吾輩は時々、黒猫である。

やまとゆう

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第1章 僕とボク

#8.

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            ✳︎

 「みんな、今日もおつかれさま」
 「おっつかれさまでしたぁ!」

京子の大きな声が一際部屋に響き渡る。今日も今日とて営業を終えて女の子たちが帰る支度を始めた。今日は真希と優子、京子の3人が店に来ていた。いつもより客が少なかったけれど、師匠も女の子たちも満足そうな顔をしているから良かったんじゃないかな。どんな日であれ、終わりよければ全てよし。眉間に皺が寄ったまま仕事を終えたくはない。まぁ優子に関してはやっぱり表情は変わらないが。

 「ニケっち」
 「ん? どうしたの?」

振り向くと、真希が真剣な顔をして俯いている。その目線の先にある真希の掃除しているテーブルを見てみると、手元が綺麗に折れているワイングラスが2本転がっている。共有用の大皿も3皿ほど割れている。

 「うわ、結構いってるね。真希には怪我なかった?」
 「うん……。私は何も無いんだけどさ、さっきの客を怒らせたみたいで帰り際にこんな事されて帰ってっちゃった……。フラれた事なんて気にせず次に行こう! って言ったのが良くなかったのかな」
 「けど、皿とかの割れる音なんてしなかったけどな」
 「うん。何か皿やグラスにぐっと力を込めて静かに割ってた。すごい怪力の持ち主だったのかな……。腕の筋肉モリモリだったし……。私、その客の行動にビックリしてどうしていいか分かんなくなってそのまま帰しちゃった。店に悪い噂とか流されたらどうしよう……」

今にも泣きそうな真希の肩を優しく包み込むように師匠の腕が覆い被さった。真希が振り向くと、師匠は真希の髪を撫でながらしししと笑っている。

 「真希がその客を元気にさせようと思って言ったんだったらそれでいいじゃねえか。それでムカついて物にあたってるようじゃ、そいつに一生彼女なんて出来やしないよ! むしろ、真希みたいな美人に酒を作ってもらえて話を聞いてもらえてる時点でオレなら泣いて喜んじまうよ!」

師匠は真希を包み込むように抱きしめ、真希は押し殺していた感情を解き放ったように涙を流している。

「真希さん。さっきのお客との話が聞こえていましたが、彼は完全に鬱憤を晴らしていただけだと思います。彼を前向きにさせようとする言葉選び、私はとても素敵だと思いましたよ」
 「……ゆうちゃん~。マジで好きぃ~」

優子の言葉を聞いた真希はタガが外れたのか、大粒の涙が止まらなくなっていた。さらにもらい泣きしているのか、京子も同じくらいの涙を流していた。

 「真希ちゃんが泣いてる所、初めて見ましたぁ~! 何だか私も泣けてくるうぅ~!」
 「何で京子まで泣いてんだよ! ほら! お前ら! 全部片付けたら、オレたちも少し飲もう! 食いたい物もニケが作ってくれるぞ!」
 「そこは師匠が作るんじゃないの?」
 「お前、料理人目指してるんだろ!?」
 「目指してないよ!」

涙の空間は、いつの間にか笑いの空間になっていた。それから真希や師匠はぐびぐびと酒を飲み続け、真希の愚痴大会が終わる頃にはさっき客がいた時と同じくらいの量の洗い物がテーブルに並んでいた。僕はテーブルの上にある皿をまとめていると後ろに誰かの気配がした。振り向くと、そこには絵画のように顔が固まっている優子が立っていた。普段よりも一層表情が固い気がする。この時、久々に彼女をロボ子だと思ったのは、そんな優子の顔が目の前にあったからだ。

 「う、うわぁ! どうしたの?」

優子は僕と視線を合わさずに口を開いた。

 「ニケさん、本読むんですね」

優子は僕のズボンのポケットからはみ出た文庫本を指差してそう言った。

 「あ、あぁうん。この作家さんの小説、好きなんだ」
 「私も好きです。百合かもめさん」

そう言った優子の口角が少し上がった? いや、見間違いか? 僕は彼女の発した「好き」という部分だけを抽出してしまい慌てふためいた。

 「い、いいよね! まぁ僕は話題作から読み始めたミーハーだけど」

僕は本当にマネキンと話しているのかと錯覚してしまいそうになった。僕が彼女に言葉を届けてからどれだけ待っても彼女から言葉が返ってこない。この前、昼間はあんなに優しい笑顔を見せてくれたのに。まぁ黒猫の時の僕にだけれど。

 「どんな理由であれ、それを読みたいと思う人の気持ちは尊重すべきです」

視線を逸らし、動こうとした僕に割って入るようにようやく彼女から言葉が届いた。それはまるでAIやアンドロイドが助言してくれるような一言だった。やっぱり今はロボ子だと思った。

 「は、はぁ」

返す言葉が見つからず僕の目が泳ぐ。せっかく言葉を選んでくれている優子に対して、僕も何とか返そうと必死に言葉を選んだ。

 「ごめんなさい。困らせるつもりはありませんでした」

優子の頭が深々と下がった。

 「い、いや大丈夫。気にしてないから顔上げて」

彼女の顔がゆっくりと上がると、またすぐに目が合った。彼女の顔は、やはり見れば見る程「人間」には思えないぐらい整っている。鼻筋もすごく高いし、目元なんかゲームに出てくるヒロインみたいに綺麗でくっきりとした二重瞼をしている。まぁすぐに照れくさくなってしまうからあまり直視は出来ないけれど。

 「き、気遣ってくれてありがとう……!」

背中を向け、僕は緊張している事が伝わらないように再びテーブルの上の皿に手を伸ばした。その時。

 「来月出る新作、買う予定ありますか?」

背後から勢いよく届いた彼女の声に操られるように僕はまた彼女の方を向いた。すると、また大きくて綺麗なその瞳と目が合った。

 「う、うん。買うと思うよ」
 「そうですか。私も買うのでまたどんな事を思ったのか言い合いませんか?」
 「え? う、うん。いいよ」

何だろう。今日の優子は積極的だ。僕にこんなに話しかけてくるなんて。顔にはやっぱり表情がないけれど。でも、優子と約束事が出来たのが嬉しく思った僕もいる。何とも不思議な瞬間だ。気がつけば優子以外の2人は既に帰っていて、近くに師匠もいなくて僕らだけの空間になっていた。

 「ありがとうございます。じゃあ、私もそろそろ帰りますね」

終始、顔がロボ子のままでそう言う彼女が僕に背を向けてドアノブに手をかけた。

 「あ、待って……!」

僕は呼び止めていた。呼び止めてしまっていた。彼女の瞳が僕を吸い込むように見つめる。その瞳は、ロボ子から優子に変わったように感情がそこにあるように見えた。

 「ちょっと待ってて。帰らないでね」

僕は一目散に自分の部屋に戻り、机の上に置いてあったクリアファイルを持って再び優子の元へ戻った。

 「こ、これ……!」

僕はそれを優子に渡した。

 「これは?」

優子が不思議そうな顔で僕を見る。

 「じ、実はちょっと前から物語を書いてて。ま、まだ書き始めたばかりだし、ただの自己満足なんだけど。よかったら読んでほしいなって……」

僕は自分自身に驚いている。大胆な行動をする自分に。そして、彼女には小さなウソをついた。ちょっと前じゃない。今日だ。さっき仕事が始まる前に書き始めただけだ。何ともみっともない見栄を張った。罪悪感が心を覆う。優子の表情がまた固まった。それに体が小刻みに震えている。どうしよう、明らかに困らせている。彼女がどんな反応をするか想定していなかった迂闊さに嫌気がさした。

 「ご、ごめん。やっぱり……」

僕がファイルに手を伸ばしたその時。

 「読みたいです」

夜にその笑顔を見たのは初めてだった。僕が「人間」の時にその笑顔を見たのは初めてだった。僕はさっきまでの彼女の反応が乗り移ったように体が固まってしまった。言葉も発せなかった。ロボットみたいになってしまっている。その代わりに、とても幸せな気持ちになった。

 「また感想を言わせてください。それじゃあ、おやすみなさい」

 彼女は足早に帰っていった。あの笑顔のまま彼女は僕に背を向けた。ぎこちなく手を振って彼女を見送る僕は、自分の中にあった彼女への気持ちに今更気づいた。僕がこんな感情を持っていたなんて。すると、扉ががちゃりと音を立てて開き、しししとムカつく顔で笑う師匠がゆっくりと出てきた。

 「ニケ。お前、成長したな」
 「見てたの」
 「聞こえてきたんだよ。お前らー、羨ましいぞぉ!」

師匠は言葉を言い切る前に僕の体に強く抱きついた。そして僕は文字通り、もみくちゃにされた。師匠に幸せなエネルギーを全部吸い取られたように僕は干からびて疲れ果てた。

 「なぁニケ」
 「な、なんだよ」

荒れる呼吸を必死に整えながら、睨むように隣で同じように大の字に寝そべっている師匠の方に顔を向けた。

 「オレはお前らを見守ってる」

師匠の言葉を聞いた僕は感情が昂り、目がじーんと熱くなった気がして必死に他の事を考えて気を紛らわせた。今日の客、イケメンだったけど鼻毛出てたな。危ない危ない。師匠の前で涙なんて見せたくない。

 「空気の読めない事、しないでね」
 「ハハ、するか!」
 「怪しいけどね」
 「あぁ、オレも1つ」
 「ん?なに?」
 「オレにも見せてくれよ。物語。どんな物語なんだ? お前と優子のラブストーリーか?」
 「絶対師匠には見せない」

僕と師匠は、お互い同じように笑い合った。こんなに口を大きく開けて笑ったのは生まれて初めてかもしれない。今日は僕の人生で一番笑った日になったかもしれない。あと、人生で一番嬉しかった日かもしれない。うん、今日はよく眠れそうだ。ふと窓の外に目をやると、そこから覗く満月がいつもより明るく見えるような気がした。少し肌寒い4月10日の出来事だった。
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