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第二十九話
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宿場街ハイルブルクの四分の一を占める貧民の下町が、一夜にして焼失してしまったことは、春先の珍事と誰もが驚いたらしい。驚いたのは火事そのものでは無く、その原因であった。下町には時々、怪しい剣士共が出入りしていたの、数ヶ月前から訳ありの少年が居着いていたの、同じ夜に街一番の剣術道場も全焼したなど、色々と風評まちまちであったので、火事も自然、ただの失火とは思われず噂好きな連中が様々な言説を広めている。
「どうやらその晩、剣術道場の連中が暴徒になったらしい」
と言うのが、専らの噂である。衛兵詰所の手はすぐに捜索に廻ったが、誰一人として召し捕られる者はいなかった。
そればかりではなく、下町のまとめ役であったルイーゼも、彼女に匿われていたルークの行方も一行に知られなかった。詰所では、ルイーゼと密約を交わしていたのが表に出ることを好まず、彼女の行方も深くは詮議させないつもりらしい。
そんな噂が、早春の街ハイルブルクを賑わしている最中、ルークを捜し求めるナタリーもその中にいた。
尋ねる仇のハーラ・グーロも、確かにこのハイルブルクにいる筈であり、義弟のルークにも是非もう一度会わねばならぬと、右へ左へ一心不乱、日ごと日ごとに歩いているのであった。
雑踏は忙しなく動き、油断したが最後、人間の奔流に飲まれてしまいそうである。気を張っていなければ、瞬く間に周囲と同じ生き方しか出来なくなる、そんな人生の象徴が、この人混みの動きであると言えよう。
ふと、ナタリーが人垣の中に眼をやると、彼女は思わず、あっと声を出した。
陽光通さぬ面隠しの外套を眉深にして、俯き加減で足早に歩いて行くのは、忘れ得もせぬハーラであった。ナタリーは、眼を皿のようにして瞬きも忘れていた。
雑踏を掻き分け掻き分け尾行する。一見しただけでは気狂いなので、事情を知らぬ心なき者は彼女を笑った。しかし彼自身は一心一念、苦痛も見栄もいざ知らず、ただ真っ直ぐに父の仇を追う姿は、その時かえって涙ぐましいものであった。
何も知らぬハーラは、そのまま大通りを歩いていったが、やがて一軒の屋敷に姿を消してしまった。
「あ、しまった」
一足遅れにやってきたナタリーは、屋敷の前で歯噛みしたが、何気なく門標を見ると、「ハインリヒ・シュレー」と記されてあった。
それを見たナタリーは、しばし考えていたが、やがて何かを思い出し、(此処はハーラの隠れ家じゃない、いずれ出てくる)と近くの塀の影で待ち構えていた。
一方ハーラは、シュレー家の門をくぐった後、使用人に案内されて奥の客間にいた。彼は、自身の手を汚さずに忌まわしいルークを殺す手筈を整えた後、その無頼者共を見捨てて王都に潜伏するつもりでいた。
しかし彼はふと、かつて指南役を奉じていたアメルン伯爵の家令であるハインリヒが、持病の静養のため、ハイルブルクの別荘にいるという噂を耳にした。
ハーラはいつまでも巣の無い鳥のような生活は出来ないし、今後どうしたものかと思案していた所だったので、伯爵の教育係にも等しいハインリヒを通じて嘆願書を出し、再度帰参の取り成しを頼み込んだであった。今日はその吉左右を聞きに来たのであった。
ハーラが待ちあぐねていると、戸を開けてハインリヒが入って来た。元なら同家中の友人だが、今では伯爵領の家令と只の素浪人である。流石にハーラも引け目を感じたか、目上の者への拝礼を済ました。
「この度は、厚かましい取り成しのお願いを聞き届けて頂き、赤面至極で言葉もありません」
「何を言うのだハーラ殿。確かにあの大木の下での勝負では、肝腎な君が惨敗したまま国許を逐電した時には、伯爵も並々ならぬご立腹にあらせられたが、コジロウ・ミヤモトも助力があり、以来すっかりギョーム家の腰を折ってしまった上に、最近あの男爵も何者かに殺され、今では年少の息子が何とか切り盛りしているらしい。自然、君への怒りも和らいでおいでだ」
ハーラは、自分が殺したギョーム男爵の名前を聞き、一瞬ぎょっとしたが、どうやら伯爵の方では、自分が殺したとは思っていない様子なので一安心。
ハインリヒは、なおも続けて、
「勝負は時の運だハーラ。いつまでも気に病む事は無い。私が伯爵に君のお願いを申し上げた所、伯爵から、ハーラ・グーロも捨てた腕前では無いのに、四十を間近に控えた今も職無しの身分とは不憫な奴だ、指南役代理として召し抱えて遣わす、との有難いお言葉だ」
「えっ。では返り新参のお願いは受理されたのですね。いやはや、ひとえにハインリヒ殿のご助力には感謝の言葉もありません」
「ああ、丁度伯爵も王都に用があるそうで、私と共に王都にある伯爵のお屋敷に、明日向かおう」
「承知仕りました。何分宜しくお願い致します」
ハーラは面談を切り上げて、大満悦の顔で歩きながらも一人で悦に入っていた。シュレー家の門を出てもなお、心に喜びがあるので自然と足取りもうきうきしている。
(まさかこうも上手くいくとは思わなかったな。この分では一陽来復、昔の全盛を返り咲かせるのもそう遠くはない)などと思っていると、不意に曲がり角から、待ちなさいハーラッ、と凜々しい女の声。
ぎくっ、とハーラが振り向くと、言うまでもなくナタリーであった。駆け寄ってくる彼女を見てハーラは、
「な、何っ…」
と、深く被った外套の下から、思わずさっと蒼味さし、耳に垂れる鬢髪も震えた様子。思わず二、三歩跳び退いて、わざと声を作って曰く、
「ええい驚かすなっ。私はハーラなどと申す者では無い、人違い致すなっ」
「卑怯じゃないっ。ハーラ、今日こそは逃がさないっ」
ナタリーはぎらと細剣を抜き、白を切って踵を返そうとするハーラ目掛けて斬りつけたが、当のハーラは更に脚を飛ばして街の広場まで逃げ出した。
しかし頃合い計って立ち止まったかと思うと、振り向きざまにぎらと長剣を抜き打ちに、返り討ちだっ、とばかりにナタリーを斬りつけた。
あっ、と驚く声に、戛然刃は火華を散らす。咄嗟にナタリーが跳び退いたので、唸りを上げるハーラの剣は、彼女の細剣と当たったのみである。
「覚悟しなさいっ」
と、ナタリーは躍り掛かってハーラを猛然と斬り込んだ。こうなると仇討ち名乗りをする暇《いとま》も無いので、周りの通行人共は、喧嘩だ喧嘩だもっとやれ、と一途に囃し立てる。
ハーラは心の内で、ナタリーの手並みは知っているので、返り討ちにしてくれん、と思っていたのだが、再仕官の福運を目の前にして下手な騒動を起こしてはいられないし、白昼往来の輩も多い頃合いなので、電光一閃横払い、ナタリーが怯んだ隙に、また脱兎の如く逃げ出した。
するとその時丁度、雑踏の中から跳び出して来た黒い影がある。抜き身を納める間もなく逃げ出していくハーラに追い縋り、その上襟を掴んで引き倒した。
「お、お前は、コジロウッ」
「ハーラ・グーロッ。神妙にしろっ」
ハーラは引っ提げ剣を振るって、一閃の下、コジロウを屠ろうとしたが、彼はぎらと流星の居合いを抜いて、戛、とハーラの剣を中段から斬り折ってしまった。
あっ、とハーラが驚いたのもつかの間、コジロウは返す刃で、ハーラの肩を発止と強《したた》かに打ち据え、そのまま組み伏せてしまった。
そこへ、どやどやと衛兵共がようやくやって来て、否応無くハーラに折り重なって、高手小手に縛り上げてしまった。
ところへ、ナタリーが喘ぎ喘ぎ駆け付けて来て、衛兵共の隊長に近付いて慇懃に頭を下げ、
「場所柄もわきまえず、本当に申し訳ありませんが、お願いがあるんです」
「む、君はこの男を追ってきた旅人だな。お願いと何だ」
「その男は、あたしの父の仇なんです。本当に勝手ですがあたしに渡して下さい。いますぐ斬り殺します」
「成る程、この男は君の父君の仇か…だが今此処で、という訳にもいかん。詰所に引っ立てていき、改めて事情を聞こう。この男を牢屋に連れて行けっ」
ハーラは胆を飛ばして逃げ掛けたが、たちまちコジロウに鞘刀で打たれ、うーむ、と悶絶し気絶してしまった。
衛兵共はハーラを引っ担いで帰って行く。コジロウはナタリーに近付き、
「ナタリー嬢、お久しゅうございますな。拙者も詰所に来るようにと言われております故、ご同行仕ります。ですが、やはりルーク殿は見つかりませんか」
「あ、コジロウさん…先程は有難うございます。ルークなんですが…此処では話せないので、一旦詰所まで行きましょう」
「? 承知致しました」
コジロウは訝り顔だが、何も言わずにナタリーに付いて衛兵詰所に向かった。ナタリーの顔は怒り半分憂慮半分の何とも不思議な顔であった。
ハイルブルクの中心広場でナタリー達が一騒動起こしていた時、街外れ雑多な荒ら家立ち並ぶ、空家の中にいるのは、下町の大火で焼け出されたルイーゼであった。彼女は住処を失ったかと思われていたが、一夜の内に空家を見つけてそこに身を落ち着けていたのである。
それは良いが、彼女は例の執着で炎の中からルークを助け出し、気絶した彼をやすやすと自分と二人きりにしたのである。しかも燃える瓦礫から彼が自分を守ってくれたので、その情炎は益々燃え盛り、最早消える気配は全く無い。
現に今も、ルークの甘えに付け込んで、眠れる彼の頭を自分の膝枕に置いている。
するとそこへ、下町にいた孤児が二、三人で連れ立ってやって来た。彼らもまた焼け出されたのだが、逞しいもので打ち捨てられていたこの一角を、もう自分達の住処にしてしまっている。
どうやら街の中心広場に行っていたらしく、一人が楽しそうに口を開いて、
「ルイーゼ、面白いものが見られたよっ。ね、ルークも聞いてよ聞いてよ」
「こら、ルークが起きちゃうでしょ。静かにしなさい」
「ん? うーん、何かあったの? 」
「実はね実はね」
孤児達は笑顔で、紅髪の少女と黒髪の剣士が、中年の男と斬り合い、中年の方が引っ立てられていった光景を話した。
ルークはそれを聞くや否、がばと跳ね起きて、それって、と言い掛けたが、火傷の瘡が痛むのか苦しげに包帯の部分を押さえる。
ルイーゼは、もうすっかり女房気取りで彼を気遣い、彼を牀に座らせた。孤児達も何となく空気を察したか、語らいながら出て行った。
窓からは春先の陽光が差し込み、二人は丁度向き合う影である。外から孤児達が遊ぶ声がしているが、家の中は音も無くしんとしている。で、此処に美男美女の一対が、狭い牀の上に座っていても、誰に見られる恐れは無い。
「ルーク…きっとナタリーさんでもコジロウさんでもないよ。ルークはその名前を聞くとすぐに血相変えるんだから。ねえルーク…今こうしているのが幸せじゃない…? 」
「…」
ルークはその白皙をぷいと背け、近付いてくるルイーゼの顔から眼を離した。ルイーゼは、なおも彼に語りかける。その眼は炬のように燃え、逃がすまいとルークの手を握りしめている。
「ルークは何かと言うと、その二人を思い出して苦しそう。でもあたしの気持ちも少しは考えてよ。あなたを何回も助けて、今こうやって心からあなたと一緒になりたがっているんだよ…あたしの一番大切なものだって、ルークがその気になれば…。ねぇルーク、もう誰にも心を動かされずにあたしと二人だけの世の中になって、此処で暮らそうよ」
「いつも同じ事を言われなくても、もうどうしようも無いって事は解っているよ。僕だって君は嫌いじゃない。でも…」
と、ルークは、ナタリーとコジロウを思いだし、ぽろぽろと涙を流し始めた。良心が引き起こす呵責の鞭に苛まれ、魔魅でも見たかのように無意識に身を竦める。
ルイーゼは、そんな臆病半端者を抱き締め、優しく撫でてやった。ルークの方も彼女の腕に優しく抱かれ、静かに泣いていた。
「どうやらその晩、剣術道場の連中が暴徒になったらしい」
と言うのが、専らの噂である。衛兵詰所の手はすぐに捜索に廻ったが、誰一人として召し捕られる者はいなかった。
そればかりではなく、下町のまとめ役であったルイーゼも、彼女に匿われていたルークの行方も一行に知られなかった。詰所では、ルイーゼと密約を交わしていたのが表に出ることを好まず、彼女の行方も深くは詮議させないつもりらしい。
そんな噂が、早春の街ハイルブルクを賑わしている最中、ルークを捜し求めるナタリーもその中にいた。
尋ねる仇のハーラ・グーロも、確かにこのハイルブルクにいる筈であり、義弟のルークにも是非もう一度会わねばならぬと、右へ左へ一心不乱、日ごと日ごとに歩いているのであった。
雑踏は忙しなく動き、油断したが最後、人間の奔流に飲まれてしまいそうである。気を張っていなければ、瞬く間に周囲と同じ生き方しか出来なくなる、そんな人生の象徴が、この人混みの動きであると言えよう。
ふと、ナタリーが人垣の中に眼をやると、彼女は思わず、あっと声を出した。
陽光通さぬ面隠しの外套を眉深にして、俯き加減で足早に歩いて行くのは、忘れ得もせぬハーラであった。ナタリーは、眼を皿のようにして瞬きも忘れていた。
雑踏を掻き分け掻き分け尾行する。一見しただけでは気狂いなので、事情を知らぬ心なき者は彼女を笑った。しかし彼自身は一心一念、苦痛も見栄もいざ知らず、ただ真っ直ぐに父の仇を追う姿は、その時かえって涙ぐましいものであった。
何も知らぬハーラは、そのまま大通りを歩いていったが、やがて一軒の屋敷に姿を消してしまった。
「あ、しまった」
一足遅れにやってきたナタリーは、屋敷の前で歯噛みしたが、何気なく門標を見ると、「ハインリヒ・シュレー」と記されてあった。
それを見たナタリーは、しばし考えていたが、やがて何かを思い出し、(此処はハーラの隠れ家じゃない、いずれ出てくる)と近くの塀の影で待ち構えていた。
一方ハーラは、シュレー家の門をくぐった後、使用人に案内されて奥の客間にいた。彼は、自身の手を汚さずに忌まわしいルークを殺す手筈を整えた後、その無頼者共を見捨てて王都に潜伏するつもりでいた。
しかし彼はふと、かつて指南役を奉じていたアメルン伯爵の家令であるハインリヒが、持病の静養のため、ハイルブルクの別荘にいるという噂を耳にした。
ハーラはいつまでも巣の無い鳥のような生活は出来ないし、今後どうしたものかと思案していた所だったので、伯爵の教育係にも等しいハインリヒを通じて嘆願書を出し、再度帰参の取り成しを頼み込んだであった。今日はその吉左右を聞きに来たのであった。
ハーラが待ちあぐねていると、戸を開けてハインリヒが入って来た。元なら同家中の友人だが、今では伯爵領の家令と只の素浪人である。流石にハーラも引け目を感じたか、目上の者への拝礼を済ました。
「この度は、厚かましい取り成しのお願いを聞き届けて頂き、赤面至極で言葉もありません」
「何を言うのだハーラ殿。確かにあの大木の下での勝負では、肝腎な君が惨敗したまま国許を逐電した時には、伯爵も並々ならぬご立腹にあらせられたが、コジロウ・ミヤモトも助力があり、以来すっかりギョーム家の腰を折ってしまった上に、最近あの男爵も何者かに殺され、今では年少の息子が何とか切り盛りしているらしい。自然、君への怒りも和らいでおいでだ」
ハーラは、自分が殺したギョーム男爵の名前を聞き、一瞬ぎょっとしたが、どうやら伯爵の方では、自分が殺したとは思っていない様子なので一安心。
ハインリヒは、なおも続けて、
「勝負は時の運だハーラ。いつまでも気に病む事は無い。私が伯爵に君のお願いを申し上げた所、伯爵から、ハーラ・グーロも捨てた腕前では無いのに、四十を間近に控えた今も職無しの身分とは不憫な奴だ、指南役代理として召し抱えて遣わす、との有難いお言葉だ」
「えっ。では返り新参のお願いは受理されたのですね。いやはや、ひとえにハインリヒ殿のご助力には感謝の言葉もありません」
「ああ、丁度伯爵も王都に用があるそうで、私と共に王都にある伯爵のお屋敷に、明日向かおう」
「承知仕りました。何分宜しくお願い致します」
ハーラは面談を切り上げて、大満悦の顔で歩きながらも一人で悦に入っていた。シュレー家の門を出てもなお、心に喜びがあるので自然と足取りもうきうきしている。
(まさかこうも上手くいくとは思わなかったな。この分では一陽来復、昔の全盛を返り咲かせるのもそう遠くはない)などと思っていると、不意に曲がり角から、待ちなさいハーラッ、と凜々しい女の声。
ぎくっ、とハーラが振り向くと、言うまでもなくナタリーであった。駆け寄ってくる彼女を見てハーラは、
「な、何っ…」
と、深く被った外套の下から、思わずさっと蒼味さし、耳に垂れる鬢髪も震えた様子。思わず二、三歩跳び退いて、わざと声を作って曰く、
「ええい驚かすなっ。私はハーラなどと申す者では無い、人違い致すなっ」
「卑怯じゃないっ。ハーラ、今日こそは逃がさないっ」
ナタリーはぎらと細剣を抜き、白を切って踵を返そうとするハーラ目掛けて斬りつけたが、当のハーラは更に脚を飛ばして街の広場まで逃げ出した。
しかし頃合い計って立ち止まったかと思うと、振り向きざまにぎらと長剣を抜き打ちに、返り討ちだっ、とばかりにナタリーを斬りつけた。
あっ、と驚く声に、戛然刃は火華を散らす。咄嗟にナタリーが跳び退いたので、唸りを上げるハーラの剣は、彼女の細剣と当たったのみである。
「覚悟しなさいっ」
と、ナタリーは躍り掛かってハーラを猛然と斬り込んだ。こうなると仇討ち名乗りをする暇《いとま》も無いので、周りの通行人共は、喧嘩だ喧嘩だもっとやれ、と一途に囃し立てる。
ハーラは心の内で、ナタリーの手並みは知っているので、返り討ちにしてくれん、と思っていたのだが、再仕官の福運を目の前にして下手な騒動を起こしてはいられないし、白昼往来の輩も多い頃合いなので、電光一閃横払い、ナタリーが怯んだ隙に、また脱兎の如く逃げ出した。
するとその時丁度、雑踏の中から跳び出して来た黒い影がある。抜き身を納める間もなく逃げ出していくハーラに追い縋り、その上襟を掴んで引き倒した。
「お、お前は、コジロウッ」
「ハーラ・グーロッ。神妙にしろっ」
ハーラは引っ提げ剣を振るって、一閃の下、コジロウを屠ろうとしたが、彼はぎらと流星の居合いを抜いて、戛、とハーラの剣を中段から斬り折ってしまった。
あっ、とハーラが驚いたのもつかの間、コジロウは返す刃で、ハーラの肩を発止と強《したた》かに打ち据え、そのまま組み伏せてしまった。
そこへ、どやどやと衛兵共がようやくやって来て、否応無くハーラに折り重なって、高手小手に縛り上げてしまった。
ところへ、ナタリーが喘ぎ喘ぎ駆け付けて来て、衛兵共の隊長に近付いて慇懃に頭を下げ、
「場所柄もわきまえず、本当に申し訳ありませんが、お願いがあるんです」
「む、君はこの男を追ってきた旅人だな。お願いと何だ」
「その男は、あたしの父の仇なんです。本当に勝手ですがあたしに渡して下さい。いますぐ斬り殺します」
「成る程、この男は君の父君の仇か…だが今此処で、という訳にもいかん。詰所に引っ立てていき、改めて事情を聞こう。この男を牢屋に連れて行けっ」
ハーラは胆を飛ばして逃げ掛けたが、たちまちコジロウに鞘刀で打たれ、うーむ、と悶絶し気絶してしまった。
衛兵共はハーラを引っ担いで帰って行く。コジロウはナタリーに近付き、
「ナタリー嬢、お久しゅうございますな。拙者も詰所に来るようにと言われております故、ご同行仕ります。ですが、やはりルーク殿は見つかりませんか」
「あ、コジロウさん…先程は有難うございます。ルークなんですが…此処では話せないので、一旦詰所まで行きましょう」
「? 承知致しました」
コジロウは訝り顔だが、何も言わずにナタリーに付いて衛兵詰所に向かった。ナタリーの顔は怒り半分憂慮半分の何とも不思議な顔であった。
ハイルブルクの中心広場でナタリー達が一騒動起こしていた時、街外れ雑多な荒ら家立ち並ぶ、空家の中にいるのは、下町の大火で焼け出されたルイーゼであった。彼女は住処を失ったかと思われていたが、一夜の内に空家を見つけてそこに身を落ち着けていたのである。
それは良いが、彼女は例の執着で炎の中からルークを助け出し、気絶した彼をやすやすと自分と二人きりにしたのである。しかも燃える瓦礫から彼が自分を守ってくれたので、その情炎は益々燃え盛り、最早消える気配は全く無い。
現に今も、ルークの甘えに付け込んで、眠れる彼の頭を自分の膝枕に置いている。
するとそこへ、下町にいた孤児が二、三人で連れ立ってやって来た。彼らもまた焼け出されたのだが、逞しいもので打ち捨てられていたこの一角を、もう自分達の住処にしてしまっている。
どうやら街の中心広場に行っていたらしく、一人が楽しそうに口を開いて、
「ルイーゼ、面白いものが見られたよっ。ね、ルークも聞いてよ聞いてよ」
「こら、ルークが起きちゃうでしょ。静かにしなさい」
「ん? うーん、何かあったの? 」
「実はね実はね」
孤児達は笑顔で、紅髪の少女と黒髪の剣士が、中年の男と斬り合い、中年の方が引っ立てられていった光景を話した。
ルークはそれを聞くや否、がばと跳ね起きて、それって、と言い掛けたが、火傷の瘡が痛むのか苦しげに包帯の部分を押さえる。
ルイーゼは、もうすっかり女房気取りで彼を気遣い、彼を牀に座らせた。孤児達も何となく空気を察したか、語らいながら出て行った。
窓からは春先の陽光が差し込み、二人は丁度向き合う影である。外から孤児達が遊ぶ声がしているが、家の中は音も無くしんとしている。で、此処に美男美女の一対が、狭い牀の上に座っていても、誰に見られる恐れは無い。
「ルーク…きっとナタリーさんでもコジロウさんでもないよ。ルークはその名前を聞くとすぐに血相変えるんだから。ねえルーク…今こうしているのが幸せじゃない…? 」
「…」
ルークはその白皙をぷいと背け、近付いてくるルイーゼの顔から眼を離した。ルイーゼは、なおも彼に語りかける。その眼は炬のように燃え、逃がすまいとルークの手を握りしめている。
「ルークは何かと言うと、その二人を思い出して苦しそう。でもあたしの気持ちも少しは考えてよ。あなたを何回も助けて、今こうやって心からあなたと一緒になりたがっているんだよ…あたしの一番大切なものだって、ルークがその気になれば…。ねぇルーク、もう誰にも心を動かされずにあたしと二人だけの世の中になって、此処で暮らそうよ」
「いつも同じ事を言われなくても、もうどうしようも無いって事は解っているよ。僕だって君は嫌いじゃない。でも…」
と、ルークは、ナタリーとコジロウを思いだし、ぽろぽろと涙を流し始めた。良心が引き起こす呵責の鞭に苛まれ、魔魅でも見たかのように無意識に身を竦める。
ルイーゼは、そんな臆病半端者を抱き締め、優しく撫でてやった。ルークの方も彼女の腕に優しく抱かれ、静かに泣いていた。
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