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第1章 僕とボク
#5.
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ーーーーー。
意識が遠のいて、気がつくと僕は「人間」に戻っていた。いつの間にか二足歩行になり、低い位置にあった視界も今は「人間」のそれに戻っている。僕は今日、これまで黒猫になった1日のなかで一番良い日で、一番衝撃的な1日になったかもしれない。まだ少し脈打ちが速い気のするさっきよりも大きくなった心臓を右手で押さえながら僕は帰路を歩いた。
ちりん、と聞き慣れた鈴が鳴りドアを開けると、そこにはいつものようにソファに寝転びながらテレビを見ている見慣れた師匠がいた。見ていたのは師匠が最近ハマっている、推理小説を実写化したドラマだった。寝そべってお菓子を食べている師匠を見ていると、以前よりも太ったように見えなくもない。まぁ本人にそれを伝えると地獄を見るのは分かりきっているので当然口には出さない。ちょっと言ってみたい気持ちもあるけれど。
「おかえり、今日は猫になってたのか?」
「うん、何か楽しい日だった」
「そっか、それは良かった。あ、そうだ。今日のメシ、オムライスでいいか? めっちゃ美味いふわふわの卵になる方法、教えてもらったんだ」
「うん、全然いいよ」
もぞもぞとソファから起き上がった師匠は大きな欠伸をかましながら体を伸ばすと、テレビを消して素早く料理に取りかかった。驚くほど手際の良い師匠はあっという間にそのオムライスを完成させた。ふわふわの半熟っぽい卵がハヤシソース風の赤いスープと混ざり合ってとても美味しそうだった。見た目と匂いが同時に僕の食欲を刺激してくる。思わず僕は生唾を飲んだ。それを見て師匠が口を大きく開けて笑った。
「ニケって本当に分かりやすいやつだな!」
「え、何で?」
「今、めっちゃ美味そうって思っただろ」
「べ、別に思ってないし……!」
「ハハ、バレバレなんだよ」
僕の心の中は見事なまでにお見通しだった。僕は大概、今みたいに師匠に心を読まれるように言い当てられる。長く一緒にいる時間が師匠にそう思わせているのか、はたまた僕が本当に分かりやすいやつなのか。もしも後者なら、僕は僕と関わる色んな「人間」に色んな事を思われているだろう。まぁ「人間」にどう思われようが、正直僕には関係無いとは思っている。そう考えた瞬間、脳裏に今日の昼間に公園で見た優子の笑顔が何故か頭に浮かんだ。僕は一瞬で顔が熱くなり慌てて気を逸らした。
「ご、ごちそうさま。美味しかった」
「はいよ、全部食べてくれてありがとう」
「師匠、今日はスタッフ何人だっけ?」
「オレたち入れて5人だったかな。美咲と京子とあと、優子が来てくれるはず」
ドクン。優子と聞いた瞬間に僕の心臓が大きく音を立てて動いた。
「あ、そうなんだ。最近、優子、よく来てくれるね」
「そうだな。優子はいるだけで客が金払ってくれるからマジで助かってるよ。何かの魔法でも使ってるんかと思うぐらいにな。てか、何だ? ニケは優子がいるのが気になるのか?」
ニシシと笑いながら師匠は、今日もムカつくあの顔をわざとらしく僕に向けた。
「ち、違うよ……! 今日は何人いるのか把握するのは損する事にはならないだろうから』
「ふーん、まぁそうだけどねぇ」
師匠はニヤニヤしながらカップに入ったコーヒーをすする。なんか最近、やたらとその顔をされる気がする。
「なんだよ」
「別にぃ~? まぁニケは優子がいる時、いつもより積極的に動いてくれるからな。色んな意味で優子の存在は大きいよ」
師匠の言葉を聞いて内心驚いた。優子がいる時の僕と、いない時の僕は違いがあるのか。自分では全く分からなかった。
「そんなの思ったことないよ」
「まぁ言う程変わらないよ。オレが見て気づくぐらいだから。他の子たちは多分分からないだろうしな」
とのことだ。師匠はやっぱり師匠だ。僕の知らない僕の事まで知っているらしい。少し恥ずかしい気持ちが心の中にあるのは否めない。
「そっか、師匠はやっぱ師匠だね」
「ん? どういう事だ?」
「ふふ、なんでもないよ」
「なんだよ、語彙力ねえな」
「師匠うるさい」
今日も師匠とじゃれあいながら夕食の片付けをして店を開ける準備を始めた。しばらくすると、店のドアが開いてちりんと鈴が鳴った。そこには今日も出勤時間より30分も早くうちに来た優子が立っていた。さっき公園で見た服とはもちろん違い、今日は濃い紺色を基調としたドレスを身に纏いながら煌びやかなネックレスをぶら下げている。そんな彼女と僕はすぐに目が合った。すると、僕の頭の中には昼間に見たあの笑顔が再び蘇った。僕はおろおろしながら慌てて目を逸らした。
「おはようございます、ニケさん」
目を逸らした僕の意識を強引に引き寄せるように優子の声が僕の耳に届いた。
「お、おはよう。今日も早いね」
僕の心臓が今にも破裂しそうなほどにドクドクと激しく音を立てる。対する彼女の顔は相変わらずマネキンのように表情が無かった。
「ちょうど読んでいた本が終わって出勤時間が近くなっていたので。師匠は?」
「あ、あぁ。師匠は今食器を洗ってるよ。て、てか本読むんだね」
「えぇ、それなりに」
彼女との会話。自分でも珍しいと思う行動をとった。僕がちらりと彼女の目を捉えると、今度は彼女の目線がそっぽを向く。ひょっとして彼女も緊張している? そんな自信過剰な気持ちが僕の心の中で生まれた。
「ニケさん」
そんな僕の心境に割って入るように、不意に僕と彼女の目線が重なった。
「は、はい」
「灰皿、この席に2つください」
「あ、あぁ、はい。どうぞ」
調子に乗るな。彼女が僕の事を気になったりするわけがない。ただでさえ奥手で仕事の内容以外、何も話せないような僕が。そういえば、前も掃除をしていた時に彼女はあの席に灰皿を2つ置いていた気がする。決して大きい席ではないあの席に。僕が不思議に思っているとまたドアの鈴が鳴った。そこには今日出勤予定の美咲(みさき)がいた。仲のいいあのギャルたちと比べるとまだ大人しい雰囲気の彼女が、今日は珍しく攻めたメイクをしてきた。それこそあのギャルたちのようだった。
「おはよう、美咲」
「おはようニケくん。優子ちゃん」
「おはようございます」
美咲は持ってきた自分の荷物を肩から下ろすと駆け足で優子の元へ駆け寄った。
「優子ちゃん、どう? 今日のメイク」
ずいっとその顔を彼女に近づける美咲。優子はその顔をその距離でまじまじと見つめる。ヘタをすればそのままキスが出来てしまいそうな距離だ。それはまるで恋人同士のようにも見える距離だった。
「とても素敵です。いつもと雰囲気が違いますね」
「ありがとう! 今日は最近連絡を取ってる人が来てくれるの。だから、ちょっと気合い入れちゃった。緊張を隠してるっていうのは私たちだけの秘密だよ」
「もちろんです。誰にも言いません」
優子は誰かと話す時も基本は敬語だ。けれど、美咲は優子との距離が近いと思っているような接し方で彼女と話している。2人とも僕より2つ年上で同い年のはずなのに。
「おう、美咲、優子。おはよう」
「おはようございます、師匠」
「おはようございまぁす」
キッチンからタオルで手を拭きながら師匠が戻ってきた。次の瞬間、勢いよくドアが開いてさっきよりも大きな音で鈴が鳴った。
「お、おはようございます! ごめんなさい! 遅くなりましたぁ!」
明らかに声のボリュームを間違えている京子(きょうこ)が頭を下げながら店に入ってきた。まるで体育会系の部活で遅刻をやらかした後輩のような勢いで頭を下げた。まぁ体育会系とか知らんけど。この前読んだ本でこういうアグレッシブな子がいたような気がする。まぁあくまで僕のイメージだ。
「おはよう京子。ちゃんと時間、間に合ってるよ。今日もヨロシクね」
師匠は、自分よりも低い位置にある京子の頭を優しくくしゃっと撫でて、見ているだけで心が安らぎそうな笑顔を京子に向けた。顔を上げてそれを見た京子は、涙腺が崩壊したのか大粒の涙を流していた。彼女のメイクがほろほろと崩れていく。
「し、ししょー!! ありがとうございますぅー!!」
「おい馬鹿! 鼻水! まず拭け!」
一瞬でぐっしょりとした状態になった顔面を師匠に擦り付けようとした京子は、今さっき優しく撫でてもらっていたその頭をがっちりと手で押さえられ、まるでコントをしている2人みたいな画になった。不意に僕の隣でフフッと優子から笑い声がしたような気がした。その方をちらっと見ると彼女は僕の視線に気づいたのか、僕にくるりと背中を向けて布巾をキッチンへ戻しに行った。まさか優子が笑った? もしそうなら今日は何という日だろう。彼女が笑ったところを二度も見ることが出来たなんて。
「まぁ何はともあれみんな今日もヨロシクね!」
師匠の声が部屋に響き、それが合図となり今日も店が開いた。顔を作り直しに行った京子以外はみんな仕事の顔に変わった。もちろん僕も。今日も個性的なスタッフが集まる師匠のバーが賑わい始めた。僕は、いつもより少しだけハキハキした声で客を店の中へ案内する。今日はいつもより楽しく感じるのは気のせいだろうか。僕はここで生きているんだと普段より強く感じた。メイクを直してきた京子が戻ってきた店内は、バーらしからぬ盛り上がりになった。そんなガヤガヤとした店内を、師匠が優しい笑顔で僕らみんなを見守っていた。
✳︎
「ニケくんっ!」
「うわっ! どうしたの?」
仕事を終えてテーブルを拭いていると、京子が背後から勢いよく僕に話しかけてきた。仕事後とは思えないほどの声量で話しかけられたものだから、僕は肩を大きく動かして反応した。
「何かさ、寝坊しない方法ってないかなぁ!? 私、今日は違うんだけどよく寝坊しちゃうんだよね! それで予定が狂って慌てちゃうの! アラームは5分おきぐらいにセットしてるんだけど全然気づかないんだよね!」
「んー、そうだなぁ。てかさ、何で僕に聞いたの?」
「だってニケくん、寝坊しなそうじゃん! 寝ぐせとかもつかなそうなぐらい髪の毛もサラサラだし」
「いや、髪の毛は関係ないんじゃない? 寝ぐせだってつくし、僕だって寝起きめっちゃ悪いよ」
「ウソだー! 全っ然想像出来ないよ!」
「ニケは全然起きねえぞ? そこのソファで寝てたらオレが起こすまで目ぇ覚まさない時なんて頻繁にあるしな!」
「師匠! そうなんですか? いやぁ! 人は分からないものですなぁ!」
京子があまりにも大きな声で話すものだから、キッチンにいた師匠も戻ってきて話に入ってきた。師匠と京子がタッグを組むと、良くも悪くも話の勢いが増す。今のそれは明らかに悪い予感しかしないので僕は2人に気づかれないように少しずつ足を後ろへ動かしながら距離を取る。2人には今のところ気づかれていない。師匠と京子の会話が盛り上がっているのをいい事に僕はキッチンの方へ向かおうと振り向いた。すると、僕の背後には美咲が何か言いたげに師匠と京子の方を向いて立っていた。
「うわ! 美咲、急に後ろに立たないでよ!」
「あはは、ごめんごめん。急にいたわけじゃないよ。ニケくんが少しずつ動いてたから。あ、師匠。京子も」
「ん? 何だ? 美咲」
師匠と京子が美咲の方を振り返った。
「一番寝起きが良さそうな人、いるじゃん」
「ん?」
美咲が指を差す方には、たくさんの皿をお盆に乗せて慎重に運んでいる優子がいた。優子は美咲の視線を感じたのか声が聞こえたのか、美咲の方を振り向いてじっと見つめている。優子はまるで時間が止ま
っているかのようにぴたりと動きがない。掃除をしている優子も画になるくらい映えている。お盆を持っているだけなのに、ファッション誌に掲載されているモデルさんみたいだ。僕の心臓の鼓動が少しだけ早くなった。
「何でしょうか?皆さん」
優子は口だけが器用に動いてそう言った。なかなかに重そうに見えるお盆を置くこともなく僕たちの顔を一通り見つめる。
「確かにな。優子はしっかり起きそうだ。何なら寝相も良さそうだし、全部が上品そうだな! 少なくともオレよりは上品だ!」
「師匠に上品って言葉は似合わないでしょ」
「何だと!? ニケ! お前よりは絶対に綺麗に寝てるからな!」
「優子ちゃんは確かにイビキもかかないと思うし、寝起きも良さそうです! でも、そもそも私には寝ている姿が想像出来ないです!」
京子は優子を見つめてそう言った。それを聞いた優子はゆっくりと首を傾けた。
「京子さん、そんな事ないですよ。私だって人間ですから。イビキもかきますよ。祖母が言っていました」
淡々とそう話す優子を見て優子以外の全員、同じように目が丸くなった。
「それマジか!? 優子!」
「はい。私、嘘は言いませんから」
「ゆ、優子ちゃんのイビキなんて私には想像出来ないな」
「私も! むしろ聞いてみたくなっちゃった私がいる!」
僕以外の全員が驚いている。当然僕もそれを聞いて驚いたし、美咲や京子が言うように優子がイビキをかいている所が想像できない。けれど、僕は感情を顔に出すのはとても苦手だ。師匠や京子みたいに衝撃を受けた事を声や顔で表したいのに僕にはそれがなかなかできない。自分でも分かるくらい歯がゆい表情をしているはずだ。
「ニケさん、その表情は何ですか?」
そんな僕の顔を見つめる優子の視線とぶつかり僕は慌てて目を斜めの方へ逸らしてドアの上に設置されている鈴の方へそれを向けた。
「ビ、ビックリしてる顔だね……! ちょっと恥ずかしいからあんまり見ちゃダメだよ……!」
「ハハ! 知っての通り、ニケは恥ずかしがり屋だからな! あんまりいじめないでやってくれ!」
「うっさいな……! 師匠はいちいち……!」
両手を叩いて笑っている師匠を見ていると、この前僕にやってきたみたい仕返しに思いっきりくすぐってやろうかと思ってきた。
「あはは。喧嘩するほど仲が良いっていうのは師匠とニケくんにある言葉だね」
茶化すように笑いながら美咲はバッグからペットボトルを取り出して喉を潤している。
「私、やっぱりみんなと仕事終わりにこうやってガヤガヤする時間、めっちゃ好きです!」
片付けを終えた京子もニカッと満面の笑みを浮かべながら弾力のあるソファに飛び込むように座り込んだ。太ももくらいまでしかない丈の短いスカートを履いていながらそんな事をするものだから、目のやり場に困り果てた。
「あぁ。オレもお前たちの笑顔を見られたら今日もこうやって過ごせて良かったなって思うよ。ん? てか、さっきまで何の話してたんだっけ?」
へらへらと笑う師匠の顔を優子はじっと見つめている。優子もいつの間にか片付けを終え、紺色のロングコートを羽織っている。上品な着こなしが彼女の魅力を一層引き立てているように見える。
「寝坊しない方法はあるか、ですよ」
いつの間にか話の内容が脱線していた僕らを正しいレールに乗せたように優子の声が部屋に響いた。それを追いかけるように師匠や京子と美咲の笑い声が響く。
今日はいつもよりみんなの顔を見て話す事が出来た。今日はいつもよりみんなの笑顔を見れた気がする。そう思うと僕の心の中は、いつもより暖かくなった気がした。
意識が遠のいて、気がつくと僕は「人間」に戻っていた。いつの間にか二足歩行になり、低い位置にあった視界も今は「人間」のそれに戻っている。僕は今日、これまで黒猫になった1日のなかで一番良い日で、一番衝撃的な1日になったかもしれない。まだ少し脈打ちが速い気のするさっきよりも大きくなった心臓を右手で押さえながら僕は帰路を歩いた。
ちりん、と聞き慣れた鈴が鳴りドアを開けると、そこにはいつものようにソファに寝転びながらテレビを見ている見慣れた師匠がいた。見ていたのは師匠が最近ハマっている、推理小説を実写化したドラマだった。寝そべってお菓子を食べている師匠を見ていると、以前よりも太ったように見えなくもない。まぁ本人にそれを伝えると地獄を見るのは分かりきっているので当然口には出さない。ちょっと言ってみたい気持ちもあるけれど。
「おかえり、今日は猫になってたのか?」
「うん、何か楽しい日だった」
「そっか、それは良かった。あ、そうだ。今日のメシ、オムライスでいいか? めっちゃ美味いふわふわの卵になる方法、教えてもらったんだ」
「うん、全然いいよ」
もぞもぞとソファから起き上がった師匠は大きな欠伸をかましながら体を伸ばすと、テレビを消して素早く料理に取りかかった。驚くほど手際の良い師匠はあっという間にそのオムライスを完成させた。ふわふわの半熟っぽい卵がハヤシソース風の赤いスープと混ざり合ってとても美味しそうだった。見た目と匂いが同時に僕の食欲を刺激してくる。思わず僕は生唾を飲んだ。それを見て師匠が口を大きく開けて笑った。
「ニケって本当に分かりやすいやつだな!」
「え、何で?」
「今、めっちゃ美味そうって思っただろ」
「べ、別に思ってないし……!」
「ハハ、バレバレなんだよ」
僕の心の中は見事なまでにお見通しだった。僕は大概、今みたいに師匠に心を読まれるように言い当てられる。長く一緒にいる時間が師匠にそう思わせているのか、はたまた僕が本当に分かりやすいやつなのか。もしも後者なら、僕は僕と関わる色んな「人間」に色んな事を思われているだろう。まぁ「人間」にどう思われようが、正直僕には関係無いとは思っている。そう考えた瞬間、脳裏に今日の昼間に公園で見た優子の笑顔が何故か頭に浮かんだ。僕は一瞬で顔が熱くなり慌てて気を逸らした。
「ご、ごちそうさま。美味しかった」
「はいよ、全部食べてくれてありがとう」
「師匠、今日はスタッフ何人だっけ?」
「オレたち入れて5人だったかな。美咲と京子とあと、優子が来てくれるはず」
ドクン。優子と聞いた瞬間に僕の心臓が大きく音を立てて動いた。
「あ、そうなんだ。最近、優子、よく来てくれるね」
「そうだな。優子はいるだけで客が金払ってくれるからマジで助かってるよ。何かの魔法でも使ってるんかと思うぐらいにな。てか、何だ? ニケは優子がいるのが気になるのか?」
ニシシと笑いながら師匠は、今日もムカつくあの顔をわざとらしく僕に向けた。
「ち、違うよ……! 今日は何人いるのか把握するのは損する事にはならないだろうから』
「ふーん、まぁそうだけどねぇ」
師匠はニヤニヤしながらカップに入ったコーヒーをすする。なんか最近、やたらとその顔をされる気がする。
「なんだよ」
「別にぃ~? まぁニケは優子がいる時、いつもより積極的に動いてくれるからな。色んな意味で優子の存在は大きいよ」
師匠の言葉を聞いて内心驚いた。優子がいる時の僕と、いない時の僕は違いがあるのか。自分では全く分からなかった。
「そんなの思ったことないよ」
「まぁ言う程変わらないよ。オレが見て気づくぐらいだから。他の子たちは多分分からないだろうしな」
とのことだ。師匠はやっぱり師匠だ。僕の知らない僕の事まで知っているらしい。少し恥ずかしい気持ちが心の中にあるのは否めない。
「そっか、師匠はやっぱ師匠だね」
「ん? どういう事だ?」
「ふふ、なんでもないよ」
「なんだよ、語彙力ねえな」
「師匠うるさい」
今日も師匠とじゃれあいながら夕食の片付けをして店を開ける準備を始めた。しばらくすると、店のドアが開いてちりんと鈴が鳴った。そこには今日も出勤時間より30分も早くうちに来た優子が立っていた。さっき公園で見た服とはもちろん違い、今日は濃い紺色を基調としたドレスを身に纏いながら煌びやかなネックレスをぶら下げている。そんな彼女と僕はすぐに目が合った。すると、僕の頭の中には昼間に見たあの笑顔が再び蘇った。僕はおろおろしながら慌てて目を逸らした。
「おはようございます、ニケさん」
目を逸らした僕の意識を強引に引き寄せるように優子の声が僕の耳に届いた。
「お、おはよう。今日も早いね」
僕の心臓が今にも破裂しそうなほどにドクドクと激しく音を立てる。対する彼女の顔は相変わらずマネキンのように表情が無かった。
「ちょうど読んでいた本が終わって出勤時間が近くなっていたので。師匠は?」
「あ、あぁ。師匠は今食器を洗ってるよ。て、てか本読むんだね」
「えぇ、それなりに」
彼女との会話。自分でも珍しいと思う行動をとった。僕がちらりと彼女の目を捉えると、今度は彼女の目線がそっぽを向く。ひょっとして彼女も緊張している? そんな自信過剰な気持ちが僕の心の中で生まれた。
「ニケさん」
そんな僕の心境に割って入るように、不意に僕と彼女の目線が重なった。
「は、はい」
「灰皿、この席に2つください」
「あ、あぁ、はい。どうぞ」
調子に乗るな。彼女が僕の事を気になったりするわけがない。ただでさえ奥手で仕事の内容以外、何も話せないような僕が。そういえば、前も掃除をしていた時に彼女はあの席に灰皿を2つ置いていた気がする。決して大きい席ではないあの席に。僕が不思議に思っているとまたドアの鈴が鳴った。そこには今日出勤予定の美咲(みさき)がいた。仲のいいあのギャルたちと比べるとまだ大人しい雰囲気の彼女が、今日は珍しく攻めたメイクをしてきた。それこそあのギャルたちのようだった。
「おはよう、美咲」
「おはようニケくん。優子ちゃん」
「おはようございます」
美咲は持ってきた自分の荷物を肩から下ろすと駆け足で優子の元へ駆け寄った。
「優子ちゃん、どう? 今日のメイク」
ずいっとその顔を彼女に近づける美咲。優子はその顔をその距離でまじまじと見つめる。ヘタをすればそのままキスが出来てしまいそうな距離だ。それはまるで恋人同士のようにも見える距離だった。
「とても素敵です。いつもと雰囲気が違いますね」
「ありがとう! 今日は最近連絡を取ってる人が来てくれるの。だから、ちょっと気合い入れちゃった。緊張を隠してるっていうのは私たちだけの秘密だよ」
「もちろんです。誰にも言いません」
優子は誰かと話す時も基本は敬語だ。けれど、美咲は優子との距離が近いと思っているような接し方で彼女と話している。2人とも僕より2つ年上で同い年のはずなのに。
「おう、美咲、優子。おはよう」
「おはようございます、師匠」
「おはようございまぁす」
キッチンからタオルで手を拭きながら師匠が戻ってきた。次の瞬間、勢いよくドアが開いてさっきよりも大きな音で鈴が鳴った。
「お、おはようございます! ごめんなさい! 遅くなりましたぁ!」
明らかに声のボリュームを間違えている京子(きょうこ)が頭を下げながら店に入ってきた。まるで体育会系の部活で遅刻をやらかした後輩のような勢いで頭を下げた。まぁ体育会系とか知らんけど。この前読んだ本でこういうアグレッシブな子がいたような気がする。まぁあくまで僕のイメージだ。
「おはよう京子。ちゃんと時間、間に合ってるよ。今日もヨロシクね」
師匠は、自分よりも低い位置にある京子の頭を優しくくしゃっと撫でて、見ているだけで心が安らぎそうな笑顔を京子に向けた。顔を上げてそれを見た京子は、涙腺が崩壊したのか大粒の涙を流していた。彼女のメイクがほろほろと崩れていく。
「し、ししょー!! ありがとうございますぅー!!」
「おい馬鹿! 鼻水! まず拭け!」
一瞬でぐっしょりとした状態になった顔面を師匠に擦り付けようとした京子は、今さっき優しく撫でてもらっていたその頭をがっちりと手で押さえられ、まるでコントをしている2人みたいな画になった。不意に僕の隣でフフッと優子から笑い声がしたような気がした。その方をちらっと見ると彼女は僕の視線に気づいたのか、僕にくるりと背中を向けて布巾をキッチンへ戻しに行った。まさか優子が笑った? もしそうなら今日は何という日だろう。彼女が笑ったところを二度も見ることが出来たなんて。
「まぁ何はともあれみんな今日もヨロシクね!」
師匠の声が部屋に響き、それが合図となり今日も店が開いた。顔を作り直しに行った京子以外はみんな仕事の顔に変わった。もちろん僕も。今日も個性的なスタッフが集まる師匠のバーが賑わい始めた。僕は、いつもより少しだけハキハキした声で客を店の中へ案内する。今日はいつもより楽しく感じるのは気のせいだろうか。僕はここで生きているんだと普段より強く感じた。メイクを直してきた京子が戻ってきた店内は、バーらしからぬ盛り上がりになった。そんなガヤガヤとした店内を、師匠が優しい笑顔で僕らみんなを見守っていた。
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「ニケくんっ!」
「うわっ! どうしたの?」
仕事を終えてテーブルを拭いていると、京子が背後から勢いよく僕に話しかけてきた。仕事後とは思えないほどの声量で話しかけられたものだから、僕は肩を大きく動かして反応した。
「何かさ、寝坊しない方法ってないかなぁ!? 私、今日は違うんだけどよく寝坊しちゃうんだよね! それで予定が狂って慌てちゃうの! アラームは5分おきぐらいにセットしてるんだけど全然気づかないんだよね!」
「んー、そうだなぁ。てかさ、何で僕に聞いたの?」
「だってニケくん、寝坊しなそうじゃん! 寝ぐせとかもつかなそうなぐらい髪の毛もサラサラだし」
「いや、髪の毛は関係ないんじゃない? 寝ぐせだってつくし、僕だって寝起きめっちゃ悪いよ」
「ウソだー! 全っ然想像出来ないよ!」
「ニケは全然起きねえぞ? そこのソファで寝てたらオレが起こすまで目ぇ覚まさない時なんて頻繁にあるしな!」
「師匠! そうなんですか? いやぁ! 人は分からないものですなぁ!」
京子があまりにも大きな声で話すものだから、キッチンにいた師匠も戻ってきて話に入ってきた。師匠と京子がタッグを組むと、良くも悪くも話の勢いが増す。今のそれは明らかに悪い予感しかしないので僕は2人に気づかれないように少しずつ足を後ろへ動かしながら距離を取る。2人には今のところ気づかれていない。師匠と京子の会話が盛り上がっているのをいい事に僕はキッチンの方へ向かおうと振り向いた。すると、僕の背後には美咲が何か言いたげに師匠と京子の方を向いて立っていた。
「うわ! 美咲、急に後ろに立たないでよ!」
「あはは、ごめんごめん。急にいたわけじゃないよ。ニケくんが少しずつ動いてたから。あ、師匠。京子も」
「ん? 何だ? 美咲」
師匠と京子が美咲の方を振り返った。
「一番寝起きが良さそうな人、いるじゃん」
「ん?」
美咲が指を差す方には、たくさんの皿をお盆に乗せて慎重に運んでいる優子がいた。優子は美咲の視線を感じたのか声が聞こえたのか、美咲の方を振り向いてじっと見つめている。優子はまるで時間が止ま
っているかのようにぴたりと動きがない。掃除をしている優子も画になるくらい映えている。お盆を持っているだけなのに、ファッション誌に掲載されているモデルさんみたいだ。僕の心臓の鼓動が少しだけ早くなった。
「何でしょうか?皆さん」
優子は口だけが器用に動いてそう言った。なかなかに重そうに見えるお盆を置くこともなく僕たちの顔を一通り見つめる。
「確かにな。優子はしっかり起きそうだ。何なら寝相も良さそうだし、全部が上品そうだな! 少なくともオレよりは上品だ!」
「師匠に上品って言葉は似合わないでしょ」
「何だと!? ニケ! お前よりは絶対に綺麗に寝てるからな!」
「優子ちゃんは確かにイビキもかかないと思うし、寝起きも良さそうです! でも、そもそも私には寝ている姿が想像出来ないです!」
京子は優子を見つめてそう言った。それを聞いた優子はゆっくりと首を傾けた。
「京子さん、そんな事ないですよ。私だって人間ですから。イビキもかきますよ。祖母が言っていました」
淡々とそう話す優子を見て優子以外の全員、同じように目が丸くなった。
「それマジか!? 優子!」
「はい。私、嘘は言いませんから」
「ゆ、優子ちゃんのイビキなんて私には想像出来ないな」
「私も! むしろ聞いてみたくなっちゃった私がいる!」
僕以外の全員が驚いている。当然僕もそれを聞いて驚いたし、美咲や京子が言うように優子がイビキをかいている所が想像できない。けれど、僕は感情を顔に出すのはとても苦手だ。師匠や京子みたいに衝撃を受けた事を声や顔で表したいのに僕にはそれがなかなかできない。自分でも分かるくらい歯がゆい表情をしているはずだ。
「ニケさん、その表情は何ですか?」
そんな僕の顔を見つめる優子の視線とぶつかり僕は慌てて目を斜めの方へ逸らしてドアの上に設置されている鈴の方へそれを向けた。
「ビ、ビックリしてる顔だね……! ちょっと恥ずかしいからあんまり見ちゃダメだよ……!」
「ハハ! 知っての通り、ニケは恥ずかしがり屋だからな! あんまりいじめないでやってくれ!」
「うっさいな……! 師匠はいちいち……!」
両手を叩いて笑っている師匠を見ていると、この前僕にやってきたみたい仕返しに思いっきりくすぐってやろうかと思ってきた。
「あはは。喧嘩するほど仲が良いっていうのは師匠とニケくんにある言葉だね」
茶化すように笑いながら美咲はバッグからペットボトルを取り出して喉を潤している。
「私、やっぱりみんなと仕事終わりにこうやってガヤガヤする時間、めっちゃ好きです!」
片付けを終えた京子もニカッと満面の笑みを浮かべながら弾力のあるソファに飛び込むように座り込んだ。太ももくらいまでしかない丈の短いスカートを履いていながらそんな事をするものだから、目のやり場に困り果てた。
「あぁ。オレもお前たちの笑顔を見られたら今日もこうやって過ごせて良かったなって思うよ。ん? てか、さっきまで何の話してたんだっけ?」
へらへらと笑う師匠の顔を優子はじっと見つめている。優子もいつの間にか片付けを終え、紺色のロングコートを羽織っている。上品な着こなしが彼女の魅力を一層引き立てているように見える。
「寝坊しない方法はあるか、ですよ」
いつの間にか話の内容が脱線していた僕らを正しいレールに乗せたように優子の声が部屋に響いた。それを追いかけるように師匠や京子と美咲の笑い声が響く。
今日はいつもよりみんなの顔を見て話す事が出来た。今日はいつもよりみんなの笑顔を見れた気がする。そう思うと僕の心の中は、いつもより暖かくなった気がした。
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