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第33章 夜明けの策 ― 火蓋は切られた
しおりを挟む夜明け前。
空はまだ群青に沈み、東の地平線がわずかに赤く染まり始めていた。冷え込む空気の中、都市カストリアの城門前に、二階堂商会の兵たちが静かに整列していた。
鈴の音は鳴らされず、ただ吐く息だけが白く揺れている。漣司は最前列に立ち、丸めた地図を腰に収める。静かに、だが凛とした声で兵たちに告げた。
「今日が分水嶺だ。盗賊団〈赤狼の牙〉は百を超える兵を動かしている。だが、敵の数が多かろうと少なかろうと……勝敗を決めるのは、質と情報だ」
リュシアが前に出て、淡々と補足する。
「囮部隊が街道を通過すれば、奴らは必ず飛びつきます。本隊は森に潜み、合図とともに一斉に突撃する。退路は三方向に確保済み。鈴の合図で連携を崩さないこと」
ロイは唇を噛み、剣を握り直した。胸を震わせながらも、その瞳には覚悟が宿る。
「……怖い。でも、俺たちはもう庶民じゃない。二階堂商会の社員なんだ」
隣の仲間がうなずき、震える手を互いに握り合う。その光景は、庶民から戦士へと変わりゆく決意の象徴のようだった。
――そんな張り詰めた空気を一瞬で破るように、ガロウが斧を肩に担ぎ、大声で叫ぶ。
「おい社長! 俺の出番はどこダ!」
場の空気を読まず、ガロウが豪快に斧を肩に担ぐ。
「先陣だ。お前の突撃で敵の列を割る」
ガロウはにんまり笑い、声を張った。
「よっしゃア! 退職金が増えるゼ!」
緊張に包まれた兵たちの中で、わずかに笑いが漏れ、空気はわずかに和らいだ。
だが、夜明けの空の赤は、まだ戦の厳しさを告げている――今、都市の運命が動き始める瞬間だった。
◇
一方その頃――荒野を貫く街道。
夜の気配をまだ纏った大地に、盗賊団〈赤狼の牙〉の本隊が沈み込むように陣を敷いていた。
吹き返す風が焚き火の残り火を煽り、燻る黒煙が低い雲のように頭上へ漂う。槍の穂先と刃の群れが赤い反射を宿し、その光だけが獣の息遣いのように揺れた。
頭目グラドの声は、地鳴りのように荒野に響きわたった。その一言で、盗賊たちは一斉に咆哮し、武器を打ち鳴らす。戦い前の高揚と狂気が、朝靄の中で波打つように広がっていく。
――だが。
その狂気に、まったく追いつけていない影が二つだけあった。
「なぁチカ、俺たち本当にここで囮やらされるんだよな?」
「当然でしょ。どうせ『とりあえず最初に死にかけてこい』枠だし」
「いやいや、死なないからこそ俺たちに回ってくるんだろ!?」
「それ、褒め言葉なのかどうか自分で判断しなさいよ」
近くにいた盗賊が吹き出し、武器を抱えたまま肩を揺らす。
「お前らほんと場違いだな!」
「縁起でもねぇけどよ……今回はマジでやばいぞ?」
チカとゴローは目を合わせ、完全に同じタイミングで肩をすくめた。
「だよなぁ……」
「だよねぇ……」
その呑気さが、かえって戦場の不穏さを際立たせる。グラドはそんな連中を完全に無視し、ゆっくりと振り返った。眼帯の奥で光る獣の眼――獲物を噛み砕く直前の捕食者のそれだ。
「……奴らの旗を引き裂き、都市の心臓を抉る。今日で終わらせる。すべてを沈める――赤狼の牙でな」
その言葉が土に落ちた瞬間、荒野の空気がひとつ、深く沈んだ。
まるで大地そのものが、これから流される血の量を悟り、静かに息を潜めたかのように。
◇
夜と朝の境目が、薄い刃のように世界を割っていた。
街道の向こう、揺らぐ靄の奥から三台の荷車がゆっくりと姿を現す。鈴は沈黙を守ったまま。代わりに、車輪の軋む重音と、統率のとれた靴音が荒野の静寂を均等に刻んでいく。
その歩みは、まるで自らが“獲物を誘う餌”であることを理解しているようですらあった。
「……来たな」
最前列で双眸を光らせていたグラドの口角が、獣のように吊り上がる。
次の瞬間、〈赤狼の牙〉の面々の呼吸がそろう。まるで一斉に血を嗅ぎ当てた肉食獣が、同じ瞬間に喉を鳴らすかのように。
その対極――森の陰。
薄闇に身を潜める漣司は、一切動じぬ落ち着きで情勢を見据えていた。風向、影の伸び、敵隊列の密度。あらゆる要素を脳裏で組み上げ、確信が静かに形を結ぶ。
「ここからだ。桶狭間の戦の再現――少数で大軍を呑む。……全軍、合図を待て」
その声音は低いが、不思議と胸の奥に火を灯す不屈の響きを持っていた。
リュシアは息を殺し、震えも焦りもない指先で鈴を握りしめる。
ロイは唾を飲み、仲間を見回して小さく頷いた。
ガロウは斧を地面に突き立て、地中を震わせながら、今にも鎖を引きちぎる猛犬のように喉の奥で笑う。
ミナは風そのもののように気配を消し、影の奥から敵陣を射抜くような視線を送っていた。
すべてが整っていた。
二階堂商会の小隊は、一人ひとりが歯車のようであり、同時に獣の牙でもあった。
そして――
東の地平線がかすかに染まり、朝日が世界に触れた。
黄金の光が斜めから差し込み、影と光が複雑に混ざり合う。その一瞬、空気は張り詰めすぎて、肌が切れそうなほど鋭くなる。
(今だ)
漣司が息を吸い――
「合図を――!」
その一声が、世界の静寂を真っ二つに裂いた。
朝日が昇りきる前。まだ夜の牙を宿したままの時間帯。
この瞬間から、戦の幕は確かに、不可逆に――切って落とされた。
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