キマジメ官僚はひたすら契約妻を愛し尽くす~契約って、溺愛って意味でしたっけ?~

にしのムラサキ

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1巻

1-1

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   一章(side亜沙姫)

 盛夏が始まろうとしている。
 都内にある大学、その古びた窓ガラスの向こうでは、アブラゼミがかしましい。
 彼らのひたいにはルビー色の単眼があることを、きっと多くの人は知らない。知らなくてもセミがうるさいのは知っている。
 それでいい、と私は思った。

「あんなに美しいものがついているなんて、人に知られたら大変だもの」

 きっとみんな、アブラゼミを乱獲し始めるに違いない。ネコも杓子しゃくしもアブラゼミ狩りだ。街は一大アブラゼミブームに陥り、女子高生はこぞってアブラゼミの標本を鞄にくくりつけるだろう。

「そんなことになっては、セミがかわいそう」
「さっきから大丈夫ですか、アサヒさん」

 私の向かいの席に座っていた、強面こわもてで大柄な男性がそう言った。低めの、少しかすれた声だった。彼の名前は鮫川桔平さめかわきっぺいくん。私の大学生時代からの後輩で、今は農林水産省の総合職キャリア、いわゆる官僚さんだ。
 鮫川くんは背が高い、というかかなりガタイがいいので、この部屋――獣医学部野生動物学研究室の手狭な部屋に彼がいると、ずいぶんと窮屈に感じる。
 それにしても、一体、いつの間に来たんだろう。ひとりで作業していたはずなのになぁ。

「鮫川くん、相変わらず神出鬼没だね」
「……気が付かないのはアサヒさんくらいです」

 クールビズなのか、シャツにスラックス姿の鮫川くんはじっと私を見つめた。あまり目つきはよろしくないのに、やたらと整った顔立ち。
 そのまっすぐな視線は、どこか野良ネコを彷彿ほうふつとさせて嫌いじゃない。

若松わかまつ教授はどちらに」

 ふと聞かれて、私は顔を上げる。

「ああ、会議だよ」

 そうですか、と鮫川くんが小さく息を吐いた。
 部屋の中がシンとする。こおお、と古いエアコンが冷気を吐き出す音だけが聞こえていた。
 鮫川くんは持っていた書類に目を落としている。
 ――鮫川くんとは学部は違ったものの、院生時代からの知り合いだ。私のほうが四年先輩。留年していたわけではない。獣医学部は六年制なのだ。
 政経学部の彼と知り合ったのは、私が博士課程一年目のときだった。知り合ったというか、餌付えづけしたというか、ちょっとしたことで懐かれてしまった。
 とはいえ、彼が卒業したらきっと疎遠になるのだろうなと思っていた。博士課程修了後も研究員として大学に残った私とは違って、華がある人なのだ。質実剛健だけれど、存在しているだけで目が惹きつけられるというか。
 でも、結局今も交流が続いている。鮫川くんの管轄に山林の害獣対策なんかが含まれるらしく、今年からうちの教授と共同研究が始まったのだ。若手官僚の彼は今日も今日とて使いっ走りにされているらしい。暑いのにご苦労様なことだ。

「さっきの」

 沈黙の中、鮫川くんがぽつりと言った。

「さっきの――セミがどうのこうの、は何だったんですか?」
「あれ? 現実逃避」
「現実逃避?」

 そう、と私は頷く。

「論文が進まない上に英語で書かなくちゃいけないことに対する、猛烈な現実逃避」

 私は軽く目を閉じ、十二月締め切りの論文について思いを馳せた。宇宙ネコになりそう。

「そうでしたか」

 興味があるんだか、ないんだか分からない口調で、鮫川くんは相槌あいづちを打つ。もしかしたら暇なのかもしれない。ならついでにグチに付き合ってもらおう、と私は続けた。

「メガネザルの繁殖に関する論文なんだけど……鮫川くんは、気持ちが分かる? 繁殖したいメガネザルの気持ちが」
「……は」

 珍しく鮫川くんは一瞬目を丸くしたけれど、またすぐにポーカーフェイスに戻って、「それはどういった意図ですか」と淡々と聞いてくる。

「要は性衝動を感じたことがある? 恋愛感情を伴う」
「……まぁ、あるんじゃないですか」

 なんだかぶっきらぼうに言われた。
 まぁあるだろうな、と私は思う。鮫川くん、背も高いし顔もいい。言い寄る女性も多いだろうから、り取り見取りなんだろう。私とは違う。
 そっと、かけている眼鏡に触れた。

『いや、恋愛対象じゃないよ。あんな地味メガネザル』

 脳内に「彼」の声が響く。
 恋をすることを諦めた中学二年生のあの日――私は男性の恋愛対象になり得ない、と知った。私は「地味メガネザル」なのだから。
 そんな自分の名前に「姫」が入ってるのも嫌だ。亜沙姫あさひ――私みたいな「地味メガネザル」に「姫」はどう考えたって、似合わない。
 ……それはいい。過ぎたことだ。名前なんか。
 なのに、一瞬だけ「妃」の字を名に持ち、それに恥じない……それどころか飄々ひょうひょうと超えていく蝶のように美しく華やかな姉のことを思い出した。動悸がしそうになったけれど、なんとかすぐにかき消す。

「……私には性衝動が分からない。きっとそれは恋をしたことがないから」

 鮫川くんは何も言わず、正直に心中を吐露する私を見ている。それにしたって、私みたいな「地味メガネザル」が恋だのなんだの言っていたら、滑稽こっけいだろうか。自分でも少し笑ってしまいながら、さらに続ける。

「だから、私みたいな人間には本質的に理解できないのかもしれない。他の生き物に関しても」

 ヒトと他の動物は違う。それは前提なんだけれど、共通部分はあるのだ。たとえば、イルカだって繁殖目的以外でセックスをする、とか。

「……恋愛経験の有無は、そこに関係がありますか?」
「ないかなぁ。ないのかなぁ」

 論文が進まないのは、単なる実力不足なのだろうか? それはそれでヘコむ。

「誰かと寝たら、分かるかな。せめて繁殖行動の真似事でもすれば、少しは――」

 そう漏らした瞬間、がっと肩をつかまれた。
 いつの間にか、鮫川くんが目の前に立っていた。首を傾げた私を、鮫川くんは凶悪な顔面でにらんでくる。

「アサヒさん、そんなことのために貞操を犠牲にするのはいかがなものかと」
「そんなこと?」

 ちょっとだけカチンときた私は、鮫川くんの手を振り解く。

「あなたにとっては〝そんなこと〟かもしれないけれど、私にとってはとても大事なことなの」

 そう言うと、鮫川くんは精悍せいかん双眸そうぼうをこれでもかというほどにまん丸にしていた。そうしてどこか呆然と、私を見つめている。なんだかその視線に耐え切れなくて、そっと目線を逸らした。

「……アサヒさん」
「なぁに」
「その、それを、……するとしたら、誰と」
「誰と?」

 私は何度かまばたきをして、考える。

「誰と……って、別に、私なんかとセックスしてくれる奇特な男性なら、誰でも……できれば後腐れがないほうがいいけれど」

 そもそも、私と「したい」男性が果たしているかどうか――とつぶやくと、鮫川くんがしゃがみ込む。

「どうしたの?」
「アサヒさん」

 私を覗き込む、まっすぐな視線が痛い。
 逸らしたいのに、逸らせない。ただ、見つめ合う。

「俺と結婚、しませんか」

 窓の外ではセミがかしましい。
 鼓膜が破れたのかなぁとセミの合唱を聴きながら、私は今の鮫川くんの台詞せりふ反芻はんすうする。
 そういえば――なんでセミは鳴くんだっけ、と考えてすぐに思い出す。
 そう、彼らは求愛のために鳴くのだった。
 いのちを燃やして、鳴くのだった。


 夜になって、大学まで鮫川くんが迎えにきた。さあさあと夏の雨が降っていて、外はアスファルトの匂いがした。

「遅くなりました」
「ううん、大丈夫」

 どうせいつもこれくらいの時間に帰るの、と言うと、彼はほんの少しだけ眉間を寄せた。

「もう二十二時前ですよ。体調を崩したりはしないんですか」
「おかげさまで」

 私は傘を開く。なんの飾り気もないビニール傘だ。私の横に並ぶ鮫川くんは、黒くて大きな傘をさしている。

「鮫川くんこそ、いつもこんな時間?」
「そうですね、日によりますが」

 淡々と彼は答える。その口調には何の熱も感じられなくて、はて私は本当にこの人にプロポーズされたのだろうか、と小首を傾げた。

「答えは出してもらえましたか、アサヒさん」

 その言葉で、どうやらされていたらしい、と改めて驚く。

「……むり。だってわけが分からないもの。鮫川くんに何のメリットがあるの?」

 私の質問に、鮫川くんは特に表情を変えなかった。ただ小さく頷いて、「見てもらったほうが早いかもしれません」と答える。

「ついてきてください」

 きびすを返した鮫川くんの広い背中に、おとなしくついていく。置いていかれないよう早足になった私に、鮫川くんは気が付いたように振り返って、それから歩くペースを落としてくれた。
 鮫川くんが私を連れていったのは、大学からほど近い小さな古い日本家屋だった。庭が広くて、車庫には中古と思われる、少しレトロな外国車が一台停めてある。

「ここは……?」
「俺の家です」
「へえ。ご実家?」
「一人暮らしです」

 親戚に借りているのだと続けて、彼は鍵を取り出した。

「大学の近くだったんだ」

 しかも、理系のキャンパスの。鮫川くんは曖昧あいまいに「ええ」と答え、玄関の扉をカラカラと開いた。今時珍しい、ガラスの引き違い戸だ。模様ガラスがなんだかレトロ。
 私は傘を閉じて、傘立てに入れる。

「どうぞ。散らかっていますが」
「おじゃまします」

 遠慮なく上がらせてもらった玄関からは、廊下の先が暗くて見通せない。思ったより大きな家なのかもしれない。鮫川くんが電気をつけて奥に進むと、私も続いた。

「座っていてください」

 通されたのは、リビング……的な空間だった。居間と言ったほうがしっくりくるか。畳敷きのそこには、座卓と座布団と小さなテレビがあるだけだ。散らかってるって、これで?

「アサヒさん、魚は好きですか」

 グラスに麦茶を入れてくれた鮫川くんが、戻ってきて言う。

「どっち?」
「どっちとは」

 私の質問に、表情も動かさずに鮫川くんは問い返してきた。

「えっとね、飼うのか観察するのか」
「食べる方です」
「ああ、そっちも好きだよ」
「では夕食も食べていってください。帰りは送ります」

 頷きながら、はたと思い出して慌てて彼の腕をつかんだ。

「ま、待って。まずは、結婚の提案してきた理由を教えてよ」
「……そうでした」

 そう言って鮫川くんはスタスタ歩いて、障子を開けた。室内灯に照らされた庭が、濡れえんに面した掃き出し窓から見える。しとしとと雨に濡れた小さな庭だった。いや、庭というか、これは。

「……畑?」
「家庭菜園です」

 鮫川くんは、ストン、と私の向かいに座る。

「意外かもしれませんが、農水省はかなり出張が多いんです。国外を含め」
「へえ?」
「……野菜の世話をお願いできませんか」
「え? いいけど」

 答えながら思う。いいけど、いいけれども。

「……え、鮫川くん。ごめん、これが私と結婚したい理由?」
「はい」
「ばかなの……?」

 私は割と本気でそう言った。バカなのだろうか、目の前のこの人は。

「本気です」
「だってそんなの、……鮫川くんが頼めば、喜んでお世話する女の子、きっとたくさんいるよ?」

 すると鮫川くんはひと口、麦茶を飲んだ。からん、と氷が揺れる音が部屋に響いた。

「俺も後腐れがないほうがいいんです」
「……わー」

 私とは違う「後腐れがないほうがいい」だ。モテる人から出るやつだ。
 私も後腐れない人とセックスしたくて、鮫川くんは後腐れない人に家を任せたい。
 なるほど? いやまあ、納得はできないけれど、できないなりに考える。考えるけど、混乱している。合理的なの? 結婚の必要性はある?

「ねえ、それって――」
「アサヒさん」

 鮫川くんは私の言葉を遮って、キッパリと言う。

「アサヒさんと〝後腐れなく〟セックスできるのは、世界で俺だけですよ」
「……鮫川くんだけ?」

 思わず眉を寄せた。それはどういう意味なのだろう。

「そうです。他の人は後腐れますよ」
「あ、後腐れる?」

 動詞にされてしまった。この単語って動詞になるんだっけ?

「どうしますか? チャンスは今だけです」
「え」
「どうしますか」

 鮫川くんはじっと私を見ている。まるで観察するかのように――
 確かに私みたいな「地味メガネザル」とセックスしてくれる人なんて、滅多にいないだろうし――え? でも、本当に受けていいの?
 鮫川くんは静かに続ける。

「いいんですか、アサヒさん――動物たちの気持ちが分からなくて」
「そ、それは困る」
「なら、ほら」

 鮫川くんがほんの少し、頬をゆるめた。
 それはどこか、勝利を確信したような、そんな微笑みだった。

「俺と結婚しちゃいましょう」


 そうして――あの雨の日から約一週間。
『思い立ったが吉日ですから』とプロポーズの翌日、鮫川くんは私の実家に挨拶あいさつに来てくれた。姉はフランス在住なのでいなかったけれど、両親は大歓迎。まあ、いい年の私を心配していたんだろうな。
 そして今日は鮫川家にも挨拶あいさつうかがった。なんと彼は五人兄弟の四番目らしい。長男っぽかったから意外だなと思う。
 その帰り道、鮫川くんはさも当然とばかりに言った。

『今日は大安です』
『はあ』
『というわけで、入籍もしてしまいましょう』

 混乱しながらも押し切られ、私は婚姻届に判を押した。すでに彼は記入済みだった。しかも証人のひとりは私のお父さん。いつの間に根回ししていたのだろう。
 鮫川くん、そんなに野菜が心配なんだろうか。いやまあ、大切に育てられてはいたけれど……これから台風シーズンだから、その前に私というお世話係を家に入れておきたかったのかもしれない。

「あの、でもね、鮫川くん」

 私は、鮫川くんが運転する車の助手席から彼を見上げる。

「なんですか?」
「私が論文書き終わったら、どうするの? 〝契約〟にそんな文言はなかったよね?」

 契約。つまるところ、私に持ちかけられたのは「契約結婚」というものだった。
 鮫川くんは私に「色々な経験」を提供する。私は鮫川くんが不在の間、家の保持を担当する。ちなみに普段の家事は完全にイーブンだ。
 あまりに私に都合のいい契約ではなかろうかと思ったけれど、鮫川くんは飄々ひょうひょうとしたものだった。

「継続でいいじゃないですか。このまま研究員として大学に残るんですよね? 出産とかも経験したほうが、よりプラスなのでは」
「あー、確かに。出産! それも大事。頭いいね、鮫川くん」

 私は思い切り納得した。妊娠、出産、子育て。できればそれらも経験したい。
 きっと鮫川くんは単純に子どもが欲しいのだろう。兄弟も多いし、にぎやかな家庭がいいのかもしれないな、とぼんやり考えた。

「……でも、可能なら妊娠は来年以降でいい?」

 今年は無理だ。つわりに苦しみながらの論文執筆は、できれば避けたい。

「もちろんです。キャリアなどのタイミングを見て、また話し合いましょう」
「ありがと。でもヒトは妊娠しづらいからねー。どうなるかなぁ。ネコは交尾すればほぼ百パーセントだけど、ヒトはセックスしてもすぐ妊娠するとは……あれ、どうしたの、鮫川くん。頬、赤いよ?」
「……いえ」

 運転しながら鮫川くんはぶっきらぼうに言った。私は首を傾げる。変な鮫川くん。
 そうして唐突に新婚生活は始まった。家の保持担当としては早く現場入りしておきたいものの、さすがに入籍当日に引っ越しとはいかず、結局、同居が始まったのはさらにその翌週のことだった。
 新居となる鮫川ハウスは水回りをリフォームしてあった。ふたりで座れるようにソファも買ってくれたらしい。
 引っ越しで疲れた身体をさっそくお風呂で癒させてもらう。普段動物を相手にしているし、体力には自信があったのだけれど、途中へばってしまった。重いものは鮫川くんがほとんど担当してくれたというのに。

「ま、あの人若いからね」

 つぶやきつつ、私は浴槽で足を伸ばす。

「はー……極楽……」

 天井を見上げると、ぽつんと水滴がひたいに落ちてきて、つい「ひゃあ」と変な声を上げてしまった。ちょっと目をまたたいたあと、なんだかすごく面白くなってきた。

「うふふふふ、ふふ」
「……アサヒさん?」

 脱衣所から鮫川くんの遠慮がちな声がする。

「なあにー」
「あ、いえ……悲鳴が聞こえたので」

 もしかしてさっきの変な声か。

「心配してくれたの? ごめんね、天井から水滴落ちてきて」
「……すみません、この家古くて」
「全然大丈夫! ちょっとびっくりしただけだから」

 お湯の中でガッツポーズをすれば、ぱしゃぱしゃと音が立つ。脱衣所で鮫川くんがみじろぎしたのがりガラス越しに見えた。

「鮫川くん?」
「あ、いえ……、ごゆっくり」

 そう言い置いて彼は脱衣所を出ていく。小さなことで心配かけてしまって申し訳ないなあ。
 お風呂を出て居間に戻ると、鮫川くんはソファに座り、じっとテレビを凝視していた。かなり面白いバラエティー番組だと思うのに、表情筋が一切動かない。

「……鮫川くん、面白いって感情ある?」
「なんですか、やぶから棒に……ありますよ」

 失礼な、と言う鮫川くんの視線はちっともこっちを向かない。そんな鮫川くんを不思議に思いつつ、「お風呂どうぞ~」と声をかける。

「……はい」

 やけに重苦しい声を出しつつ、鮫川くんはお風呂に向かって歩いていく。どうしたんだろう、実は引っ越し作業で疲れたのかな。

「……ま、いっか」

 私はつぶやき、自分の荷物からドライヤーを取り出し、ソファに座って髪を乾かし始め……そうして気が付いた。鮫川くん、もしやこれにびっくりしたのでは。
 私は目線を下に向けた。そこにはふたつの膨らみがある。いわゆる乳房、有胎盤類であるヒトが乳児に対して母乳を与える際に使用される哺乳器であって……まあ私の場合はほぼ脂肪だ。名前よりもコンプレックスであるこの外性器を、私は胸を小さく見せることのできるブラジャーで誤魔化していた。男女問わず視線が胸に向くのが嫌だった。中学のときだって、これでどれだけ嫌な思いをしたか。
 さすがに夜は息苦しいので、楽ちんなナイトブラにしていたのだけれど。つまり鮫川くんからすれば、新妻の……新妻なんて言っていいのか分からないけれど、契約上とはいえパートナーに選んだ人間の胸がいきなり大きくなったのだ。そりゃびっくりするよね。

「……でもなんか、嫌な視線じゃなかったな」

 びっくりはしていたようだけれど、よっしゃこいつ胸でけえラッキー! みたいな雰囲気はなかった。……って、鮫川くんはそんな人じゃないか。
 とりあえず折を見て説明しよう、とドライヤーを止めたところで、鮫川くんが居間に戻ってくる。黒いTシャツに涼しげな素材のランニングパンツ姿。かなりラフな格好なのに、やけにかっこいいのは素材のよさゆえだろう。

「ええ、鮫川くんってばカラスの行水」

 実際のカラスは、鳥類にしては長時間水浴びをするほうではあるんだけれど。

「そうですか?」
「うん。じゃあそこ座って。髪の毛乾かしてあげる」
「……は」

 私の言葉に、鮫川くんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。結局鮫なのかカラスなのか鳩なのかは、まあどうでもいい。鮫川くんを手招きし、私の前のラグに座るように言った。

「ほら、髪、濡れてるから。夏だからって舐めてると風邪ひくよ」

 問答無用で大きい手をつかんで座らせ、私はドライヤーのスイッチを入れた。ドライヤーの熱風を手に浴びつつ、鮫川くんの髪をく。

「髪質いいね、ハゲなそう」

 ドライヤーの音に負けないようにちょっと大きな声で言えば、鮫川くんが苦笑する。

「……今のところ、父親にも兄弟たちにもそのきざしはないですね」

 そう答えつつ、鮫川くんは気持ちよさそうに息を吐いた。分かる、人に髪を乾かされるのって気持ちいいよね。
 私はふと、昔から思っていたことを伝えたくなった。

「私ね、鮫川くんのこと――ずっと」

 そこまで言うと、鮫川くんの広い背中がぴくっと動いた。痛かったかな、と髪の毛を乾かす指から少しだけ力を抜く。

「ずっと、ネコみたいだなって思ってた」
「……ネコ?」

 鮫川くんがややかすれた声で聞き返す。私はうん、と頷いた。

「野良ネコみたいな――野良ネコに、懐かれたような」

 そう伝えたとたん、鮫川くんがくるりと振り向いた。どうしてか、彼はとても苦しそうにしていた。ずっと何かを我慢していた、その糸がぷつんと切れてしまったかのような、そんな表情。

「え、と……どうしたの、鮫川くん。髪の毛乾かせないよ」
「アサヒさん」

 鮫川くんは切ない声で呼ぶなり私の手を取り、ドライヤーのスイッチを切る。そうして、目を丸くしている私を抱き寄せた。

「わ!?」
「俺は、ネコではありません」

 そう言って鮫川くんは、私の唇に自分の唇を押し付けた。
 一瞬ぽかんとして、それから頭が真っ白になった。あれ、これ、キスされてる?
 鮫川くんはそんな私に構わず、私の唇をむにむにとむ。まるで感触を確かめるかのような、ついばむようなキス。
 ――キスって、こんな感じなんだ。

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