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第三十三話
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「おうい、ルーク君、ルーク君」
天魔か鬼神のようなコジロウの人間離れした技に、真っ向から打ち負かされ、ルークはしばらく気絶していたらしい。自分を呼ぶ声に、彼がむっくり起き上がると、目の前にはコジロウではなく、麻の道服を纏い手に樫の杖を持った一人の老翁。
この老翁は、滝壺の裏の洞窟に住まう洞人のムラマサであった。彼は数ヶ月前に現れたルークに興味を持ち、かねてより仔細があるのだろうと思い、彼を観察していたのだが、今日彼がコジロウと打ち合っていたのを見て、大願を胸に抱いていると察した様子。
ルークは尋ねられるがままに、自身の修行の目的を漏らしてしまい、
「――と言うのが僕が此処にいる理由です。ですが、二度まで相手に敗れて、何とも顔向け出来ません。村にいる人達にも言わないようにお願いします」
他人事ながら、ルークの様子に眼をつけていた老洞人、笑わず嘲らず、聞くごとに頷いて、さて静かにこう言った。
「儂も若い頃は遠くの国で、少し剣の道を志したことがあってな。剣術の妙技に至るのは容易なことでは無いと知っている。殊に、あのコジロウ・ミヤモトは東国で随一の名剣客、尋常な修行や半端な才能では、これに打ち勝つのは、けだし無理だというものだ」
「じゃあ、いくら修行しても駄目なんですか、コジロウさんには勝てないんですか? それだったら僕はどうすれば…」
ルークは言葉を詰まらせた。悲壮な決意を固めて艱難辛苦を求めている自分の大願が、こうもはっきりと否定されては心が晦冥に閉ざされる気分であった。うぅ、と輝く涙の筋が月に光る。
頬に光るルークの涙を見たムラマサは、何か思案顔に眦を塞いでいたが、微妙玄通たるその姿は、何処か神々しささえ感じさせる。
ムラマサは、ルークに近付いて、
「君が十年の修行を積んでも、コジロウも十年の工夫を進め、君が二十年の奥義を探求しても、彼も二十年の妙剣を極めるだろう。亀が怠けない兎に打ち勝つには、余程非凡な修業と超人の克己が要る」
「いくら厳しい修行でも構いません。でも、どうすればその域に達せるんですか。お願いします、僕に少しでも力を貸してください。未熟な僕を助けてください」
「うむ、その謙譲心こそ君の魅力であり、まだまだ剣術の腕が伸びる何よりの証拠だ。儂には何も力は無いが、神から与えられた一力をお授けしよう。今夜から月が中天に至った時に此処へ来なさい」
神の力というものが何であるのか、ルークは全く解しなかったが、この仙味を帯びたムラマサには、争えぬ風格があり心を衝つ威厳があった。
ルークは暫くの間、神の啓示でも受けたように恍惚としていた。いるようでいない、いないと思えばいる。そんな不可思議な洞人が実はここまで威厳と風格を備えていると知り、自分の眼の小ささを思い知った。
すると彼の足元に一冊の本が落ちていた。ルイーゼが、呆然としている彼の足元にこっそりと置いたものなのだが、ルークからすれば覚えの無い品なので、ふと手に取ってみると、「剣術不識の書」の一冊。表紙から白絹のような紙が顔を出している。
ルーク殿へ申す。今日の剣術実に見事であった。まさに剣術の珠、名玉は磨かれ出さんとす。しかし血気に逸り、目標を焦るその勇気はまた短所なり。ともすれば一点の瑕瑾ともいえる。再三再四、剣術に精進されよ。拙者は恩師を訪ね廻る身なれば、旅から旅への流浪の身。ただ待つものは貴殿の三度の訪れなり。さらば。
コジロウ・ミヤモト
真夜中である。夏ながら、峠の中は少し肌寒くすらある。冷気が霧のように森を覆い、夜の静寂に月光すら何処か薄ら寒い。
そんな静寂を破る木剣の音が山の一角から聞こえてくる。そこだけ熱気が籠もっているようで、何とも異様な雰囲気を持っている。
煌々と真っ白な月光が差し込み、ルイーゼは、密林の木に座って、白昼の如く明るい大滝の方を見ている。そこで樫の杖を振るうムラマサとそれに向かうルークが上段下段横払いと、木剣を散らし、火を摺るような荒稽古。
「まだ気力が足らん! 剣と心とが離れている! 神心の凝念が足らん! 無念無想となれ、ただコジロウのみを心に浮かべよ! 」
ムラマサはルークを叱咤し、かつ励ます。その鋭い声にルークもまた奮い立つ。ルイーゼはそれを見て、心配でならない。怪我でもしたらどうしよう、ああ危ない、と何度も飛び出しそうになる。
えいっ、とルークは必死、コジロウ・ミヤモト! その意気込みで真っ向に打ち込む。痩躯鶴の如きムラマサは、ひらりと身を跳ばし、途端に杖を素早く振るう。
ルークはすかさず受け止めたが、音も無く来る次の太刀、発止と払えば三の太刀。えいっ、やっ、と息もつかせぬ猛撃に、ルークはじりじり後退り、あわやと見る間に杖を引き、殆ど同時に踏み込んだ。
その鋭さは至極妙技、ルークははっと気竦みを覚えて、日頃鍛錬の飛躍を以て、咄嗟に上に跳び躱す――が、その隙も無い相手の杖。
「ルークッ。お前がコジロウに打ち込まれた極みの一撃はこれだ! 」
何をっ、と閂に木剣を構えて発止と止めるが、その途端に、ルークの木剣は、ボキリと折れて、そのまま彼は肩先を打ち込まれてどうと倒れた。
折れ飛んだ木剣の破片は、くるくると虚空を飛んで、彼方の地面に落ちた。それを眼で追っていたルークは、樹上で月影に照らされるルイーゼを見た。
あっ、とルークが声を上げた時には、彼女の姿はもう密林の中に消え失せていた。ルークは今の身も忘れて、手の木剣を捨てて、ルイーゼ、と追い掛けていこうとした――が、彼の上襟をぐいと引っ掴んだムラマサ、落雷のような気合いを掛けてルークを地面に引き倒した。また立ち上がろうとする彼の利き腕を捻じ上げて、
「試合も半ばに余所へ心を奪われるばかりか、師弟の礼も弁えぬ慮外者っ。そのような煩悩で上達がなろうか、不心得者めっ」
そのまま彼を丁々と打って懲らした後、明日も来い、と言って洞穴に入った。
無骨な岩の床、ゆかしき灯火の明かり、百巻の剣術書、尋常の世捨て人とは思えぬ。今、あれほど激しい長時間の稽古をしても、ムラマサは汗ばみもせず息も乱さず、悠然と毛皮の上に座った。
そして振り向かないまま、後ろに佇む人影に、
「座ったらどうかね、ルイーゼ。君がルークと同じ時に近くで隠れていたのは知っていたぞ」
「ムラマサさん、どうかルークを見捨てないでください。きっと気の迷いが生じただけです」
「どうして見捨てる事があるだろう。だが、彼の一心不乱の矢先に君がいては、煩悩の悪魔のようなものだ。儂がルークを引受けるから、君は何もせずに見守るだけにしておきなさい。何事もルークの為だ。きっとルークは秘剣を習得する、安心しなさい」
「…はい。どうかお願いします」
ルイーゼは我が身の事のように頭を下げ、そのままルークを遠くから見守り、ムラマサはルークに、幻でも見ていたのだ、と言い聞かせ、再び修行に勤しませた。
ルークの一心不乱とルイーゼの純情、ムラマサはこの二つを上手くすれ違わせ、日々ルークの腕前を上達させていくのであった。
――それからはや一月過ぎた。十四歳となっても、ルークは来る日も来る日も、昼は梢を斬り、滝を相手取り、夜は月明かりに木剣を振るってムラマサと打ち合い、鍛錬に余念が無かった。
今宵もルークはムラマサと対峙していた。ムラマサは彼を見て、その雰囲気の変わりように満足げである。白皙蒲柳なのは変わらないが、武芸者の妙高に達している。武芸の心得があればあるほど、彼の姿に瞠目するであろう。
「ルークよ。今日こそ我が奥義を修得する日だ。何処からでも打ち込んできなさい」
「はいっ」
ルークはそれだけ言って木剣を手にした。初日に見せられたコジロウと同じ妙技、その後彼はそれを越える凄まじい剣技を見せられ、日々それに近付くべく錬磨を重ねていた。
いざっ、とルークが真っ向上段振りかぶり、ぱっと地を蹴り躍り込む。発止と交わる木剣は、眼にも止まらず交差する。最初の頃のたじろぐ彼は何処へやら、一歩も退かずに相手を打つ。丁々と摺れる木剣は煙を立たせ、ムラマサの返した上段斬り、発止とルークは横払い、勢いそのまま独楽のよう、ぐるりと廻ってさっと払う。ムラマサも身を退いて、ガッキと十字に組み合った。
思う間もあらばこそ、バキッと木剣鳴った時、何があったのかは解らぬが、ムラマサの木剣は真ん中から折れていた。
「見事! 習得したなルーク! 」
「は…はい、はい! 有難うございました! 」
「だが、儂だけでなくお前を影から支えていた者にも礼を言わなくてはいかんぞ」
ルークは訝しんだが、肩で息をしながら礼を言い、その日は眠りに着いた。
翌朝になると、ムラマサは忽然と消え失せており、滝壺の洞穴にも周囲の密林にもいなかった。ルークは心の内で何度も礼を述べ、荷物を纏めて下山した。その下山道の途中に、彼を影から見守り、人知れず支えていた片想い人、ルイーゼがいた。
ルークは彼女を見ると、言葉も交わさぬ内から全てを察した様子。彼はルイーゼの手を握り、緑の並木道の中、二人は並んで歩いていった。
――コジロウは、クレムラート王国のギョーム男爵領に向かっていた。隣国にいた彼は、落ち着く間もなく、また再び舞い戻った。
ルークから果たし状が届いたのである。武芸者らしく礼を尽くしてはいるが、情念が伝わってくる文面に、コジロウは心を動かされ、夜を日に継いで急いでいた。
彼もいつしかルークに心酔する一人になっていた。互いに尊敬し合う仲へ、知らず知らずの内になっていたのである。
コジロウが領土に入ったと知ると、ギョーム男爵の息子は、賓客の礼を取って彼を迎えた。彼は、王国中に今回の決闘を宣伝し、名剣客コジロウ・ミヤモトと義父の仇討ちを願うルーク・ブランシュ。王国中の剣士や武芸者、お忍びの諸侯まで来ている環視の晴れ舞台。
名だたる剣客も注目しているであろう場所。敗れを取っては、自分だけでなく師の名折れ、また仮借があってはルークに失礼、そういう気概を抱いて、コジロウは正しき剣の優劣を明らかにするつもりである。
決闘の前夜、ルークは一年振りに戻った故郷の街で、ロスバーグ邸は既に閉じられてしまっていたので、ルイーゼと共に用意された宿屋にいた。明日が生死を左右する決闘ということもあって、彼は中々眠れずにルイーゼの部屋を訪れていた。外の街は人通りも無く、寂としている。
ルイーゼは窓から差し込む月明かりに照らされながら、傍らにいる彼に、
「ねえルーク…一応聞いておくけど、本当にコジロウさんと決闘するの? 死ぬのが怖くないの? 」
「死ぬのは…怖いよ。でも、僕はそれよりも僕を助けてくれた人達、僕自身の決意の方が強いんだ。でもルイーゼ」
「何? 」
そう言うとルークは、外に向けていた顔を彼女に向け直した。月光に照らされる白皙の見た目は変わらぬが、その瞳には確かに炯々と光るものがある。
ルークは深い息を一つした。
「ルイーゼ…僕を支えてくれて有難う。何ヶ月も一緒に僕の勝手に付き合ってくれて」
「何言ってるの? あたしが勝手にやってたんだから変な事言わないでよ。でもねルーク…」
と、ルイーゼは彼の背中に腕を回した。彼女は涙を流しながら、
「本当は、死んで欲しくない…ずっとあたしと一緒にいて欲しい…。こう言うのは、ルークの気持ちを挫くから、駄目だとは解ってる…。でも、あたしは自分の気持ちに嘘はつけない…」
「…ルイーゼ」
ルークは確とルイーゼを抱擁した。互いに言葉の無い沈黙が暫く続いた。部屋の中はしんとし、咳一つ聞こえない。
密着する二人は、少し離れた。向き合う顔は、熱い眼差しを交わす。
「ねえルーク…明日の夜、会えるか解らないから…今夜は一緒に、ずっと一緒にいたい。駄目、かな…? 」
「…」
ルイーゼは真っ赤な顔で絞り出すようにして言った。ルークは何も言わず、彼女の唇に自分の唇を重ねた。ルイーゼは一瞬驚いたが、ゆっくりと眼を閉じた。
窓の外は静寂、誰も通らない。月明かりは部屋に差し込み、二つの影を照らしていた。
天魔か鬼神のようなコジロウの人間離れした技に、真っ向から打ち負かされ、ルークはしばらく気絶していたらしい。自分を呼ぶ声に、彼がむっくり起き上がると、目の前にはコジロウではなく、麻の道服を纏い手に樫の杖を持った一人の老翁。
この老翁は、滝壺の裏の洞窟に住まう洞人のムラマサであった。彼は数ヶ月前に現れたルークに興味を持ち、かねてより仔細があるのだろうと思い、彼を観察していたのだが、今日彼がコジロウと打ち合っていたのを見て、大願を胸に抱いていると察した様子。
ルークは尋ねられるがままに、自身の修行の目的を漏らしてしまい、
「――と言うのが僕が此処にいる理由です。ですが、二度まで相手に敗れて、何とも顔向け出来ません。村にいる人達にも言わないようにお願いします」
他人事ながら、ルークの様子に眼をつけていた老洞人、笑わず嘲らず、聞くごとに頷いて、さて静かにこう言った。
「儂も若い頃は遠くの国で、少し剣の道を志したことがあってな。剣術の妙技に至るのは容易なことでは無いと知っている。殊に、あのコジロウ・ミヤモトは東国で随一の名剣客、尋常な修行や半端な才能では、これに打ち勝つのは、けだし無理だというものだ」
「じゃあ、いくら修行しても駄目なんですか、コジロウさんには勝てないんですか? それだったら僕はどうすれば…」
ルークは言葉を詰まらせた。悲壮な決意を固めて艱難辛苦を求めている自分の大願が、こうもはっきりと否定されては心が晦冥に閉ざされる気分であった。うぅ、と輝く涙の筋が月に光る。
頬に光るルークの涙を見たムラマサは、何か思案顔に眦を塞いでいたが、微妙玄通たるその姿は、何処か神々しささえ感じさせる。
ムラマサは、ルークに近付いて、
「君が十年の修行を積んでも、コジロウも十年の工夫を進め、君が二十年の奥義を探求しても、彼も二十年の妙剣を極めるだろう。亀が怠けない兎に打ち勝つには、余程非凡な修業と超人の克己が要る」
「いくら厳しい修行でも構いません。でも、どうすればその域に達せるんですか。お願いします、僕に少しでも力を貸してください。未熟な僕を助けてください」
「うむ、その謙譲心こそ君の魅力であり、まだまだ剣術の腕が伸びる何よりの証拠だ。儂には何も力は無いが、神から与えられた一力をお授けしよう。今夜から月が中天に至った時に此処へ来なさい」
神の力というものが何であるのか、ルークは全く解しなかったが、この仙味を帯びたムラマサには、争えぬ風格があり心を衝つ威厳があった。
ルークは暫くの間、神の啓示でも受けたように恍惚としていた。いるようでいない、いないと思えばいる。そんな不可思議な洞人が実はここまで威厳と風格を備えていると知り、自分の眼の小ささを思い知った。
すると彼の足元に一冊の本が落ちていた。ルイーゼが、呆然としている彼の足元にこっそりと置いたものなのだが、ルークからすれば覚えの無い品なので、ふと手に取ってみると、「剣術不識の書」の一冊。表紙から白絹のような紙が顔を出している。
ルーク殿へ申す。今日の剣術実に見事であった。まさに剣術の珠、名玉は磨かれ出さんとす。しかし血気に逸り、目標を焦るその勇気はまた短所なり。ともすれば一点の瑕瑾ともいえる。再三再四、剣術に精進されよ。拙者は恩師を訪ね廻る身なれば、旅から旅への流浪の身。ただ待つものは貴殿の三度の訪れなり。さらば。
コジロウ・ミヤモト
真夜中である。夏ながら、峠の中は少し肌寒くすらある。冷気が霧のように森を覆い、夜の静寂に月光すら何処か薄ら寒い。
そんな静寂を破る木剣の音が山の一角から聞こえてくる。そこだけ熱気が籠もっているようで、何とも異様な雰囲気を持っている。
煌々と真っ白な月光が差し込み、ルイーゼは、密林の木に座って、白昼の如く明るい大滝の方を見ている。そこで樫の杖を振るうムラマサとそれに向かうルークが上段下段横払いと、木剣を散らし、火を摺るような荒稽古。
「まだ気力が足らん! 剣と心とが離れている! 神心の凝念が足らん! 無念無想となれ、ただコジロウのみを心に浮かべよ! 」
ムラマサはルークを叱咤し、かつ励ます。その鋭い声にルークもまた奮い立つ。ルイーゼはそれを見て、心配でならない。怪我でもしたらどうしよう、ああ危ない、と何度も飛び出しそうになる。
えいっ、とルークは必死、コジロウ・ミヤモト! その意気込みで真っ向に打ち込む。痩躯鶴の如きムラマサは、ひらりと身を跳ばし、途端に杖を素早く振るう。
ルークはすかさず受け止めたが、音も無く来る次の太刀、発止と払えば三の太刀。えいっ、やっ、と息もつかせぬ猛撃に、ルークはじりじり後退り、あわやと見る間に杖を引き、殆ど同時に踏み込んだ。
その鋭さは至極妙技、ルークははっと気竦みを覚えて、日頃鍛錬の飛躍を以て、咄嗟に上に跳び躱す――が、その隙も無い相手の杖。
「ルークッ。お前がコジロウに打ち込まれた極みの一撃はこれだ! 」
何をっ、と閂に木剣を構えて発止と止めるが、その途端に、ルークの木剣は、ボキリと折れて、そのまま彼は肩先を打ち込まれてどうと倒れた。
折れ飛んだ木剣の破片は、くるくると虚空を飛んで、彼方の地面に落ちた。それを眼で追っていたルークは、樹上で月影に照らされるルイーゼを見た。
あっ、とルークが声を上げた時には、彼女の姿はもう密林の中に消え失せていた。ルークは今の身も忘れて、手の木剣を捨てて、ルイーゼ、と追い掛けていこうとした――が、彼の上襟をぐいと引っ掴んだムラマサ、落雷のような気合いを掛けてルークを地面に引き倒した。また立ち上がろうとする彼の利き腕を捻じ上げて、
「試合も半ばに余所へ心を奪われるばかりか、師弟の礼も弁えぬ慮外者っ。そのような煩悩で上達がなろうか、不心得者めっ」
そのまま彼を丁々と打って懲らした後、明日も来い、と言って洞穴に入った。
無骨な岩の床、ゆかしき灯火の明かり、百巻の剣術書、尋常の世捨て人とは思えぬ。今、あれほど激しい長時間の稽古をしても、ムラマサは汗ばみもせず息も乱さず、悠然と毛皮の上に座った。
そして振り向かないまま、後ろに佇む人影に、
「座ったらどうかね、ルイーゼ。君がルークと同じ時に近くで隠れていたのは知っていたぞ」
「ムラマサさん、どうかルークを見捨てないでください。きっと気の迷いが生じただけです」
「どうして見捨てる事があるだろう。だが、彼の一心不乱の矢先に君がいては、煩悩の悪魔のようなものだ。儂がルークを引受けるから、君は何もせずに見守るだけにしておきなさい。何事もルークの為だ。きっとルークは秘剣を習得する、安心しなさい」
「…はい。どうかお願いします」
ルイーゼは我が身の事のように頭を下げ、そのままルークを遠くから見守り、ムラマサはルークに、幻でも見ていたのだ、と言い聞かせ、再び修行に勤しませた。
ルークの一心不乱とルイーゼの純情、ムラマサはこの二つを上手くすれ違わせ、日々ルークの腕前を上達させていくのであった。
――それからはや一月過ぎた。十四歳となっても、ルークは来る日も来る日も、昼は梢を斬り、滝を相手取り、夜は月明かりに木剣を振るってムラマサと打ち合い、鍛錬に余念が無かった。
今宵もルークはムラマサと対峙していた。ムラマサは彼を見て、その雰囲気の変わりように満足げである。白皙蒲柳なのは変わらないが、武芸者の妙高に達している。武芸の心得があればあるほど、彼の姿に瞠目するであろう。
「ルークよ。今日こそ我が奥義を修得する日だ。何処からでも打ち込んできなさい」
「はいっ」
ルークはそれだけ言って木剣を手にした。初日に見せられたコジロウと同じ妙技、その後彼はそれを越える凄まじい剣技を見せられ、日々それに近付くべく錬磨を重ねていた。
いざっ、とルークが真っ向上段振りかぶり、ぱっと地を蹴り躍り込む。発止と交わる木剣は、眼にも止まらず交差する。最初の頃のたじろぐ彼は何処へやら、一歩も退かずに相手を打つ。丁々と摺れる木剣は煙を立たせ、ムラマサの返した上段斬り、発止とルークは横払い、勢いそのまま独楽のよう、ぐるりと廻ってさっと払う。ムラマサも身を退いて、ガッキと十字に組み合った。
思う間もあらばこそ、バキッと木剣鳴った時、何があったのかは解らぬが、ムラマサの木剣は真ん中から折れていた。
「見事! 習得したなルーク! 」
「は…はい、はい! 有難うございました! 」
「だが、儂だけでなくお前を影から支えていた者にも礼を言わなくてはいかんぞ」
ルークは訝しんだが、肩で息をしながら礼を言い、その日は眠りに着いた。
翌朝になると、ムラマサは忽然と消え失せており、滝壺の洞穴にも周囲の密林にもいなかった。ルークは心の内で何度も礼を述べ、荷物を纏めて下山した。その下山道の途中に、彼を影から見守り、人知れず支えていた片想い人、ルイーゼがいた。
ルークは彼女を見ると、言葉も交わさぬ内から全てを察した様子。彼はルイーゼの手を握り、緑の並木道の中、二人は並んで歩いていった。
――コジロウは、クレムラート王国のギョーム男爵領に向かっていた。隣国にいた彼は、落ち着く間もなく、また再び舞い戻った。
ルークから果たし状が届いたのである。武芸者らしく礼を尽くしてはいるが、情念が伝わってくる文面に、コジロウは心を動かされ、夜を日に継いで急いでいた。
彼もいつしかルークに心酔する一人になっていた。互いに尊敬し合う仲へ、知らず知らずの内になっていたのである。
コジロウが領土に入ったと知ると、ギョーム男爵の息子は、賓客の礼を取って彼を迎えた。彼は、王国中に今回の決闘を宣伝し、名剣客コジロウ・ミヤモトと義父の仇討ちを願うルーク・ブランシュ。王国中の剣士や武芸者、お忍びの諸侯まで来ている環視の晴れ舞台。
名だたる剣客も注目しているであろう場所。敗れを取っては、自分だけでなく師の名折れ、また仮借があってはルークに失礼、そういう気概を抱いて、コジロウは正しき剣の優劣を明らかにするつもりである。
決闘の前夜、ルークは一年振りに戻った故郷の街で、ロスバーグ邸は既に閉じられてしまっていたので、ルイーゼと共に用意された宿屋にいた。明日が生死を左右する決闘ということもあって、彼は中々眠れずにルイーゼの部屋を訪れていた。外の街は人通りも無く、寂としている。
ルイーゼは窓から差し込む月明かりに照らされながら、傍らにいる彼に、
「ねえルーク…一応聞いておくけど、本当にコジロウさんと決闘するの? 死ぬのが怖くないの? 」
「死ぬのは…怖いよ。でも、僕はそれよりも僕を助けてくれた人達、僕自身の決意の方が強いんだ。でもルイーゼ」
「何? 」
そう言うとルークは、外に向けていた顔を彼女に向け直した。月光に照らされる白皙の見た目は変わらぬが、その瞳には確かに炯々と光るものがある。
ルークは深い息を一つした。
「ルイーゼ…僕を支えてくれて有難う。何ヶ月も一緒に僕の勝手に付き合ってくれて」
「何言ってるの? あたしが勝手にやってたんだから変な事言わないでよ。でもねルーク…」
と、ルイーゼは彼の背中に腕を回した。彼女は涙を流しながら、
「本当は、死んで欲しくない…ずっとあたしと一緒にいて欲しい…。こう言うのは、ルークの気持ちを挫くから、駄目だとは解ってる…。でも、あたしは自分の気持ちに嘘はつけない…」
「…ルイーゼ」
ルークは確とルイーゼを抱擁した。互いに言葉の無い沈黙が暫く続いた。部屋の中はしんとし、咳一つ聞こえない。
密着する二人は、少し離れた。向き合う顔は、熱い眼差しを交わす。
「ねえルーク…明日の夜、会えるか解らないから…今夜は一緒に、ずっと一緒にいたい。駄目、かな…? 」
「…」
ルイーゼは真っ赤な顔で絞り出すようにして言った。ルークは何も言わず、彼女の唇に自分の唇を重ねた。ルイーゼは一瞬驚いたが、ゆっくりと眼を閉じた。
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この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
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