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プロローグ
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風ひとつない月夜のこと。鏡面のような太古の湖を前に、その人はもう一度深呼吸をしました。
冷たく乾燥した空気が、瞬間的に肺を凍らせたかと思われましたが、湿り気のある白い湯気が目の前を立ち上っているところを見ると、どうやらまだ大丈夫なようです。
男は小さく身震いをすると、バケツの把手を掴みました。
銀のバケツは傾ぐと軋んだ音を立てましたが、指がかじかんで、その重さは感じられません。
胸の奥では心臓が早鐘を打っていますが、精緻な空気のおかげか、不思議と感覚は研ぎすまされています。
ジャブン。
自分でも驚くほど、男は大胆にバケツを入水させました。
あれほど慎重だったのが嘘みたいに大きな音でしたが、鈍い光沢のあるバケツは滑るように泳いで、漆黒の水面に美しい波紋が広がります。
男は思わず見とれました。しかしふと我に帰って、慌ててバケツを引き上げました。
さっきまで忘れていた手の感覚が、急にずしりと感じられたのです。
漕ぎすぎたときのブランコみたいにぎしぎし言って、古びたバケツは中身をだいぶこぼしました。水のかかったズボンやヒゲに、すぐさま霜がついています。
両の手に持ち直すと、男はそっとバケツを地面に置きました。こんなに寒いのに、額にはうっすら汗がにじんでいます。
男は袖をまくると、おそるおそるバケツに両手を浸しました。男の手が生んだ波と、バケツの淵にぶつかって返ってくる波が互いにぶつかり合って、バケツの中身はまるでぬらぬらした生き物のようです。
バケツから腕を引き出したとき、男は思わず息を大きく吸いました。顔をつけていた訳でもないのに、息をとめていたのです。
男は肩で息をしながら、感覚のなくなった手を見つめました。
両手を重ね合わせたお椀に、ひとすくいの水が入っています。
夜空を映すそれは、まるで天を丸く切り取ったかのよう。水面が揺れるたびに星々がきらきら光ります。
しかし次の瞬間、男が覆い被さるように覗き込んだので、小さな水鏡は一瞬真っ暗になりました。 けれども男の瞳にはたしかにそれが映っていたのです。
鈍く光る玉のようなもの。オレンジ色のか弱い光を発する何かが、闇に目が慣れるように、大きな手のひらにだんだんと姿を現すのでした。
冷たく乾燥した空気が、瞬間的に肺を凍らせたかと思われましたが、湿り気のある白い湯気が目の前を立ち上っているところを見ると、どうやらまだ大丈夫なようです。
男は小さく身震いをすると、バケツの把手を掴みました。
銀のバケツは傾ぐと軋んだ音を立てましたが、指がかじかんで、その重さは感じられません。
胸の奥では心臓が早鐘を打っていますが、精緻な空気のおかげか、不思議と感覚は研ぎすまされています。
ジャブン。
自分でも驚くほど、男は大胆にバケツを入水させました。
あれほど慎重だったのが嘘みたいに大きな音でしたが、鈍い光沢のあるバケツは滑るように泳いで、漆黒の水面に美しい波紋が広がります。
男は思わず見とれました。しかしふと我に帰って、慌ててバケツを引き上げました。
さっきまで忘れていた手の感覚が、急にずしりと感じられたのです。
漕ぎすぎたときのブランコみたいにぎしぎし言って、古びたバケツは中身をだいぶこぼしました。水のかかったズボンやヒゲに、すぐさま霜がついています。
両の手に持ち直すと、男はそっとバケツを地面に置きました。こんなに寒いのに、額にはうっすら汗がにじんでいます。
男は袖をまくると、おそるおそるバケツに両手を浸しました。男の手が生んだ波と、バケツの淵にぶつかって返ってくる波が互いにぶつかり合って、バケツの中身はまるでぬらぬらした生き物のようです。
バケツから腕を引き出したとき、男は思わず息を大きく吸いました。顔をつけていた訳でもないのに、息をとめていたのです。
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しかし次の瞬間、男が覆い被さるように覗き込んだので、小さな水鏡は一瞬真っ暗になりました。 けれども男の瞳にはたしかにそれが映っていたのです。
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