異世界オメガ

さこ

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「嫌ですよ。どうしてオレがアンタに攫われなきゃならないんですか」
 間髪入れず答えた隼百はやとにトルマリンが目を丸くしている。
「嫌なの? 何で?」
「……何でって」 堂々としている相手に戸惑ったのは隼百の方だ。「え? オレとしてはトルマリンの方が不思議なんだけど……いやだから不思議そうな顔するなよオレが間違えてる気がしてきた。攫うって言われたら普通断るよ」
「俺は君は断らないって確信しているよ」 
「その自信はどこから来る」
「だって隼百君はいつまで経っても来ない待ち人から逃げたいんだろう?」

 ……待ち人なのに逃げたい? 

「……来ないなら逃げる必要ないだろ」 モヤッと不愉快になった自分の感情がどこから来るのか分からなくて、隼百は眉間に深い溝を作る。「オレは誰も待ってない」
「本当かな」
「くどい。オレはハズレの異世界人だろ。こんな都会に知り合い居ないのは知ってるよな。待つにしろ逃げるにしろ、一体誰からだよ? ああ、オレには分からないけどトルマリンには分かるんだ? オメガとか何とか思わせぶりに匂わすならてめえの知ってる事実をはっきりきっぱり教えろってんだよ間怠まだるっこしい」
「苛々してるなあ」
「するだろ! こんな不毛なやり取り仕掛ける方が悪い。だいたい、まだポイントも溜まってないのに……おい笑うな」
「いやいや、いつになく隼百君が素で接してくれるのが感慨深くてね」 喉の奥で笑うトルマリン。「ポイントって?」
「……御自分で仰った事ではありませんか」
「あははごめんごめん。俺が悪かったから心の距離が開いたって意味で敬語使うのは止めて? で?」
 隼百の苛立ちを軽く受け流して先を促す。
「……オレが死んで、腕時計が巻き戻ったらペナルティとか言い出したのはそっちだよな。3ポイント溜まったら攫うって。でも今回あの時計を起動させたのは館長だ。まだ1回分残ってる」
「ああ。よく覚えてたね。でもここから逃げたいのは君自身だからノーカンで構わない。責任持って攫ってあげるよ」
「は、あっ?」
 相手を睨もうとして、隼百は意表を突かれた。
 トルマリンの態度はどこまでも胡散臭い。
 なのにその目は予想外に真摯で、心配の色が濃かった。

「俺は君をここに置き去りにしても良いのかな?」

「……え?」
 隼百の瞳が揺れる。何故だか苦しくなった。心臓をぎゅっと握られたみたいに。
「君は理由も分からないのにここに居たら駄目だと感じてる。もっと言えば、怖いんだろう? ──違う?」
「……なん」
「何でわかるんだって? こっちは場数を踏んでるからさ。いくつもの運命の対面を見てきた経験がある。……時々るんだよね」 腕を組んで記憶を思い返すように垂れ目を彼方に向ける。「自分の相手に恐怖する子が。考えてもごらん。臆病で感受性が強い子の目の前に突然、自分に大きな影響を与える相手が現れる。そいつは自分をまるごと作り替えるような存在だ。そうそう受け入れられるものじゃないよ。……まあ君のケースは特殊だけど。って馬鹿にしてるように聞こえたらごめんね。でも今の君はあの名誉アルファを相手にしていた時より余程、怯えてるように見える。でもそれは恥ずかしい事じゃない。君が怖いと感じるのは正しい反応なんだ。ならトコトン逃げるのもアリだよ」
「……」

 場数って、運命ってなんなんだよ。つかナチュラルに人を子供扱いしやがって。黙っていれば延々と語り続けるトルマリンを止めたいが、迂闊に喋ると墓穴を掘りそうで言えない。
 ……墓穴?
 何でオレ、墓穴って考えたんだろ? 隼百は自問自答する。オレは怖がってるのか?

 指の先が冷えて身体は震えてる。……怖い、かも。
 息を吸って、吐く。何で怖い? ……わからない。わからないのに怖い? 嫌になって思考を投げかけて、歯を食いしばる。
 落ち着け。トルマリンにどんな経験値があるか知らないが、こっちだって少年少女なんかじゃないおっさんだ。伊達に人生経験積んでない……自信無いな。いや経験値が貧相でも知識ぐらいはある。
 こういうものは大抵、わからない事こそが怖さの原因なのだ。案外原因が判ってしまえば大した事じゃなかったりする。幽霊の正体見たり枯れ尾花って諺があるぐらいだし。
 大丈夫。……うん。平気。

 生来の負けん気が、隼百を自分の内面と向き合わさせる。
 ソレは覗いではいけない。覗くな。──本能が告げるのを意志の力で捻じ伏せて深淵を覗き込む──。

 ふっと。頭に浮かんだのは人の形だった。男の姿。

 え?
 びっくりした。何で男。
 それ以前に本当に『何か』が思い浮かぶとは考えてもなかったから動揺する。ばくばくと五月蠅く脈打つ心臓が、吃驚したせいなのか『彼』のせいなのかわからない。
 泣きたいぐらい懐かしくて、同時に全然知らない人だって思う。

 だって、夢の中ですら背中しか見てない。顔もわからない。
 ──そう。そうだ。その男の姿は夢で見た。
 会ったんじゃない。見た。

 声だって知らない。
 夢の彼は喋らなかったから。
 背は高い。
 背中は広かった。
 体格よりも隼百にとって印象深かったのは立ち姿だ。
 思い返せば綺麗だった、と思う──目が離せないぐらいに。
 あんな人間、現実にはいない。顔も声もわからない。けど特別だったのだ。あの佇まい。

 芯が通っていて、揺るがない。
 気品? 高貴? 隼百にはうまく言語化できないけれど、人の立ち姿にはその生き様が現れると思う。

 気難しそうで、傲慢そう。
 近寄りがたくて、

 ──寂しそう。

 変なの。
 アレは夢だ。顔すらわからない夢の面影を追って胸が痛くなるなんて、あり得ない。
 どこかからかゴウゴウという音が聞こえてくる。
 胸が痛いのは身体なのか、心なのか。
 わからない。
 ただ、身体の芯を強く揺さぶられる初めての感覚が怖い。

 そもそも怖いって何だよ。それまで生きてきて隼百は『怖さ』を感じた記憶が無い。余命宣告された時だってまず思ったのは両親に申し訳ない、だった。恐怖じゃなかった。
 無謀。命知らず。そんな風に呼ばれてきた。

 でもこの世界にやって来てからは違ってる。
 ただ死を待つだけの身だったのに、異世界に飛ばされて。
 それでも隼百が平静でいられたのは単に、死に場所が変わっただけの事と考えていたからだ。
 諦めていたからだ。

 なのにいつまで経っても死なないし。
 ここに至って自分の中の知らない、触れられたくない部分を刺激されて翻弄されている。
 もうやだ。

「あァ、そっか。攫うって言葉で警戒させちゃったんだよね」 トルマリンが軽く反省している。「安心してくれ。こちらは君の意思を一番に尊重する。君が俺を信用出来ないと考えているならここに君を捨てて帰るし、置いてかれるのも攫われるのも嫌で、でも信用してくれるなら責任持って自宅に送り届ける。忠告するけどあの不用心な住処に戻るよりは俺に攫われた方が安全だよ」
「だから単語のチョイスがおかしいって」 どうしてそこまでしてくれるんだろう? 「どうしてこの場所を基準に喋ってんだよ?」
 隼百が聞いたのは胸に抱いた疑問とは別の事だった。
 トルマリンは聞きたい事を聞いたからって答えてくれるとは限らない。
「先に言ったろう? ここは俺の敵の本拠地だ。けれど君にとっての敵とは限らない」
 ほら。また謎めいた台詞を言う。

 でも行動の根底に何らかの意図があるにせよ、トルマリンは隼百の意思を最大限に尊重してくれている。
 それは解る。
「……ごめん、むずかしい」 でもそれ位しか解らなくて、しょんぼりと返す。「オレはどうすれば良い?」

 許容量を超えて思考を放棄した隼百にトルマリンが苦笑する。
「君が安心できる方を。思考の誘導はしたくないんだけど、本気で運命から逃げたいなら俺に攫われるのが良いよ。多分」
「多分って」
 隼百は笑い飛ばそうとして失敗した。

 ──ゴウゴウ、と音が煩い。聞こえるのは自分の中からだ。血の流れる音。心臓の音。

「悪いけれど、多分としか言えないんだ。確約は出来ない。運命ってのは人の手で簡単に操作出来るようなモノじゃなくてね」 隼百から見れば万能の力を持っているトルマリンが、それを言う。「だから思い通りにはいかないって覚悟だけはしておいてくれ」
「……前から気になってたんだけど」 隼百は腕を組んで、震えそうになる身体を誤魔化す。「アンタはよく運命って言うけど運命の番ってアルファとオメガの話だろ? オレに使うのは大袈裟でこそばゆい」
「いや? ベータだろうが何だろうが、君がここに来たのは運命だよ」
「……だからオレは」
「運命は大袈裟な言葉でもないし珍しくもないさ。この世界ではね」
「……この世界では?」
「そう。この世界は強い運命を持つ者を呼び寄せる『場』に成っている。最初は人の意図があって始められたものだけど、今は制御出来ていない」 ──ここに来て、隼百は散々聞かされてた『運命』という言葉の意味を自分が正確に理解してないって事に気が付く。ところでトルマリンは話しながら手遊びのように隼百の頭を撫でている。多分、無意識で。普段やってる動作なんだろうなあ……アンタの子供じゃないと突っ込むべきか? 「ひとつの世界に一桁いるかどうかっていう確率の運命の番がここではその辺に転がっている。ベータなのに界を越えて来た君が運命でない訳がないよ。──で、どうする? 君は俺の言葉の意味がわからないだろうけど、俺は君が必要とするなら手を貸すって決めてある」
「……え?」
 あんまり話を聞いてなかった。
「ここに残る? 自宅に戻る? 俺と行く? どうしたい?」
「い、行く」
 畳みかけるように問われ、焦って答える。

「……うん」 ふ、と満足げに笑ったトルマリンは隼百の目を覗き込んで問う。「つまり、攫われるって事で良いね」
「だから、言い方な! ……お邪魔させて頂きます」 そう告げた後で隼百は視線を頼りなげに彷徨わせる。「久々に仲嶋さんにも会いたいし」
 トルマリンは満足げに笑う。
「ほら、断らなかった」
 ──と。

 視界の端で、誰かが走り出した。

 けど振り向くと姿が無く。
 目の錯覚か? と本来居るはずの場所に視線を向けたが、居ない。
 首を傾げた隼百は最後にエレベーターホールを見た。ここは地下駐車場の中。出口は限られているからだ。

 果たしてそこに向かって走る元館長の姿を見つけた。

「ああ、逃げたね」
 やけにのんびりとトルマリンが言う。隼百は彼の姿がエレベーターの中に吸い込まれるのをぼうっと見送ってしまう。
「……あの人、走れたのか」
「巻き戻りを繰り返す今の彼の状態は『負傷前』だからね。動く分には支障はないよ。……にしたってしぶといよね。まだ逃げる気力が残ってるなんて」
「……凄」
 隼百の感嘆の声は元館長の短距離ランナーばりのフォームに対してだ。年齢を感じさせない切れの良い走りが、言っちゃ悪いが気持ち悪い。
「呑気に感心してるけど隼百君、アレを逃がして平気なんだ」
「え? トルマリンが慌ててないなら別に。どうせ何か対策してあるんだろ?」
 時間を操るような非常識なのを相手にしてそう簡単に逃げ切れないと思う。
「君は」 言葉を選ぶような間。「全然、復讐に興味無いんだねえ」
 物騒な。
「そういうのは被害者でもないオレが持つべき感情じゃないだろ」 至極常識的な事を言ったつもりが溜め息を吐かれる。馬鹿にされた? むっとしつつ、隼百は続ける。「……過去に殺した人に対しての罪は償うべきだと思うけど」
「他人事か。君は充分被害者だよ」
 苦々しげに言われたのが隼百には不可解だ。被害者なんて言われても。
「オレには殺された記憶も無いし、ピンと来ないんだよ。今のところ無事に生きてるし」
「それこそ過去の分の借りもあるだろうに」
「過去?」
 聞き返すとトルマリンはとんでもない事を言った。

「前世だよ。生まれる前の事は覚えてないのかい? 全く?」

 隼百は思わず半歩、身体を後ろに引く。
「……無いですが?」
「あ。可哀想な人を見る目は止めてくれるかなあ。こういう世界だよ。たまに前世を覚えてる人だってやって来る。君の度量なら充分理解出来るだろ」
「あー。はは……。前世の記憶があるって人達はオレの世界にも居ましたよ」
 乾いた笑いを漏らす隼百の眉は無自覚に寄っている。

 自らを偉人の生まれ変わりだと主張する人たちは元の世界にも結構いた。前世という言葉は浪漫を感じるものらしく、前世を知る占いなんてのも一時期流行したものだ。誰を名乗ろうが個人の自由だが、ナポレオンの生まれ変わりが日本語しか喋れなかったりするので隼百は信じてない。

 ──前世の記憶なんて、あんなの妄想だ。

「ああ隼百君、また敬語に戻ってるね」 相手は隼百を老成した瞳で見下ろし、目をすがめる。「異世界に転移してくるのは大半は若い子なんだけど、その理由は判るかい?」
「また強引に話題転換する……」 でもその内容には興味を惹かれた。「年齢制限があるのか。年寄りは少ない?」
「居ないね。人や猿って、年を取ると新しいモノや異物を拒絶するようになるだろう?」
「猿て」
「特に、雄はその傾向が強い。頭が硬いって奴? 価値観が固定するんだよね」
「人と猿を一緒くたに語るのは皮肉か? 暗喩?」
 首を傾ける隼百に構わずトルマリンは続ける。
「召喚ってのはアレでも双方の同意がないと成立しない行為なんだ。喚ばれる側は無意識で選択して来ている。──即ち、自分の持っている全てを捨て去る事。新しい世界を受け入れる事──意識的だろうが無自覚だろうが、そのハードルを越えなければ界渡りは成立しない。実際、君は、異世界転移も、時の巻き戻りですらすんなり受け入れた。その度量があった。大人の雄にしちゃあ許容範囲が広すぎるんだよ」
「……それ買い被りだ。オレは死にかけだからさ。受け入れるって言うより受け流してんだよ」
「受け流すだけの死にかけは召喚で死ぬよ」
「な」
「召喚を乗り越えた時点で君は異質なんだよ自覚しな。ねえ。その君が『前世』だけは常識人ぶって受け流せすに認めないって、不思議だよね」
「……」
「異世界も時間操作も、荒唐無稽なところは『前世』と変わらないよ。どこが違うのかな? ……もしかして前世に嫌な記憶でもある?」
「……」
 押し黙った隼百にトルマリンはふっと興味を無くしたように視線を外す。
「まあ。追求したって気分の良い話じゃ無いか。聞き流して良いよ」

 ……なんなんだ。

 でも何となくそれ以上は追求されたくなくて、言われた通り隼百は聞き流す。
「……えっと。で、結局、追わないのか?」
 元館長が去って行った方向を眺めて聞く。トルマリンは肩を竦める。
「逃げても無駄な事は知っている」

 微妙な言い回しに疑問が湧く。知ってるって、
「どう」 問いを投げかける途中で、ギャッという短い悲鳴が遠くから届いた。元館長の声だ。「……やっぱり」
 手は打ってあるんじゃないか。
 とりあえず危険なシリアルキラーが野放しされなかった事にはホッとする。懸念材料がひとつ減って、隼百は一服したくなる。気が緩んだ──と言うよりも緊張の連続で昂ぶったままの気を鎮めたい。何も持たずに連れて来られたから煙草も無いのだ。自宅には未練無いけど……取りに戻れるかなあ。
「片思いだねえ」
「肩重い?」
 悲鳴が聞こえた方向を眺めて余所事を考えてた隼百の相槌は間抜けだ。意味が分からない。
「だって何度も殺されるほど執着されてたんだよ? なのに当の君は、相手に対して恨みどころか欠片の興味すら持ってない。歪んでるけど立派に片思いだよね」
 反論しようと口を開けて、隼百は考え込む。
「……そう言われると申し訳ない気分になってくる」
「は? いやいや、ならなくて良いから。口車に乗せられやすい子だな」
「かもしれない、ですね」
「かも? ですね?」 と。トルマリンは何か気付いた様に垂れ目の片眉を上げる。「……長居し過ぎたかな。怖いモノが来る前にこの場から立ち去った方が良いよ。行こうか」 差し伸べられた手を隼百は取らない。再度促す。「おいで?」
「……」
 隼百は手を降ろしたままで身動きもしない。覚悟を決めた目がトルマリンを見返す。
「……どうしたのかな」
 問うと途端に気まずそうな顔になった。手を差し出したままじっと待つトルマリンに、隼百は怖ず怖ずと口を開く。
「その。やっぱり残ろうか、と思って」
「……そう来たか」
「悪い」
「ええー。まさか揶揄からかわれて気分悪くした?」 行き場をなくした手で頭を掻く。「俺の吐く戯言なんて流して欲しいんだけどなあって、こういう言動がいけないのかゴメン……でも無理は良くないよ?」
 謝られて隼百は慌てて首を振る。
「こっちこそ、煮え切らない態度でごめん。怖がってるって図星刺されて、動揺して、勢いで行くって言ったけど……何か、さ」
「うん?」
「行くって言った瞬間、思っちゃったんだ。このまま逃げたら後悔するって。ここにいるのは怖い……怖いけど」

 でも、逃げたくない。

 逃げたら可哀想だ。
 ──だれが?
 孤独にしてしまうから。
 ──だれを?

 わからない。
 わからないと考えている隼百の脳裏をよぎるのは夢の背中だ。トルマリンに逃げても良いとなだめられて、逆に負けん気が持ち上がったおかげで思い出した夢……。いや何でそれだよ。
 まさか夢が自分の判断に影響を及ぼしたとは思いたくない。たかが夢。ほんと関係ないし。

「はあ……まあ、君が自分で決めたなら良いんじゃないかな」 呆れたような、突き放すような台詞。いい加減見限られたのだろう。隼百にも解ってる。トルマリンが態態わざわざ攫うなんて言い方をしたのは単純に善意だ。少し考えればわかる。この男は何より自分の家族を大切にしているし、そこに他人の隼百を引き受けるなんて面倒でしかない。もし『攫う』じゃなく『助ける』なんて言われてたら隼百は気後れして即、断ってただろう。ワザと負担をかけない言い方をした好意を無下にしたのだから気を悪くして当然だ。「君は偉いね」
「……偉い?」
 続けて言われた意外な台詞に隼百は目を瞬く。
 褒められた。
「うん。異世界から来た子って基本元気なんだよ。生命力が満ち溢れていて、やる気もある。君は最初から死にかけだったし、大して主張も無い。けど案外、芯が強いんだよね。言い換えれば頑固。今だって逃げだしたいのを必死で我慢してるだろ? 無理しちゃって」
 優しく言われたのが癪で咄嗟に言い返そうとして、結局隼百は項垂れて溜息を吐く。実際、こうしていても怖い感覚は続いていて、思考が纏まらない。
 油断すると逃げないって選択した事を後悔しそうになる。
 今からでも「残る」の台詞を取り消したい。
 やっぱり連れてってくれと言いたい。

 でも、嫌だ。

「……白衣と煙草が欲しい」
「白衣?」
 即座に聞き返されてぽかんとしたのは隼百の方だ。
「誰だ? そんな事言ったの」
 片方の眉を上げるトルマリン。
「隼百君だね」
「……え」
「凄いね。はっきり、くっきり呟いたのに無意識かい? 切羽詰まって無意識に呟くのが白衣? なかなかの趣味だね」
「ちが、ち……違って」
 慌てる隼百だ。自分でも急速に顔面に血が上っていくのが解る。恥ずかしくて顔が上げられない。
 トルマリンが棘がある声を出す。
「ハ……今頃の登場か。お姫様が攫われそうになって慌てて出てきたか」
「はあ?」
 何言ってるんだと顔を上げるとトルマリンは隼百を見ていない。敵意のある眼差しが向けられているのは自分の背後だ──と気が付いて、隼百は振り返る事が出来なくなった。

 特殊能力もない一般人の隼百には、だから人の気配なんて判らない。遠くの足音なんて相当耳を澄まさないと聞こえないのに、その時の隼百にはやけにはっきりと聞き取れた。
 妙な、靴音だった。

 ぱちゅん。ぱちゅん。かつん。かつん、かつ。

 外は雨なんだろうか。どこかで水溜まりを踏んだのか、水気を払うように歩いてくる。

「何故俺が止める必要がある。勝手に攫え」
 ──バリトン。

 どくん。我知らず胸を押さえる。心臓が裂けそう。
「よく言う」 皮肉を含んだトルマリンの声音。いつもの調子のようでいて、どこか違う。「勝手に攫え? ならお前が出て来る場面じゃないだろうに」
「人の敷地で好き勝手してる馬鹿がいるからだろう。迷惑な」

 隼百は緩く頭を振る。
 頭に血が上ったまま戻らない。背後からの、ダイレクトに脳に届くようなその響きが人の声だと理解するのに時間がかかって、話の内容が頭に入ってこない。前後のふたりは剣呑でも会話が成立しているのに。隼百は密かに焦る。オレだけおかしい。どうして自分だけ。

 かつん。かつん。

 靴音は揺るぎない意志を示すように全く乱れない。
 足音だけでもう語っているみたいだ。『面倒事に関わる気は無い』と。
 違う。
 誰もそんな発言してないし。
 ……不味いな。思考が被害妄想気味に走ってる。
 実際のところ、振り返らない隼百にわかるのは足音の主が自分よりもデカイって事だけだ。足音が重いもん。
 隼百は頑なに振り返らない。なのに全神経がそこに集中していて、もの凄く疲れる。

 吐きそうだ。
 臭いのだ。汚物の匂いがする。
 どうして、とか考える気力も無くなってきた。くらくらして、短く息を吐く。

 目の前のトルマリンは不法侵入を咎められても全く悪びれていない。隼百を通り越して、物騒な表情で隼百の背後の男と会話を続けている。
「好き勝手していたのは誰かさんの信者だよ。なんて教える必要は無いよな。もう制裁も済ませたようだし? ……どうせ見てたんだろ?」 監視カメラをちらと見る。「どうして警備員をすっ飛ばしてトップが出張って来たんだか」
「……どうしてだと? お前がいるからだろうが」 苛々とした声がトルマリンを責める。「ベータの門番如きが『電撃のアルファ』に敵うか」
「あははー。その二つ名は恥ずかしいから止めろ」
「──ともあれ、お前は俺を引き摺り出した。用があるなら聞いてやる」
「用は無いな。もう帰るところだし?」
 トルマリンの返答に隼百はえ? と思う。待って。
「なら立ち去れ……待て」 無言で立ち去ろうとする気配に隼百は慌てたけど、同時にバリトンもトルマリンを止める。「ソレは責任持って連れて帰れ」

 ……ソレ。

 隼百の背後を睨むトルマリンの目に剣呑さが増す。
「お断りだね」 と、その視線が隼百に戻った。途端に垂れ目の印象が柔らかくなる。「いつまで俺を見つめてるのさ。それ程良い男かい?」
「……あ、ああ」
 発言に突っ込む余裕は無かった。
 返事をする声がかすれてる。急にこっちに話題を振らないで欲しいと思ってしまったが、別に急じゃあない。隼百に心の準備が出来ていないだけだ。
 覚悟を決めて振り返ろうとした瞬間、肩を掴まれて止められた。
「オイ?」
「少しだけ待とうか。今は見苦しいから」
「……見苦しいって?」
 聞き返したが説明はしてくれず、トルマリンに宥めるように肩を撫でさすられる。何かうなじがひりひりする。背後から強く睨まれている気がするけど気のせいだろう。隼百に察知できるわけないし、背後の男は無言だ。

 耳を澄ます……水音? ズルズルと潮が引くような……
 引き波のような気配と一緒に腐臭も弱まっていく。
 匂いが徐々に消えていき、完全に判らなくなってから隼百は気が付いた。

 ──アレは吐瀉物と血の匂いだ。

「良いよ。見守ってやるから振り返ってごらん……え」
 優しくうながされた隼百は思わずトルマリンの手を取ってぎゅうっと握りしめた。
 心境としては、溺れる者は藁をも掴む、だ。
 直後、
「……バカ。つがいに殺気を当てる奴がいるか」

 どこか呆れた呟きを聞いたのを最後に、隼百の意識は途切れた。

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