【本編完結】セカンド彼女になりがちアラサー、悪役令嬢に転生する

にしのムラサキ

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分岐・鹿王院樹

水族館

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 マナティの鼻にはフタがついている。

「可愛いねぇ」
「のんびりした生き物だな」

 沖縄本島の水族館、マナティの水槽の前で私たちはヒレを使って歩くような仕草を見せるマナティを眺めていた。
 時折空気呼吸のために水面に鼻を出す。ぱかりと鼻の穴が開いて、また水中にゆったりと沈んでいく。
 マナティを満足するまで眺めて、それから私と樹くんは水族館の建物の中に入った。

「わ、人多いね」
「夏休みだからなぁ」

 樹くんは手を繋いでくれる。はぐれないようにだろうと思うけど、嬉しい。

「ふふ」
「どうした」

 不思議そうな樹くんに、私は「なんでもないよ」と笑う。
 午前中は西表島の観光、そこから石垣島へ戻って、お昼を食べてから空路で那覇へ。それからタクシーで水族館、なのでもう15時過ぎなんだけど、でもまだいまから入場の人もたくさんいた。
 人はいるけれど、そこは水族館、なんとなくゆったりした時間が流れている。

「世界中の水族館を見て回りたい」
「いいねぇ、行こう」

 ぽつりと樹くんが言った言葉にそう返すと、樹くんは嬉しそうにしてくれる。

「むしろ将来的には造りたいのだが」
「うん」
「祖母に止められた」
「あは」
「俺の好みで作ると変な魚しかいないと言われたが、……む、トラフザメ。可愛いな」
「さめ」

 言われて水槽を見ると、白黒模様の小さなサメ。サメなのかは分からないけど、多分サメ。

「大きくなると模様が変わる」
「へぇ」
「可愛い顔をしている」
「……うん」

 樹くんはしばらく可愛いを連呼しながらサメを眺め回していた。……樹くんの可愛いの基準って、よくわかんない。
 夕方近くになって、バックヤードの見学に参加する。ジンベエザメの餌やりを水槽の上から見ることができる。柵はあるけれど。

「うわぁ」

 ぱかりと開いた大きな口に、オキアミがざばりと水ごと飲み込まれていった。ふるふるとエラが(これもまた大きい!)が震える。

「こんなに大きいと、水槽ってかんじじゃないよね」
「確かにな」

 樹くんは笑う。
 なんとなく怖くなって、樹くんの手をぎゅうっと握った。

「華?」
「落ちたらやだなって」
「繋いでいるから大丈夫だ」

 樹くんは笑って繋いだ手を少し上げた。

「うん」
「俺は……華には、嫌なことがひとつも起きないといいなと思う。そのためなら何でもする」

 樹くんは水面を見つめて言った。

「ん?」
「昔も言ったな? とにかく嫌な思いを1つもして欲しくない。悲しい思いをして欲しくない。辛い思いもして欲しくない。楽しくて嬉しくて幸せな思いだけしていて欲しい、と」
「あー」

 私は笑う。

「ふふ、ありがたいけど、私やっぱり考え変わってないよ。そういう思いするから、幸せって感じられたり、誰かに優しくできるんだって思うから」
「ふ、そうか。だが俺も考えは変わってないぞ。変える気もない」
「でも樹くん」

 なんでそんなに優しくしてくれるの、といいかけて、私は口をつぐんだ。

(欲しい答えだとは限らない)

 それはとても、怖いことだったから。

「? なんだ?」
「えーと、あ、そうだ、変な子に会ったよね」

 あの時、と言いながら思い出す。
 小学生のとき、横浜のカフェで出会った女の子。

「……ああ、いたな。訳の分からないことを言っていた」

 ふ、と樹くんは笑う。そして何故だか私の頭を撫でた。

(……そうだ、ゲーム知識があった、あの子には)

 撫でられながら、そう思う。
 今思えば、きっとあの子は千晶ちゃんが悪役令嬢の"サムシングブルー"のヒロイン、なのではないかなと思う。
 フワフワした髪の、お人形さんみたいな女の子。

(……千晶ちゃんに聞いてみよう)

 そう思いながら目線を上げたとき、私は何度も瞬きをしてしまった。
 いま思い返した女の子が、目の前にいたから。

(……うっそ)

 噂をすれば影、というけれど。
 家族らしき人たちといる女の子も、私と樹くんを見つめている。それから少し眉を寄せて、きゅっと唇を結んで、つかつかとやってくる。
 樹くんを見上げると、不審そうな顔をして、私を背中に隠した。樹くんの影から、その女の子を見つめる。
 心臓が妙に大きく鳴っているのが分かった。

「ま、また、迷惑をかけているのっ」
「またとは何だ」

 女の子が震えながら言い放った言葉に、樹くんは冷たく返した。

「ろ、鹿王院くんっ、だって、そのヒトに、つ、連れ回されてるんでしょ!? い、いやなら、いやって」
「嫌なわけがあるか、俺が連れてきているんだ」

 いつだかのようなやり取りを、私は冷たい汗をかきながら聞いていた。
 頭に浮かんでいたのは、松影ルナだ。

(この子まで)

 もし、この子まで死んじゃったらどうしよう? 私が変に関わったことによって?
 そんな益体もない不安が、頭の中でぐるぐるする。

(記憶のことを言ってみる?)

 ふとそう思いついて、それから首を振った。松影ルナは、私に記憶があることで余計に逆上した。下手には動けない。

「瑠璃? お友達?」
「ママ、違うの、あのね」

 女の子の気がそれた瞬間、私は樹くんの手を思い切り引いて走り出した。もう何が何だかわかんないから、逃げるしかない!

「あ、ま、待ちなさい、設楽華っ」

 女の子が追ってくる。私は階段を駆け下りる。

「に、逃げるなんて、ひ、卑怯よっ」

 卑怯でもなんでもいいから、逃げさせて欲しい。とにかく関わらないのが一番な気がするのだ。

(こーいうの、なんていうんだっけ? 六六三十六、じゃなくって、さぶろくじゅうはち、でもなくって)

「三十六計逃げるに如かず、か?」
「なんで分かったの」

 水族館の庭に出つつ、はぁはぁと息をしながらそう言うと、樹くんは眉を寄せた。このひと、全然息が上がってない。

「何故逃げる」
「関わりたくないからっ」
「ふむ」

 樹くんは走りながら、不思議そうに首をかしげる。

「逃げたいんだな」
「うん」
「追いつかれるぞ」
「えっ」

 振り向くと、女の子の足は案外速くて、もう追いつかれそうだった。なんでそこまでして追いかけてくるの!?

「しつこいなぁっ」

 思わずそう言うと、樹くんは大きく笑った。

「よほど嫌と見える」
「やだよっ」

 いくら美少女でも、あの形相で追ってきたら怖いに決まってる!

「じゃあ少し我慢しろ」
「え?」

 樹くんは、ふわりと私を抱き上げて、右肩に担ぎ上げた。

「暴れるなよ」
「え、え、えっ」

 視線が高い。樹くんはさっさか走るので、女の子との距離も広がる。女の子は何か叫んだ。が、さすがに疲れてきたのかスピードも落ちる。
 じきに分かれ道があって、樹くんはそこの建物の影に隠れて私をゆっくりと下に下ろした。

「隠れていよう」
「う、うん」

 抱きしめられるような格好でいるので、ちょっとドキドキする。

(……訂正。かなりドキドキする)

 樹くんの鼓動も聞こえる。私を抱えて走ったせいか、すごくドキドキしている。

(ヒトの心音って、あんまり聞かないなぁ)

 なんとなく耳をすませる。どきどきが心地いい。

「華?」

 無言になった私に、不思議そうに言う樹くん。

「ん?」
「どうした」

 抱きしめるような、そんな格好のまま、樹くんは私の髪を撫でた。このまま眠れたら最高って感じだ。

「樹くんの心臓の音、聞いてるの」
「……なぜ」
「どきどきしてるなぁって」
「? 生きているからな、それに」

 樹くんはまた私の髪を撫でる。

「華のせいだ」
「あは、重かった?」
「……そうだな、重かった」
「ひどっ」

 私がそう言って見上げると、樹くんは破顔した。

「冗談だ、華は軽い」
「それはそれで嘘でしょ」
「本当だ」

 樹くんは笑って、私をひょいと抱き上げた。小さい子供みたいに、縦抱っこされる。

「うわ、」

 一気にまた視線が高くなるし、樹くんがなんていうか力持ちだしで、びっくりする。
 樹くんの頭が下にある。なんとなく髪に触れて、気づいた。

「……つむじ、2個」
「? 知らなかったか」
「知らなかったー!」

 大抵見上げてるから。でも膝枕とかだってしたことあるのになぁ。片方は髪で隠れてたからかな、気づかなかった。
 ちょっとはしゃいでしまう。

「ツボ2個じゃん」
「なんだそれは」
「押すと下痢になるっていう、えい」
「ふ、迷信だ。迷信だが、こら華」

 つむじをぎゅうぎゅうと押すと、樹くんは苦笑いする。でも楽しそうだからいいと思う。えへへ。

「ごめん」

 そう言って頭にキスをすると、樹くんは私を見上げてきた。

(この角度珍しい)

 見上げられると、幼く見える。可愛いなぁ、と笑うと樹くんは目を細めて、私の首元に唇を寄せた。

「んっ、い、樹くん!?」
「あ」

 すまん、と眉を下げて樹くんは私を下におろす。

「しまった」
「? 何が」
「いや、その、なんというか、無意識的にだな」
「無意識に?」
「多少興味があったことは否めない」
「興味っ!?」

 なにしたの!?

「いや友人に聞いていてだな……明日までに消えるだろうか」

 その言葉に、私は顔を赤くして首元に手をやる。もしや。いやそんな、でも久しぶりすぎて、こういうの。

「……キスマーク?」

 私がそういうと、樹くんは少し驚いたように言う。

「なぜ知っている?」
「知ってるもなにも、えー、ほんとに?」

 何のノリなの!?

「ふ、まぁいいか」
「よくないっ!」

 なぜか満足そうな樹くんに、私は全力で抗議してーーその声でまたあの子に見つかって、私たちはまた逃げる羽目になったのだった。
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