スコウキャッタ・ターミナル

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第1章 はじまりの日

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 その日の始まりは最高でした。お母さんが好きにさせている庭の緑、かすかに薔薇の香りのする風、コロコロ笑う海。一年の幕開けに、これ以上素晴らしい日はありません。
 窓から身を乗り出したエレン・ブリクセンは、思わずひゅうっと口笛を吹きました。 ベルゲンの街が眼下に広がっています。

 ここは、楽しくて一気に描きあげた絵のようなノルウェーの港町。七人娘と呼ばれる七つの山と海に囲まれた市街地には、おもちゃの家みたいな建物が並びます。なかでも、埠頭にある赤や黄色や白の倉庫群・ブリッゲンの可愛らしさは有名で、ちょっと力を加えたら壊れてしまう積み木でできているみたいです。ハンザ同盟時代に作られたこの愛らしい世界遺産を観るために、いまでは世界中の人々がベルゲンを訪れます。
 他方、山の方にはケーブルカーとロープウェーが、中心街には首都オスロまでつながる鉄道や、トラムが走ったり走らなかったりする線路が敷かれていて、一日中眺めていたって飽きることはありません。
 それにしても、乗物が走らない線路なんて変だと思う人があるかもしれません。しかしベルゲンには作ってから一度も使われていない線路が本当にあるのです。

 それは何年か前のこと。ベルゲンの街にトラムを走らせる計画が持ち上がりました。街の人たちは喜び勇んで、銘々自分の家の近くにフライングして線路を作りました。そのときはそれぞれの線路がやがてつながる予定だったのです。
 しかし専門家たちがよくよく見直すと、この計画は相当な赤字になることが判明しました。
 そこで市長さんは、採算のとれるルートを除いて、街の人たちに工事を中止するよう呼びかけました。しかし中には完成ものもあって、そういったものはそのまま残すことになりました。だってトラムというのは、元々自動車が走る道路に線路を引いて走らせる乗物ですから、線路を残しても何も困らないのです。
 そういうわけで、ベルゲンは一度もトラムが走ったことのないレールが、あちらこちらにある街になりました。そして街の人たちは、これを、親しみを込めて「やりかけ線路」と呼ぶようになりました。

 
 街の子どもたちはみんなこの「やりかけ線路」の上を歩いて学校に通うのですが、エレンももちろんその一人。 
 エレンは窓をきちんと閉めると、お父さんがやるみたいに、襟元を正して、髪をなでつけました。だってしかも今日は三つのはじまりの日だったんです。
 ひとつ目は新学期。エレンは今日から五年生になります。五年生ともなれば、勉強も課外活動も本格的になってきます。特に自主性を重んじるノルウェーでは、将来に向けて中学校で何を勉強するかを考える一年でもあります。
 もう一つのはじまりは、十一歳の一年。エレンは今日十一歳になったばかりでした。暦の関係で、初登校日と重ならないこともありましたが、今年はちょうど新学期の初日がエレンの誕生日と重なりました。エレンは新学期の最初の日に重なる誕生日が好きでした。学年が変わるときに歳も揃って一つ増えるので、なんだかすべてが新しくなって、洗い立てのシャツのような真っ新な気持ちになるのです。
 そして、三つ目のスタート。これは他の二つと違って、エレンにとってまったく初めてのことでしたが、このことについてはもう少しあとでお話しすることにしましょう。



 階段を駆け下りると、玄関先では、お母さんがリュックに何やら押し込んでいるところでした。エレンは最初、それがなんだか分からなかったのですが、お母さんがやっぱり無理かしら、と言いながら腕組みをしたとき、顔が肩に埋もれるように押し込まれた、哀れなくまのぬいぐるみと目が合いました。
「フラッフィを連れて行くの?」
エレンは思わず、お母さんを見つめました。
「お母さんだって賛成じゃないわ。でもレネがどうしてもって言うの。初日だし、お守りってところかしら。でも今日だけよ、レネ。明日からフラッフィはお留守番」
「今日だけ、今日だけ!」
光に当たった金色の睫毛をぱちぱちさせながら、レネは無邪気に跳ねてみせました。
 妹のレネは、エレンより五つ年下の、六歳の女の子。青いリボンで結んだ淡いまっすぐな金色の髪と、ころんとしたアーモンド形の目が、お兄さんのエレンから見ても可愛らしい女の子です。
「それから何かあったら、フラッフィの言うことをよく聞いてね。フラッフィはレネのこと、たすけてくれるからね」
お母さんは、レネの頬を両手で包むと、娘の目を見つめて、こう言いました。

 念のためにお話しておきますが、フラッフィはもちろん喋れる人形ではありません。素敵なミルクティ色をしてはいますが、それ以外は至って普通の可愛らしいぬいぐるみです。けれどもこのくまさんは、レネにとってはただのおもちゃではありません。レネを正しい方向に導いてくれる敏腕ガイドなのです。
 たとえばレネが悪いことをしたとしましょう。ここで頭ごなしに怒るのは簡単なことです。しかしここで敢えて怒らず、そのことについてフラッフィはどう思うのかしら、とレネに聞いてみてください。するとフラッフィがちゃんとレネに教えてくれるんですよ。お兄ちゃんにちゃんと聞いてからクレヨンを借りた方がいいってとかね。ね、とってもできたくまさんでしょう。

「お母さん、コウケンニンがついてるんだよ。大丈夫」
エレンが背筋を伸ばしてこう言うのには、ある事情がありました。実はエレンはお父さんから特命を言いつかったのです。
 昨日の晩、お母さんがレネに本を読んであげているのを確認すると、お父さんはエレンを呼んで、ひそひそ声でこう言いました。レネの後見人になってくれるかい、と。
 後見人の意味がよく分かりませんでしたが、その格式高い響きを聞いて、エレンはすぐに心惹かれました。
「僕でできれば、ね。で、どういうことをすればいいの。コウケンニンは」
 お父さんによると、後見人の仕事は誰かのサポートをすること。そしてエレンにとってそれは、色々とひとりでは上手くやれないレネを学校で見守ることでした。
 しかし実のところ、エレンは困っていました。だってレネは、同い年のどの子よりも手がかかるのです。
 エレンはいつも通り、「えー、嫌だよ」と言おうかと思いました。けれどもふと、両親の不安と期待を察してしまったのです。だから、明日から十一歳だよ、任せて、と請け負いました。



 お兄さんの頼りになる発言を聞くと、お母さんはふっと笑いました。そして頼りになるくまさん、フラッフィを押し籠むと、レネをリュックごと抱き寄せました。
「そうだ。お兄ちゃんがいるから安心だ。学校、楽しまなきゃね! レネ!」
エレンにはお母さんの目がきらきらして見えました。レネの睫毛を金色に見せたあの日差しのせいかしら。
「フラッフィが、お母さんを泣かせるなだって」
レネのことで気を揉んでいるのに、レネ自身がこう言ったので、エレンとお母さんは思わず吹き出して、初日の「行ってきます」は笑顔で締めくくられました。 



 さて、そのあとのレネは、お母さんの気苦労が取り越し苦労だったのではないかと思われるほど、うまくやっていました。たしかに、ひやりとすることは何度かありました。しかし新入生オリエンテーションが終わってホールから出てきたときに一人でぽつんとしてたほかは、特に問題なかったのです。
 しかしエレンがほっとしていたときに事件は起こりました。それはのっぽのラッセに引っ張られて、玄関ホールへやってきたときのこと。ホールには既に人だかりができていて、ラッセはそばかすのある頬を紅潮させていました。
「僕、見たんだ。あれは間違いない! やっと僕らのとこに来たんだ!」
「どう、どう。ラッセ。にんじんは逃げないよ」
目と歯茎が飛び出して、鼻息の荒い馬みたいな幼馴染みをエレンがからかっていると、聞き覚えのある声がしました。
「みんな、揃ったな」
なんとも人のよさそうな銀色の声。これは、エレンが所属しているサッカークラブの監督・キッコネン氏の声です。
 二人は顔を見合わせると、輪の中心が見えるとこまで急いで移動しました。

「みんなも知っての通り、今年は厳しい年だった。正直言ってわしはあまり期待していなかった」
キッコネン監督は一同の顔を順ぐりに見ました。大きい子にも小さい子にも、戦い抜いた戦士のような勇ましさや誇りが感じられます。
「しかしそれは思い違いだった。君たちはわしの予想を裏切ってリーグ戦を勝ち進んだ」
監督は競り合っている試合中によく見られる、怒っているような泣きそうなような潤んだ目をしました。
「君たちは、この十年優勝を逃したことのないあのフライングスクウィレルズに、優勝を搔っ攫われるのを防ぎ、同率優勝に漕ぎ着けた! わしのサッカー人生の中でもこれほどファンタスティックな一年はない!」
高揚したキッコネン監督が息をつく間に、お湯の沸く直前のヤカンのようにつやつやと上気した子どもたちは、身体にしみ込んだ掛け声をすかさず、しかし心を込めて唱えました。「ブルーペンギンズばんざい」とか、「いいぞ、ブルーペンギンズ」とかね(ラッセは得意の指笛を吹きましたっけ)。

「さて。今日わしがやってきたのは他でもない。ついにこれを持ち帰ってきたのじゃ」
キッコネン監督はそう言って、持ってきた箱から金色に輝くカップを取り出しました。
 つややかでゆったりとした盃に、天に向かってなだらかなアーチを描く一対の装飾的な持ち手。台座はなく小ぶりなカップでしたが、いかにもメッキで作られた安っぽいカップとは違い、優美で上品な佇まいです。
 その場にいた選手たちはぽーっとして、その場は静まり返りました。それはリーグ戦で優勝したにもかかわらず、ブルーペンギンズが持ち帰れなかった優勝杯でした。

 おおかたの予想に反して、試合終了のホイッスルが鳴ったとき、両チームの得点は同じでした。しかし優勝カップはもちろん一つしか用意されていませんでしたから、最初の半年は片方のチームで、残りの半年はもう片方のチームで持とうということになりました。
 しかし優勝が決定した瞬間にカップを持って帰れるのは、どちらか一チームだけ。エレンたちブルーペンギンズはこれまで一度も優勝したことがなかったので、早く持って帰りたかったのですが、ずっと優勝してきたフライングスクウィレルズは、当然のように優勝カップを持ち帰りました。しかしその優勝カップがついにやってきたのです。

「おいおい、どうした? 誰も手にしたくはないのかね」
チームで一番大柄のゴールキーパー、クリーシェクはすっとんきょうな声をあげました。
「触ってもいいんですか」
「当たり前じゃ。君たちのカップじゃないか。キャプテン」
そういって監督はクリーシェクの手にカップを握らせました。カップに映った歪んだクリーシェクの目が輝きました。


 そのあとはものすごい熱気でした。カップに触っていいと分かった子どもたちが、我も我もと一度にカップに押し寄せたのです。そこで監督は急遽、カップとの交流会を開催することを決め、その整理には、監督とエレンたち上級生があたることになりました。
 もっとも監督は、ひょっこり顔を出した校長先生と途中でどこかへ行ってしまったし、おしゃべりなラッセは、チーム以外の友達とテレビの話で盛り上がってしまって数に入れられません。したがって、実際に仕事をしているのは、カップを子どもたちに渡す役のクリーシェクと、列の後ろの方で誰かがずるしないように見てまわるエレンの二人だけでした。なのでクリーシェクの大声が上がったとき、エレンは誰がカップに触る番なのか、全然分かっていませんでした。

「私にも持たせてよぉ!」
エレンは聞き覚えのある声に思わず振り返りました。見れば、クリーシェクが触られないように高く持ち上げたカップに触ろうと、レネがぴょんぴょん跳ねているではありませんか! 
「レネ!」
エレンは自分でもびっくりするくらいの大声で叫びました。
「これは優勝に貢献したメンバーにしか触れないんだ。早くあっちに行けったら!」
クリーシェクは怒鳴りました。
 普通の子どもは、身体の大きいクリーシェクにどやされるだけで逃げていきます。しかしこの学校で一番小さな女の子は気にするそぶりさえ見せません。
「やめろ! カップが壊れちまう!」
クリーシェクが面食らっている隙に、レネはカップの持ち手を掴みました。しかし同時にクリーシェクがカップを勢いよく振り回しはじめたので、レネは空中ブランコに乗っているみたいになりました。
 クリーシェクは額に汗を滲ませながらしばらくそうしていましたが、やがて腕を下げると、ぜえぜえとエレンをののしりました。
「エレン、こいつをなんとかしろ! さもないとお前はもう仲間じゃない!」

 エレンはレネを抱きかかえると、カップを握っている妹の指を一本ずつ剥がしにかかりました。
「お願いだから手を離して。これはブルーペンギンズが勝ち取ったから、メンバーにしか触ることはできないんだ。レネはチームのメンバーじゃないだろう」
エレンは辛抱強く妹の手を開かせました。しかし、この小さな身体のどこにそんな力があるのかというほどレネの握力は強く、一本剥がしても、次の一本に取りかかっている間にさっきの指はカップにしがみついて、の繰り返しで、なかなかカップを自由にすることができません。

 エレンはいよいよ黒い思いが押し寄せてくるのを感じました。自分がこんな恐ろしいことを考えつくのが信じられませんでしたが、頭の中でいじわるなことばがふつふつと湧いてきます。必死で頭から振り払らおうとしますが、化学反応のように一度始まったら止まりません。
 いよいよレネを呪うことばが溢れ出すかと思われたその瞬間、エレンははっとしました。レネが泣いています。
「お、おい。俺は知らないぞ」
クリーシェクはあれほど執着していたカップをあっさりと離しました。
 しかしクリーシェクの敵前逃亡など、エレンにはもうどうでもいいことです。エレンは来たるべき災難についてどうしようか焦っていました。あぁ、レネが泣き出す前にエレンは降参するべきだった! たとえ優勝カップといえど、たかが物です。減るものでもないし、好きなだけ触らせてやればよかったのです。

「一回手を離そうか? あとでちゃんと触らせてあげるから。ね?」
ダメもとなのは百も承知で、エレンはレネをなだめすかしてみました。しかしいまのレネにはもう何も届きません。レネはもう何で泣いているのか分からなくなって、ただただ泣いているのです。しかもときどき嗚咽が混ざっています。エレンはどんどん大きくなって割れてしまう風船のことを思い出しました。
「お願いだから手を離してよ。ねぇ、お願い!」
エレンは祈るように言いました。しかしレネの身体に不規則な動きがあったのはまさにこのときで、エレンがまずいと思ったときにはもう手遅れでした。
 レネの小さな肩がちょっといかると、先ほどの小さな予兆は大きな本流となって、レネの身体からその両手で握られた優勝カップへ出て行きました。

 あたりは一瞬水を打ったように静かになりました。エレンは実体を見ませんでしたが、正面にいるクリーシェクのひきつった顔で何が起こったかは嫌という程分かります。そして予想通り、小さな子たちの悲鳴が起こり、その場は騒然としました。それはまるで地震のあとの動物園のようで、誰かが呼んだ女の先生が駆けつけてもやみませんでした。 
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