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第三十話

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 ナタリーは、コジロウと共に衛兵詰所に入ると、奥の控えの間に通された。しばし待たれい、と一人の兵が代官を呼びに行った様子。
 このハイルブルクでは住民自治と称して、投票で選ばれた市長がいるにはいるのだが、司法権と治安維持の任は王国から派遣された代官に一任されており、また財政の面でも王国直属の顧問が派遣されている。要するに、諸外国に先進性を誇示するための「自治都市」なのだ。
 
 衛兵が上官を呼びに行っている間に、ナタリーはコジロウに、ルークからの手紙を渡した。コジロウは何気なく読み進めていたが、次第に彼の顔も眉が上がり始め、終いには憤怒の息荒く、眼は炬の如く燃えている。ルークへの失望もあれば、彼を信じていた自分への怒りもある。
 コジロウは、いと静寂に、だが明らかに心の中で激昂している様子で、手紙をナタリーに返して溜息一つ、

「全く呆れた男だ。十三年しか生きていないくせに、この世の中を悟り済ました気でいる。大望を抱いて、拙者を倒すつもりでいたあのルーク殿が、何故このような手紙を…」
「実は…」

 ナタリーは怒れるコジロウに、ルークと共にいるであろうルイーゼや彼が身を置いているであろう下町の事について語った。
 コジロウは、それを聞くと、うーむ、と首を振って、

「ナタリー嬢、拙者は貴女が不憫でなりません。お気の毒に、という言葉以外見当たりません。一途にあの男を想うばかりに、艱難辛苦の旅を続けた結果がこれでは…拙者もルーク殿を捜し出し、迷夢を醒ますお手伝いを致します。きっと元のルーク殿に戻ってくれるでしょう」
「それだと良いんですけど…あの様子では、もうすっかり身分も怪しい連中と一緒になって悪い遊びばかり覚えてしまって、もう立ち返れないんじゃないかと心配で…」

 そう言うナタリーの顔、憐れな女の面はひどく悄然としている。自分が見ていなかった、側にいなかったばかりに大切なルークを堕落の道に進ませてしまったという思い、彼の将来を案ずる憂慮の思いが満面を包んで止まない。
 コジロウはというと、一時勃然と沸き立った怒りは噴火することを免れたものの、瞑目して切歯扼腕、静かな赫怒を燃やしている。そうしていると衛兵が部屋に入ってきて、

「あの…代官様がお会いになると仰せです。こちらへ」
「ああ、承知致した。ナタリー嬢、参りましょう」

 二人は厳めしい詰所を歩いていった。コジロウは、涼やかに落ち着いた様子で歩いていくが、ナタリーは以前、此処の牢屋に放り込まれた事があるので、内心恐懼しながら落ち着かずに辺りを見回しながら彼に付いていく。
 庭先に出ると、お待ちを、とまた言われて二人は外に残された。石畳の床に囚人を逃さぬ岩の壁。衛兵詰所は監獄も兼ねているので、何処からかは囚人の呻く声や拷問の罵声と悲鳴すら聞こえる。
 その内、ふと近くにある留置所の一房から物音がするので、ナタリーが覗いてみると、鉄格子から差し込む陽光しか明かりの無い薄暗い中で、一人の男が鞠のように縛められて呻いている。

「あ、あれはハーラ・グーロッ」
「おお、ではナタリー嬢、貴女に仇を討たせようという代官様のお情けに違いありません」
「これを見て安心しろという事ですね。これでやっと、お父様の仇を討てる…」

 ナタリーが涙を浮かべていると、近臣達を連れて、代官が現れた。ナタリーは慌てて膝をついて頭を垂れ、コジロウは正座して手をつき、深々と頭を下げた。
 代官はナタリーに、

「我々が捕らえたそこにいる男は、君の父君の仇だと言うが本当かね? 仔細を是非聞かせてくれ」
「はい。そこにいるハーラ・グーロは九ヶ月前、卑怯にも真剣勝負で負けを認めず、あたしの父が死ぬ原因を作りました。それに、あたしの恩人でもあるギョーム男爵を手に掛けました。しかも、あたしの弟と同じような人を殺そうとしました」
「ふむそうか。誰か証人はいるのか」
「はっ。拙者はコジロウ・ミヤモトと申します。拙者が、直接ナタリー嬢の父君を殺めましたが、あのハーラが勝負から逃げたため、拙者が勝負を引き継ぎました。また王都にいるギョーム男爵家の使用人達にお尋ねになれば、明白となります」
「そうかその義、承知致した。早速今日、王都に使いを走らせる故、二、三日の間、此処で滞在されるが良い」

 ナタリーとコジロウは、喜び勇んで礼を言い、客館に引き揚げた。コジロウも義によって助太刀することを約束した。
 
 同じ頃、アメルン伯爵の家令ハインリヒ・シュレーは、約束の日になってもハーラが姿を見せないので、不審に思い、街に使用人共を放って探らせてみると、ハーラが紅髪の女と騒動を起こし、衛兵共に捕らえられたと報告を受けた。
 以前から、フロリアンの娘ナタリーに追われているとハーラから聞かされており、そのナタリーが紅髪だとも聞いていた彼は、さてこそ、と使用人を呼んで、何やら命令して詰所に向かわせた。そして自身は、家人に急いで馬車と護衛の準備をするよう命じた。

 その日の夕暮れ時、衛兵詰所の門を叩いた者がいる。何だ、と門番が覗き窓を開けると、茶髪白皙の美少年、慌てた様子で叫んで曰く、

「あ、あの僕はルーク・ブランシュって言うんです。此処に紅い髪の女の子が来ませんでしたか? 黒い髪の男も一緒で」
「ああ、確か昼頃に来たな。何かその二人に用か」
「会わせてくださいっ。二人に僕の名前を言って貰えれば解りますっ」

 余りに必死な形相、切羽詰まっている様子なので、門番は思わず不憫を感じ、奥に居るナタリー達に報告した。
 ナタリーは、勢い良く椅子から跳ね上がり、すぐに会わせてくださいっ、と言った。その面は、瞋恚に燃える羅刹女の如くである。先に応接間にいたコジロウは瞑想でもしているのか、それとも気を落ち着けているのか、椅子にも座らず床で正座していた。
 入れ、とルークは門の内に連れて行かれたが、紫紺の空の下、もう日陰となって薄暗い岩壁を、音も無く登る人影があった。ルークを心配して付いて来たルイーゼである。ルイーゼは壁を登り終わると、屋根から屋根へ猫のように飛び移り、ルークを追った。

 ナタリーはルークが入ってくるや否、

「ルークッ。この莫迦っ。何考えてるの、一体あなたはっ。よくもそんな浅ましい姿をあたしの前に出せるねっ」

 と、痛烈に面罵した。コジロウも思わず片目を開き、屋根裏に隠れるルイーゼは声に押されるように身を竦めた。
 ルークは涙目で声を震わせ、

「ぼ、僕はナタリーがハーラと戦うって聞いて、代わりに来たんだよっ。君には家に帰って貰いたくて」
「黙りなさいっ。下町にいる、素性も知れない賤しい女と一緒になって、不良になったばかりか、おめおめと代仇討します、だなんてどの口が言うの…」

 ナタリーの声涙と共に下って、後を咽び消してしまった。極度に昂ぶった声音も、その時凄愴な語調に落ちてくる。
 ルークも何も言えずに項垂れ、怯える鳩のように小さくなっている。コジロウは何も言わず、ただ二人が取っ組み合いになったら、止めに入る準備だけしていた。
 ルイーゼも共に、屋根裏から顔だけ出して、思わず耳を澄ませたのも、ナタリーの胸打つ言葉の力であろう。しかし、彼女はも続けて、存分に言い足らぬ如く、

「…あたしがどれだけルークを心配したか解らないのっ? それでこの間、漸く見つけたかと思えば、こんな、こんな手紙をっ」
「ナタリー…ごめんよ」

 手紙を投げつけられたルークは、助けを求めるようにコジロウを見るが、彼は、(これはお二人の問題、拙者の出る幕は無い)とでも言いたげな面持ちで、と彼を睥睨していた。しかし、さめざめと泣くナタリーを見ていられないのか、

「ルーク殿、貴殿の使命は拙者に一剣を見舞う事ではなかったのか。女子おなご一人の蠱惑に魅入られ、大望を捨て去り、一途なナタリー嬢の想いまで踏み躙るとは、何たる人非人にんぴにん。恥を知らぬか、うつけ者め」
「コ、コジロウさん…そんなこと」
「黙れ、未練者。その迷夢、醒めるのであれば良いが、今後、覚悟が無いのであれば、拙者の前から消え失せろ」

 ルイーゼは一方的に責められるルークを見て、屋根裏から飛び出そうとしたが、今はその時じゃない、と必死で、愛する男を助け出したい情炎が燃え盛るのを抑えていた。
 それにしても、このルイーゼは一途に過ぎると言えよう。ルークの大望や義理というものを、どうしても理解できないのだ。下町で生まれ育ち、親のいない彼女からすれば、そんなものは生きる為に必須では無い。正確には、生きていく事に必死で、そんな感情を抱く余裕は無かったという方が正しいであろう。
 なのでルイーゼは、ただ目的を諦めただけなのに酷いよ、くらいにしか思っていないのだ。

「取り敢えず今夜はやすむとしましょう。ナタリー嬢、お部屋に戻られよ。ルーク殿、とにかく一晩考えられよ。拙者は貴殿の返答をお待ち申しておるぞ」
「…」

 その頃、留置所に監禁され、何とか動こうと四苦八苦していたハーラは、鉄格子が嵌められた窓から何かが落ちてくるのを見た。近付いてみると、剣と手紙があった。
 思わぬ僥倖に、彼が喜色満面で縄を切って手紙を開いて見ると、差出人はハインリヒで、明日明朝には出立するので、監獄を抜け出して自分の家に来るように、としたためてあり、牢屋の鍵まで同封されていた。
 ハーラは牢屋の戸を開け、風を切って逃げ掛けたが、ふと立ち止まり、(このまま逃げるのも癪だ)と感じ、にわかに脚をナタリー達のいる監獄の客館に向けた。闇に紛れる彼は、まさしく悪鬼のようで、腹の中に恐ろしい奸計を抱いていた。

 ルークは一室を与えられ、牀の上で幾度も寝返りを打っていた。先程、コジロウに向けられた、心から軽蔑するような眼差しを思い出すと、全身が総毛立つ心地さえする。またナタリーの涙を見ると、自然、良心の呵責が輪を掛け連ねて彼を責めるのだ。
 やがてルークは起き上がって窓蓋を開けた。早春の満月は変わらずに煌々とし、藍色の空に浮かぶ満天の星は、大小全て輝きを放っている。それを見てルークは、静かに涙を流した。幼い頃、ナタリーと共に眺めた星空を思い出したのだ。夢を語る彼と見守る彼女に、同じ星の光が降り注いでいた。
 ルークは、ただ只管に慚愧に堪えなかった。ナタリーが見せた涙は、どうやら彼の心に深く突き刺さったらしく、寂然と星空を眺めて頬に白い筋を伝わせている。

 (もういっそのこと…)とルークは、部屋の隅に立てかけてあった剣を抜いた。名剣にはやはり曇りは無く、月明かりを浴びて閃々と煌めいている。彼は、密かに死を決したのだ。このまま生き恥を晒し、ナタリーへの詫びもままならない状態でいるくらいならば、とルークは心静かに剣を首筋に当てた。
 その時、屋根裏からルイーゼが飛び降りてきて、彼の剣を奪い取った。

「ルークッ。何やってるのっ」
「え、ル、ルイーゼ…どうして此処に」

 ルークは、として身を退いた。どうして彼女が此処にいるのか、皆目見当も付かないでいる。
 ルイーゼは、彼に身を近付け、その腕首を掴んで、

「どうして自殺なんてするのっ。事情は隠れてずっと聞いていたから、解っているけど、死ぬこと無いじゃないっ」
「ルイーゼ…」

 彼女の一途な恋の糸は、しっかとルークを繋いで離さない。またルークも、その優しさに弱かった。
 ルイーゼは更に声を励まして、彼の手を握り、

「今になって死んでも、誰もあなたを許したりなんかしない。これは、ただナタリーさんへの申し訳で死ぬだけ。そんな莫迦な事でルークを死なせたりしない。ね、ルーク行こう」
「で、でも…」
 
 ルイーゼは、また手を変え品を変え、必死で彼を掻き口説いた。恋の為す力は恐ろしいもので、悶々と悩んでいたルークは、須臾にして彼女に敗れた。彼は遂に弱い男であった。
 ルークはルイーゼの手を取り、

「うん、君の言う通りだ。今更半端な義理を通した所で、一度下町の兄貴になったんだ、誰も許してはくれないよ」
「ルーク、やっと解ってくれたんだね…」

 一度そう思うと、ルークは急に死ぬのが莫迦らしくなってきた。夜は更けきり、起きているのは少数の宿直と夜空の月と星々のみである。

「愚図愚図していると皆が起き出してくる。ナタリーの顔を見ると、また申し訳なさでいっぱいになっちゃうから…でも何処から逃げるの? 」
「あたしが手薄な所を見つけたから、先に外に出て、門を開けるから二人でそこから逃げよう」

 行こうっ、ルイーゼはルークの手を引いて歩き出していった。見つかっては面倒、と音も無く歩いていると、何処からか血生臭い臭いがする。
 どうやら近くで臭っているらしく、思わず二人は顔を顰めた。血の臭いは彼らがいる階でしているらしく、ルーク達は臭いを辿ってある部屋の前に辿り着いた。
 ルークが意を決して戸を開けると臭いは一層強くなり、血溜まりの中で倒れている人影がある。
 灯火を付けてみると、それは、背中を袈裟斬りに斬られたナタリーであった。
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