しいよクラリス。周りにてんで無関心な君が、初めて他人に興味を持ってくれたのだから……できれば最初は女友達であって欲しかったが、この際男でも構わん!!君が初めて自分から人に心を開いた、素晴らしい機会なのだから、僕はその変化を心の底から祝おうじゃないか!!…………ただ、いかんせん君は世間知らずなお嬢様だ。うっかりろくでもない男に引っかかってしまったらと思うと……ああ、もう僕は兄とし……友人してっ!!とってもとっても心配だ!!!!さあさあ!!早くその殿方のお名前をこのハワードに教えてくれたまえ!!」

 ハワードが身を乗り出してまくし立てる。相当気分が高揚しているらしい、図書室だと言うのに大きな声で喋るものだから急いで周りを確認する。幸い、周囲には誰もいなかった。
 興奮する彼とは対照的に、クラリスの気持ちはみるみる落ち込んでいった。

 (ぜんっっっぜん、私を女としてみてないのね、ハワード。)



 多少なりとも彼がやきもちを焼くのを密かに期待した自分が恥ずかしい。この男ときたら、自分を一女性としてまったく捉えておらず、あまつさえ自分が兄だと言わんばかりの気持ちでこれまでクラリスに接してきたのだ。

 (……いや、言ってたわね。はっきりと兄って言いかけた。そしてものすごい早口で友人って訂正してたわ…)

 もしフローラがハワードルートに入っていたら、懸想するのは自分の方からだったのだろうと悟る。まあ基本、乙女ゲームはライバル側が攻略対象に固執しているものなのだが、逆パターンのカーティスの例があったのでちょっと期待してしまった。今はまだ、ハワードに対する恋愛感情など毛ほど持ち合わせてないが、フローラが入ってきたら突如芽生えるのだろうか。
 妙にやるせない気持ちになったのを押し隠し、にこりと微笑む。

「違うわよハワード、わたくし、クラスの女の子でお友達になりたい方ができましたの。」
「おお!なんだ女性か。……すまない、君が急に珍しいことを言うから一人で勝手に先走ってしまったよ。……それで、その方は誰なんだい?」
「カミラ=ローゼンヴァルド様でしてよ。」
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