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「ごちそうさまです」

 水を飲み干して、グラスを宮女さんにお返しする。
 女官長さんはにこりと微笑んだ。

娘子じょうしの一年のご健康を祈念いたします」
「ありがとうございます」
「それと、……まだお若いので、そう焦ることはありませんが」
「?」
「無事のご懐妊もまた、祈念いたしておりま……娘子!?」

 思わずむせた私に、慌てて女官長さんが駆け寄って背中を撫でてくれた。

「す、すみません変なところになんか入っちゃって」
「いえいえ」

 よろしければもう一杯、と水差しから春水とやらを入れてくれた。ありがたくいただく。

(ご、ご懐妊……)

 そりゃあ(実際は置いてもらってるだけな状況でも)たったひとりの妃だもんね。娘子おくさま呼びも定着しちゃってるし……。

(期待されちゃってるのかなぁ)

 指一本触れられてないとは、言えないなぁ……。
 去っていく女官長さんたちと、その片付けを手伝うという香桐さんを見送りながら、思う。

(ていうか、そのことについて考えてたんだ)

 そのこと……正確には、3つほど。
 ひとつは、私の処遇。

(このまま置いてもらうのも悪いから、なぁ)

 そう思っていて、思い切って改めて聞いたのが数日前のこと。
 お忙しい憂炎様には珍しく、夕餉をご一緒させてもらってる時。
 食べ終わって、なんだかのんびりお茶を頂いてる時に、聞いてみた。
 なんか働くことないですかって。皿洗いとかできますよって。

(怒られたもんな……)

 妃にそんなことさせる皇帝いると思う? って淡々と詰められた。

「俺の立場も考えて?」

 ぐうの音もなかった。
 ていうか、冷静に考えたら他の宮女さんたち気まずいよね、妃が同じ職場で急に働き出したらね……。

「では、私は下賜されたりなさらないのですか?」
「……は?」
「ですから、他のかたの奥様に」

 口を手で塞がれて、私は目を白黒させた。
 こんな風に、荒々しく触れられたのは、初めてだった。
 あたたかくて、大きな手。

「……ごめん」

 驚いてただ彼を見つめる私から、憂炎様はそっと手を離した。

「ほんとに、ごめん」
「い、いいえ」
「でももう言わないで、そんなことは」

 そんなことは、しないから。
 呟くように、憂炎様はそう言った。

(一応、幼なじみだからかなぁ)

 思い返しながら、そんなことを考える。
 私は膝の上で眠り直した玉藻さん(起きたら問い詰めなきゃ)の柔らかな毛を撫でた。あったかい。

(せめて"初恋の君"が誰だか分かればなぁ)

 私は、あくびを一つ。

(その方がうまく後宮に入れれば、私が皇后になることもないわけで)

 ならばやたらと言われて辟易してる「夫を殺す」宿命うんめいーーつまり悪逆女帝になる宿命からは、逃れられるわけでして。うん。

(恋の話かぁ)

 恋話コイバナなぁ。
 してくれるかなぁ。

(それから)

 ふたつめは、妃のこと。私じゃなくて、貴太妃きたいひ喬蘭きょうらん様のこと。

(ここにはいない、って憂炎様は言ってた)

 そりゃそうだろうな、とは思うけれどーーじゃあ、どこに?
 彼女はしゅにかけられていたの?
 自分の身をもってして「呪」の効力を知ってしまったところだ。

(ほんっとうに、憂炎様のことも磊のことも、林杏りんしんのことも記憶になかった)

 もっとも、あの呪は「増幅」させるだけで、「元」宰相の宗元に関しては自業自得、なんだろうけれど。
 喬蘭様は、どうなんだろうか……。
 呪といえば、と言うのが三つ目。
 あの鳥はどこへ行ったの?

(飛んでいった、紫の小鳥)

 誰が呪をかけたのか、もう答えはわかっているのか、いないのかーー。

(憂炎様は教えてくれないんだものなぁ)

 こうなれば、林杏本人に聞くのが早いのかもしれないな、と思った矢先に、その当人の声が耳に入る。

「嫦娥、お、はーよう、なの」
「お昼はとっくにまわってるよ? 林杏」

 目を擦りながら中庭を突っ切るように歩いてくるのは、山を降りて(つまり修行するのをやめて!)司馬家に戻った林杏だ。

アタシが起きた時が朝、なーんだよ」
「そっかぁ」

 私は笑いながら林杏の頭を撫でた。
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