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第14章 洗濯屋のくまちゃん
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ほうれん草の緑が鮮やかな牡蠣グラタンを食べながら、エレンは今日のことを考えていました。この町にレネとフラッフィがいると分かったことは大きな収穫です。しかし依然としてレネの居所は分からないし、仲間になってくれるかと思ったフラッフィは、エレンのことを覚えていないばかりか、非友好的でした。それに当てにしてはいないけれど、リンにも会えていません。こんなことなら薄情なリンでもいたらいいのに。マカロニを刺したフォークをエレンはお皿に戻しました。
それにしても、まわりはなんて楽しそうなのでしょう。ムードのある間接照明のせいか、お客の陽気な雰囲気のせいか、ダイナーは昼とはまったく違う顔を見せています。エレンはなんとなく目のやり場に困って、カウンターにあるテレビに視線を移しました。
先ほどから何度も流れているクノックス商会のCMがまた流れています。これはちょっとユニークなCMで、平和そうな家庭に突如マフィア風の男たちが押し入るところから始まります。サングラスに黒ずくめの服を着た男たちは「あと一日待ってくれだと?」とか、「逃げようったってそうはいかない」とかすごんで家族を外へ連れ出すと、煙の出るボールのようなものを家に投げ入れます。当然家族はひどく取り乱し、殴り掛かりもするのですが、実はこれは害虫を駆除する道具で、煙を吸ったネズミやゴキブリはまもなく苦しみ出します。
「こんなに蝕まれていたなんて!」
「感謝してもしきれません。あなた方は一体・・・」
家族は謎の男たちに名前を尋ねますが、男たちはクールに去っていくばかり。そして最後に「あなたの平和を守るクノックス商会」のテロップが出て、CMは終わるのです。
なかなか趣向を凝らしたCMでしたが、エレンはもう十回は見ていたので、そろそろ別のものが見たいなと思いました。すると、エレンの願いが叶えられてまだ一度も見たことのないCMが流れました。甘い色使いに、キャッチーな音楽。先ほどとは打って変わって、楽しそうな雰囲気です。エレンは箸を休めて、待ち構えました。
「真っ白ふんわりおひさまのにおい。ケーニヒ・クリーニング店で、あの幸せをもう一度!」
エレンはあやうくフォークを取り落としそうになりました。画面いっぱいに映っているのは、フラッフィです。加工修正されているのか、実際よりずっと白くて天真爛漫な印象ではありますが、とにかくフラッフィが映っているのです。
動いてしゃべっているだけでも違和感があるのに、まさかCMに出ているなんて。こちらの世界のフラッフィは、エレンの予想をはるかに越えた活躍ぶりです。しかし驚く同時に、エレンはなるほどと思いました。このような映像が流れているせいで、店にはフラッフィを一目見たい客が殺到し、しかも誰もが実際とはかけ離れたフラッフィ像を期待するのです。フラッフィはそれに疲れてしまったのでしょう。だからエレンのこともファンの一人だと思ってそっけなくしたのです。お店のイメージアップのためとはいえ、エレンはフラッフィの戸惑いを想像して切なくなり、席を立ちました。
しかし店を出ようとしたその瞬間、誰かが飛び込んできたので、エレンは後ろにひっくり返りました。
打ちつけた肘を擦りさすり起き上がると、ちょうど相手も起き上がるところだったので、エレンは図らずも自分の出端をくじいた相手の顔を拝むことになりました。そしてそれはまたしても予想しなかった人物、リンでした。この町の若者らしいボーダーのロングTシャツにデニムのジーンズを着ています。
「リンさん! 言いたいことは山ほどあるんだ」
エレンの頭に一気に血が上りました。ドラゴンの試練に際してのリンの仕打ちを思い出したのです。しかしリンに口を押さえられたので、それ以上食ってかかることができなくなりました。
「話はあとあと! 急いで逃げないと」
リンはエレンを連れて、ダイナーの前のウッドデッキを下りはじめました。ボートを乗りつけられるように海面すれすれに最下段が作られている螺旋階段で、そこはちょうどお店のあるデッキから死角になっていました。
リンはそこまで階段を下りてしまうと、身を屈め、唇に指を押し当てて、しーっとやりました。するとまもなくエレンたちのすぐ頭上のウッドデッキを歩き回るハイヒールの音が聞こえてきました。そしてその女の人は甘ったるい声でリンリン!と呼びかけました。しかししばらく呼んでも返事がないので、やがて諦めたのか去っていきました。
フラッフィのいるケーニヒ・クリーニング店に向かう途中で分かったのですが、さっきのハイヒールの女の人はやはりリンがナンパをした女の子でした。
「いや、まいったよ。都会の女の子って積極的なんだもの」
リンはハンバーガーを頬張りながら、まったく悪びれもせず言いました。夕ご飯がまだだというのでエレンがダイナーを紹介したのです。
「これ、うまいなぁ。それでその妹ちゃんの相棒をどうやって口説き落とすの」
「説得って言ってくれる。とにかくフラッフィはあんなところで働くべきじゃないんだ。だからお店をやめさせてレネを一緒に探す。レネの親友だからきっと色々分かると思うんだ」
「ふーん。でもエレンのことは覚えていなかったんだろ。妹ちゃんのことも覚えてるかなぁ」
リンの指摘はずばりでした。エレンに崖から落とされたショックのせいなのか、フラッフィはベルゲンでの記憶をなくしていました。
「だとしてもフラッフィのことはたすけなきゃ。あそこの労働環境はひどいんだから」
エレンはダイナーで作ってもらったチキンサンドイッチを確認しました。自分の夕食は終わっていましたが、朝から働き詰めのフラッフィに差し入れしようと、リンがハンバーガーを買うときに一緒に買ったのです。フラッフィがどんなものを食べるのかは分かりませんでしたが、まだほんのり温かみが残っています。早く食べさせてあげたくて、エレンは歩調を早めました。
営業時間を過ぎていたため、ケーニヒの店は電気が消え、シェードが下りていました。しかし裏庭側の歩道に、ニューヨークの街並によくあるような、地下室へ続く階段があって、そこから微かな光が漏れているのに、エレンは気がつきました。
カフェカーテンのかかった窓の向こうに、ひとり食事をとるフラッフィが見えます。部屋の中にはベッドと簡単なダイニングテーブル、ミニ冷蔵庫、電子レンジ、それにコンロが一つだけついたガスキッチンがあり、蓋の空いたスープ缶も見てとれます。エレンは窓をコツコツ叩きました。
「君はたしか昼間の。一体どうしたんだい」
フラッフィはとても驚いた様子でしたが、それでもすぐに中へ通してくれました。中に入ると、ままごとの家みたいな室内はますます狭く感じられました。
「君に話したいことがあって。それとこれを」
エレンは缶入りスープと冷凍パンしか乗っていないテーブルに、ダイナーで買ったチキンサンドイッチを置きました。フラッフィはすぐに包みを開けて、わあっと声を上げました。
「これはもしかして人が作ったものなの。その、工場で作っていないという意味で。僕、手作りのものなんて食べたことないよ」
フラッフィはしばらくサンドイッチをじっと見つめていましたが、やがて大きな口でかぶりつくと、あっと言う間に食べてしまいました。
フラッフィが一息つくと、エレンは気になっていたことを一つずつ訊きました。まずはここでの生活について。これはエレンの予想通り、あまりいいものではないようでした。しかしフラッフィは、仕方ないのだと言いました。それはこういうわけでした。
フラッフィは記憶というものがはじまったとき、この町のごみ捨て場に捨てられていました。そこに来る前にどういう過去があったのかは分かりませんでしたが、とにかく身体はぼろぼろでした(エレンは心の中で猛烈に反省しました)。中でも右腕は悲惨なもので、糸一本でつながっているだけでした。もちろんフラッフィは助けを求めましたが、そこは町外れのスラムだったので、みんな自分のことで手一杯。フラッフィに同情を寄せるような人はありませんでした。しかしクリーニング屋のケーニヒだけは違いました。ケーニヒは次のトマト祭までに溜まっている洗濯物を洗いきってくれるなら助けようと申し出たのです。当時ケーニヒは一人でお店をやっていて、トマト祭で大量に出る洗い物を裁ききれず、助手を探していたのです。フラッフィは喜んでこの申し出を受けました。
そういうわけで、ケーニヒにとれかけた右腕を縫い付けてもらったフラッフィは、クリーニング店を手伝うようになりました。すると店先に立つ可愛いフラッフィに会いたいお客が殺到して、店の売上はうなぎ上りに増えました。注文が増えた分忙しくはなりましたが、二人ともよく働き、洗い物の山は少しずつ小さくなっていきました。けれどトマト祭が近づく頃になると、ケーニヒはだんだん目つきが険しくなって、フラッフィに辛くあたるようになりました。フラッフィが去って、お店の人気が落ちることを怖れたのです。
そんな中、町ではナツィオン・ケチャップ社製のおもちゃのピストルが流行しはじめました。ケーニヒはいち早くこのケチャップを落とす洗剤を開発して、ご存知のようにますます注文を増やしました。しかしそのせいで洗濯物の山はまた大きくなり、トマト祭までに洗いきることは不可能になりました。もちろんフラッフィは何度もトマト祭で仕事をやめたいと伝えました。しかしケーニヒは残っている洗濯物を指して、トマト祭までに洗いきってから言え、と怒鳴るのでした。
「それじゃいつまでたっても辞められないじゃない。いっそのこと逃げればいいのに」
エレンがこう言うと、フラッフィは首を横に振りました。
「僕の右腕を縫った糸は契約の糸だったんだ。契約を破って逃げたら、僕の腕はとれてしまう」
「とれたらまた縫えばいいじゃない」
さっきからずっと冷蔵庫を開けたり閉めたりしているリンが言いました。ヴァイキングの島には冷蔵庫がないので冷気が出るのが不思議なのです。
「人形だって君たちと同じ。一度とれてしまったらもうそれきりなんだ。それとも君は腕一本なくすのは大したことないって言うの」
フラッフィに冷蔵庫のドアをばたんと閉められて、リンはちょっと怯みました。
「それなら僕らが手伝うのはどうかな。それか洗濯機を使うとか」
エレンが提案すると、フラッフィはまたしてもダメだと言いました。なんでもこの店は手洗いがウリで、洗濯機を使うのも他人に手伝ってもらうのも、契約違反になってしまうのでした。
「そしたら、もう、くまさんがひとりでがむしゃらに働くしかないじゃん」
リンは金色の前髪を吹き上げました。フラッフィも同意せざるをえません。
「せめて洗濯物が減れば見込みはあるけど、こうケチャップ銃が流行ってちゃね」
「ケチャップ銃が洗濯物を増やす・・・そうか! それだよ!」
エレンはフラッフィの両手とぶんぶん握手しました。
さて次の日からエレンとリンは忙しく立ち回りました。二人はなんとフラッフィの部屋に下宿することになったのですが、ケーニヒに見つからないように朝早くそこを出ると、新聞スタンドで街の地図を買って、過去にケチャップ発射事件があった場所を歴訪しました。無防備な観光客が多い広場や美術館前、ジョギングや犬の散歩をする市民が憩う公園、繰り返し被害に遭う雷親父の家・・・そのほか子どもたちが行きそうな場所ならすべて二人は見てまわりました。そして出会った人から聞いたことや、実際に行ってみて分かったことをすべて地図に書き込みました。
やがて学校を終えた子どもたちがケチャップ銃を手に、それらのスポットにたむろするようになると、エレンはリンを使って片っ端から銃を取り上げました。エレンにとってはふにゃふにゃしたリンでも、何も知らない子どもたちにとっては背が高くて圧倒される人物です。リンが実力行使にでなくても、子どもたちはあっさり武器を捨て去りました。ときにはすべての銃を取り上げることができないほど大人数のグループもありましたが、そういうときはリーダーを狙いました。これはリーダーが銃をなくしたら子分は使いにくいだろうというリンの案でしたが、なるほど一理あるようでした。
たしかにこの作戦は地道だし、服がケチャップまみれになるという代償はありましたが、次第に効果が現われはじめました。没収した銃の数はどんどん増えていったし、毎日つけている洗濯物の預かり帳簿の行が、少しずつではありましたが、確実に右肩下がりになってきたのです。しかもケーニヒは仕事をフラッフィ任せにしていたので、そのことにまったく気がついていません。エレンとリンは夢中になってケチャプ銃狩をしました。一時は、ターゲットが自らこちらにやってくるような感覚があったほどです。しかしあるところまで行くと、洗濯物の注文はぱったり減らなくなってしまいました。
というのも、子どもたちを標的に、ケチャップ銃を検挙してきたエレンとリンでしたが、大人のユーザーには手が出せずにいたのです。大人相手では、臆病者のリンはまったく歯が立ちません。しかも厄介なことに、大人のヒットマンたちはウォーホランディをケチャップ掛け放題のテーマパークか何かと勘違いしているようで、ケチャップ銃を大人買いし、より派手にまき散らす傾向がありました。エレンとリンは万事休するしかありませんでした。
それにしても、まわりはなんて楽しそうなのでしょう。ムードのある間接照明のせいか、お客の陽気な雰囲気のせいか、ダイナーは昼とはまったく違う顔を見せています。エレンはなんとなく目のやり場に困って、カウンターにあるテレビに視線を移しました。
先ほどから何度も流れているクノックス商会のCMがまた流れています。これはちょっとユニークなCMで、平和そうな家庭に突如マフィア風の男たちが押し入るところから始まります。サングラスに黒ずくめの服を着た男たちは「あと一日待ってくれだと?」とか、「逃げようったってそうはいかない」とかすごんで家族を外へ連れ出すと、煙の出るボールのようなものを家に投げ入れます。当然家族はひどく取り乱し、殴り掛かりもするのですが、実はこれは害虫を駆除する道具で、煙を吸ったネズミやゴキブリはまもなく苦しみ出します。
「こんなに蝕まれていたなんて!」
「感謝してもしきれません。あなた方は一体・・・」
家族は謎の男たちに名前を尋ねますが、男たちはクールに去っていくばかり。そして最後に「あなたの平和を守るクノックス商会」のテロップが出て、CMは終わるのです。
なかなか趣向を凝らしたCMでしたが、エレンはもう十回は見ていたので、そろそろ別のものが見たいなと思いました。すると、エレンの願いが叶えられてまだ一度も見たことのないCMが流れました。甘い色使いに、キャッチーな音楽。先ほどとは打って変わって、楽しそうな雰囲気です。エレンは箸を休めて、待ち構えました。
「真っ白ふんわりおひさまのにおい。ケーニヒ・クリーニング店で、あの幸せをもう一度!」
エレンはあやうくフォークを取り落としそうになりました。画面いっぱいに映っているのは、フラッフィです。加工修正されているのか、実際よりずっと白くて天真爛漫な印象ではありますが、とにかくフラッフィが映っているのです。
動いてしゃべっているだけでも違和感があるのに、まさかCMに出ているなんて。こちらの世界のフラッフィは、エレンの予想をはるかに越えた活躍ぶりです。しかし驚く同時に、エレンはなるほどと思いました。このような映像が流れているせいで、店にはフラッフィを一目見たい客が殺到し、しかも誰もが実際とはかけ離れたフラッフィ像を期待するのです。フラッフィはそれに疲れてしまったのでしょう。だからエレンのこともファンの一人だと思ってそっけなくしたのです。お店のイメージアップのためとはいえ、エレンはフラッフィの戸惑いを想像して切なくなり、席を立ちました。
しかし店を出ようとしたその瞬間、誰かが飛び込んできたので、エレンは後ろにひっくり返りました。
打ちつけた肘を擦りさすり起き上がると、ちょうど相手も起き上がるところだったので、エレンは図らずも自分の出端をくじいた相手の顔を拝むことになりました。そしてそれはまたしても予想しなかった人物、リンでした。この町の若者らしいボーダーのロングTシャツにデニムのジーンズを着ています。
「リンさん! 言いたいことは山ほどあるんだ」
エレンの頭に一気に血が上りました。ドラゴンの試練に際してのリンの仕打ちを思い出したのです。しかしリンに口を押さえられたので、それ以上食ってかかることができなくなりました。
「話はあとあと! 急いで逃げないと」
リンはエレンを連れて、ダイナーの前のウッドデッキを下りはじめました。ボートを乗りつけられるように海面すれすれに最下段が作られている螺旋階段で、そこはちょうどお店のあるデッキから死角になっていました。
リンはそこまで階段を下りてしまうと、身を屈め、唇に指を押し当てて、しーっとやりました。するとまもなくエレンたちのすぐ頭上のウッドデッキを歩き回るハイヒールの音が聞こえてきました。そしてその女の人は甘ったるい声でリンリン!と呼びかけました。しかししばらく呼んでも返事がないので、やがて諦めたのか去っていきました。
フラッフィのいるケーニヒ・クリーニング店に向かう途中で分かったのですが、さっきのハイヒールの女の人はやはりリンがナンパをした女の子でした。
「いや、まいったよ。都会の女の子って積極的なんだもの」
リンはハンバーガーを頬張りながら、まったく悪びれもせず言いました。夕ご飯がまだだというのでエレンがダイナーを紹介したのです。
「これ、うまいなぁ。それでその妹ちゃんの相棒をどうやって口説き落とすの」
「説得って言ってくれる。とにかくフラッフィはあんなところで働くべきじゃないんだ。だからお店をやめさせてレネを一緒に探す。レネの親友だからきっと色々分かると思うんだ」
「ふーん。でもエレンのことは覚えていなかったんだろ。妹ちゃんのことも覚えてるかなぁ」
リンの指摘はずばりでした。エレンに崖から落とされたショックのせいなのか、フラッフィはベルゲンでの記憶をなくしていました。
「だとしてもフラッフィのことはたすけなきゃ。あそこの労働環境はひどいんだから」
エレンはダイナーで作ってもらったチキンサンドイッチを確認しました。自分の夕食は終わっていましたが、朝から働き詰めのフラッフィに差し入れしようと、リンがハンバーガーを買うときに一緒に買ったのです。フラッフィがどんなものを食べるのかは分かりませんでしたが、まだほんのり温かみが残っています。早く食べさせてあげたくて、エレンは歩調を早めました。
営業時間を過ぎていたため、ケーニヒの店は電気が消え、シェードが下りていました。しかし裏庭側の歩道に、ニューヨークの街並によくあるような、地下室へ続く階段があって、そこから微かな光が漏れているのに、エレンは気がつきました。
カフェカーテンのかかった窓の向こうに、ひとり食事をとるフラッフィが見えます。部屋の中にはベッドと簡単なダイニングテーブル、ミニ冷蔵庫、電子レンジ、それにコンロが一つだけついたガスキッチンがあり、蓋の空いたスープ缶も見てとれます。エレンは窓をコツコツ叩きました。
「君はたしか昼間の。一体どうしたんだい」
フラッフィはとても驚いた様子でしたが、それでもすぐに中へ通してくれました。中に入ると、ままごとの家みたいな室内はますます狭く感じられました。
「君に話したいことがあって。それとこれを」
エレンは缶入りスープと冷凍パンしか乗っていないテーブルに、ダイナーで買ったチキンサンドイッチを置きました。フラッフィはすぐに包みを開けて、わあっと声を上げました。
「これはもしかして人が作ったものなの。その、工場で作っていないという意味で。僕、手作りのものなんて食べたことないよ」
フラッフィはしばらくサンドイッチをじっと見つめていましたが、やがて大きな口でかぶりつくと、あっと言う間に食べてしまいました。
フラッフィが一息つくと、エレンは気になっていたことを一つずつ訊きました。まずはここでの生活について。これはエレンの予想通り、あまりいいものではないようでした。しかしフラッフィは、仕方ないのだと言いました。それはこういうわけでした。
フラッフィは記憶というものがはじまったとき、この町のごみ捨て場に捨てられていました。そこに来る前にどういう過去があったのかは分かりませんでしたが、とにかく身体はぼろぼろでした(エレンは心の中で猛烈に反省しました)。中でも右腕は悲惨なもので、糸一本でつながっているだけでした。もちろんフラッフィは助けを求めましたが、そこは町外れのスラムだったので、みんな自分のことで手一杯。フラッフィに同情を寄せるような人はありませんでした。しかしクリーニング屋のケーニヒだけは違いました。ケーニヒは次のトマト祭までに溜まっている洗濯物を洗いきってくれるなら助けようと申し出たのです。当時ケーニヒは一人でお店をやっていて、トマト祭で大量に出る洗い物を裁ききれず、助手を探していたのです。フラッフィは喜んでこの申し出を受けました。
そういうわけで、ケーニヒにとれかけた右腕を縫い付けてもらったフラッフィは、クリーニング店を手伝うようになりました。すると店先に立つ可愛いフラッフィに会いたいお客が殺到して、店の売上はうなぎ上りに増えました。注文が増えた分忙しくはなりましたが、二人ともよく働き、洗い物の山は少しずつ小さくなっていきました。けれどトマト祭が近づく頃になると、ケーニヒはだんだん目つきが険しくなって、フラッフィに辛くあたるようになりました。フラッフィが去って、お店の人気が落ちることを怖れたのです。
そんな中、町ではナツィオン・ケチャップ社製のおもちゃのピストルが流行しはじめました。ケーニヒはいち早くこのケチャップを落とす洗剤を開発して、ご存知のようにますます注文を増やしました。しかしそのせいで洗濯物の山はまた大きくなり、トマト祭までに洗いきることは不可能になりました。もちろんフラッフィは何度もトマト祭で仕事をやめたいと伝えました。しかしケーニヒは残っている洗濯物を指して、トマト祭までに洗いきってから言え、と怒鳴るのでした。
「それじゃいつまでたっても辞められないじゃない。いっそのこと逃げればいいのに」
エレンがこう言うと、フラッフィは首を横に振りました。
「僕の右腕を縫った糸は契約の糸だったんだ。契約を破って逃げたら、僕の腕はとれてしまう」
「とれたらまた縫えばいいじゃない」
さっきからずっと冷蔵庫を開けたり閉めたりしているリンが言いました。ヴァイキングの島には冷蔵庫がないので冷気が出るのが不思議なのです。
「人形だって君たちと同じ。一度とれてしまったらもうそれきりなんだ。それとも君は腕一本なくすのは大したことないって言うの」
フラッフィに冷蔵庫のドアをばたんと閉められて、リンはちょっと怯みました。
「それなら僕らが手伝うのはどうかな。それか洗濯機を使うとか」
エレンが提案すると、フラッフィはまたしてもダメだと言いました。なんでもこの店は手洗いがウリで、洗濯機を使うのも他人に手伝ってもらうのも、契約違反になってしまうのでした。
「そしたら、もう、くまさんがひとりでがむしゃらに働くしかないじゃん」
リンは金色の前髪を吹き上げました。フラッフィも同意せざるをえません。
「せめて洗濯物が減れば見込みはあるけど、こうケチャップ銃が流行ってちゃね」
「ケチャップ銃が洗濯物を増やす・・・そうか! それだよ!」
エレンはフラッフィの両手とぶんぶん握手しました。
さて次の日からエレンとリンは忙しく立ち回りました。二人はなんとフラッフィの部屋に下宿することになったのですが、ケーニヒに見つからないように朝早くそこを出ると、新聞スタンドで街の地図を買って、過去にケチャップ発射事件があった場所を歴訪しました。無防備な観光客が多い広場や美術館前、ジョギングや犬の散歩をする市民が憩う公園、繰り返し被害に遭う雷親父の家・・・そのほか子どもたちが行きそうな場所ならすべて二人は見てまわりました。そして出会った人から聞いたことや、実際に行ってみて分かったことをすべて地図に書き込みました。
やがて学校を終えた子どもたちがケチャップ銃を手に、それらのスポットにたむろするようになると、エレンはリンを使って片っ端から銃を取り上げました。エレンにとってはふにゃふにゃしたリンでも、何も知らない子どもたちにとっては背が高くて圧倒される人物です。リンが実力行使にでなくても、子どもたちはあっさり武器を捨て去りました。ときにはすべての銃を取り上げることができないほど大人数のグループもありましたが、そういうときはリーダーを狙いました。これはリーダーが銃をなくしたら子分は使いにくいだろうというリンの案でしたが、なるほど一理あるようでした。
たしかにこの作戦は地道だし、服がケチャップまみれになるという代償はありましたが、次第に効果が現われはじめました。没収した銃の数はどんどん増えていったし、毎日つけている洗濯物の預かり帳簿の行が、少しずつではありましたが、確実に右肩下がりになってきたのです。しかもケーニヒは仕事をフラッフィ任せにしていたので、そのことにまったく気がついていません。エレンとリンは夢中になってケチャプ銃狩をしました。一時は、ターゲットが自らこちらにやってくるような感覚があったほどです。しかしあるところまで行くと、洗濯物の注文はぱったり減らなくなってしまいました。
というのも、子どもたちを標的に、ケチャップ銃を検挙してきたエレンとリンでしたが、大人のユーザーには手が出せずにいたのです。大人相手では、臆病者のリンはまったく歯が立ちません。しかも厄介なことに、大人のヒットマンたちはウォーホランディをケチャップ掛け放題のテーマパークか何かと勘違いしているようで、ケチャップ銃を大人買いし、より派手にまき散らす傾向がありました。エレンとリンは万事休するしかありませんでした。
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