吾輩は時々、黒猫である。

やまとゆう

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第1章 僕とボク

#2.

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            *

 見慣れているはずの景色なのに、今日は何故か自分の目に焼きつけたくなって目の前の建物を見上げた。赤っぽい茶色のレンガで組み立てられていて、屋根にはお腹の出たサンタさんでもそこから中に入れるような大きな煙突のある、何ともアニメで出てきそうな建物だと僕はいつもここを見るとそう思っている。ここがいつも僕の帰る家だ。いつも通り少し力を入れないと開かない重いドアをゆっくりと開けた。

 「ただいま、師匠」
 「おう、おかえり」

家に入り、いつも通り挨拶を済ませながらリビングにある椅子に腰掛けた。僕には友達が出来た事は無いが、側にいてくれる「人」がいる。それがこの師匠だ。今日も最近ハマっているという、高校生たちが繰り広げる恋愛をテーマにしたドラマをソファで寝そべりながら見ていた。このだらしない格好でポテトチップスを頬張る師匠は僕が記憶の無い頃から面倒を見てくれているらしい。本当かは分からないけれど師匠曰く、ある日ふらっと寄った夜の公園でベビーカーに乗せられた僕がいたという。そのベビーカーには、

 『どなたかこの子を育てて下さい』

と、1枚の貼り紙がベビーカーの持ち手に貼られていたという。師匠にはそれが運命の出会いに思えたようで、その日から僕の師匠になってくれたらしい。誰にでも喧嘩を売ってそうな鋭く尖った目つきを普段からしている師匠だけど、面倒見が良く、それでいてとても優しい心の持ち主である事は僕が一番よく知っている。今のが本当の話なのか証拠はないが、僕は師匠が嘘の苦手な「人」だという事ぐらいは分かる。師匠の普段の振る舞いからそれは確信している。僕は直感でそんな師匠を信じている。自分の本当の親が、本当の家族がどんなやつかは知らないが、仮にそんなやつらがいたとしても未だに会ったことも無いし会いたくもないし、まぁろくでもない「人間」だということだけは確かだろう。そして師匠が僕の恩人だという事も確かだ。ちなみに師匠という呼び方は、そう呼んでほしいと本人が言っていたからである。師匠も猫になれるわけではない。

 「今日もあの2匹に会えたか?」
 「うん。相変わらずだったよ」
 「そっか。相変わらず元気そうならそれでいいさ」
 「うん、多分元気だったとは思う」
 「小学生の男の子に背骨折られそうだった」
 「マジか! プロレス技でもかけられたのか?」
 「いや、普通に抱きつかれただけだよ」
 「はは! 愛されてるなぁ! 相変わらず!」
 「うるさいな」

師匠は僕の事を何でも知っている。もちろん僕が黒猫になれることも。

 「あぁー、オレも何かになれないかな」

師匠がずるずると体を起こし、両腕をぐっと伸ばしながらそう言った。

 「何かって?」
 「動物だよ。ずっと人間でいるとさ、たまに息苦しくなったりする時があるんだよな。人間って汚い生き物だなぁって思ったりしてさ。それにオレは空が好きだから鳥とかになりたい! カラスになったらニケとも色がお揃いだしな」
 「僕が黒いから師匠はむしろ、白い鳥になってよ。アヒルとかさ」
 「何でだよ、オセロか」
 「ふふ、ツッコミは上達しないね」
 「ボケが弱いんだよ」
 「まぁ人間が嫌だって気持ちは分かる気がするけど」
 「さすがオレの弟子だな! まぁオレはごく稀にそう思うだけだけどな! 普段はお前もよく知ってる超ポジティブ人間だからさ、オレは!」
 「僕がネガティブってのをイジるのはやめてもらえない?」

僕は自分の名前を知らない。師匠が僕を「ニケ」と呼んでいるのは、師匠が僕を見つけたその日初めて僕を見た時、僕の頭にNIKEの帽子が被せられていたからだという。安直すぎるネーミングだけど僕は案外その名前を気に入っているのは本人にはもちろん内緒だ。

 「今日、いつもより早く店開けるから」
 「え? 何で?」
 「今日は稼げそうな気がするんだ」
 「ふーん」
 「おいニケ、まだオレの勘を信じてないのか?」
 「どうだろうね」

師匠とじゃれ合うように話しながら僕は師匠の指示に従って店を開ける準備をする。この家は夜になると「バー」というお洒落な空間に変身する。師匠とどんな出会いがあったのかは知らないが、ここで働く従業員の女の子も5人いる。そして僕も「ボーイ」というポジションで仕事を手伝っている。人とのコミュニケーションを取るのがとても苦手だった僕がボーイに向いていないのは自覚している。けれど、師匠が僕に任せたいと言ってくれたので僕は師匠に恩を返すつもりでいつも働いている。静かな空間に割って入るように入り口のドアの上に設置された鈴がちりんと鳴ってドアがゆっくりと開いた。そこには今日出勤予定だった優子(ゆうこ)が立っていた。その彼女に目線をやると、彼女もじっと僕の方を見てきた。目が合うと僕は反射的に目を逸らした。

 「お、おはよう」

視線を逸らしたまま僕は優子に言った。じーっと優子の視線を感じるが、僕は知らないフリをして雑に置かれていた椅子の位置を整えて気を紛らわせた。

 「おはようございます」
 「あぁ、おはよう優子。相変わらず早いな」

師匠は優子を見てニシシと笑った。いつも通り、大袈裟すぎるくらい口角が上がっている。

 「家にいても退屈なので。私もお手伝いします」
 「悪いな。いつもありがとう」
 「いえ」

彼女にはいつも表情が無い。声の大きさが変わらなければ抑揚なんかも無い。おまけに顔がマネキンみたいに整っているものだから僕にはロボットのように見えている。そういう事もあり僕はこの子を心の中で「ロボ子」と呼んでいる。もちろん心の中だけだ。安直すぎるネーミングは師匠譲りかもしれない。彼女はここで働き始めてそろそろ3年ぐらいになると思うが、僕は未だに彼女とまともに話した事がなかった。

 「な、なら、優子はあそこの席を拭いてきて」
 「分かりました」

こんな感じで仕事の時だけ必要な言葉を交わす。僕が視線を外したまま指示した席を指差してそう言うと、彼女は返事をして流し台の横から雑巾を取ってそそくさと掃除を始めた。いつも落ち着いている彼女はおそらく僕より年上だと思うが、僕は出会ってからずっと敬語で話されている。上手くは言えないが複雑な気持ちだ。そして、何故か僕はこのロボ子が気になっている。好きとかそういう感情が僕にあるわけないが、彼女が近くにいると僕は気付かれないように目で追ってしまう。そしてそのまましばらく見つめてしまう。その理由は自分でもよく分からない。ただ恋愛感情では絶対にない。という風に自分に言い聞かせている。彼女の人間離れした顔立ちと振る舞いに興味があるだけだ。そう、そうやって自分に言い聞かせている。

 「ニケさん」

不意にロボ子に名前を呼ばれた僕は、びくっと肩が無意識に動いた。

 「は、はい」
 「灰皿、この席にください。2つほど」
 「あ、はい」
 「ありがとうございます」

ひとつ、僕は腹の立つ事がある。僕とロボ子が話したりしていると、決まって師匠が僕らの方をじっと見ている。それも口角がやたらと上がってニヤニヤと馬鹿にするようなムカつく顔で見ている。いつもの事だが、やっぱりムカつく。

 「何だよ? 師匠」
 「別にぃ? 強いて言うならニケと優子ってやっぱりどこか似てるなぁと思ってさ」

普段見せるより数段ムカつく顔を師匠は僕に向けた。

 「似てないだろ」
 「似ていないです」

言うタイミングも被ったものだから師匠は堪えきれずに口を大きく開けて笑った。僕は体中の血液が顔に集まっているのが自分でも分かるほど顔が熱くなった。

 「ハハハ! そういうとこだよ!」
 「い、意味分かんないね」

ロボ子に向けて言った言葉に、彼女は何の反応もせずに黙々と掃除を続けた。すると、またドアがちりんと音を鳴らして開いた。そこには、いつも2人一緒にいる風花(ふうか)と真希(まき)が出勤してきた。今日も相変わらず流行に真っ向から逆らっているようなファッションやメイクを身に纏っている。彼女たちから香る甘ったるい香水の匂いが風にのって僕の鼻に届く。油断すればこのまま酔ってしまいそうなほど強烈な匂いだ。

 「おはよう」
 「おはようございまぁす、ちょっと師匠! 真希、もうお酒入ってるんですよ? ヤバくないですか?」

風花が鼻をつまみながら眉をひそめて真希を指さす。当の本人はへらへら笑って師匠を見ていた。

 「いいじゃないですか、人生楽しんだもの勝ちですよ。売上貢献しますから♪」

破天荒、悪く言うなら世間知らずという印象の2人は、今日もいつも通りギャルギャルしている。まぁ僕が世間という言葉の正しさを知っているわけもないから特に何とも思わないが。

 「あぁ、大丈夫だよ。お客さんの分を呑まなかったらな」
 「アハハ、私もそこまで呑兵衛じゃありませんから大丈夫ですよ!」
 「お前は言葉のチョイスが相変わらずジジイだな……。まぁいいや、今日もヨロシクね」

ため息を吐きながらもどこか嬉しそうな師匠は口角を上げて2人に言った。

 「はーい♪  お願いしまーす!」
 「ニケくん、今日もよろしくね!」
 「はい、よろしくー」 
 「優子ちゃんもよろしくー!」
 「よろしくお願いします」

まるで絵に描いたような陰キャラと陽キャラの対比だ。僕とロボ子が陰代表。風花と真希が陽代表。まぁ学校なんて小3から行かなくなった僕にはその言葉の意義すら分かっていない。けれど、ここに働きに来る女の子たちは裏で陰湿な事をしているようなイメージが湧いてこない。僕の知らない事実があるのかは分からないが、無駄に気を張る必要のない空間である事は確かだ。ただロボ子が彼女らに対してどう思ったりしているのかは、少し気になったりする。

 何はともあれ、今日はこのメンバーで店が開いた。いつもより早くに開店したバーには早くも客が来た。師匠の「いらっしゃい!」という声が一際大きく店内に響いた。それに続くように僕らの声も店内に響く。ちらっと師匠の顔を見ると、僕の視線に気づいた師匠は「ほらな?」と言いたげなドヤ顔で僕を見ていた。この師匠は、勘がなかなかに鋭い事を僕は昔から知っている。まぁ本人に言うとすぐ調子に乗るから絶対言わないが。いかにも仕事帰りのサラリーマンという見た目の、その人たちの疲れを表現しているかのようにクタクタになっているスーツを着たおじさん2人がやってきた。

 「いらっしゃいませ」
 「おぉ、この店、可愛い子いますね」
 「ここにしよう。今日の疲れを思いっきり癒してもらおう」
 「ご案内いたします」

初めは言葉遣いなんか何も分からなかった僕は、師匠とこのバーのおかげで客に笑顔で入店してもらえるまでになった。まぁ「人間」なんて極論、機嫌を取れば分かりやすく反応するものだと思っている。

 「そちらのネクタイ、お似合いですね」
 「本当かい? これ、僕のお気に入りなんだよね。いやぁ君、見る目あるなぁ」

こんな具合に。作った笑顔で僕が上司っぽい方のおじさんのネクタイを褒めると、そのおじさんは分かりやすくクネクネした。客が入ってくると、みんなは一瞬にして「仕事」の顔になる。「接待」という言葉をそのまま顔で表現するような感じだ。ただ1人ロボ子を除いては。おじさんたちは師匠に流されるまま、風花と真希が立つカウンターの前に座った。店の外を見ると、他の客が店内を覗いているのに気付いて僕はまたすぐ持ち場に戻った。師匠の勘の通り、今日は席がすぐに満席になった。1時間もしないうちに店内はお祭りムードだ。もちろん、ロボ子の前にも2人の若い男が座っている。色んな「人間」の声が飛び交うなか、彼女が何を話しているかは分からないが、相変わらず彼女には表情が無い。その顔のまま、客に酒をつくって差し出している。本当に仕事ロボットといった様子だ。それでも彼女と話す客は文句を言うことも無ければ、むしろ笑顔で彼女と話している。そういうテクニックなのだろうか。まるで彼女だけが持っている特別な力のようにすら感じる。今日は長く居座る客もいなかった。席の回転もとても良かった。多分、今日の売上を見た師匠は、僕とロボ子が話しているのを見ている時のような顔でそれを見つめるだろう。ムカつく顔をするけれど、師匠が喜ぶ姿を見るのが僕は嬉しかったりもする。
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