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第二十八話

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 もう季節は晩冬雪解け水、所々に残雪はあるが草木も萌えだした。道沿いに広がる草叢は、雪を点々と被ってさながら白模様を縫い合わせた若葉色の絨毯である。
 下町へ続く裏通りは閑散とし、岩畳は所々隆起埋没し、ひどく凸凹でこぼこしている。表通りや歓楽街とは違うこの様子を見ても、貧乏人はいつの世、何処の世界でも軽視されているといえよう。
 そんな人通りもまばらな裏通り、今しも蹌々踉々と、一人の少年ふらつき脚、前も見ずに二歩三歩。

 ところが、人通りが少ないのを幸いに、白昼堂々、物陰から物陰へと身を移し、少年を尾け狙って剣士が七、八人。知ってか知らずか、人無き大道を、一歩は高く一歩は低く、何を考えているのか解り得ない足取りなのはルーク・ブランシュ。
 またルークを尾けている連中は、先に彼に斬られた師範の門弟達で、師範とマルコの仇である彼を、何とて見逃す筈が無い。と、見る間に一人が駆け出して、喧嘩の押し売り体当たり。
 ルークは僅かにつんのめったが、すぐに風を通して躱す。あっ、とぶつかっていった者は身を泳がせながらも、ルークの襟を掴んだ。

 倒れ込む男の勢いでルークも沈み掛け、それっ、また一人また一人と一斉にルークへ躍り掛かる。ルークは喉輪へ、ぐっと腕の閂を入れられたかと思うと、真っ黒な人並みに覆い隠された。

「小僧、神妙にせいっ」
「師範を殺したばかりか、ご子息を不意討ちとは卑怯な奴めっ」

 各々手を捕り脚押さえ、猛獣にでも向かうかのようである。猛獣とは程遠い容貌体躯のルークは、何か叫んだが、その姿も見えない程、多勢の体にのしかかられていた。
 えいっ、と咄嗟の一声、ルークが払う居合いの一閃。うわっ、と二、三人が油断の面を半分斬り飛ばされて、と一斉に跳び開く。
 同時に跳ね起きたルークは、腰に縋って離さぬ男を後ろに蹴り飛ばして、起き上がり掛けるのを一刀両断、肩口から腰に至るまで斬り下げた。
 
 ルークは、例の如く片手構えの佩剣の切っ先を敵に擬して曰く、

「来るなら来いっ。お前達なんかより強い師範も、僕に斬られたんだ。お前達雑魚がいくら集まっても所詮は俎上の魚だ、勝てる気があるなら来いっ」
「おのれ猪口才なっ…」

 と、曲者共は声こそ奮うが、気を呑まれる。抜き連れた長剣は、どれもこれもいたずらに閃々と輝くばかり、誰あってルークに斬り掛かる者はいない。
 それも瞬間、機を見たルークが彼らの一角へと躍り込み、電光の一颯を振るった――が、その時、通報を受けたであろう巡邏の衛兵二、三人、戛々と足音を響かせながらやって来た。
 斬り合い御用の命令が出ている折、門弟共は逃げ足早く、八方に散ってしまった。ルークもまた、脇道に入って息を潜め、やがてまた下町目指して歩き出した。

 全くこの少年には他人に甘える癖があるようで、それはルイーゼと出会って以来、輪を掛けて増長している。
 数ヶ月に渡って居着いてしまった下町でも、ルークがナタリーに別れの手紙を送って以来、勝利を確信したのか、ルイーゼはもうすっかり嫁か何かのように彼の側から離れず、彼もまたその一途さ、いや盲目さにほだされて、徐々に悪い気はしなくなっているのが今の境遇。
 しかし麻痺しかけている良心も、数日前にナタリーに会って思わぬ冷や水を浴びせられ、今は鼠のように衛兵から逃げ回った事実を受けて、悔しいとは思わないのだろうか、恥じる心は湧かないのであろうか。

 いや事実はそうでは無いであろう。今、下町へと向かうルークの頬には涙一筋、その涙こそ、けだし彼が流す本当の悔し涙である。
 敢えて事実を記すのであれば、ルークは悔しいのである。どうしたら良いのか解らない程に。ただ一本、ああただ一本、コジロウ・ミヤモトから勝ちを取れば、胸を張って故郷に帰れるし、恩師の汚名も晴れるというもの、多くの者を見返す事も出来る――が、その一本は天よりも高く、海よりも深い所、到底手の届かぬ場所にある。
 相手は一世の剣聖、とても無理だ、そう思った時とルイーゼの優しさに抱き込まれたのは、ほぼ同時であった。ルークの弱い心は、当然のように彼女の方へと流れ、ルイーゼの方からも、彼が大望を忘れて彼女と一緒になるように仕向けられていたのである。

 しかし眠れる良心は、時折俄然と起き出して、ルークを懊悩煩悶の極みに叩き落とす。けれど、彼自身剣の腕を磨けば磨くほど、コジロウの非凡さが身に沁み、今ではその名をさえ聞きたくないとすら思っている。
 何と思おうが、何と苦しもうが、もう駄目だと観念する他なかった。その苦しみを癒やしてくれるルイーゼから離れないのも、ある意味では必然と言えるであろう。
 彼が下町の中にある自分の部屋に行くと、ルイーゼが太陽の笑みを浮かべて待っていた。

「あ、ルークお帰り。お遣い有難うね。何かあったの? 」
「いや、実はね…」

 今日もルークの一日は、彼女の膝枕の慰めに暮れそうである。

 それから四日ばかり後、かつての悪辣師範の道場ではハーラ・グーロや師範の門弟共が額を合わせて謀議に明け暮れていた。ハーラは二度までも、ルークとナタリーに煮え湯を飲まされ、既に彼らに対する殺意は胸の器から溢れ出している。
 見つけ次第斬って捨てん、と方々を捜し回らせていたが、何しろ街は広いしルークがいるであろう下町は入り組んでいるし、そこの構造を良く知っていたマルコもルイーゼに殺されている。加えて今回の闇討ちも失敗し、彼らは公然と庶民から失笑されるまでに落ちぶれていた。
 そこへ一人がやって来て、

「先生、ペトラと名乗る女が来ております。あの二人の居場所を正確に知っているそうです」
「何っ。早く通せ」

 ペトラは悠然と道場に入って、ハーラの前に座った。纏う雰囲気こそ自若なれ、その内面は燃え盛る激怒の猛炎に覆われている。
 嫉妬に狂ったルイーゼに捕らえられて下町に拉致され、よくもルークを誘惑したな、と凄まじい打擲と侮辱を受けたのだ。ルークを取られた怒りもあれば、それ以上にルイーゼへの復讐心は囂々と沸き立っている。先に、ルークを狙っている道場の話を聞いていたので、一計を含んで此処に来たのだ。
 ハーラは、底光りする眼を輝かせ、

「よく来てくれた。ルークの居場所を教えてくれ」
「はい。ですが条件があります。ルークを見つけても殺さないで下さい。私に任せて下さい」
「…良いだろう。ははは」

 ハーラは、ペトラから下町の構造を聞き、それを地図に記した後、

「ご苦労だったな。褒美をやろう」
「褒美なんていりませんよ」
「遠慮はいらん。目撃者はいらんのでな。地獄への通行手形だ、受け取れっ」

 きゃっ、と絹を裂くような声が響いたかと思うと、ハーラの剣が、ペトラを袈裟斬りにしてしまった。
 ハーラは、ペトラの死骸を放り出した後、道場にいる剣士共を残らず寄せ集めた。すぐに集まって来た二十人ばかり、皆瞳を並べてと厳粛な雰囲気に包まれている。
 ハーラは、炯々たる瞳を輝かせて鋭い眼差しを座中に配り、天井の梁も揺れるような大声を上げた。

「良いかお前達っ。今日こそ師範殿の仇を討つときだっ。忌まわしい小僧と小娘を斬り捨てて、穢らわしい下民どもが住まう下町をぶっ壊すのだっ」
「承知っ」
「だが流石に大騒ぎになるからな。流石に衛兵共も黙ってはいまい。このハーラは街の外に潜伏する。お前達はこの道場にある金目のものを好きなだけ持って行くが良い。報酬はそれだ」

 後は出陣前の景気づけ、酒杯が廻り武者震い。ハーラは金庫や床板を暴き、金を残らず分配した後、多めに取った金と共に逃げ去った。
 ハーラが落ちてしまうと、後はもう大変、盗賊の住処のようになり、酔いに任せて柱を斬って廻ったり、道場を好き勝手に破壊して廻る。覆面黒装束を纏って、まるで夜襲にでも行くような身支度である。
 血に飢えた狼共は、金目のものを運び出してしまうと、道場に火を放って出発した。

「――う、うーん」

 真っ暗な部屋の中で、ルークは呻いた。ごろりと転がりながら眼を開けると、横で微笑むルイーゼの寝顔があった。
 ルークは身を起こした。最近の彼女は、彼と起居を共にして幸せを感じ、毎夜毎夜、彼の隣で夢を見ているのだ。いつか彼と愛の夢を紡ぐ事を思いながら。
 月明かりが差し込み、ルイーゼの寝顔を照らした。普段は下町の姐御として気丈に振る舞う彼女も、眠っている時は無垢な少女そのものである。もっとも、その本性は嫉妬に狂う恋の鬼なのだが。

 ルークの方も最近では、ルイーゼに対しこれまでとは異なる感情を抱き始めている。胸が高鳴るわけでは無いのだが、行動を共にしていると心の底から安堵出来るのだ。
 ルークがまた眠りに着こうとした時だった。不意に外の方で、どよめきが起こった。何やら怒鳴り声が聞こえる。

「やい、ガキ共っ。此処にいるルークと相棒の小娘を出せっ。匿い立てするならこの下町を破壊するぞっ」

 と、先頭の男が長剣を煌めかせて言う。後ろにいる男達は手に手に松明と剣を持ち、閃々と刃の林を作っている。
 ルークは剣を取って外に躍り出た。闇を切って走り、抜き打ちざまに横一閃、不意打ちに一人の腰車を斬った。

「や、いたぞっ。ルーク・ブランシュだっ」
「斬ってしまえっ」

 三人が蝟集して刃を振り下ろすが、と跳び退いたルークは、また横一文字、踏み込んで来た三人を斬って捨てる。
 すると後ろから忍び足に男が、ルークを唐竹割りに斬り捨てようとした――が、その者は首に懐剣を立てて斃れた。
 ルイーゼは、もう少女から姐御に変わって一人、また一人と絶叫を揚げさせる。しかし多勢に無勢、たちまち重囲の中に二人は背中合わせに追い込まれた。

 しかしそこへ、雨あられと石や木枝が飛んできた。ルーク達を助けようと孤児達が懸命な攻撃を始めたのだ。それに勇気づけられた二人は、集団の中に跳び込んで火華を散らし、敵の腕を飛ばしたり、首を落としたりする。
 無頼者あぶれもの共は徐々に、徐々に追い込まれ、廃屋の前に追い詰められた。すると、彼らの頭上は真っ黒な影に染まった。孤児達が廃屋を崩し、無頼者達を下敷きにしたのだ。
 叫喚の声が一瞬したが、須臾にして、轟音の中に掻き消え、黄塵濛々と立ち、血飛沫と肉片がぶち撒かれ、後に残っているのは死体のみであった。

 敵は全滅した。しかし、周囲に転がる死骸や怪我をして呻く孤児、無頼者共が投げ松明でも放り込んだのか、真っ赤な炎が見る間に見る間に広がっていく。
 濛々と煙が天まで届き、火車でも走っているように、密集した下町は殆ど大紅蓮へ包まれる。しかし孤児というものは逞しく、指示が無くとも既に下町から逃げ出し始めている。
 ルイーゼもそれを見て安心したが、ふと気になるのはルークの安否。もう矢も盾も無く、愛熱の化身の如く、烈火の中へ彼を救いに走った。

「ルーク、何してるのっ」

 彼は、脚を火傷して歩けない童子を介添えしていた。ルイーゼも駆け寄ろうとするが、三人の上に焼け爛れた材木が降って来た。
 危ないっ、とルークが二人を突き飛ばし、炎の下敷きになる。瓦礫の下で気絶した彼を必死で呼ぶ声は天に谺し、後はもう何ものも焼尽する紅蓮の舞踊があるのみであった。
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