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第13章 ウォーホランディの赤いピストル
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むきゅっむきゅっ、むきゅっむきゅっ。ヴァイキングの島と大陸をつなぐ砂州は、エレンが踏みしめるたびに、小動物の泣き声にも窓磨きの音にも聞こえる、音の出る砂でできていました。
この海の真ん中にできた白い道は、エレンが歩きはじめて以来どんどん幅を広げ、最終的に方側二車線の高速道路くらいになっていました。しかし太陽が高くなると幅はまた狭まりはじめ、エレンが大陸に着く頃には、時折波間に顔を覗かせていた赤いトマト缶が、だいぶ砂州に置いていかれるようになっていました。
エレンが着いたのは、自動車もテレビもある近代的な都市ウォーホランディ。港にはベルゲンにもあるようなタグボートが並び、洒落たネイビーのウッドデッキが整備されています。しかし何よりエレンを喜ばせたのは、ポテトを揚げる油のしゅわしゅわいう音とハンバーグの焼けるいい匂い。エレンは唾をごくりと飲み込むと、匂いの元と思われるダイナーへ向かいました。
オーロフにもらった大陸の紙幣を握りしめて、食べたいものを全部注文すると、エレンはテラスデッキにあるこの店の特等席に陣取りました。三段重ねの特大ハンバーガーに、皮付きフライドポテト。そしてコーラ! これです。これ、これ! これが食べたかったんです。何時間も歩いてお腹ぺこぺこだったエレンは、無我夢中で食べました。
味を楽しみたいばかりに、エレンがいつまでも手についたポテトの塩を舐めていると、突然店内に悲鳴が響きました。慌てて振り返えると、お店のおばさんがちょうどカウンターの下に隠れようとしているところです。エレンが様子を見に行こうと立ち上がった瞬間、何か冷たいものがぴちゃっと頬に当たりました。触ってみると、それは真っ赤なトマトケチャップでした。
エレンが顔を上げると、げちゃげちゃと品の悪い笑い声がして、四人組の男の子たちが窓の外から覗き込んでいるのが目に入りました。年はエレンと同じくらいか、それより下で、それぞれの手には「ナツィオン・ケチャップ」と書かれた赤いボトルを装填した銃が握られています。エレンはむっとして言いました。
「なんてことするの。ひどいじゃないか」
お腹いっぱい美味しいものを食べて幸せな気分だったのに、これではぶち壊しです。エレンはなんとしても謝らせようと決意しました。なのに男の子たちは、敵はまだ生きているぞ、援護しろとか言って、エレンがケチャップまみれになるまで攻撃をやめませんでした。
男の子たちが逃げ去ると、エレンのまわりにはケチャップの水たまりができていました。エレンが惨めさのあまり呆然としていると、カウンターの奥からおばさんが出てきて、冷たいけど我慢してよ、とバケツ一杯の水をかけてくれました。すると頭の先から靴の先までまんべんなくついていたケチャップはほとんど洗い流され、どろどろと排水溝へ流れていきました。
「旅行者でしょう。驚かせて悪かったね。子どもたちの間であのケチャップ銃が流行っていてね。誰彼構わず、発射するんだよ」
赤いタオルをエレンに渡すと、おばさんはエレンの服をつまんでじっと見つめました。
「あーあ。やっぱりシミになっちゃってる」
おばさんがつまんだところを見ると、水を浴びたのとは違う変色した部分があります。エレンがあとで洗うから大丈夫です、というとおばさんは首を横に振りました。
「このケチャップはケーニヒさんとこの店じゃないと落ちないんだよ」
ケーニヒというのはナツィオン・ケチャップを町で唯一落とすことができるクリーニング屋でしたが、ノウハウを独占しているということで、料金がべらぼうに高いことで有名でした。しかしケーニヒの店以外にケチャップを落とせるところがないので、みんな渋々通っているのでした。
「全部が全部クリーニングに出せないから、みんなお気に入りの服は着ないようにしたり、赤い服ばかり着たりしているのさ。あんたも着替えを買うなら気をつけて」
おばさんの言っていたことは本当で、町には赤い服か、だめになっても諦めがつくようなお古を着た人しかいませんでした。それにお店で売っているのも赤い服ばかりです。中にはケチャップ銃を浴びても絵になるように、絵の具をぶちまけたようなデザインのTシャツもありましたが、エレンは無難なTシャツと赤いパーカー、それにジーンズを買いました。
新しい服に着替えてさっぱりすると、エレンは噂のケーニヒの店に向かいました。ケチャップをかけられた服はオレグのものだったので、きちんとクリーニングしたかったのです。ケーニヒの店は繁盛しているだけあって、町で一番地価の高いメインストリートに店を構えているとのことでした。エレンは標識を頼りになんとなく進みましたが、ある角を曲がった途端、それまでと百八十度様子が変わったので、ストリートに入ったことがすぐに分かりました。
このストリートにはナツィオン・ケチャップ社をはじめとする大企業の本社や、工場に勤務する労働者たちのために作られた高層アパート、それに彼らに供給する食べ物や衣服や娯楽品を取り扱う大型商業施設が立ち並んでいて、とても都会的です。しかし下から見上げるだけでも目が回りそうな高層ビルに住んだり、秒刻みで働いたりするとしたら、いくらハイソな暮らしでも、エレンはここの住人になりたいとは思いませんでした。
さて、ケーニヒの店はウォーホランディの中心から三ブロックいった角にありました。清潔感溢れる白を基調とした建物に、気品ある濃紺の筆記体で書かれた看板がかけられています。
「ケーニヒ・クリーニング店 月曜日~土曜日 朝七時~夜七時」
どの横断歩道を渡る人にも一目で分かるように、店の入り口をブロックの角に設えているあたりはさすがです。ちょっとした階段を上がってドアを開けると、ドアベルがチリンと鳴りました。
広い店内にはやはり白を基調としたカウンターと、クリーム色と紺色の配色が光る待ち合い椅子があり、なかなか洒落た内装です。カウンターの奥のハンガーラックに出来上がった衣服が、整然と並べられた様も好印象を与えます。しかし看板に書いてある営業時間内にも関わらず、カウンターには誰もいません。店の奥からは、パンッパンッという洗濯物の皺を伸ばす音が聞こえてくるのに、誰も対応しようとしないのです。
エレンはドアベルが聞こえなかったのかと思って、わざと大きな咳払いをしてみました。しかし誰も出てきません。仕方なく大きな声でこんにちはと言ってみましたが、それでも反応がありません。ダイナーのおばさんが高飛車な店だと言っていましたが、あんまりです。エレンはカウンターをくぐって、奥へ続く廊下をすすみました。
狭い廊下は洗濯待ちの衣料品がところ狭しと置かれていました。洗剤やブラシ、洗濯バサミにアイロンが置かれた水色の棚もありましたが、とにかく洗濯物の量がものすごいのです。ほとんどは白い服でしたが、中には水色や黄色もあり、どれも真っ赤なケチャップが付着しています。それぞれの洗濯物にはタグがついていて、持ち主の名前、預かり日、それに「袖のボタンとれかけ」といった特記事項が書かれています。
エレンが天井まで堆く積まれた洗濯物の山に見入っていると、またあのパンッパンッという洗濯物の皺を伸ばす音が聞こえてきました。エレンは棚に隠れるようにそっと裏庭を覗きました。
気持ちのいい風に翻る真っ白なシーツのカーテンの向こうで、誰かがせわしなく洗濯をしています。エレンはすぐさま声をかけようと思いましたが、お店のプライベートな部屋にエレンがいて、しかも誰も出てこないなんてどうなっているんだ、なんて言ったら、お店の人はどう思うでしょう。下手をすると、警察に突き出されるかもしれません。
このまま待合室に戻ろうと思い始めたそのとき、ピンと張っていた洗濯ひもに突然びーんと振動がありました。そして次の瞬間には、何者かがシーツに突っ込んで、干してあったものだけでなく、ひもを結びつけていた支柱までなぎ倒して、あたりはめちゃめちゃになりました。
エレンはすぐに助けに行こうとしましたが、見覚えのある二人組がもぞもぞと洗濯物の山から顔を覗かせたので、慌てて物陰に隠れました。それはあの、ひょろりと小男・ガストンでした。空飛ぶトラムには乗れなかったけれど、どうにかここまで追って来たのでしょう。
ひょろりがふとこちらを見た気がしたので、エレンはどきりとしました。悪党二人は目と鼻の先です。エレンはどきどきしすぎて心臓の音が聞こえてしまうのではないかと思いました。しかしもっと驚くべきことが起きたので、ひょろりはすぐにそちらに気をとられました。だって洗濯物の山から、なんとレネが姿を現したのです!
レネが二人の間に飛び出すかたちになったのに、状況を飲み込めなかったのか、男たちはしばらく目をぱちくりさせるだけでした。しかしこれがまたとない機会であることにやっとこさ気がつくと、一斉にレネに飛びかかりました。幸いレネは、慌てふためくガストンの顔を踏んずけて鮮やかに逃げきりましたが。
「なんてすばしっこい奴なんだ」
玉のような汗を拭おうと、ガストンは律儀にハンカチを取り出しました。しかしひょろりに突き飛ばされたので、イニシャル入りのハンカチは空を撫でただけになりました。そしてハンカチの代わりに、前のめりにつっぷしたガストンの汗は、散乱した洗濯物にしみ込むことになりました。
他方相棒をぞんざいに扱ったひょろりは、ものすごい勢いでシーツをかき分けていましたが、やがて何かを引っ張りだすと、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべました。お気に入りの帽子がガストンの下敷きになって形が崩れています。
「ご、ご、ご、ごめんよ、アルフォンス兄貴。そこに帽子があるなんて思わなくて」
ガストンはアルフォンスひょろりの帽子をなんとか元に戻そう躍起になりました。しかしもう遅すぎました。帽子はガストンプレスで、ぺっちゃんこを形状記憶していたのです。アルフォンスは帽子を地面に叩き付けました。
「くそっ!」
「兄貴、そんなことしちゃいけません。これはまた必要になるんだから」
ガストンは帽子を拾い上げ、そっと埃を払いました。
「お前、本気でそんなことを思っているのか。それともそう言えば俺が安心するからか。ガストン、お前とは長い付き合いだが、いい加減なことは言うものじゃない。俺はいまあれを躍起になって探しているが、近頃はそもそもそんなものはなかったようにも思うのだ」
アルフォンスがしんみりこう言ったので、ガストンは必死に否定しました。
「何を弱気になっているんです。あいつを取り戻せば、すべてうまくいくに決まってます。上手いものでも食べて計画を練り直しましょう。通りの向こうに日本食のレストランがありましたぜ」
「なぜそれを早く言わない。日本食は足の早いものが多いんだ。急がないと追いつけなくなるぞ」
そういってアルフォンスが足早に立ち去ったので、短足のガストンは全速力で追いかけなくてはなりませんでした。
謎の二人組が行ってしまうと、エレンは洗濯物に埋もれた人物を助けるため裏庭に出ました。みなさんは忘れてしまったかもしれませんが、シーツをパンパンしていたあの人物はまだ発掘されていないのです。
それにしても、アルフォンスにあんな気弱な一面があったなんて。レネに大切なものを食べられて追い回しているというのは知っていましたが、あれほど落ち込むということはよほど大事なものなのでしょう。脅し方こそ卑劣ですが、エレンはなんだかアルフォンスが気の毒に思えてきました。
そんなことを考えながら掘り進んでいると、エレンは渦中の人物の腕を探り当てました。小さくて柔らかな手からして、小さな女の子かもしれません。気を失ってしまったらしく、ぐったりとしていますが、エレンなんとかその人を救出することに成功しました。しかしひっぱりだしてびっくり仰天。現われたのはまったく予想外の人物だったのです。
「フラッフィ!」
エレンは思わず大きな声を上げました。レネの安心毛布にして相談役のくまさん、フラッフィがどうしてここにいるのでしょう。しかもフラッフィはたしか、エレンが家の裏の森に投げ捨てたはずです。
「真っ白ふんわりおひさまのにおい。ケーニヒ・クリーニング店へようこそ。お洗濯コースは通常ですか、お急ぎですか」
まだ半分気を失っているのに、フラッフィはとても流暢に話しました。
しかしエレンが身体を少し揺さぶってやると、フラッフィは完全に意識を取り戻して、ねずみ取りのバネみたいに飛び起きました。
「ごめんなさい、店長! 僕、決してさぼるつもりは・・・あれ」
「フラッフィ! エレンだよ。まさかこんな風に会えるなんて。なんて懐かしいんだろう。実はレネが猫になっちゃったんだ。さっきいた、あの猫さ」
エレンは思わずフラッフィを抱きしめました。しかしフラッフィの方はまったくそっけない態度を示して、うんざりしたような重いため息までつきました。またフラッフィはエレンのことを知らない風で、レネについて訊いてもまったくなびく気配がないのでした。
「エレン、今日は会えてよかったよ。でも僕はレネなんて人は知りもしないし、そもそも君の思っているようなくまじゃないんだ。気が済んだら帰っておくれ」
ぞんざいにエレンとの握手を済ませると、フラッフィはまたまた大きな溜息をつきました。綺麗に洗い上げた洗濯物が泥だらけになっています。落胆するのも無理はありません。エレンが手伝いを申し出ようかしらと思案していると突然、男の怒鳴り声がしました。
「フラッフィ、何をやってる! 仕事はうんと残ってるんだぞ!」
それはクリーニング店の二階から見下ろしている、恰幅の良い頭の禿げ上がった男で、ひん曲がった口の上には黒々とした口ひげが乗っていました。しかしこの男の一番の特徴は、こめかみのあたりからにょろりと立ち上がった一本の毛で、しかもなんとほくろから生えています。まわりがきれいに禿げ上がっている分、これはかなり目を引きます。
「すみません、ケーニヒさん。すぐにやり直しますから」
雇用主に詫びを入れると、フラッフィは黙々と洗濯物を集めはじめました。
エレンは、悪いのはフラッフィじゃないと言わないのかと耳打ちしましたが、フラッフィは眉間に皺を寄せて、迷惑だからやめてくれと言いました。こういわれては取りつく島もありません。エレンはすごすご帰るほかありませんでした。
この海の真ん中にできた白い道は、エレンが歩きはじめて以来どんどん幅を広げ、最終的に方側二車線の高速道路くらいになっていました。しかし太陽が高くなると幅はまた狭まりはじめ、エレンが大陸に着く頃には、時折波間に顔を覗かせていた赤いトマト缶が、だいぶ砂州に置いていかれるようになっていました。
エレンが着いたのは、自動車もテレビもある近代的な都市ウォーホランディ。港にはベルゲンにもあるようなタグボートが並び、洒落たネイビーのウッドデッキが整備されています。しかし何よりエレンを喜ばせたのは、ポテトを揚げる油のしゅわしゅわいう音とハンバーグの焼けるいい匂い。エレンは唾をごくりと飲み込むと、匂いの元と思われるダイナーへ向かいました。
オーロフにもらった大陸の紙幣を握りしめて、食べたいものを全部注文すると、エレンはテラスデッキにあるこの店の特等席に陣取りました。三段重ねの特大ハンバーガーに、皮付きフライドポテト。そしてコーラ! これです。これ、これ! これが食べたかったんです。何時間も歩いてお腹ぺこぺこだったエレンは、無我夢中で食べました。
味を楽しみたいばかりに、エレンがいつまでも手についたポテトの塩を舐めていると、突然店内に悲鳴が響きました。慌てて振り返えると、お店のおばさんがちょうどカウンターの下に隠れようとしているところです。エレンが様子を見に行こうと立ち上がった瞬間、何か冷たいものがぴちゃっと頬に当たりました。触ってみると、それは真っ赤なトマトケチャップでした。
エレンが顔を上げると、げちゃげちゃと品の悪い笑い声がして、四人組の男の子たちが窓の外から覗き込んでいるのが目に入りました。年はエレンと同じくらいか、それより下で、それぞれの手には「ナツィオン・ケチャップ」と書かれた赤いボトルを装填した銃が握られています。エレンはむっとして言いました。
「なんてことするの。ひどいじゃないか」
お腹いっぱい美味しいものを食べて幸せな気分だったのに、これではぶち壊しです。エレンはなんとしても謝らせようと決意しました。なのに男の子たちは、敵はまだ生きているぞ、援護しろとか言って、エレンがケチャップまみれになるまで攻撃をやめませんでした。
男の子たちが逃げ去ると、エレンのまわりにはケチャップの水たまりができていました。エレンが惨めさのあまり呆然としていると、カウンターの奥からおばさんが出てきて、冷たいけど我慢してよ、とバケツ一杯の水をかけてくれました。すると頭の先から靴の先までまんべんなくついていたケチャップはほとんど洗い流され、どろどろと排水溝へ流れていきました。
「旅行者でしょう。驚かせて悪かったね。子どもたちの間であのケチャップ銃が流行っていてね。誰彼構わず、発射するんだよ」
赤いタオルをエレンに渡すと、おばさんはエレンの服をつまんでじっと見つめました。
「あーあ。やっぱりシミになっちゃってる」
おばさんがつまんだところを見ると、水を浴びたのとは違う変色した部分があります。エレンがあとで洗うから大丈夫です、というとおばさんは首を横に振りました。
「このケチャップはケーニヒさんとこの店じゃないと落ちないんだよ」
ケーニヒというのはナツィオン・ケチャップを町で唯一落とすことができるクリーニング屋でしたが、ノウハウを独占しているということで、料金がべらぼうに高いことで有名でした。しかしケーニヒの店以外にケチャップを落とせるところがないので、みんな渋々通っているのでした。
「全部が全部クリーニングに出せないから、みんなお気に入りの服は着ないようにしたり、赤い服ばかり着たりしているのさ。あんたも着替えを買うなら気をつけて」
おばさんの言っていたことは本当で、町には赤い服か、だめになっても諦めがつくようなお古を着た人しかいませんでした。それにお店で売っているのも赤い服ばかりです。中にはケチャップ銃を浴びても絵になるように、絵の具をぶちまけたようなデザインのTシャツもありましたが、エレンは無難なTシャツと赤いパーカー、それにジーンズを買いました。
新しい服に着替えてさっぱりすると、エレンは噂のケーニヒの店に向かいました。ケチャップをかけられた服はオレグのものだったので、きちんとクリーニングしたかったのです。ケーニヒの店は繁盛しているだけあって、町で一番地価の高いメインストリートに店を構えているとのことでした。エレンは標識を頼りになんとなく進みましたが、ある角を曲がった途端、それまでと百八十度様子が変わったので、ストリートに入ったことがすぐに分かりました。
このストリートにはナツィオン・ケチャップ社をはじめとする大企業の本社や、工場に勤務する労働者たちのために作られた高層アパート、それに彼らに供給する食べ物や衣服や娯楽品を取り扱う大型商業施設が立ち並んでいて、とても都会的です。しかし下から見上げるだけでも目が回りそうな高層ビルに住んだり、秒刻みで働いたりするとしたら、いくらハイソな暮らしでも、エレンはここの住人になりたいとは思いませんでした。
さて、ケーニヒの店はウォーホランディの中心から三ブロックいった角にありました。清潔感溢れる白を基調とした建物に、気品ある濃紺の筆記体で書かれた看板がかけられています。
「ケーニヒ・クリーニング店 月曜日~土曜日 朝七時~夜七時」
どの横断歩道を渡る人にも一目で分かるように、店の入り口をブロックの角に設えているあたりはさすがです。ちょっとした階段を上がってドアを開けると、ドアベルがチリンと鳴りました。
広い店内にはやはり白を基調としたカウンターと、クリーム色と紺色の配色が光る待ち合い椅子があり、なかなか洒落た内装です。カウンターの奥のハンガーラックに出来上がった衣服が、整然と並べられた様も好印象を与えます。しかし看板に書いてある営業時間内にも関わらず、カウンターには誰もいません。店の奥からは、パンッパンッという洗濯物の皺を伸ばす音が聞こえてくるのに、誰も対応しようとしないのです。
エレンはドアベルが聞こえなかったのかと思って、わざと大きな咳払いをしてみました。しかし誰も出てきません。仕方なく大きな声でこんにちはと言ってみましたが、それでも反応がありません。ダイナーのおばさんが高飛車な店だと言っていましたが、あんまりです。エレンはカウンターをくぐって、奥へ続く廊下をすすみました。
狭い廊下は洗濯待ちの衣料品がところ狭しと置かれていました。洗剤やブラシ、洗濯バサミにアイロンが置かれた水色の棚もありましたが、とにかく洗濯物の量がものすごいのです。ほとんどは白い服でしたが、中には水色や黄色もあり、どれも真っ赤なケチャップが付着しています。それぞれの洗濯物にはタグがついていて、持ち主の名前、預かり日、それに「袖のボタンとれかけ」といった特記事項が書かれています。
エレンが天井まで堆く積まれた洗濯物の山に見入っていると、またあのパンッパンッという洗濯物の皺を伸ばす音が聞こえてきました。エレンは棚に隠れるようにそっと裏庭を覗きました。
気持ちのいい風に翻る真っ白なシーツのカーテンの向こうで、誰かがせわしなく洗濯をしています。エレンはすぐさま声をかけようと思いましたが、お店のプライベートな部屋にエレンがいて、しかも誰も出てこないなんてどうなっているんだ、なんて言ったら、お店の人はどう思うでしょう。下手をすると、警察に突き出されるかもしれません。
このまま待合室に戻ろうと思い始めたそのとき、ピンと張っていた洗濯ひもに突然びーんと振動がありました。そして次の瞬間には、何者かがシーツに突っ込んで、干してあったものだけでなく、ひもを結びつけていた支柱までなぎ倒して、あたりはめちゃめちゃになりました。
エレンはすぐに助けに行こうとしましたが、見覚えのある二人組がもぞもぞと洗濯物の山から顔を覗かせたので、慌てて物陰に隠れました。それはあの、ひょろりと小男・ガストンでした。空飛ぶトラムには乗れなかったけれど、どうにかここまで追って来たのでしょう。
ひょろりがふとこちらを見た気がしたので、エレンはどきりとしました。悪党二人は目と鼻の先です。エレンはどきどきしすぎて心臓の音が聞こえてしまうのではないかと思いました。しかしもっと驚くべきことが起きたので、ひょろりはすぐにそちらに気をとられました。だって洗濯物の山から、なんとレネが姿を現したのです!
レネが二人の間に飛び出すかたちになったのに、状況を飲み込めなかったのか、男たちはしばらく目をぱちくりさせるだけでした。しかしこれがまたとない機会であることにやっとこさ気がつくと、一斉にレネに飛びかかりました。幸いレネは、慌てふためくガストンの顔を踏んずけて鮮やかに逃げきりましたが。
「なんてすばしっこい奴なんだ」
玉のような汗を拭おうと、ガストンは律儀にハンカチを取り出しました。しかしひょろりに突き飛ばされたので、イニシャル入りのハンカチは空を撫でただけになりました。そしてハンカチの代わりに、前のめりにつっぷしたガストンの汗は、散乱した洗濯物にしみ込むことになりました。
他方相棒をぞんざいに扱ったひょろりは、ものすごい勢いでシーツをかき分けていましたが、やがて何かを引っ張りだすと、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべました。お気に入りの帽子がガストンの下敷きになって形が崩れています。
「ご、ご、ご、ごめんよ、アルフォンス兄貴。そこに帽子があるなんて思わなくて」
ガストンはアルフォンスひょろりの帽子をなんとか元に戻そう躍起になりました。しかしもう遅すぎました。帽子はガストンプレスで、ぺっちゃんこを形状記憶していたのです。アルフォンスは帽子を地面に叩き付けました。
「くそっ!」
「兄貴、そんなことしちゃいけません。これはまた必要になるんだから」
ガストンは帽子を拾い上げ、そっと埃を払いました。
「お前、本気でそんなことを思っているのか。それともそう言えば俺が安心するからか。ガストン、お前とは長い付き合いだが、いい加減なことは言うものじゃない。俺はいまあれを躍起になって探しているが、近頃はそもそもそんなものはなかったようにも思うのだ」
アルフォンスがしんみりこう言ったので、ガストンは必死に否定しました。
「何を弱気になっているんです。あいつを取り戻せば、すべてうまくいくに決まってます。上手いものでも食べて計画を練り直しましょう。通りの向こうに日本食のレストランがありましたぜ」
「なぜそれを早く言わない。日本食は足の早いものが多いんだ。急がないと追いつけなくなるぞ」
そういってアルフォンスが足早に立ち去ったので、短足のガストンは全速力で追いかけなくてはなりませんでした。
謎の二人組が行ってしまうと、エレンは洗濯物に埋もれた人物を助けるため裏庭に出ました。みなさんは忘れてしまったかもしれませんが、シーツをパンパンしていたあの人物はまだ発掘されていないのです。
それにしても、アルフォンスにあんな気弱な一面があったなんて。レネに大切なものを食べられて追い回しているというのは知っていましたが、あれほど落ち込むということはよほど大事なものなのでしょう。脅し方こそ卑劣ですが、エレンはなんだかアルフォンスが気の毒に思えてきました。
そんなことを考えながら掘り進んでいると、エレンは渦中の人物の腕を探り当てました。小さくて柔らかな手からして、小さな女の子かもしれません。気を失ってしまったらしく、ぐったりとしていますが、エレンなんとかその人を救出することに成功しました。しかしひっぱりだしてびっくり仰天。現われたのはまったく予想外の人物だったのです。
「フラッフィ!」
エレンは思わず大きな声を上げました。レネの安心毛布にして相談役のくまさん、フラッフィがどうしてここにいるのでしょう。しかもフラッフィはたしか、エレンが家の裏の森に投げ捨てたはずです。
「真っ白ふんわりおひさまのにおい。ケーニヒ・クリーニング店へようこそ。お洗濯コースは通常ですか、お急ぎですか」
まだ半分気を失っているのに、フラッフィはとても流暢に話しました。
しかしエレンが身体を少し揺さぶってやると、フラッフィは完全に意識を取り戻して、ねずみ取りのバネみたいに飛び起きました。
「ごめんなさい、店長! 僕、決してさぼるつもりは・・・あれ」
「フラッフィ! エレンだよ。まさかこんな風に会えるなんて。なんて懐かしいんだろう。実はレネが猫になっちゃったんだ。さっきいた、あの猫さ」
エレンは思わずフラッフィを抱きしめました。しかしフラッフィの方はまったくそっけない態度を示して、うんざりしたような重いため息までつきました。またフラッフィはエレンのことを知らない風で、レネについて訊いてもまったくなびく気配がないのでした。
「エレン、今日は会えてよかったよ。でも僕はレネなんて人は知りもしないし、そもそも君の思っているようなくまじゃないんだ。気が済んだら帰っておくれ」
ぞんざいにエレンとの握手を済ませると、フラッフィはまたまた大きな溜息をつきました。綺麗に洗い上げた洗濯物が泥だらけになっています。落胆するのも無理はありません。エレンが手伝いを申し出ようかしらと思案していると突然、男の怒鳴り声がしました。
「フラッフィ、何をやってる! 仕事はうんと残ってるんだぞ!」
それはクリーニング店の二階から見下ろしている、恰幅の良い頭の禿げ上がった男で、ひん曲がった口の上には黒々とした口ひげが乗っていました。しかしこの男の一番の特徴は、こめかみのあたりからにょろりと立ち上がった一本の毛で、しかもなんとほくろから生えています。まわりがきれいに禿げ上がっている分、これはかなり目を引きます。
「すみません、ケーニヒさん。すぐにやり直しますから」
雇用主に詫びを入れると、フラッフィは黙々と洗濯物を集めはじめました。
エレンは、悪いのはフラッフィじゃないと言わないのかと耳打ちしましたが、フラッフィは眉間に皺を寄せて、迷惑だからやめてくれと言いました。こういわれては取りつく島もありません。エレンはすごすご帰るほかありませんでした。
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