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第三十二話

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 クレムラート王国と他国の境にある山脈の中、ウィーバー峠に数ヶ月前から一人の求道者が籠もり始めた。天空の峰から注ぐ大滝を浴びて、泉に脛を洗いながら木剣を振るっているかと思うと、忽然と森の中に隠れ、牛若丸の如く跳び回って木剣を大樹の枝目掛けて打ち振るう。枝はバチンと音を立て、虚空に若葉が緑を添える。
 初めの頃は、如何に気当の一撃を凝らしても、一番下の枝にさえ届かなかった。届いたかと思っても、細い小枝さえ離れなかった。しかし、一念の妙通、信念の技と言えようか、最近では地上から三米《3m》も跳び上がって、樫の太枝を根元から発止と打ち、枝は名剣を以て裂いたようにボッキリ折れる。
 月煌々たる夏の夜、雨啾々たる夏の朝、ルークの錬磨は来る日も来る日も間断なく続いた。時には熊を相手に勝負を挑み、またある時は鳥を狙って跳び上がる。剣術の会得を焦る様子に、今時珍しい奴だ、と彼の深い事情を知らない、里の俗人共は嘲笑を浴びせかけていた。いつの世も、戦う者は戦わない卑怯者共に嗤われるものである。

 そしてルークと同じ頃に峠に入った、変わり者がもう一人いた。それは薄赤色の髪を戴くルイーゼで、前からの知り合いなのだが、どういうわけかルークの世話をするでもなく、森の木々に隠れている様子。

「あの風変わり共は姉弟かしら、それとも恋人だろうか」
「いや、気狂い同士で気が合ったのだろうよ」

 等と、里の樵や猟師の噂話に花が咲く。しかしルークは一心不乱、ルイーゼもまた、彼の眼に入らぬように森の木から木へ飛び、彼を見守ることに余念が無い。

 ――その日は丁度陽が差した。夏の太陽は、雲一つない天空の海に映え、木々の枝葉は緑色の地面に小粋な影を作っている。
 並木街道を行くは一人の美青年。一本結びの髪は風にそよぎ、一歩一歩とうだるような暑さを感じさせない様子は、水が流れるようである。腰に差したる同田貫、粗末な鞘もこの剣士の腰にあると、年来の宝物のようである。
 これなん剣客コジロウ・ミヤモト、彼もまた何の因果か、ルーク達が籠もる峠の近くに差し掛かっていたのだ。彼のクレムラート王国での逗留も、はや一年となる。師を尋ねて遙かな東国から旅をしてきた彼は、この国には見切りをつけて他国へ行こうという肚づもりなのだ。
 
 ふと彼が前を仰ぐと、隣国との境を塞ぐ自然の要塞が孔雀石を連ねたように聳えている。彼は馬宿に入って、馬を貸してくれるよう受付に頼んだ。
 コジロウは大人しそうな馬を一頭選び、ひらりと鮮やかに跨がって、軽く鞭を入れた。

「急ぐ旅では無い。拙者も歩くだけでは寂しいからな。山中を馬でゆっくりと行くのも風情があって良い」

 馬はゆったりと山中に入り、やがて木陰の道へと消えていく。羊腸たる山道に馬の蹄音が響く。鳥の声や鹿の鳴き声も自然の旅に一興を添える。
 馬上のコジロウは、懐から一冊の古書を取り出して読み始めた。表紙を見れば、「剣術不識の書」と書かれてある。彼がどうして、自分の国の言葉で記されていない書物を持っているのかは解しないが、彼は筆を持って、何やら添削をしている様子。
 そうしている内に、馬は黙々と山の中腹まで来た。

 不意にコジロウの頭上でガサと音がし、ひゅっと懐剣が飛んだ。流石の名剣客、一瞬の油断も無く、懐剣を躱して鋭い眼光を頭上に向け、誰だ、と馬から飛び降りるが早いか、木から木へと飛び移る人影を追い掛けて行く。
 差し詰め山賊か野盗の類であろう、と彼は膺懲を加えるくらいな気持ちで、疾風の如く駆けて行く。鬱蒼たる夏木立でも、樹上の影とコジロウとはそれを感じさせない速さで進んで行く。次第に万雷のような響きが密林の奥から聞こえてきた。
 山脈の川を一カ所に集める滝の飛沫は、濛々と水霧を上げ、満山の風は草木を濡らしている。

 コジロウを襲った怪しい少女は、脱兎の如く逃げ回って、やがて滝壺の辺りまできた。そこで彼女は、おーい、と誰かを呼んだが、追い付いてきたコジロウの腕が、むんずと彼女の上襟を掴む。
 少女の顔を見て、コジロウは、思わず仰天した。

「あ、貴女はルイーゼ嬢ではないかっ。これはどういうことだ」
「そ、それは…ごめんなさいっ」
「あ、待つのだっ」

 コジロウを尻目にルイーゼは、あっという間に、密林の中にましらの如く跳び込んでしまった。忽ち姿の見えなくなった彼女に、コジロウは、訝り顔をしていたが、一陣の冷風と共に、白霧濛々と立ちこめている辺りに一人の少年を見た。
 白浪泡立つ滝壺に、一身不乱の鍛錬を重ねるルークがそこにはいた。ルークも、コジロウを見て驚いた様子。その姿は毎日の鍛錬にすっかり衣服を裂き、身体中に生瘡打ち身だらけの痛ましい姿である。
 しかし、その白皙の美貌や柔らかな雰囲気は全く変わらない。ただ一つ、確と意志に燃える瞳、炯々と輝く瞳は人を射るかのようである。

 ああ、人は昔に変わらぬルークだが、ナタリーの死に迷いを捨て去り、峠に籠もること数ヶ月、人知れぬ密林に切磋琢磨に剣を磨き、鍛錬三昧の難道を行っているのだ。以前の臆病者、軟弱者の影は微塵も無い。
 コジロウを此処まで誘き寄せ、今彼方の木に隠れながらルークを見守るルイーゼは、こっそりと彼の旅に同行し、大願を立てるまで影から支えると決意したのである。
 そして、獣を事前に弱らせてルークの通る道に置いたり、木の実を密かに補充してやったりと、彼の煩悩の原因にならぬように、彼と共に山住まいをしていたのである。彼女もまた、ナタリーの死に迷いを醒ました一人である。自分の想いの為に、却って彼を困苦させていたと思い知ったのだ。

 コジロウは全てを察したが、敢えてルークには告げず、一礼を彼に施した。ルークは、吾ながら不甲斐ないと思ったが千載一遇の好機に、五体が武者震いを止めない。

「コジロウさん、いやコジロウ・ミヤモト! 今此処で、三度目の勝負を申し込むっ。すぐに支度をしろっ」
「うむ! 修行は充分に積んでいるであろうなっ。上達振りを見させて貰うぞっ」

 コジロウは悠然と刀を抜いた。ルークもと佩剣を抜き、右手めてにで確と柄を握り、切っ先鋭く相手に向けた。コジロウの構えも一寸の隙も見られず、彫刻のように身体のブレが無い。切れの長い双眸、風に靡く一本結びの黒い髪。
 いざっ、と二人は気殺の声を上げた。ルークは相手の声に怯みもしない。いくぞっ、と右手めての名剣虚空に唸り、真一文字に突き掛かる。コジロウの刀は横翳し、戛然火華が眼を焦がす。丁々と打ち合うこと二、三合、両者一歩も譲らない。
 ルークは慌てず跳び退しりぞき、二人の切っ先は触れず着かずの微妙な間合いを保って、双方全く動かない。

 今にも飛び出していきたいのはルイーゼであった。彼方から悶々と気を揉みつつ、自分の事のように胸を上下させている。尋常の斬り合いならば、懐剣を投げるか後ろから斬り掛かっていく所だが、愛しい想い人の大願はそれでは果たされない。

「ルーク…。神様、お願いします…」

 と、信じた事も無い神に祈り始めた所で、所詮は縁の下の力瘤。
 その時、コジロウの気当の声が山林にこだました――が、刀が振るわれたわけでは無い。
 見ると、不動縛りになった如く、ルークは満面に珠の汗を浮かべ、しかしコジロウは彼を児戯のようにあしらっているわけでは無い。一厘一寸にも気を配り、細心に細心を相手に注いでいるのだ。

「ルーク殿、もう勝負は付いておるっ。貴殿は八分の疲れだが、拙者はまだ五分の余裕を残している」
「な、何っ。そんな事、やってみないと解らないっ」
「数ヶ月前に比べても、驚くほどの上達振り。必死の剣気と自得の工夫には感服致した。しかし、まだまだ拙者を倒すには至らぬっ」
「煩いっ」

 奮然とルークは、地面を蹴ってコジロウ目掛けて斬り込んだ。五体の力を柄に込めて、彼の手元に躍り込む。発止と金属音がしたかと思うと、ルークの剣は打ち上がる。
 しかし彼は諦めない。剣と共に跳躍し、風に刃を唸らせて、裂帛一声、相手目掛けて振り下ろす。しかしコジロウの見切りは余裕充分、眼にも止まらぬ疾風の一閃! 横薙ぎにルークは弾かれる。ああ、この男の剣技は人間業なのであろうか、 剣を弾き飛ばされたルークは、殆ど同時に峰打ちを喰らい、地面に投げ出されて気絶してしまった。
 コジロウは、ルイーゼが隠れている方角をチラリと見た後、ルークを置き離して懐から先に読んでいた古書を取り出し、懐紙に何か書き記した後、それらを彼の脇に置いたまま悠然と去っていった。いつの間にか山々は紫雲に覆われ、丹色の陽光が差し込み、山林は長い影を伸ばして夜の支度を整え始めていた。
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