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第三十一話
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ルークは血溜まりに濡れるのも構わず、ナタリーに駆け寄って彼女を抱き起こして、涙に声を震わせながら、何度もその名を呼んだ。その声を聞きつけ、息を切らしてコジロウや宿直の衛兵達も駆け付けてきた。
コジロウは、深々と骨が見えるほど斬られたナタリーの痛ましい姿を見て、思わず絶句した。しかも、彼女の衣服は裂かれ、股から経血とも思えぬ血が流れている。据えた臭いが血に混じって漂い、その場にいた全員が顔を顰めた。
ルークは大粒の涙を流しながら、夢であれ、と思っていたが、同時に彼を現に引き戻す苦悶の声がした。驚いて腕の中にいるナタリーを見ると、彼女は血汐の中で気丈な面を上げて、
「ルーク…ルーク…あなたは無事なんだね…良かった…。ごめんね、もうあなたと一緒にはいられない…」
「ナタリー、ごめんよ、ごめんよっ」
「あ、あなたさえ無事なら、あたしは良いの…。ハーラを斃せるのは、あなたしかいないんだから…。それに、コジロウさんと勝負が出来るのも…。悔しいけど、あたしは女だから…」
「ナタリー、喋っちゃ駄目だっ。今医者をっ」
ルークは咽びながら言うが、ナタリーは彼の瞳の中で優しく微笑み、彼の頬に触れて、
「あなたにはまだ光の出切らない天稟があるんだから、そ、それが…それが埋もれていくのが惜しいの。死ぬ気で掛かれば、きっとハーラでもコジロウさんでも勝てない筈は無いから…。ルイーゼ…こっちに」
ナタリーは、朱の手を伸ばして彼女を招いた。ルイーゼは、涙に顔を歪めながら飛び付くように彼女の前に手をついた。そこへ、牢番にハーラ脱走の報告を受けた代官が大股にやってきた。彼もまた、眼を覆いたくなるような惨状に、思わず何も言えず、顔を背けた。
ナタリーは、ルークとルイーゼの身体を引き寄せ、二人を交互に見た。
「なんだ、二人ともお似合いね…。ルイーゼ、ルークを支えてあげてね。本当に情けない義弟《おとうと》だけど…ルークも心の曇りを、あ、あたしの血で拭いて頂戴。ふ、二人とも此処で約束して…」
「…わ、解った。解ったっ」
しかしルイーゼは、ごめんなさい、と言うのみで嗚咽している。今までルークに夢中になる余り、それが引き起こした結果を今になって後悔しているのだ。恋は盲目と云うが、彼女の場合はそれが常人の二、三倍であった。
ナタリーは泣きじゃくるルイーゼに、優しく触れ、全てを許しているような面持ちで、
「あなたは凄く優しい人…その優しさでルークを支えてあげてね…約束だよ…」
「は…はい、はいっ…」
「良かった…。…」
そう言うと、安心したナタリーは、ルークとルイーゼの嗚咽する瞳と憐れみの衆目の中、がくりと最後の息を引き取った。ルークは、はっと彼女を揺さぶったが、もう全く息が絶えていた。
ルークは男泣きに咽び、ルイーゼも大声で泣いた。その様子を見ていた代官や衛兵達も、眼に涙を浮かべ、指先でそれを拭っている。コジロウは、瞑目しているが、流石に慟哭したいのを堪えているらしい。肩で息をしながら必死で自若を保っている。
ルークとルイーゼの嘆きは言うまでもない。ナタリーの恩愛の深さと優しさに、二人だけでなく、部屋にいた一同も思わず貰い泣きを禁じ得ない。
コジロウは何かを決心したらしい瞳で、ルークに近付き、
「ルーク殿。辛いだろうが、貴殿はそのままで良いのか。ナタリー嬢を無惨に殺され、臆病者と言われたままで」
「…そんなわけ…ないっ。絶対に許さないっ。ハーラの奴めっ。きっとあいつを見つけて、ナタリーの仇を討ってやるっ」
「うむ! 及ばずながら拙者も助太刀致すぞっ。貴女は…ルイーゼ嬢であったな。貴女は危ないから待っているが良い」
「…いいえっ。あたしは約束しましたっ。ルークを支えるのはあたしですっ。ルークの決意を絶対に支えてみせますっ」
そこへ衛兵が、一人の男を引っ立ててきた。ハインリヒに雇われた小者で、自分は依頼されてハーラに鍵を渡しただけだから見逃してくれ、と懇願する様子にルークは、瞋恚の眼差しを向けた。その眼光の鋭さに思わず男は、ひっ、と竦み声を上げ、代官を見たが、彼は汚いものをみるような眼で頷いた。
喰らえっ、とルークは佩剣の柄を握るが早いか、怒りの雷閃! 男は糸の切れた人形の如く崩れ落ちた。
出陣の前の血震いを終えたルーク達は、代官から仇討ちの許可を貰い、ハインリヒ・シュレーの屋敷へ向かったが、その途中で、ハインリヒの別荘から五十人ばかりが慌ただしく出て行った、とルイーゼの仲間の孤児から聞かされた。
ルイーゼは間道を知っているので、二人を連れて月光の下、蒼惶と駆けて行く。これから血に嘯くであろう月は、それを知ってか知らずか、常よりも明るく煌めき、満天の星が宝石のように夜闇の黒絹を彩っていた。
真夜中の静寂の中、細々と人目を忍ぶようにして、松明の軍団が王都を指して行く。その中央、一頭立ての馬車にハインリヒは乗っていた。
ハーラを紹介したのは彼なので、ハーラが殺されては面目が立たないのである。それで小者を雇ってハーラを救い出し、大急ぎで取るものも取りあえず、王都にあるアメルン伯爵邸に奔っているのである。
すると、遠くから時を知らせる鐘が響いた、と、同時にガタッと馬車が止まった。何事かと窓から顔を出すと、行列の前方に立つ三つの影、道を塞いで彼らに呼ばわる。
「お前達っ。ハーラは何処だっ。ハインリヒも出せっ。叩き斬ってやるっ」
「今聞いた鐘の音が、そなた達外道の聞く、最後の鐘であるっ。閻魔への土産話によく聞いておくのだな! 耳ある者は聞くが良いっ。外道を助ける、人間の端くれにも置けぬ者共めっ」
「絶対に許さないっ。たとえ誰が何と言っても、あんなに優しいナタリーさんを殺したハーラ、そしてそれを守るあなた達も許さないっ」
斬り捨ていっ、とハインリヒの叫びと共に、先頭の護衛が二人で斬り掛かっていった――が、二人ともルークが放つ、抜き打ちの一閃に腰車を両断された。
途端に集まる吹雪のような白刃閃々、夜闇に刃金は煌めいた。ぎらと抜かれるコジロウの刀、風を切るルイーゼの懐剣、喊声は静寂を破り、次から次へと閃光が走る。
ルークは八方から振るわれる刃を弾いて躱し、寸延びの片手払い、追い袈裟縦斬り腰車、右に薙いで左に当たり、身を翻せば廻し斬り! 虚空は白刃の光と血飛沫の珠に彩られる。
コジロウは刀を振るい、寄ったる一人に真っ向満月、逆袈裟に甲ごと真っ二つ、返す刀は閃光の尾、剣ごと一人を斬り捨てる。返り血浴びては胴斬り輪斬り、手向かう者は死骸となる。
ルイーゼが投げる懐剣一閃、闇を切り裂く光は甲の隙間、正確無比の首元に突き刺さる。それを見た敵が一人、死ねっ、とばかりに横払い、ルイーゼは振るわれる刃を躱して宙返り、相手の後ろに立って、ぐさっとうなじを突き刺した。
見る間に見る間に死屍の山、修羅に流れる血の運河。それでも恐れぬアメルン方、新手新手と入れ替わる。
「邪魔をするなっ。僕が捜しているのはハーラだっ。邪魔をするなら斬るぞっ」
「そなた達っ。邪魔をすれば、この同田貫の錆としてくれようっ。ルーク殿、雑魚は拙者達に任せよっ」
ハーラは馬車から面目も無く逃げ出し、転がるようにして逃げようとしていたが、待てっ、とルークが後ろから斬り掛かる。彼は仰天して足を滑らし、辛くもその一閃を躱した。
流石に血の気を失い、ハーラは動顛してルークを見た。片手構えの剣の切っ先は悲怒に震え、眼光はハーラを一直線に刺す。咄嗟にハーラも剣を抜き、
「おのれ匹夫めっ。賤しくもアメルン伯爵ご家中の行列に狼藉を働くとは不届千万っ。このハーラ・グーロが主君に代わって成敗してくれるっ」
「黙れっ。そんなの関係ないっ。お前はナタリーを殺して、ルイーゼの妹を殺して、ペトラさんまで殺したっ。フロリアン様の仇でもある、お前の言う事なんて誰が聞くかっ」
「な、待てっ」
えいっ、と夜闇を裂く裂帛一声、名剣の一閃が、ハーラの真眉間目掛けて吸い寄せられる。僅か九ヶ月前には、天下一の腰抜け者と呼ばれたルークが、今では毅然と剣を振るって、剣名四海を圧したハーラを震え上がらせ、臆病至極の悲鳴を上げさせているのだ、変われば変わるものである。
殊に今宵のハーラは、ルークの鬼の形相を見て、心が慄然としている。しかも先に刃を交わし、彼の尋常ならざる剣筋を見抜いていたので、ルークの名にも臆していた。おまけに雷雨まで降って来たので、ハーラに取っては凶である。
その気持ちがあったので、彼はルークの素早い剣撃を後手になって弾き、危うく身を躱した。
「お、お前達っ。早く来てくれっ。こいつを斬れっ」
必死の大声を振るうが、護衛の者達はコジロウとルイーゼに翻弄され、その声は届きそうにない。ルークは平一文字に構えた剣先を、ハーラの胸板目掛けて突っ込んだ。
はっと思うとハーラは、発止とそれを受け払い、もう衆を頼む卑怯な心も消え失せて、絶体絶命の捨て身を振るい、ルーク目掛けて斬りつけた。電光のような縦斬りを、ルークは地面に身を投げ出して躱し、跳ね起きざまに流星の斬り上げ!
しかしハーラも必死必死、横合いの一閃を何とか防ぎ、紫の火華を散らして丁々発止、押しつ押されつの息喘ぎ、十字に絡んだ剣のみが、閃々と月光に震えているのみであった。
ルークは、ナタリーやペトラ、フロリアンの顔を思い返しながら、柄に加える最後の一押し、その渾力にハーラは、徐々に徐々に押し込まれていく。あっと叫びが上がった直後、稲妻が起こり、どちらかの刃が煌めいた。それと同時に血飛沫が、雨と共に水玉となった。
その時、コジロウは三十五人を斬り、ルイーゼは十人目を斃した所であった。すると、厳しく鎧ったハインリヒが、彼らに長剣を振るって突き掛かってきた。
コジロウは戛とそれを止め、苦も無く押し込んでいったが、そこへ一人の護衛が、おのれっ、と横合いから据物斬りに彼を狙う。
ぱっと血煙が立った。コジロウが敵の剣を弾いて振り向くと、懐剣をうなじに深々と刺されて倒れる男がいた。ルイーゼは微笑んでその者に止めを刺し、猿の如くハインリヒに斬り掛かっていく。
受ける、躱す、跳び退く、重い鉄甲に身を包んでいる彼は、ルイーゼの身軽さをあしらい疲れた途端、戛然、火華が胸板と背中に立ったかと思うと、コジロウに胴鎧を斬り裂かれていた。
「ルイーゼ嬢、今だっ」
コジロウがそう叫ぶと、ルイーゼは雷霆の一剣あやまたず、真っ直ぐにハインリヒの左胸目掛けて深々と剣を突き刺した。捻りを加えて剣を引き抜くと、彼は血を噴き上げながら斃れた。
その一方では、碧血の虹が立ち、ハーラは左腕を根元から斬り落とされて、どうと倒れた。腰を抜かして後ずさりする彼だが、その双眸には、雷光に照らされるルークが、恐ろしい形相で自分を見下ろす姿しか映らない。
もう技も力も無く、片手の長剣を遮二無二振るい、じりじりとハーラは下がっていったが、ルークの一声と共に渾力至極の一閃! 雷光も同時に剣を煌めかせ、ハーラは肩口から真っ二つにされて息絶えた。
ルークは勝利の余韻に浸るでもなく、ふらふらと剣を落として膝から崩れ落ち、そのまま降りしきる大雨にも劣らぬ滂沱の涙を流し、慟哭した。地面を打つ雨の音と雷音が彼の慟哭を掻き消してはいるが、その痛ましい姿は誰の眼から見ても、男泣きに暮れていることは明らかであった。
ルイーゼは、彼の名前を叫んで駆け寄ろうとしたが、コジロウは彼女の肩を掴み、
「今は一人にしておくのだ。我々では慰める事は出来ない。しかし、彼が立ち直るにには、ルイーゼ嬢、貴女が必要だ」
「…はい」
車軸を流す大雨は暫くして止み、払暁の空を照らす紅の朝陽が昇ってきた。コジロウは代官への報告を済ませた後、師を捜す旅の途中なので、とルーク達に暇を告げ、また何処とも知れぬ旅へと出た。
――数日後、ハイルブルクの街を発った一人の少年があった。陽光に佩剣煌めかせ、真新しい旅装束姿に明日を見据える確かな眼。
それはルークであった――人生の迷いを翻然とかなぐり捨てたルーク・ブランシュであった。彼はハイルブルクの街を振り返り、そこに眠るナタリーに心の内で別れを告げた。
自分にも解らぬ長い別れを告げた彼の心にあるのは、コジロウ・ミヤモト! 今日から、ルークが目指す生涯の相手は、当世随一の名剣格、コジロウ・ミヤモトだ。
そんな彼の遠くから、隠れるようにして見守っているのはルイーゼである。愛しいルークの妨げになってはいけないと重々承知であるが、彼女の一途な想いは過酷な旅、いつ終わるかも知れない旅に彼女自身を相伴させたのであった。
コジロウは、深々と骨が見えるほど斬られたナタリーの痛ましい姿を見て、思わず絶句した。しかも、彼女の衣服は裂かれ、股から経血とも思えぬ血が流れている。据えた臭いが血に混じって漂い、その場にいた全員が顔を顰めた。
ルークは大粒の涙を流しながら、夢であれ、と思っていたが、同時に彼を現に引き戻す苦悶の声がした。驚いて腕の中にいるナタリーを見ると、彼女は血汐の中で気丈な面を上げて、
「ルーク…ルーク…あなたは無事なんだね…良かった…。ごめんね、もうあなたと一緒にはいられない…」
「ナタリー、ごめんよ、ごめんよっ」
「あ、あなたさえ無事なら、あたしは良いの…。ハーラを斃せるのは、あなたしかいないんだから…。それに、コジロウさんと勝負が出来るのも…。悔しいけど、あたしは女だから…」
「ナタリー、喋っちゃ駄目だっ。今医者をっ」
ルークは咽びながら言うが、ナタリーは彼の瞳の中で優しく微笑み、彼の頬に触れて、
「あなたにはまだ光の出切らない天稟があるんだから、そ、それが…それが埋もれていくのが惜しいの。死ぬ気で掛かれば、きっとハーラでもコジロウさんでも勝てない筈は無いから…。ルイーゼ…こっちに」
ナタリーは、朱の手を伸ばして彼女を招いた。ルイーゼは、涙に顔を歪めながら飛び付くように彼女の前に手をついた。そこへ、牢番にハーラ脱走の報告を受けた代官が大股にやってきた。彼もまた、眼を覆いたくなるような惨状に、思わず何も言えず、顔を背けた。
ナタリーは、ルークとルイーゼの身体を引き寄せ、二人を交互に見た。
「なんだ、二人ともお似合いね…。ルイーゼ、ルークを支えてあげてね。本当に情けない義弟《おとうと》だけど…ルークも心の曇りを、あ、あたしの血で拭いて頂戴。ふ、二人とも此処で約束して…」
「…わ、解った。解ったっ」
しかしルイーゼは、ごめんなさい、と言うのみで嗚咽している。今までルークに夢中になる余り、それが引き起こした結果を今になって後悔しているのだ。恋は盲目と云うが、彼女の場合はそれが常人の二、三倍であった。
ナタリーは泣きじゃくるルイーゼに、優しく触れ、全てを許しているような面持ちで、
「あなたは凄く優しい人…その優しさでルークを支えてあげてね…約束だよ…」
「は…はい、はいっ…」
「良かった…。…」
そう言うと、安心したナタリーは、ルークとルイーゼの嗚咽する瞳と憐れみの衆目の中、がくりと最後の息を引き取った。ルークは、はっと彼女を揺さぶったが、もう全く息が絶えていた。
ルークは男泣きに咽び、ルイーゼも大声で泣いた。その様子を見ていた代官や衛兵達も、眼に涙を浮かべ、指先でそれを拭っている。コジロウは、瞑目しているが、流石に慟哭したいのを堪えているらしい。肩で息をしながら必死で自若を保っている。
ルークとルイーゼの嘆きは言うまでもない。ナタリーの恩愛の深さと優しさに、二人だけでなく、部屋にいた一同も思わず貰い泣きを禁じ得ない。
コジロウは何かを決心したらしい瞳で、ルークに近付き、
「ルーク殿。辛いだろうが、貴殿はそのままで良いのか。ナタリー嬢を無惨に殺され、臆病者と言われたままで」
「…そんなわけ…ないっ。絶対に許さないっ。ハーラの奴めっ。きっとあいつを見つけて、ナタリーの仇を討ってやるっ」
「うむ! 及ばずながら拙者も助太刀致すぞっ。貴女は…ルイーゼ嬢であったな。貴女は危ないから待っているが良い」
「…いいえっ。あたしは約束しましたっ。ルークを支えるのはあたしですっ。ルークの決意を絶対に支えてみせますっ」
そこへ衛兵が、一人の男を引っ立ててきた。ハインリヒに雇われた小者で、自分は依頼されてハーラに鍵を渡しただけだから見逃してくれ、と懇願する様子にルークは、瞋恚の眼差しを向けた。その眼光の鋭さに思わず男は、ひっ、と竦み声を上げ、代官を見たが、彼は汚いものをみるような眼で頷いた。
喰らえっ、とルークは佩剣の柄を握るが早いか、怒りの雷閃! 男は糸の切れた人形の如く崩れ落ちた。
出陣の前の血震いを終えたルーク達は、代官から仇討ちの許可を貰い、ハインリヒ・シュレーの屋敷へ向かったが、その途中で、ハインリヒの別荘から五十人ばかりが慌ただしく出て行った、とルイーゼの仲間の孤児から聞かされた。
ルイーゼは間道を知っているので、二人を連れて月光の下、蒼惶と駆けて行く。これから血に嘯くであろう月は、それを知ってか知らずか、常よりも明るく煌めき、満天の星が宝石のように夜闇の黒絹を彩っていた。
真夜中の静寂の中、細々と人目を忍ぶようにして、松明の軍団が王都を指して行く。その中央、一頭立ての馬車にハインリヒは乗っていた。
ハーラを紹介したのは彼なので、ハーラが殺されては面目が立たないのである。それで小者を雇ってハーラを救い出し、大急ぎで取るものも取りあえず、王都にあるアメルン伯爵邸に奔っているのである。
すると、遠くから時を知らせる鐘が響いた、と、同時にガタッと馬車が止まった。何事かと窓から顔を出すと、行列の前方に立つ三つの影、道を塞いで彼らに呼ばわる。
「お前達っ。ハーラは何処だっ。ハインリヒも出せっ。叩き斬ってやるっ」
「今聞いた鐘の音が、そなた達外道の聞く、最後の鐘であるっ。閻魔への土産話によく聞いておくのだな! 耳ある者は聞くが良いっ。外道を助ける、人間の端くれにも置けぬ者共めっ」
「絶対に許さないっ。たとえ誰が何と言っても、あんなに優しいナタリーさんを殺したハーラ、そしてそれを守るあなた達も許さないっ」
斬り捨ていっ、とハインリヒの叫びと共に、先頭の護衛が二人で斬り掛かっていった――が、二人ともルークが放つ、抜き打ちの一閃に腰車を両断された。
途端に集まる吹雪のような白刃閃々、夜闇に刃金は煌めいた。ぎらと抜かれるコジロウの刀、風を切るルイーゼの懐剣、喊声は静寂を破り、次から次へと閃光が走る。
ルークは八方から振るわれる刃を弾いて躱し、寸延びの片手払い、追い袈裟縦斬り腰車、右に薙いで左に当たり、身を翻せば廻し斬り! 虚空は白刃の光と血飛沫の珠に彩られる。
コジロウは刀を振るい、寄ったる一人に真っ向満月、逆袈裟に甲ごと真っ二つ、返す刀は閃光の尾、剣ごと一人を斬り捨てる。返り血浴びては胴斬り輪斬り、手向かう者は死骸となる。
ルイーゼが投げる懐剣一閃、闇を切り裂く光は甲の隙間、正確無比の首元に突き刺さる。それを見た敵が一人、死ねっ、とばかりに横払い、ルイーゼは振るわれる刃を躱して宙返り、相手の後ろに立って、ぐさっとうなじを突き刺した。
見る間に見る間に死屍の山、修羅に流れる血の運河。それでも恐れぬアメルン方、新手新手と入れ替わる。
「邪魔をするなっ。僕が捜しているのはハーラだっ。邪魔をするなら斬るぞっ」
「そなた達っ。邪魔をすれば、この同田貫の錆としてくれようっ。ルーク殿、雑魚は拙者達に任せよっ」
ハーラは馬車から面目も無く逃げ出し、転がるようにして逃げようとしていたが、待てっ、とルークが後ろから斬り掛かる。彼は仰天して足を滑らし、辛くもその一閃を躱した。
流石に血の気を失い、ハーラは動顛してルークを見た。片手構えの剣の切っ先は悲怒に震え、眼光はハーラを一直線に刺す。咄嗟にハーラも剣を抜き、
「おのれ匹夫めっ。賤しくもアメルン伯爵ご家中の行列に狼藉を働くとは不届千万っ。このハーラ・グーロが主君に代わって成敗してくれるっ」
「黙れっ。そんなの関係ないっ。お前はナタリーを殺して、ルイーゼの妹を殺して、ペトラさんまで殺したっ。フロリアン様の仇でもある、お前の言う事なんて誰が聞くかっ」
「な、待てっ」
えいっ、と夜闇を裂く裂帛一声、名剣の一閃が、ハーラの真眉間目掛けて吸い寄せられる。僅か九ヶ月前には、天下一の腰抜け者と呼ばれたルークが、今では毅然と剣を振るって、剣名四海を圧したハーラを震え上がらせ、臆病至極の悲鳴を上げさせているのだ、変われば変わるものである。
殊に今宵のハーラは、ルークの鬼の形相を見て、心が慄然としている。しかも先に刃を交わし、彼の尋常ならざる剣筋を見抜いていたので、ルークの名にも臆していた。おまけに雷雨まで降って来たので、ハーラに取っては凶である。
その気持ちがあったので、彼はルークの素早い剣撃を後手になって弾き、危うく身を躱した。
「お、お前達っ。早く来てくれっ。こいつを斬れっ」
必死の大声を振るうが、護衛の者達はコジロウとルイーゼに翻弄され、その声は届きそうにない。ルークは平一文字に構えた剣先を、ハーラの胸板目掛けて突っ込んだ。
はっと思うとハーラは、発止とそれを受け払い、もう衆を頼む卑怯な心も消え失せて、絶体絶命の捨て身を振るい、ルーク目掛けて斬りつけた。電光のような縦斬りを、ルークは地面に身を投げ出して躱し、跳ね起きざまに流星の斬り上げ!
しかしハーラも必死必死、横合いの一閃を何とか防ぎ、紫の火華を散らして丁々発止、押しつ押されつの息喘ぎ、十字に絡んだ剣のみが、閃々と月光に震えているのみであった。
ルークは、ナタリーやペトラ、フロリアンの顔を思い返しながら、柄に加える最後の一押し、その渾力にハーラは、徐々に徐々に押し込まれていく。あっと叫びが上がった直後、稲妻が起こり、どちらかの刃が煌めいた。それと同時に血飛沫が、雨と共に水玉となった。
その時、コジロウは三十五人を斬り、ルイーゼは十人目を斃した所であった。すると、厳しく鎧ったハインリヒが、彼らに長剣を振るって突き掛かってきた。
コジロウは戛とそれを止め、苦も無く押し込んでいったが、そこへ一人の護衛が、おのれっ、と横合いから据物斬りに彼を狙う。
ぱっと血煙が立った。コジロウが敵の剣を弾いて振り向くと、懐剣をうなじに深々と刺されて倒れる男がいた。ルイーゼは微笑んでその者に止めを刺し、猿の如くハインリヒに斬り掛かっていく。
受ける、躱す、跳び退く、重い鉄甲に身を包んでいる彼は、ルイーゼの身軽さをあしらい疲れた途端、戛然、火華が胸板と背中に立ったかと思うと、コジロウに胴鎧を斬り裂かれていた。
「ルイーゼ嬢、今だっ」
コジロウがそう叫ぶと、ルイーゼは雷霆の一剣あやまたず、真っ直ぐにハインリヒの左胸目掛けて深々と剣を突き刺した。捻りを加えて剣を引き抜くと、彼は血を噴き上げながら斃れた。
その一方では、碧血の虹が立ち、ハーラは左腕を根元から斬り落とされて、どうと倒れた。腰を抜かして後ずさりする彼だが、その双眸には、雷光に照らされるルークが、恐ろしい形相で自分を見下ろす姿しか映らない。
もう技も力も無く、片手の長剣を遮二無二振るい、じりじりとハーラは下がっていったが、ルークの一声と共に渾力至極の一閃! 雷光も同時に剣を煌めかせ、ハーラは肩口から真っ二つにされて息絶えた。
ルークは勝利の余韻に浸るでもなく、ふらふらと剣を落として膝から崩れ落ち、そのまま降りしきる大雨にも劣らぬ滂沱の涙を流し、慟哭した。地面を打つ雨の音と雷音が彼の慟哭を掻き消してはいるが、その痛ましい姿は誰の眼から見ても、男泣きに暮れていることは明らかであった。
ルイーゼは、彼の名前を叫んで駆け寄ろうとしたが、コジロウは彼女の肩を掴み、
「今は一人にしておくのだ。我々では慰める事は出来ない。しかし、彼が立ち直るにには、ルイーゼ嬢、貴女が必要だ」
「…はい」
車軸を流す大雨は暫くして止み、払暁の空を照らす紅の朝陽が昇ってきた。コジロウは代官への報告を済ませた後、師を捜す旅の途中なので、とルーク達に暇を告げ、また何処とも知れぬ旅へと出た。
――数日後、ハイルブルクの街を発った一人の少年があった。陽光に佩剣煌めかせ、真新しい旅装束姿に明日を見据える確かな眼。
それはルークであった――人生の迷いを翻然とかなぐり捨てたルーク・ブランシュであった。彼はハイルブルクの街を振り返り、そこに眠るナタリーに心の内で別れを告げた。
自分にも解らぬ長い別れを告げた彼の心にあるのは、コジロウ・ミヤモト! 今日から、ルークが目指す生涯の相手は、当世随一の名剣格、コジロウ・ミヤモトだ。
そんな彼の遠くから、隠れるようにして見守っているのはルイーゼである。愛しいルークの妨げになってはいけないと重々承知であるが、彼女の一途な想いは過酷な旅、いつ終わるかも知れない旅に彼女自身を相伴させたのであった。
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