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乱世下威区編 上
武ノ壁
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「うっ……!?」
気がつけば、知らない天井。今自分がどこにいるのか、何故寝ているのか、意識が覚醒していくにつれ、鮮明になっていく。
何故だか牢屋にいた。灯りは乏しく、しかしながら全面コンクリ張りで格子も立派な魔導金属でできていると思われる上等品。捕らえた奴を絶対に逃さないという執念が、牢屋からひしひしと感じられる。
牢屋にぶち込まれることなんざ下威区じゃままあること、幼少期の頃に数えるのはやめてしまったが、焦らなくても逃げようはいくらでもある。
「起キタヨウダナ」
どうやって逃げようかと考えていると格子の向こう側に見慣れない大男が立っていた。
昔、孤児たちを助けようとして自分もとっ捕まり、胃袋の中身をしゃぶってきやがったクソキモ男とは全く違うソイツは、自分の図体の軽く三倍以上はあるだろうか。肩幅は異常にデカく、コイツと比べると自分が凄まじく華奢に思えてくる。
「準備ガ整ッタ。出ロ」
なんのことだかさっぱり分からなかったが、気前のいいことに相手さんから出してくれるらしい。
脱出する方法を考えていたのに少し肩透かしを食らったが、眠気がどんどん覚めてくるにつれ、自分が何故牢屋にぶち込まれたのか。本当の経緯が脳裏から溢れ出してきた。
「澄男様方ガオ待チダ。早ク魔法陣ノ上ニ立テ」
大男は紫色のスキンヘッドに顔半分を多い尽くす巨大なバイザーをつけていて、とても普通の人間とは思えない。根拠も何もないが、コイツも人間じゃない何かなんだろうなと、流川家の想像もつかない技術で生み出された何かなんだろうなと、そう結論づけておいた。
触らぬ神に祟りなし、自由のためだ。余計な詮索は死を早めるだけ。
「これは?」
「転移魔法ダ。ソノ上ニ立テバ、澄男様方ガイラッシャル場所へ飛ベル」
テンイ、マホウ。なんのことだかさっぱりだ。
魔法は基礎的な知識しか持ち合わせていないし、流石に現役の魔導師に及ぶべくもない。知ったところで使えるわけもなし、身の丈に合わない知識は頭の隅にでも投げ込んでおけばいつか役に立つだろう。
「案内ありがとな」
とりあえず礼だけは言っておく。
おそらく人じゃないのは確かだが、牢屋から出してくれたし恩人と言ってもいい。少なくとも背後を常に晒していたのに終始敵意も突き刺してくることもなく、突然処刑してくることもなかった。きっと彼はこの世界でも稀な比較的良い人に違いない。
視界が一瞬暗転すると、バイザーをつけた男は消え失せ、次に視界が復活したとき、景色も人も何もかもが様変わりしていた。
「来たな」
視界にまず映ったのは流川の本家の当主、流川澄男こと赤眼野郎。何故だか俺にキシシ野郎とかいう不本意なあだ名をつけやがったので、俺もあだ名で呼ぶことにしている。
正直笑い方は気にしている部分も少しはあるのに、それをあだ名にしてくるとは不貞野郎である。
「ここは……どこだ」
おっと勘違いしてもらっちゃあ困る。別に頭打って記憶喪失になったとかじゃあない。
テンイマホウとかいうよくわからない魔法で牢屋から全然違う場所に連れてこられたせいで、現実を認識できていないだけだ。
「擬巖の屋敷だ。とりあえずサクッと擬巖の奴をブチ殺しにいくぞ」
ロクな説明もなしに歩こうとする赤眼野郎。他二人も特に説明しようとする様子もない。俺は赤眼野郎の肩を掴んだ。
「ンだよ」
「いやな、分かるよ? 擬巖の屋敷に来た時点でやることは一つだよ、うん。でもな、とりあえず今目の前に広がってる絵図の詳細をしてくれると助かるんだが?」
「詳細もクソも見ての通りだぞ。下っ端は邪魔だから皆殺しにした。ただそれだけだ」
さも当然と、何言ってんだコイツ馬鹿なのかと言わんばかりの困り顔を向けてくる。
確かに擬巖の屋敷に来た時点で説明がなくともやるべきことは理解している。でも問題はそこじゃあない。眼前に広がる、壁を染め上げる血と肉塊と化した死体たちのことだ。
まるでバケモノにぐしゃぐしゃにされたかのような死体があたり一面を覆い尽くし、贅を凝らしていたであろう壁は薄汚い血で汚れ、全盛期の輝きは見る影もない。
何度も擬巖邸に忍び込んだから間取りも大体把握している。この通路は特に贅沢品が馬鹿みたいに飾られていたはずだった。
「いや、まあ……確かにちょっかいかけられると邪魔ではある、けどよ……」
「何だ? 悪いか?」
「いや悪くねーよ。つか良いとか悪いとか、そーゆー問題じゃあねーっつーかなんつーか……」
「つまり何が言いてぇんだ……」
「だからよ、お前、これだけぶっ殺しといて特に思うことはねーのかな、と」
あたりを見渡すよう首をしゃくって促す。
見る限りざっと百人以上はただの血肉と化していて、もはや生前誰だったかすら判別できる材料がない。
無駄話をしている最中だというのに敵の追撃が来る様子もなく、まるで屋敷に人という人がいなくなったかのように静寂に包まれている状況から、本当に擬巖の下っ端は一人残らず皆殺しにしてしまったのだろう。
どうやって殺し尽くしたのか、今更手段を問うつもりもないし、流川だからと思えば充分飲み込める話ではあるが、全滅させたということは、それを指示した人間がいるわけで、その人間となればその暴閥のトップに絞られる。
「思わねぇに決まってんだろ」
バッサリと切り捨てられた。何故だか胸が締めつけられる。
「敵にかける慈悲なんざねぇ。むしろ苦しませずに殺すことそのものが慈悲みてぇなもんだ。本来なら敵対したことを後悔させるぐれぇのことはしてもいいぐれぇだが」
「でもよ、コイツらは多分頭に逆らえなくてやっただけだと思うぜ? 実際、全員が全員悪意を持ってたわけじゃねーだろーし」
「それがどうした。仮にそうだったとしても、俺らには関係ねぇ」
「…………そうか」
話が通じない、そう思った。
擬巖は確かに暴閥、大戦時代を生き抜いた戦闘民族だ。殺す側にいるのだから殺される覚悟だっているだろうし、廊下で肉塊と化している連中だって、何の覚悟もなかったわけじゃあないだろう。
それでも皆殺しってのは、共感できたものじゃなかった。
俺はクソみてぇな蛆をその場の感情で殺したときは罪悪感で押し潰されそうになった。ツムジに見せる顔がなかった。
たとえ価値観も何もかも捻じ曲がった、同じ血の通っている生き物かどうかも怪しいくらいの人間相手だろうと、命を奪う行為は人一人が背負うには、あまりに罪が重すぎる。
でも目の前の男は、赤眼野郎は、眼前に広がる骸を見ても、本気で何も感じていないようだった。
ただ邪魔だから、敵だから殺した。単純に、それだけの感情しか持ち合わせていない。そう思わざる得ないほどに。
「弥平、擬巖のアタマをブチ殺したら、擬巖の傘下勢力は消滅させる」
「それがよろしいかと」
「お、おい?」
聞き捨てならない言葉が鼓膜を撫でた。傘下勢力を消滅させる。流石に、流石にそれは。
「やりすぎだろ……」
思わず口からこぼれ出てしまった。赤眼野郎含めた全員が俺に視線を投げる。特に赤眼野郎の表情は純粋な疑念で彩られていた。
「テメェは暴閥じゃねぇから分からんだろうが、中途半端ってのは舐められちまうからな。やるなら徹底的に、だ」
「それでも、よ……消滅って」
「安心しろ。痛みを感じる暇もねぇさ。次の瞬間には死んでるわけだし」
違う。そういう問題じゃない。そもそも傘下勢力を跡形もなく消滅させる必要なんてないはずだ。
相手は流川だし、今更できないなんてことはない。ぱっと見人間と遜色がないロボットを作れているのだから、大量破壊兵器の一つや二つ持っていてもおかしくはないだろう。
でも実際それを使う必要があるのかと問われれば、答えは否だ。
俺はただ擬巖正宗を半殺しにし、武ノ壁を破壊さえできればそれでいい。それ以上は望んじゃいないし、望んじゃいけないことなんだ。
「悪いが、俺は協力できねーぞ。やるんだったらアンタらだけでやってくれ」
感情が昂ったせいだろう。思わず口から出てしまった。言の葉ってのは時に呪詛となって人を刺し、その刃は自分に返ってくることもある。思考が現実に追いついた。
「……一応聞く。そりゃあつまり、俺らの邪魔をするってことでいいのか?」
赤眼野郎の眼から光が消えた。疑心暗鬼なんて生ぬるいものじゃない。明確な殺意だ。ここでそうだと言えば確実に殺される。他二人からも怪しげな雰囲気がするし、深く考えずとも分かる。答えを間違えれば終わりだ。
「邪魔はしねーさ。擬巖正宗をどうにかしてーってところは同じだし、大体のことはアンタらの方針に従うよ」
「じゃあワケ分からんこと言い出すなよ紛らわしいな……」
「ただ、俺の目的はあくまで擬巖正宗と武ノ壁をどうにかすることだ。それ以外はアンタらの責任でやってくれ。それだけだ」
言えば寿命が縮むかもしれないが、はっきり言っておかないと利用される気がしたので線引きはしておく。
本当は大量破壊をみすみす見逃す真似はしたくない。確かに擬巖とその傘下の連中は俺の同胞を数多く奪ってきた。奴らの魔導戦闘機や爆撃機のせいでスラム地域は幾度となく空襲に遭い、その度に数えるのも億劫になるくらいの同胞を消し炭にされてきた。許せるかと問われれば許せないし、万が一に謝ってきたとしても手と手を取り合える気もしない。
だがそれで暴閥の全てを滅ぼしたいかと問われれば、答えは否だ。
報復なんざ割に合わない。幸福に暮らすのに憎悪なんてものは邪魔でしかない。ただ更なる同胞を失うだけで、戦えば戦うほど俺たちが一方的に疲弊する。身も心も疲れちまったら、幸せが遠くなるだけだ。いつ噴き出してくるかわからない大きな膿を噴き出す度に取り除くよりも、小さな花を摘んで自分ン家の庭に植えまくる方が絶対楽しい。
赤眼野郎たちから霊圧が消え失せ、視線が外れる。そこから、終始無言で歩き続けた。
依然として下っ端たちだったであろう骸が肉塊となってそこら中に散らばっている。相手さんから反撃がくる様子もない。敵地真っ只中だってのに、異様な静けさだ。
本当の本当に殺し尽くしたのだ。
彼らがわざわざ出張って殺し尽くしたわけでなし、気が遠くなるほど無限に湧いて出てくる構成員を、一体どうやって全滅させたのか。
知ったところで無意味だが、流川の力だと思えば、理屈云々を差しおいて謎に納得できてしまう自分がいた。
「弥平、擬巖のクソ野郎はやっぱ最上階か」
弥平と呼ばれた執事は静かに首を縦に振る。俺たちが立ち止まったのは、血に濡れたエレベーターだった。
「武ノ壁がどうのこうの言ってたし、弥平はキシシ野郎を案内してやれ」
「畏まりました。御玲」
「はい。澄男さまは私と参ります」
ほいさっさ、と口癖くさい返事を返す赤眼野郎。
俺の笑い方も大概だと思うが、コイツのその返事もどうなんだろうと思う。やっぱキシシ野郎って呼び名は人外だ、うん。
「澄男様、ご武運を」
「おう。二度と舐めた態度取れねぇようにしてくるわ」
気さくに手を振ってエレベータに乗っていく。
ちょっくら近くの出店に買い出ししてくるってぐらいの軽いノリだが、実際は殺しに行ってくるって意味だと思うと無慈悲に思えてくる。
確かに暴閥ってのは弱い奴には無慈悲だ。自分より弱ぇ奴を同じ種族の生物だと思わないくらい、容赦もなければ躊躇もしない。そうでなきゃ、スラム地域を爆撃機で空襲したりなんざしないだろう。
昔、ツムジに暴閥って何だ、貴族か何かなのかと聞いたことがあったけど、そのときツムジは戦闘民族だと答えた。
当時の俺は戦いが得意なクソ強い連中という意味で理解していたが、この瞬間に本当の意味を理解できた気がした。
エレベータの扉が閉まると途端に静寂が支配する。燃料のほとんどを費やし、風前の灯と化した残り火がちょっとした風に煽られて消え、熱源を失って一気に冷えていく部屋の中で寝ることを強いられた、スラム生活の冬を彷彿とさせる。
スラム生活の冬は辛い。とにかく寒い。生活水準は一向に上がらないのに寒さだけが厳しくなるという負の連鎖。食糧も渋くなるし、何か口に入れていても、毎日がひもじくて堪らない日々が三ヶ月ほど続く。
相手は天下の流川家、その執事。今は夏だというのに、俺の周りだけ厳しい冬がやってきたかのようで、なんとも居た堪れない。
「行きましょうか。武ノ壁を維持している魔道具は、この邸宅の地下にあります」
沈黙を破ったのは、執事だった。
言葉に威圧感はなく、どちらかというと気さくで棘を感じさせないが、よそ行き感は拭えない。赤眼野郎と話しているときよりも、声音が気持ち淡白になっているように思えた。
「貴方は武ノ壁について、どの程度知っています?」
エレベータが来るのを黙って待っていると、執事の奴が明るい声音で話しかけてきた。
向こうから話しかけてくるのは意外だったが、このまま黙っていると死にそうだ。話題を投げてくれるなら、この際なんでもいい。
「来る者拒まず、去る者逃さずってぐれーしかしらねーな」
ポケットに手を突っ込みながら、徐々に俺たちの階に近づいてきているエレベータのランプをぼうっと眺める。
武ノ壁。下威区と中威区を隔てる防壁であり、俺たち下威区民の生活水準が上がらない第一要因。コイツがある限り、下威区民はどれだけ頑張ろうと生活水準がミリも上がらないスラム生活を強いられる。
下威区と中威区の境界は、この防壁によって先が見えない濃霧に覆われていて、霧を突っ切って中威区に向かおうとしても、防壁の効果で方向感覚が妨げられているのか、また元の場所まで戻ってきてしまう。
今まで幾度となくスラム生活に耐えられず中威区へ戻ろうとした同胞を見てきたが、その誰もが突破できず諦めて死んでいった。
一応、武ノ壁の関門あたりに下威区民を奴隷にして中威区民に売り捌く暴閥がいるが、戦うだけ無駄である。力も知恵も何もない同胞に、人並外れた暴閥が佇む関門を突破する術はない。
それにその暴閥も、元を辿れば擬巖に行き着く。結局、今の下威区を支配しているのは、擬巖なのだ。
「では、お教えいたしましょう。貴方がこれから破壊しようとしている防壁が、如何なる代物なのかを」
赤眼野郎がいたときは結構威圧的で話聞いてくれなさそうな雰囲気だったのに、急に気さくになってくれていて嬉しいような裏があるような。
気にしたって俺に利があるわけでなし、都合の良いように捉えるのが精神の安寧が保たれる。
執事殿は、それはまた親切に武ノ壁とは何たるやを説明してくれた。正直どうやってそこまでの知識を手に入れられたのか、下威区で生まれて育った俺が九割以上知らない事だらけだった。
まず、武ノ壁は元々武市において禁制品に指定されていた魔道具で、擬巖家現当主―――擬巖正宗がある人物から盗み取った物らしい。その元々の持ち主というのが、``常闇の魔女``ヴァジリット・バロール。巷じゃ``闇のバロール``の異名で恐れられる、黒魔女の王だ。
「腐っても大陸八暴閥の一角ってか……そんなバケモンから盗むなんざ、俺には理解できねーわ」
そのまんま思ったことが口から漏れ出ちまった。
ヴァジリット・バロール。出会ったこともないし姿をその目で見たこともないが、``常闇の魔女``の異名で知られるその魔女を知らない奴がいるとすれば、余程の物知らずか実力を推し量るのが下手くそな馬鹿ぐらいだろう。
黒魔女の王とも言われる彼女は、武市におけるヒエラルキーじゃ大陸八暴閥に迫るとすら言われ、歴戦の暴閥ですら恐れて関わろうとしない。かの魔女が力を奮うと万物を石に変え、想像絶する呪詛で敵を呪い殺し尽くすと聞いたことがある。
噂だからいくらか誇張表現が含まれているだろうが、触らぬ神に祟りなし。そんなおっかねえバケモンには出会ったら愛想笑いで会釈するくらいが丁度いいってもんだ。
「擬巖正宗は、下威区民の流出と反乱を避けるため、魔道具を起動して下威区を封じた……経緯をかいつまんで説明すると、こうなりますかね」
淡々と他人事のように言ってくれる。気さくなところが急に鼻につく態度に思えてしまった。
確かに他人事なのは事実だろうが、俺らからしたら堪ったものじゃない。武ノ壁は下威区がスラムと化した諸悪の根源の一つであり、その壁を壊すことがある意味俺たちの悲願でもある。
あの壁がある限り、俺たちが笑って余生を送るなんざ、永遠に夢物語だ。
「その魔道具は地下に封印されています」
執事殿の説明は続く。
武ノ壁、正式名称``闇雲彩色防壁``は、魔道具を起動する際に防壁を展開するための霊的エネルギーを集めるため、周囲に多大な霊子乱流を発生させる。
その破壊力たるや凄まじく、人間など容易く消し炭になるほどの強力な霊子乱流がそこらかしこに発生し、その地域は破滅的被害を被るんだそうな。
執事殿によると、この魔道具が擬巖の手によって起動し、下威区が封じられたときは、防壁展開時の霊子乱流によってスラム地域の三分の一が壊滅。当時の下威区総人口のおよそ四割が霊力の暴威に晒されて消滅した。
俺が生まれた頃には既に壁は存在していたから生まれる前の出来事だろうが、ホント、暴閥からすれば俺たちは虫ケラにすら満たないってか。分かっていたが、蛆と泥水を啜り、腹を壊した気分に苛まれる。
「地下に魔道具を封じてあるのも、霊子乱流により自領が破壊されるのを防ぐのが目的でしょうね」
淡々とした声音が血みどろの廊下の壁を軽く叩く。
武ノ壁は壁を維持するだけでも大量の霊力を消費する。その霊力は大気中及び土壌中の霊力から無理矢理かき集めるため、起動中は多大な自然破壊をもたらす。
大気中の霊力を吸えば霊力の分布に偏りが生じて霊力の濃い汚染地域が乱立し、土壌中の霊力を吸えば土地が瞬く間に痩せていく。その土地では農作物はおろか雑草すら死滅する荒地となり、その土壌で住む生物は飢えに苦しんで、そして静かな死を迎えることとなる。
「だがよ、その話だと土ン中に埋めたところで大して変わらなくないか? 結局は土の中に含まれてる霊力も吸っちまうんだろ?」
執事殿が場の空気を緩めてくれたおかげで、少し喋りやすくなった。ついついこっちも口調が緩みがちになる。
「だからこそ下威区は退廃地帯と呼ばれる汚染地域に蝕まれているのですよ」
エレベータの鐘が鳴る。その音色は本来明るいはずなのに、不思議と薄暗く重苦しいものに聞こえた。
応接室にて執事殿が詳しく説明してくれていたが、退廃地帯ってのは下威区の大半を巣食う汚染地域のこと。霊力があまりに濃すぎて、耐性のない同胞はただそこにいるだけで死に絶えるばかりでなく、土壌や水も漏れなく汚染されているため、農耕すらできない荒れ果てた土地だ。
汚染地域は霊力に耐性がない生物は例外なく死に絶えてしまうため、霊力に高い耐性を持つヘルリオン山脈特有のバケモノみたいな植物と、霊力そのものが餌である魔生物たちの楽園となっており、今は彼らが汚染地域の支配者である。
元々はスラム地域だった所もあるが、汚染地域の拡大に伴い下威区東部へ逃げるほかなく、日に日に俺たち下威区民の生息圏は縮小の一途を辿っていた。
「正宗は魔道具維持に伴う負債を下威区民に払わせるため、下威区から消費霊力を賄うシステムを作り上げた」
エレベータの扉が開かれた。執事殿の語りが再開される。その語りが中核に近づくに連れ、体の震えが徐々に強まる。
正宗は魔道具を維持する際に発生する負債を俺たちに擦りつけるため、まず下威区上空に霊子力宇宙空母とかいうものを設置した。
初耳だったのでそこを詳しく聞いてみると、いわゆる爆撃機やら戦闘機やらを格納できる大型の宇宙船みたいなものらしい。
そんなものを平然と使えるって事実だけでも俺の想像力が追いつけないが、その霊子力宇宙空母を中継地点として下威区から霊力を吸い上げ、その霊力を擬巖領に送信して利用している。その影響で霊力分布が狂ってしまい、汚染地域が増えてしまうのだという。
「クソッタレな話だ。忌々しいあの壁のためになんで俺たちが犠牲にならなきゃなんねーんだか」
感想を述べるなら、意味がわかんねー。その一言に尽きる。
要は俺たちの存在価値って、壁を維持するための生き餌ってことじゃねーか。どうして俺たちは人扱いされないのだろう。答えは分かっているけれど、それを口にはしたくない。他のもっともらしい答えを知りたくなる。
どちらにせよ胸糞なことに変わりはないが、そういえば今目の前にいるじゃあないか。その真意を聞くべき相手が。
「アンタに聞きたい。弱ぇ奴は死ねって、アンタらは言いたいのか?」
それは生まれてから今日まで、ずっと流川に聞きたかった問いだった。
武市をクソッタレな縦社会に捻じ曲げたのは、他でもなく流川が全ての元凶だ。赤眼野郎たちはただの子孫にすぎないが、それでも世界の実権を事実上握っているのは赤眼野郎たちである。
彼らの言葉は、世界の意志。ならば赤眼野郎の部下の言葉もまた、相応の力を持っているとみて、相違ない。
執事殿は少しばかり考える素振りを見せたが、すぐに顔を上げ、俺の方へ視線を戻す。
「私から言えることは一つだけ。弱肉強食は自然の摂理、です」
瞼が閉ざされているせいで、何を考えているのか分かりづらく、発言の内容も相まって不気味さが増す。
弱肉強食。その言葉を知らないほど馬鹿じゃない。一日たりとも忘れた日はないくらいだ。
「弱い者は死に、強い者が生き残る。私たち流川は、その摂理に抗うつもりがないだけですね」
エレベータが地下に降りていく。エレベータの駆動音が、途端に重苦しいものに聞こえた。
「その摂理で苦しんでる奴がいるとしても、か?」
「それは野生動物や魔生物だって同じことですので」
「いやよ、ソイツらは人間じゃねーだろ。同じ括りにするのは違うだろ」
「我々も彼らも、種族は違えど``生物``であることに変わりありません。弱肉強食の摂理は全ての生物に対し公平だと私は考えています」
違う。そう言いたい気持ちが溢れそうになる。
今まで色んな奴と出会ってきたが、たとえ殺意があろうが絶望しきっていようが、泥水を啜り蛆に身を投げやがるクソ野郎だろうが、話せばなんとなく共感できる経緯というか背景が透けて見えるものだった。
人と話す上で隔絶された疎外感を覚えることは、実を言うとほとんどない。人と人は違って当然、むしろ自分の中の当たり前が他人に適用されると考える方が馬鹿だ。
もしそうなら、世界はもっと平穏で、周りの奴らは笑顔で満ち溢れているはずだろう。少なくともツムジの理想は叶っていたはずだ。俺も掃き溜めの世界に生きてきて、分かり合えなそうな人種や何かしら抱えている奴らを沢山見てきたから、考え方だって千差万別あってもいいとすら思う。
でも、流川は違った。
住んでいる世界から違う。同じ空間で対等に話しているはずなのに、まるで異世界の住人と会話しているかのような感覚さえ覚える。価値観が違うにしても程度ってものがあると思う。
人と人以外の生き物。確かに種族は違うだけで``生物``であることに変わりはないが、俺としてはやっぱり人は人だし、人以外は人以外だ。
種族が違うなら生活の仕方や生きていく上での思想だって違うものだし、そこを統一してしまうのは違う気がする。何故、と言われると俺たちは人間だからとしか、返す言葉がないのだが。
「俺はただ笑って生きていけたらそれでいい。他は要らないし、それ以上も望まない。俺たち下威区民にとって、必要なもんは人並みの幸せだけなんだよ」
「その幸せを得るにも力は必要だと思いますよ。力なき理想はただの夢想でしかありません」
「そうかな……力じゃなくて、みんなが手と手を取り合えばいいと思うけど」
「それは理想論ですね。手と手を取り合うにも、人は相手を選びます。誰とでも取り合いたいと思いません」
「そりゃそうだが、要は努力だろ? しようとしなきゃ、何も始まんねーよ」
「では貴方は分かり合えない人種と手を組むと? 例えば、人を玩具としかみていない、快楽殺人狂であったとしても?」
「それはちと極端すぎやしねーか……」
「貴方は今、みんなが手と手を取り合えば、と仰いましたよ?」
「いやまあ……言ったけど、そういうことじゃなくてさ……」
「ならば結局、争いは避けられません。己と己の親しい者もいれば、害する人もいる。それらの脅威から守るために戦い、その過程で血が流れることとなろうとも、その血は必要な犠牲でありましょう。過程がどうあれ、一方が勝ち、他方が負けることでしか争いは終わらない。ならば勝つための手段として、力がなければ負けるだけです」
早口で捲し立てられ、反論する気が完全に潰えた。閉ざされた狭い空間の中で話しているのに、俺と執事殿の間には海溝よりも深い溝ができているように思え、本当に遠い所にいる別の存在のように見えてならない。
人って種族は同じでも生まれ育った場所や血筋が違うだけで、こうも隔絶することがあるのか。ものすごく失礼だから声には出さないが、同じ世界に生きる人間だとは、到底思うことができない。差別だと言われようが、これだけ話して異世界人感が拭えないのは生まれて初めてだ。
肩にどっかり疲労感がのしかかる。自分から振っといてなんだが、キャッチボールを続けるのが本格的に苦痛になってきたので、身勝手ながら締めさせていただいた。執事殿もその雰囲気を察したのか、それ以上は何も言ってこなかった。しばらく、お互い無言でエレベータが最下層に辿り着くのを待つ。
周りをきっちり見渡せる程度には照明がしっかり知っているにも関わらず、エレベータ内が薄暗く感じ、下へ下へと降りていく駆動音は依然として重く、そして低い。空調のお陰で空気が澱まないのが唯一の救いだが、空間が狭いのも相まって、息苦しさは拭えなかった。
執事殿の背を見やりながら、赤眼野郎の背が思い浮かぶ。
執事殿の考えは理解したが、赤眼野郎はどうなのか。流川の本家、その当主なのだから同じような考えをしているのか、それとももっと過激なのか。ただ分かることは、流川は弱肉強食の摂理に忠実であるということ。きっと赤眼野郎も弱肉強食の摂理に疑問など抱いてはいないだろう。思いを馳せるだけ、徒労に終わりそうだ。
エレベータの駆動音が鳴り止み、浮遊感も姿を隠す。鐘が鳴り、扉がおもむろに開かれた。
擬巖邸最下層は照明がほとんど点いていないせいで、先が見通せないほど暗い。暗闇はある程度慣れているから全く見通せないことはないものの、それでも空間把握がほんの少しできる程度だ。執事殿の案内がなければ、とてもじゃないが敵の奇襲に備えながら地下の探索をするのは無謀だと言っていい。
「場所は知ってんのか?」
執事殿は無言で頷く。
武ノ壁、その中核を成す魔道具の場所など、擬巖家からすれば最高機密の情報のはずだ。何食わぬ顔で知っているあたり、流石は流川である。ほとんどの奴らが敵に回したがらないわけだ。
執事殿は進もうとする俺を手で制し、懐からデカいアイマスクみたいなものを取り出す。
アイマスクとかは野宿するときによく使っていた必需品の一つだったが、今から敵の最重要区画を落とすのに、まさか寝るわけでもあるまい。それによく見るとアイマスクにしてはやたらめったら物々しい。顔半分を余裕で覆うそのマスクは、見るからに重そうで首が疲れそうだ。
「……な、なんだそりゃあ」
「魔道具です。詳細はお教えできません」
特に興味があるわけじゃなかったし、テキトーに流しておいた。
正直名前ぐらい教えてもいいだろと思ったが、完全に味方になったわけじゃない俺に情報を渡したくないのだろう。
別に信用してもらわなくて結構ではあるんだが、こうもあからさまに不信を突きつけられると心にくるものがある。とはいえ敵の情報を、噂話を聞いたかのように知っているのだから、情報の大切さを学んでいるからこその行動だろう。思うところがある反面、合理的な判断だと少し感心する。
クソデカアイマスクを被ると、アイマスクは仄かな虹色に光りだす。少し辺りを見渡すと、執事殿は俺にしか聞こえないくらいの小さなため息をついた。
「……中核装置はフロアの中央にあります、が」
「あるが?」
「その魔道具を守るように、五人陣取ってますね。肉体能力は相応ですか。雑魚ではありますが、擬巖が配置できる駒から考えると妥当な部類ですかね」
「おいおい、数で不利じゃねーか。勝たねーと魔道具まで辿り着けねーやつだろそれ」
「戦いにおいて重要なのは数ではなく質です。それにこの程度の数の差は、形勢に影響しません」
執事殿の口振りに、迷いは感じられない。勝利は必然であると、背中が物語っていた。
擬巖が用意した、武ノ壁の中核魔道具を守る戦力。どれほどかは分からないが、執事殿がそれなりの雑魚って言うくらいだから、流川基準だと雑魚でも流川以外の奴からみたら強者ってところじゃないだろうか。
俺もそれなりには腕っ節に自信があるが、流石に流川がそれなりの雑魚だと評する奴に勝てるかどうかは不安が残る。不安を感じるときは、いつもなら逃げの一手をかますところだが、今回はその選択ができない。
やはり俺は、大変な相手と手を組んでしまったのだろうか。
一抹の不安が心根に染み込んできた折、執事殿が周りを見渡すばかりで一向に前へ進もうとしないことに気づく。
「なに、してるんだ?」
「罠の確認です。仕掛けられている場合、解除しなければならないので」
罠。その一言で執事殿の動きに一瞬で納得する。
罠には細心の注意を払わなくてはならない。アレは一歩間違えれば一瞬で命を刈り取る悪魔だ。
下威区のスラムでも、年端もいかない孤児を狩るための罠が幾重にも張られている通路とかがたくさんあった。慣れればどれも稚拙な作りだと嫌でも分かるようになるのだが、慣れないうちに嵌まっちまった奴の末路は、どれも筆舌に尽くし難い。
罠にハマる奴に未来はない。それが下威区スラムの暗黙の了解だったと言ってもいい。
「そういや、擬巖の家ン中ってほとんど罠とかなかったな……」
幾度も侵入を繰り返してきた過去を思い返す。
武ノ壁を破壊するため、数えきれないほど擬巖家に忍び込んできた。結果はどれも失敗に終わったが、今までの侵入を思い返しても、嵌まったら詰むような致命的な罠はなかった。
違和感が何もないと言ったら嘘になるが、大陸八暴閥の一角だし、構成員も厄介な奴が多いから罠なんていう姑息な真似をするまでもないと考えていて、それ以降はそういうもんだと割り切ってしまっていた。流川が罠の存在を疑うとなると、自分の認識は改めた方がいいなと思えてくる。
「罠には原始罠の他、魔術罠と魔法罠の二種類がありますからね。貴方が言っている罠は、おそらく原始罠の方でしょう」
辺りを見渡しながら、ペン状の何かを取り出す。そのペンは右に捻ると中間あたりが変形して、中から白い光の粒子が漏れ出した。
俺から見たら何をしているのか到底分からないが、何かしらの作業をしながら罠について懇切丁寧に説明してくれた。
執事殿曰く。大陸八暴閥は、どの暴閥も原始罠を使用しない。
そもそも原始罠っていうのは魔法や魔術といったものを一切使用しない、素人でも色んなものを組み合わせれば作れる文字通り原始的な罠のことだ。一番わかりやすいもので、落とし穴が挙げられる。
では大陸八暴閥が使用する罠とは何なのか。それがさっき言っていた魔術罠や魔法罠のことである。
これらの罠も読んで字の如く、魔術で作られた罠と魔法で作られた罠のことで、これらの罠は実体が魔法陣そのものであるため、罠として機能している間は肉眼で見つけることはできない。
余程霊力の扱いの巧い者ならば肉眼で見切ることも不可能じゃないらしいが、そんな規格外野郎は滅多にいないし、少なくとも魔法関係に疎い俺は、そんな高度な罠を見抜ける自信など当然皆無である。
あくまで俺は、逃げ専門の一般人みたいなものなのだ。
「でもそんなおっかねー罠を当たり前に使うなら、俺はなんで生きてやがるんだ?」
一つの疑問を解決するとまた新たな疑問が飛びついてくる。
俺が擬巖家に侵入した回数は数知れない。もういつからか数えるのをやめてしまったし、今更思い返したくもないのだが、数える気すら失せるくらい何度も敷居を跨いでいるのに、目に見ることのできない罠にハマったことは一度もない。
仮にハマっていたらその時点で俺の命はなかったに等しいが、一度もハマらなかったってのは、あまりに都合が良すぎる。
「それは貴方を殺す気が最初からなかった、ということでしょう」
俺の呟きを拾いながらも、作業の手を緩める様子はない。
「罠を仕掛けず放逐していたということは、貴方を殺さないことで得られる何かがあるということでしょうね」
「何かって何だ……? 侵入者を殺さないことに得なんてあるのか……?」
「それは判然としませんが……ふむ」
顎に手を当て、少し考える素振りを見せるが、すぐに顔を上げ、作業を再開する。
「気になるのでしたら、本人の所に赴けばよろしいかと。きっと、その疑問の答えを教えてもらえるでしょう」
「そんな殊勝なタマとは思えねーが……?」
「いいえ。赴くだけで、相手が勝手に話してくれると思うので、気負う必要は皆無かと」
「……なんでそう言える」
「推測です。まあ、知りたくなければ行かなくてもよろしいかと思いますがね」
そう言い放ち、本格的に作業へ戻っていった。
擬巖の野郎が俺を殺さずに見逃していた理由。知ったところで俺の足しになるとは思えないが、逆に捉えれば好機だ。
はっきり言って俺だけじゃ、擬巖の野郎の所までどうあがいても辿り着けない。罠云々を抜きにしても、夥しく出てくる手下たちの物量の前には多勢に無勢だ。
しかし今は流川と共闘している。流川の圧倒的な力の庇護下にある今、もはや手下たちに邪魔されることもないだろう。気兼ねなく本丸の所まで行くことができるわけだ。
拳を強く握り、胸に手を添える。
俺たち下威区民は長い間、擬巖とその傘下の暴閥やギャングスターの脅威に晒されてきた。理不尽に繰り返される爆撃機からの空襲、汚染地域に飲まれ魔生物に食われる同胞。これまでの人生を振り返れば、俺の周りは同胞の死ばかり。
俺たちの人生、その全てを狂わせた元凶こそ擬巖の当主。何を考え、どんな野郎なのか。武ノ壁を解放するにせよ、野郎を半殺しにするにせよ、その薄汚ぇツラだけは拝んでおかなきゃならねぇ。
そうじゃなきゃ、擬巖の暴挙を止めるため、ただ一人擬巖に挑んで帰らなかったツムジが報われない。
「さて、そろそろいきましょうか。相手方も退屈しておられるでしょうし」
思考の海から強制的に引き上げられる。顔の上半分を覆っていた謎の魔道具を懐にしまい、執事殿は堂々と歩み出す。
執事殿に追従し、索敵がてら辺りを見渡す。中核魔道具があるらしい擬巖邸地下は、とにかく薄暗い。霊灯がほとんどなく、気を抜くと一寸先は闇と思えてしまう。
下威区で活動してきた折、暗闇の中で動くことには慣れている。最初は見えづらくとも、数秒もすれば目が慣れるのだ。
それに、いざとなれば気配だけで戦うこともできる。正直なところ、灯りは必要ないと言っていい。だが、驚くべきは執事殿だ。
常に瞼を閉じているにも関わらず、俺以上に空間を把握しており、まるで目的までの距離を最短になるように計算し、罠や敵感知系の魔道具をすり抜ける最適コースを常に選択しているかのように、その足取りは極めて軽い。
ちょくちょく立ち止まってはすぐに歩き出すし、罠の解除も順調なようである。
うねうねと入り組んだ地下フロアを歩くこと数十分。ようやく灯りを網膜が捉える。
久々に光が目に入ってきたせいで、目玉が悲鳴をあげる。思わず瞼を細めるが、視界を狭めた僅かな隙間から、フロアの中心に安置されてあるソレが、真っ先に目に入った。
「アレが……!!」
部屋の真ん中、透明なケースに厳重に保管されたそれは、ぱっと見の外観は暗い色をした壺だ。
全体的に黒色が基調のそれは、装飾こそ控えめでとにかく黒色が目立つ。調度品としては、あまり印象が良くないが、不思議と目が離せなかった。
装飾も控えめ、形も歪で禍々しささえ覚えるのに、彩られた黒は透き通っているとさえ思える。例えるなら、星も雲も、月ですら映らない常闇の夜。眺めている時間が長いほど吸い込まれそうになる不純物のない暗黒が、本能を魅了する。
アレこそ武ノ壁を支える中核魔道具なんだろうが、俺たちは長い間、あの壺の存在に苦しめられてきたのか。
もっと大掛かりな機械だと勝手に想像していただけに拍子抜けだったが、その実体は魔道具。そこらの機械とは比較にならない性能を秘めている。下威区全域を覆い尽くす結界を張れるのだから、その構造たるや知識の乏しい俺には想像もつかない。
でも、その未知の道具さえ破壊すれば、下威区は解放される。汚染地域の侵食に怯え、同胞同士で殺し合う彼らに、自由を渡してあげられるのだ。俺は、ついにその目前まで来ている。胸の奥底から、躍動が止まらない。
「ケャケャケャ。ワシが仕掛けた魔術罠を全て破壊するとは、流石は``攬災``よな」
魔道具を破壊したい欲望と躍動、そして魔道具の外観から放たれる本能をくすぐる魅惑で完全に意識外に追いやっていたが、薄気味悪いしゃがれた声が、全ての意識を現実へ叩き戻す。
全身黒色のローブを身に纏い、灰色の顎髭を弄る様は、まるで貫禄のある魔導師。
シワだらけの肌に薄汚れた爪、口の隙間から垣間見れる歯のない歯茎。死にっぱぐれの老人に思えるその男は気持ち悪い笑みを浮かべ、俺たちを興味深げに見つめてくる。
「ハッハハハッハァ! アレが正宗様から聞いていた``攬災``かぁ! クソでけぇ大男かと思ったが、意外とチビだなぁ!」
老人の背後であぐらをかき、高らかに笑う壮年のオッサンが目に入る。
男は老人と打って変わって、かなり軽装だった。ボロボロの白いTシャツと短パン、毛の手入れはほとんどしていないのか、年相応に毛深い手足。頭には黒いバンダナをしており、歳の割にはファンキーさを感じさせる。
だがそれ以上に目をひいたのは、彼が肩に担ぐ己の背丈を優に越える刀身を持つ大剣だ。
体の手入れはテキトーそうなのに、その大剣は柄から刀身の切先に至るまで、曇り一つなく磨き上げられている。もはや鏡に匹敵するほどの光沢を放つそれは、地下フロアをほんのり照らす僅かな光を、強く反射させていた。
「代替わりしたばかりでいやんすからそんなもんでいやんしょ。むしろアタイからしたら予想通りでいやんす」
声が女なのにも関わらず、風貌は男そのもの。上顎から生えた前歯は異常に長く、その様相はリスを彷彿とさせる。
しかしながら目が細い。執事殿のように完全に目を閉じているわけではないが、遠目から見るとまるで閉じているかのように思える。前歯だけ見ればリスだが、瞳の奥底を決して見せない糸目は、狡猾で卑怯な、人と人の間をスルリと抜けて欺く妖狐に見えた。
「……相手にとって、不足なし」
狐目の横であぐらをかき、肩に太刀を携える男が、小声で、しかし空間に響き渡るほどの濃厚な低い声音で呟く。
ソイツは瞑想しているのか、狐目と違って完全に目を閉じている。服装も袴だし、持っている武器からしても剣豪なのは間違いない。実際、他の奴らと違って隙がないし。
「天下の流川分家派当主陛下といえど、所詮は小童。私の体で骨抜きしてあげるわ」
あぐらを描いている奴のまた隣には、打って変わって露出度の異常に高い服を着た女が、舌なめずりして執事殿をねっとりと見つめる。
彼女を一言で表すならば、妖艶。
日焼け一つない艶やかで白い肌。男の性を擽り狂わせる肢体。そして己の持つ武器をさらに際立たせる服装。肌面積が異常に広く、服を着ているというより下着だけ着てきたという感じだ。
男の対する魅惑的な態度からして、今まで何人もの男を魅了して食い物にしてきたのだろうが、執事殿は真顔だった。ポーカーフェイスなどではなく、本当に意に介していない様子である。かくいう俺も、そんな下着同然の服着てて寒くないのかなとか、防御性能低くねとか、戦う気ないのかなとか、そんな感想しか浮かばないのだが。
「ふむ、中位暴閥のトップたちが勢揃いか。処分する手間が省けて、こちらとしては好都合だ」
執事殿は、尚も真顔だった。その表情は能面の如く、その深淵を覗くことを許さない。
赤眼野郎たちと一緒にいるときと何ら表情が変わっていないが、どことなく不自然に彩られた作り笑いに、粘ついた暗雲が立ち込めているように思え、その不気味さは赤眼野郎たちと別れる前の比じゃない。気がつけば、敬語が抜け落ちている。
「ケャケャケャ! 貴方様一人でワシら全員を始末すると?」
「お前らごとき、我らが王たる本家派当主様の手を煩わせるまでもない。敵対した時点で死は確定している」
「大言壮語を嘯くものね。確かに家格では大きく劣りますけれど、私たち五人相手に、その武勇を振るえますかしら」
「不要な世話だ。我らが王、流川本家派当主様は擬巖及び擬巖に与する者全てを始末せよとの仰せ。その命を実行するために、我ら分家は存在している」
「ファーフィッフュッフェッ!! とどのつまり、本家の犬というわけでいやんす!! アタシたちと大して変わらんでいやんすね!!」
「好きに解釈しろ。お前らに残された道は二つ。私を弑するか、私に処されるか。それだけだ」
刹那、執事殿を中心に空気が重りと化したかのようにのしかかってきた。それは、この場にいる全てを圧する力。
ツムジから聞いたことがあるが、一定水準を超えた強者は、自分の体内霊力に殺意を込めて放ち、戦場を掌握することができるという。霊力による圧力と書いて、``霊圧``と呼ばれている。
下威区で過ごす上で、そんなものとは無縁だ。殺意や敵意を向けられることは数え切れないほどあったが、そんなものに圧力なんてない。ただ粘ついていて気色悪く、多少の危機感を覚える程度だ。
しかし執事殿から放たれたそれは、明確な殺意のみならず、その殺意でフロア中を満たしている。今この瞬間、執事殿は地下フロア全てを支配したのだ。
殺意を向けられていない俺でさえ身体が重く感じるのだから、矢面に立たされているアイツらが感じている圧力は想像もつかない。
「ケャ……ケャケャ。これはこれは……」
「凄まじい、ですわね」
「ハッハハァ……なるほどな、これが流川かよ。見た目はただのガキだっつーのに、こりゃバケモンじゃねーか」
「いやんす……」
全員、さっきまでの余裕は消え失せていた。それも当然だ。空気が震え、まるで軽い地震が起きていると錯覚するほどの圧力を受けているのだから、正気を保てているだけ、彼らもまた暴閥の当主としての貫禄を有しているのだと改めて感じられる。
だが執事殿に目を向けると、彼ら五人の貫禄など一瞬で霞む。
ただスラムで腐っていただけの俺でも、どちらかが上で、どちらか下か。その差は火を見るより明らかだった。
「死合う前に名乗ってもよろしいかな?」
「本来であれば許されないが、本家派当主様への献上品としよう」
その意味が分からない俺じゃなかった。できれば分かりたくなかったと、心から叫びたい。
執事殿からの霊圧を受け、五人は正確に実力差を理解した。
年齢では彼らの方がずっと上だし、人生経験だって上だ。しかしその力の差は、空と地面ぐらいに相容れない。
執事殿が空を悠然に飛び、その鋭い爪で餌を掠め取る鷹ならば、相対する五人は何の抵抗もできず捕食される蛙だ。
「ケャケャケャ。礼を言うぞ``攬災``よ。ワシの名は骨牌家当主``骸皙``骨牌白骨。左から読んでも右から読んでも、骨牌白骨じゃ」
「ハッハハハッハァ!! 次は俺だなぁ!! 阿羅家当主``羅斬``阿羅魏罹!! よろしくな!!」
「ファーフィッフュッフェッ。伊根家当主``欺狐``伊根田畑でいやんす」
「羽馬家当主``艶麗``羽馬妖艶。短い間でしょうけれど、よろしく``攬災``様」
「……安賀家当主``瞬刹``安賀峯」
全員から霊力が滲み出る。暴閥の当主を名乗るだけあって、それなりの圧力だ。それも五人、待ち受ける側だったなら、それだけで相手の戦意を削げたかもしれない。
そう、待ち受ける側だったなら。
それは安賀峯が名乗った瞬間に起きた。執事殿の姿が消え、どこに行ったと目で追おうとしたそのとき、骨牌白骨と名乗ったおじいさんが、爆発したかのように弾け飛んだのだった。
戦いの結果は、はっきり言って一方的だった。蹂躙、淘汰。その二文字が相応しい。
俺が手を貸す暇もないくらい、決着は一瞬。なんなら出会って戦いが始まるまでの前置きの方が、圧倒的に長かったほどである。
まず骨牌白骨と名乗った老人は、安賀峯と名乗った武士風の男が名乗り終えるのと同時、弾け飛んだ。
何を言っているのか分からないと思うが、俺にもよく分からない。執事殿が消えたと思った瞬間、血飛沫を噴きあげて骨牌家の当主が消し飛んだのである。
次に動いたのは安賀峯と阿羅魏罹だった。安賀峯は鞘から太刀を抜いて横薙ぎに、阿羅魏罹は肩にかけていた大剣を振り上げて執事殿に迫る。
だが、二人の一撃は執事殿に掠りもしない。むしろ二人はひとりでに胴体を両断され、その一生を終えた。
二人の反応速度は決して遅くなく、むしろ常人ではとてもじゃないが反応できない剣速だったが、執事殿の剣捌きはそれ以上。両腕が一瞬だけ掻き消えるほどの速さで、二人を真っ二つに切り結んだのである。
最後に伊根田畑と羽馬妖艶だが、彼らに関しては何もできずに沈んだ。
反応こそできていたが、それも一瞬。執事殿が持っていたはずのナイフが胴体にブッ刺さり、その次の瞬間に雷撃が走ったと思いきや、崩れるように地面に倒れ伏した。そのあとはピクリとも動かず、俺は数瞬遅れて死んだことを認識したのだ。
骨牌白骨が弾け飛んでから、執事殿が武器を鞘にしまうまで体感、およそ一秒半。瞬殺という言葉に相応しい、見事な手際だった。
「さて、装置を止めましょうか」
執事殿は既に興味を失くしているようで、フロア中央に安置されている中核魔道具を指差す。
俺は幾度となく侵入を繰り返し、見つかっては逃げるを延々と繰り返していたが、流石は流川というべきか、目的の場所まで特に苦労もなく辿り着けてしまった。
俺だけだったなら、多分死ぬ気にでもならない限り辿り着けなかっただろう。ただ、それでも思うことはある。それは俺が、目的だと思いつつも死ぬ気になれなかった理由の一つだ。
「……なぁ、殺さなくてもよかったんじゃねーか」
何気なく、その問いを投げた。どうせ帰ってこないことはわかっているのに、だ。
「コイツらだって、同じ暴閥だったんだろ? 俺ぁ暴閥のことなんざよく知らねーけどよ、叩きのめすだけで引いてくれたんじゃねーんかなって」
頭を掻きながら、床に披露されている惨劇を見渡す。
俺はただの下威区民であり、暴閥の出じゃない。分かることといえばスラムでの生活の心得ぐらいなもんであり、暴閥のしきたりなんざ知る機会もクソもなかったが、要は自分の方が強いってことを理解させればいい話であって、殺す必要はなかったんじゃないかと思うのだ。
この世界は弱肉強食。それが世界の摂理であり、共通普遍の原理ってことに忠実なのは理解したが、それと惨殺することは等価じゃない。少なくとも俺なら、叩きのめして実力差を分らせる程度で済ませていた。殺すなんて真似は、絶対にしなかったと思う。もしも殺してしまったなら、それは結局弱者を食い物にする強者となんら変わらなくなってしまうのだから。
「確かに実力差を分らせるだけならば、殺める必要はなかったですね」
「っ!? な、ならなんで……!!」
「先ほども申しました通り、擬巖並びに擬巖に与する者全てを始末せよとの命だからです。そしてそれは我ら分家の総意でもあります。一度始末すると決めたならば、たとえ誰であろうと関係ありません」
「……そんなの……そんなの傲慢がすぎるだろうよ」
沸々とどす黒くて粘ついていて、それでいて熱い感情が胸を焼く。動悸が激しくなり、息苦しささえ感じる。
「たとえどんな理由があろうと、人の命を、人の人生を奪っていい理由なんざねーだろう! 逆に奪われる立場になったら、アンタはどう思うんだ!」
「知れた事。所詮その程度だったのだと、その運命を受け入れるまで」
激情に駆られるがまま怒鳴っちまったが、一切の抑揚もなく無感情に両断されたことで、一度は気絶していた理性が目を覚ます。
問いなんて、投げるまでもない。エレベータの中で交わした会話で、その隔絶した価値観を思い知ったはずだ。
俺たち下威区の民と、流川家じゃあ住んでいる世界が違う。俺たちはいわばいつ死んでもおかしくないスラムの住人だが、相手は武市を建国した王族だ。見ている世界の様相も、聞こえる世界の囀りも、その全てが全くの別世界。本来ならば一生交わることのない人物たちなのだから、思想を擦り合わせるなんて意味のないことなのだ。
それでも、やはり目の前にいると、苦言の一つや二つ呈したくなっちまう。言ってしまえば、下威区の元凶は流川家と言えなくもないのだから。
「話はすみましたか? 私は装置を止めますので、貴方は周囲の警戒を」
色々考え込んでいる間に、執事殿は装置へと興味を移してしまう。話を続けようにも、もはや同じ話題を押し通す雰囲気じゃなくなっていた。言われた通り周囲を警戒に勤しむことにする。
「止まりそうなのか」
話す必要なんてないのかもしれない。むしろミスの原因にしかならない気がするが、自分の中に宿る悶々とした気分を晴らしたい欲望が強い。たとえ蛇足だとしても、そこに人がいるなら、なにかしら話をしたかった。
「問題なく」
まあ、そんなもんである。特に話が進むわけもなく、なけなしの話題は儚く散った。
``武ノ壁``の破壊。それは下威区に住まう者たちにとって叶えたい夢の一つ。
下威区に閉じ込められ、汚染地域にも追い込まれ、暴閥からの迫害も受ける俺たちが自由を手にするには、とにもかくにも``武ノ壁``を壊さないことには始まらない。
いまその悲願の一つが、割とあっさりと叶おうとしている。嬉しいことだ、これ以上の喜びはない。ツムジだって、かつて袂を分かったポンチョ娘だって、きっと両手をあげて喜んでくれるはずだ。
「……なのに、なんでだろうな。素直に喜べないのは」
床に無惨にも放置された惨殺死体を視界の隅に入れる。
中核となる魔道具を守るように立ち塞がった五人は、暴閥の当主だった。俺たちスラムに住まう者たちにしてみれば、仇みたいなもんである。だから擁護するつもりもないし、執事殿に瞬殺されたからと悲しみを感じたりはしないが、やはり殺す必要はなかったように思う。
力の差は歴然としているのだから、戦っても死ぬだけなのは五人だってわかっていたはずだ。執事殿だって、戦えば自分が殺せてしまうことも。
でも両者は、殺し合う手を止めようとしなかった。回避できたはずの争いを、敢えて手に取ったのだ。
俺なら確実に逃げることを選択する。戦っても勝てない相手に戦いに挑む意味なんてないし、生きてりゃいつか良い事あるって言い聞かせて敵前逃亡を決め込むだろう。たとえ逃げ腰の間抜け呼ばわりされようと死ぬよりはマシなのだ。
生きていれば、いつかは道が開ける。そう信じて生き続ける方が絶対良いと思うのに、何故アイツらは死を選んだのだろう。
やっぱり暴閥の考えていることは分からない。共感はもちろんのこと、理屈でも理解できない。戦って死ぬ様を美徳だと思っているのなら、甚だしい勘違いだ。何物よりも尊い、人生でたった一つだけしかない``命``への冒涜でしかない。
「終わりました」
考えたところで答えが出ないことを延々と考えていたら、執事殿がやるべきことを終えていた。
本当に終わったのかどうかを確認しようと思ったが、その必要はなかった。もはやどこにどう繋がれているかも分からないコードやランプ類は、その脈動を止め、光を失っている。なんなら無色透明のガラス箱に封じられていた壺は、すでに執事殿が取り除いてくれていたほどだ。
「それが、俺たちを苦しめていた魔道具か……」
執事殿が手に持つそれを見て、沸々と油が跳ね回る。
見た目は、本当にただの壺だ。異常なまでの黒色に統一されている点を除けば、下威区の道端に落ちている自然に帰りかけの骨董品と大差ない。
だが、その実体は俺たちスラムの同胞を何十年にもわたって苦しめ続けてきた諸悪の根源にして元凶。
コイツがなかったら、多くの同胞が死なずに済んだはずだった。退廃地帯による侵蝕に怯えることもなく、中威区で比較的安全な生活は送れたはずだった。
もちろん決して楽な生活じゃなかっただろうが、それでも下威区という名のゴミ箱に閉じ込められ、死を待つ以外に道はないこともなかったはずなのだ。少なくとも、ツムジが死ぬ必要は―――。
「フーッ……フーッ……フーッ……」
身体が火照る。鼓動が激しい。力みすぎて血圧が上がっているのか、視界に羽虫が飛んでいる。
鍋に入れていた水が急激に沸騰し、蓋ごと弾けて中身が溢れた。そんな勢いで理性が弾け飛んだのは、いつ以来だろうか。
若い頃に暑苦しい感情は全部置いてきたものとばかり思っていたが、そうでもなかったらしい。急いで鍋の蓋を修理して、仕上げに鉄の鎖で雁字搦めにしてしまう。
視界に舞っていた虫の数が減り始めると、壺は粉々に砕け散っていた。遅れてくる拳からの痛み。理性が全身を再び覆い尽くしていくにつれ、認識が現実に追いついていくのを感じとれた。
「……すまねー」
特別仲が良いわけじゃない、むしろ今日が初めて会話する間柄な執事殿相手に見せる態度じゃなかった。
執事殿は暴閥で、俺はスラムで。住んでいる世界が違うのだから、執事殿からしたら俺の感情なんてただ目障りなだけでしかない。そもそも敵地のど真ん中で冷静さを失う時点で自殺しにいっているようなもので、我に帰った今の俺に言わせれば数秒前の俺はナンセンス以外の何者でもなかった。敵がいたら確実に死んでいただろうことを考えると、鍋の蓋の補修を怠っていたと自責の念を胸に刻むしかない。
仲間も守るべきものも全て失った今の俺にとって、生きることが全てだ。生きていたらいつかは良いことがある。その理屈を信じているからってのもあるが、それ以上に俺が死んじまったら、無念にも死んでいった同胞が、あまりにも報われない。
「ここでの作業は終わりだよな? キシシ……これで同胞も少しは救われる……よな」
魔道具は破壊した。もはや同胞たちを阻む忌々しい壁はない。後は下威区を封印した張本人を半殺しにするだけだ。
言いたいことはたくさんあるし、苦情を言わずに帰るなんて勿体ない。第一、執事殿たちの助けがなければ、擬巖領を自由に歩きまわるなんて二度とできないだろう。
「どうでしょうかね」
執事殿が嗤った。その嗤いは脳面のような作り笑いも相まって一層妖しげだ。腹から背骨にかけて氷水が刺し貫く。
「この擬巖領には、地下フロアがいくつもあるのですよ。私たちはエレベータで素通りしましたけれども、ここは最深部なんですよね」
「……それが、どうかしたのか」
「下威区民は武市の生態系最下位の存在。``武ノ壁``を出られぬ者たちを、どう扱おうと生態系上位者の自由である、と言いたいのです」
寒気がした。
最初は何を言っているのか理解できなかったが、俺たちが今いる場所が擬巖邸最下層だというのなら、今までエレベータで素通りしてきたフロアには、一体何があったというのだろうか。
「くっ……!」
考えるよりも先に、身体が動いた。
何度も何度も、幾度となく奪われてきて、また奪われるというのか。あのときは力がなかった。ツムジがいた頃は自分と周りを取りこぼさないように暮らすのが精一杯だった。
でも今なら力がある。ツムジも、ブルーも、守る者も何もない俺に、ただ一つだけ残された戦う力。
こんなもの持っていたところで、守るべき大切なものが何もない今となっては虚しいことこの上ないが、もしも地下フロアに同胞たちが捕らえられていて、今もまだ生きているのならば―――。
「執事殿も早く!」
気持ちに背中を蹴られる俺に対し、執事殿は冷静だ。目を瞑っているだけに、気配もないせいか眠っているかのように思えてしまう。
同胞が捕えられているかもしれないのに、動く気配をまるでみせない執事殿に、沸々と鍋の隙間から沸騰した湯が吹きこぼれ始める。
「下威区民を救助する行為は、私の任務に含まれておりません」
吹きこぼれる勢いが一気に増した。鍋の蓋が弾け、湯気のみならず中のお湯までもが溢れ出す。
「では、私はこれにて」
「ちょ、待……!!」
精一杯手を伸ばすが、その努力も虚しく。執事殿の姿は何もない虚空へ吸われるように掻き消えた。
思わず近くにあったよくわからない機械を殴りつける。割と強めに殴ったが痛みすら感じない。このとき初めて、自分が怒りに塗れていたことに気づいた。
「クソがッ」
身を翻し、エレベータに向かって駆ける。
今だ湧き上がる怒りを走力に変えているせいか、全速力で走っているのに、不思議と疲れを感じない。
理屈では分かっている。何度も何度も思い返しても、自分と執事殿は決して相容れないのだと。下威区民と最上位暴閥じゃあ、住んでいる世界が違うのだと。
分かっている。そんなことは、分かっているんだ。
「ク……ソ……!!」
エレベータに駆け込み上へと向かうボタンだと思われるやつをこれでもかと連打する。
言葉にできない何かが溢れ出しそうで堪らない。ぶつけようにもぶつけるものが周りにないせいで、エレベータに当たり散らかすしかない状況がもどかしく思えてくる。
擬巖に囚われた同胞。最上位の暴閥に囚われた者たちの扱いなんて想像するまでもないが、執事殿の口振りから察するに、同胞は死んでいない。憔悴していようが絶望していようが、生きているのだ。死んでいるのと生きているのとでは大きな差がある。
死んでいるならただ絶望を味わうしかないけれど、生きているならたとえ今絶望しかなくたって、必ず笑える日が来るのだから。
エレベータが止まり、若干の慣性をその身に感じながら、扉がゆっくりと開かれる。扉の隙間から光が漏れ、水晶体が縮む反動が痛みとなって押し寄せる中、ようやく視覚が力を取り戻し終えた。
「くっ……」
かつての同胞は生きていた。それ自体、喜ばしいことだ。
奴隷にすら満たない無能の烙印を押され、もはや野生動物かそれ以下と同等の扱いすらされる自分たちが、こうして生きているだけでも奇跡と言ってもいい。
だが目の前に広がる景色は、思わず死んだ方がマシだったのではと心ない一言を添えたくなるような、地獄絵図だった。
気がつけば、知らない天井。今自分がどこにいるのか、何故寝ているのか、意識が覚醒していくにつれ、鮮明になっていく。
何故だか牢屋にいた。灯りは乏しく、しかしながら全面コンクリ張りで格子も立派な魔導金属でできていると思われる上等品。捕らえた奴を絶対に逃さないという執念が、牢屋からひしひしと感じられる。
牢屋にぶち込まれることなんざ下威区じゃままあること、幼少期の頃に数えるのはやめてしまったが、焦らなくても逃げようはいくらでもある。
「起キタヨウダナ」
どうやって逃げようかと考えていると格子の向こう側に見慣れない大男が立っていた。
昔、孤児たちを助けようとして自分もとっ捕まり、胃袋の中身をしゃぶってきやがったクソキモ男とは全く違うソイツは、自分の図体の軽く三倍以上はあるだろうか。肩幅は異常にデカく、コイツと比べると自分が凄まじく華奢に思えてくる。
「準備ガ整ッタ。出ロ」
なんのことだかさっぱり分からなかったが、気前のいいことに相手さんから出してくれるらしい。
脱出する方法を考えていたのに少し肩透かしを食らったが、眠気がどんどん覚めてくるにつれ、自分が何故牢屋にぶち込まれたのか。本当の経緯が脳裏から溢れ出してきた。
「澄男様方ガオ待チダ。早ク魔法陣ノ上ニ立テ」
大男は紫色のスキンヘッドに顔半分を多い尽くす巨大なバイザーをつけていて、とても普通の人間とは思えない。根拠も何もないが、コイツも人間じゃない何かなんだろうなと、流川家の想像もつかない技術で生み出された何かなんだろうなと、そう結論づけておいた。
触らぬ神に祟りなし、自由のためだ。余計な詮索は死を早めるだけ。
「これは?」
「転移魔法ダ。ソノ上ニ立テバ、澄男様方ガイラッシャル場所へ飛ベル」
テンイ、マホウ。なんのことだかさっぱりだ。
魔法は基礎的な知識しか持ち合わせていないし、流石に現役の魔導師に及ぶべくもない。知ったところで使えるわけもなし、身の丈に合わない知識は頭の隅にでも投げ込んでおけばいつか役に立つだろう。
「案内ありがとな」
とりあえず礼だけは言っておく。
おそらく人じゃないのは確かだが、牢屋から出してくれたし恩人と言ってもいい。少なくとも背後を常に晒していたのに終始敵意も突き刺してくることもなく、突然処刑してくることもなかった。きっと彼はこの世界でも稀な比較的良い人に違いない。
視界が一瞬暗転すると、バイザーをつけた男は消え失せ、次に視界が復活したとき、景色も人も何もかもが様変わりしていた。
「来たな」
視界にまず映ったのは流川の本家の当主、流川澄男こと赤眼野郎。何故だか俺にキシシ野郎とかいう不本意なあだ名をつけやがったので、俺もあだ名で呼ぶことにしている。
正直笑い方は気にしている部分も少しはあるのに、それをあだ名にしてくるとは不貞野郎である。
「ここは……どこだ」
おっと勘違いしてもらっちゃあ困る。別に頭打って記憶喪失になったとかじゃあない。
テンイマホウとかいうよくわからない魔法で牢屋から全然違う場所に連れてこられたせいで、現実を認識できていないだけだ。
「擬巖の屋敷だ。とりあえずサクッと擬巖の奴をブチ殺しにいくぞ」
ロクな説明もなしに歩こうとする赤眼野郎。他二人も特に説明しようとする様子もない。俺は赤眼野郎の肩を掴んだ。
「ンだよ」
「いやな、分かるよ? 擬巖の屋敷に来た時点でやることは一つだよ、うん。でもな、とりあえず今目の前に広がってる絵図の詳細をしてくれると助かるんだが?」
「詳細もクソも見ての通りだぞ。下っ端は邪魔だから皆殺しにした。ただそれだけだ」
さも当然と、何言ってんだコイツ馬鹿なのかと言わんばかりの困り顔を向けてくる。
確かに擬巖の屋敷に来た時点で説明がなくともやるべきことは理解している。でも問題はそこじゃあない。眼前に広がる、壁を染め上げる血と肉塊と化した死体たちのことだ。
まるでバケモノにぐしゃぐしゃにされたかのような死体があたり一面を覆い尽くし、贅を凝らしていたであろう壁は薄汚い血で汚れ、全盛期の輝きは見る影もない。
何度も擬巖邸に忍び込んだから間取りも大体把握している。この通路は特に贅沢品が馬鹿みたいに飾られていたはずだった。
「いや、まあ……確かにちょっかいかけられると邪魔ではある、けどよ……」
「何だ? 悪いか?」
「いや悪くねーよ。つか良いとか悪いとか、そーゆー問題じゃあねーっつーかなんつーか……」
「つまり何が言いてぇんだ……」
「だからよ、お前、これだけぶっ殺しといて特に思うことはねーのかな、と」
あたりを見渡すよう首をしゃくって促す。
見る限りざっと百人以上はただの血肉と化していて、もはや生前誰だったかすら判別できる材料がない。
無駄話をしている最中だというのに敵の追撃が来る様子もなく、まるで屋敷に人という人がいなくなったかのように静寂に包まれている状況から、本当に擬巖の下っ端は一人残らず皆殺しにしてしまったのだろう。
どうやって殺し尽くしたのか、今更手段を問うつもりもないし、流川だからと思えば充分飲み込める話ではあるが、全滅させたということは、それを指示した人間がいるわけで、その人間となればその暴閥のトップに絞られる。
「思わねぇに決まってんだろ」
バッサリと切り捨てられた。何故だか胸が締めつけられる。
「敵にかける慈悲なんざねぇ。むしろ苦しませずに殺すことそのものが慈悲みてぇなもんだ。本来なら敵対したことを後悔させるぐれぇのことはしてもいいぐれぇだが」
「でもよ、コイツらは多分頭に逆らえなくてやっただけだと思うぜ? 実際、全員が全員悪意を持ってたわけじゃねーだろーし」
「それがどうした。仮にそうだったとしても、俺らには関係ねぇ」
「…………そうか」
話が通じない、そう思った。
擬巖は確かに暴閥、大戦時代を生き抜いた戦闘民族だ。殺す側にいるのだから殺される覚悟だっているだろうし、廊下で肉塊と化している連中だって、何の覚悟もなかったわけじゃあないだろう。
それでも皆殺しってのは、共感できたものじゃなかった。
俺はクソみてぇな蛆をその場の感情で殺したときは罪悪感で押し潰されそうになった。ツムジに見せる顔がなかった。
たとえ価値観も何もかも捻じ曲がった、同じ血の通っている生き物かどうかも怪しいくらいの人間相手だろうと、命を奪う行為は人一人が背負うには、あまりに罪が重すぎる。
でも目の前の男は、赤眼野郎は、眼前に広がる骸を見ても、本気で何も感じていないようだった。
ただ邪魔だから、敵だから殺した。単純に、それだけの感情しか持ち合わせていない。そう思わざる得ないほどに。
「弥平、擬巖のアタマをブチ殺したら、擬巖の傘下勢力は消滅させる」
「それがよろしいかと」
「お、おい?」
聞き捨てならない言葉が鼓膜を撫でた。傘下勢力を消滅させる。流石に、流石にそれは。
「やりすぎだろ……」
思わず口からこぼれ出てしまった。赤眼野郎含めた全員が俺に視線を投げる。特に赤眼野郎の表情は純粋な疑念で彩られていた。
「テメェは暴閥じゃねぇから分からんだろうが、中途半端ってのは舐められちまうからな。やるなら徹底的に、だ」
「それでも、よ……消滅って」
「安心しろ。痛みを感じる暇もねぇさ。次の瞬間には死んでるわけだし」
違う。そういう問題じゃない。そもそも傘下勢力を跡形もなく消滅させる必要なんてないはずだ。
相手は流川だし、今更できないなんてことはない。ぱっと見人間と遜色がないロボットを作れているのだから、大量破壊兵器の一つや二つ持っていてもおかしくはないだろう。
でも実際それを使う必要があるのかと問われれば、答えは否だ。
俺はただ擬巖正宗を半殺しにし、武ノ壁を破壊さえできればそれでいい。それ以上は望んじゃいないし、望んじゃいけないことなんだ。
「悪いが、俺は協力できねーぞ。やるんだったらアンタらだけでやってくれ」
感情が昂ったせいだろう。思わず口から出てしまった。言の葉ってのは時に呪詛となって人を刺し、その刃は自分に返ってくることもある。思考が現実に追いついた。
「……一応聞く。そりゃあつまり、俺らの邪魔をするってことでいいのか?」
赤眼野郎の眼から光が消えた。疑心暗鬼なんて生ぬるいものじゃない。明確な殺意だ。ここでそうだと言えば確実に殺される。他二人からも怪しげな雰囲気がするし、深く考えずとも分かる。答えを間違えれば終わりだ。
「邪魔はしねーさ。擬巖正宗をどうにかしてーってところは同じだし、大体のことはアンタらの方針に従うよ」
「じゃあワケ分からんこと言い出すなよ紛らわしいな……」
「ただ、俺の目的はあくまで擬巖正宗と武ノ壁をどうにかすることだ。それ以外はアンタらの責任でやってくれ。それだけだ」
言えば寿命が縮むかもしれないが、はっきり言っておかないと利用される気がしたので線引きはしておく。
本当は大量破壊をみすみす見逃す真似はしたくない。確かに擬巖とその傘下の連中は俺の同胞を数多く奪ってきた。奴らの魔導戦闘機や爆撃機のせいでスラム地域は幾度となく空襲に遭い、その度に数えるのも億劫になるくらいの同胞を消し炭にされてきた。許せるかと問われれば許せないし、万が一に謝ってきたとしても手と手を取り合える気もしない。
だがそれで暴閥の全てを滅ぼしたいかと問われれば、答えは否だ。
報復なんざ割に合わない。幸福に暮らすのに憎悪なんてものは邪魔でしかない。ただ更なる同胞を失うだけで、戦えば戦うほど俺たちが一方的に疲弊する。身も心も疲れちまったら、幸せが遠くなるだけだ。いつ噴き出してくるかわからない大きな膿を噴き出す度に取り除くよりも、小さな花を摘んで自分ン家の庭に植えまくる方が絶対楽しい。
赤眼野郎たちから霊圧が消え失せ、視線が外れる。そこから、終始無言で歩き続けた。
依然として下っ端たちだったであろう骸が肉塊となってそこら中に散らばっている。相手さんから反撃がくる様子もない。敵地真っ只中だってのに、異様な静けさだ。
本当の本当に殺し尽くしたのだ。
彼らがわざわざ出張って殺し尽くしたわけでなし、気が遠くなるほど無限に湧いて出てくる構成員を、一体どうやって全滅させたのか。
知ったところで無意味だが、流川の力だと思えば、理屈云々を差しおいて謎に納得できてしまう自分がいた。
「弥平、擬巖のクソ野郎はやっぱ最上階か」
弥平と呼ばれた執事は静かに首を縦に振る。俺たちが立ち止まったのは、血に濡れたエレベーターだった。
「武ノ壁がどうのこうの言ってたし、弥平はキシシ野郎を案内してやれ」
「畏まりました。御玲」
「はい。澄男さまは私と参ります」
ほいさっさ、と口癖くさい返事を返す赤眼野郎。
俺の笑い方も大概だと思うが、コイツのその返事もどうなんだろうと思う。やっぱキシシ野郎って呼び名は人外だ、うん。
「澄男様、ご武運を」
「おう。二度と舐めた態度取れねぇようにしてくるわ」
気さくに手を振ってエレベータに乗っていく。
ちょっくら近くの出店に買い出ししてくるってぐらいの軽いノリだが、実際は殺しに行ってくるって意味だと思うと無慈悲に思えてくる。
確かに暴閥ってのは弱い奴には無慈悲だ。自分より弱ぇ奴を同じ種族の生物だと思わないくらい、容赦もなければ躊躇もしない。そうでなきゃ、スラム地域を爆撃機で空襲したりなんざしないだろう。
昔、ツムジに暴閥って何だ、貴族か何かなのかと聞いたことがあったけど、そのときツムジは戦闘民族だと答えた。
当時の俺は戦いが得意なクソ強い連中という意味で理解していたが、この瞬間に本当の意味を理解できた気がした。
エレベータの扉が閉まると途端に静寂が支配する。燃料のほとんどを費やし、風前の灯と化した残り火がちょっとした風に煽られて消え、熱源を失って一気に冷えていく部屋の中で寝ることを強いられた、スラム生活の冬を彷彿とさせる。
スラム生活の冬は辛い。とにかく寒い。生活水準は一向に上がらないのに寒さだけが厳しくなるという負の連鎖。食糧も渋くなるし、何か口に入れていても、毎日がひもじくて堪らない日々が三ヶ月ほど続く。
相手は天下の流川家、その執事。今は夏だというのに、俺の周りだけ厳しい冬がやってきたかのようで、なんとも居た堪れない。
「行きましょうか。武ノ壁を維持している魔道具は、この邸宅の地下にあります」
沈黙を破ったのは、執事だった。
言葉に威圧感はなく、どちらかというと気さくで棘を感じさせないが、よそ行き感は拭えない。赤眼野郎と話しているときよりも、声音が気持ち淡白になっているように思えた。
「貴方は武ノ壁について、どの程度知っています?」
エレベータが来るのを黙って待っていると、執事の奴が明るい声音で話しかけてきた。
向こうから話しかけてくるのは意外だったが、このまま黙っていると死にそうだ。話題を投げてくれるなら、この際なんでもいい。
「来る者拒まず、去る者逃さずってぐれーしかしらねーな」
ポケットに手を突っ込みながら、徐々に俺たちの階に近づいてきているエレベータのランプをぼうっと眺める。
武ノ壁。下威区と中威区を隔てる防壁であり、俺たち下威区民の生活水準が上がらない第一要因。コイツがある限り、下威区民はどれだけ頑張ろうと生活水準がミリも上がらないスラム生活を強いられる。
下威区と中威区の境界は、この防壁によって先が見えない濃霧に覆われていて、霧を突っ切って中威区に向かおうとしても、防壁の効果で方向感覚が妨げられているのか、また元の場所まで戻ってきてしまう。
今まで幾度となくスラム生活に耐えられず中威区へ戻ろうとした同胞を見てきたが、その誰もが突破できず諦めて死んでいった。
一応、武ノ壁の関門あたりに下威区民を奴隷にして中威区民に売り捌く暴閥がいるが、戦うだけ無駄である。力も知恵も何もない同胞に、人並外れた暴閥が佇む関門を突破する術はない。
それにその暴閥も、元を辿れば擬巖に行き着く。結局、今の下威区を支配しているのは、擬巖なのだ。
「では、お教えいたしましょう。貴方がこれから破壊しようとしている防壁が、如何なる代物なのかを」
赤眼野郎がいたときは結構威圧的で話聞いてくれなさそうな雰囲気だったのに、急に気さくになってくれていて嬉しいような裏があるような。
気にしたって俺に利があるわけでなし、都合の良いように捉えるのが精神の安寧が保たれる。
執事殿は、それはまた親切に武ノ壁とは何たるやを説明してくれた。正直どうやってそこまでの知識を手に入れられたのか、下威区で生まれて育った俺が九割以上知らない事だらけだった。
まず、武ノ壁は元々武市において禁制品に指定されていた魔道具で、擬巖家現当主―――擬巖正宗がある人物から盗み取った物らしい。その元々の持ち主というのが、``常闇の魔女``ヴァジリット・バロール。巷じゃ``闇のバロール``の異名で恐れられる、黒魔女の王だ。
「腐っても大陸八暴閥の一角ってか……そんなバケモンから盗むなんざ、俺には理解できねーわ」
そのまんま思ったことが口から漏れ出ちまった。
ヴァジリット・バロール。出会ったこともないし姿をその目で見たこともないが、``常闇の魔女``の異名で知られるその魔女を知らない奴がいるとすれば、余程の物知らずか実力を推し量るのが下手くそな馬鹿ぐらいだろう。
黒魔女の王とも言われる彼女は、武市におけるヒエラルキーじゃ大陸八暴閥に迫るとすら言われ、歴戦の暴閥ですら恐れて関わろうとしない。かの魔女が力を奮うと万物を石に変え、想像絶する呪詛で敵を呪い殺し尽くすと聞いたことがある。
噂だからいくらか誇張表現が含まれているだろうが、触らぬ神に祟りなし。そんなおっかねえバケモンには出会ったら愛想笑いで会釈するくらいが丁度いいってもんだ。
「擬巖正宗は、下威区民の流出と反乱を避けるため、魔道具を起動して下威区を封じた……経緯をかいつまんで説明すると、こうなりますかね」
淡々と他人事のように言ってくれる。気さくなところが急に鼻につく態度に思えてしまった。
確かに他人事なのは事実だろうが、俺らからしたら堪ったものじゃない。武ノ壁は下威区がスラムと化した諸悪の根源の一つであり、その壁を壊すことがある意味俺たちの悲願でもある。
あの壁がある限り、俺たちが笑って余生を送るなんざ、永遠に夢物語だ。
「その魔道具は地下に封印されています」
執事殿の説明は続く。
武ノ壁、正式名称``闇雲彩色防壁``は、魔道具を起動する際に防壁を展開するための霊的エネルギーを集めるため、周囲に多大な霊子乱流を発生させる。
その破壊力たるや凄まじく、人間など容易く消し炭になるほどの強力な霊子乱流がそこらかしこに発生し、その地域は破滅的被害を被るんだそうな。
執事殿によると、この魔道具が擬巖の手によって起動し、下威区が封じられたときは、防壁展開時の霊子乱流によってスラム地域の三分の一が壊滅。当時の下威区総人口のおよそ四割が霊力の暴威に晒されて消滅した。
俺が生まれた頃には既に壁は存在していたから生まれる前の出来事だろうが、ホント、暴閥からすれば俺たちは虫ケラにすら満たないってか。分かっていたが、蛆と泥水を啜り、腹を壊した気分に苛まれる。
「地下に魔道具を封じてあるのも、霊子乱流により自領が破壊されるのを防ぐのが目的でしょうね」
淡々とした声音が血みどろの廊下の壁を軽く叩く。
武ノ壁は壁を維持するだけでも大量の霊力を消費する。その霊力は大気中及び土壌中の霊力から無理矢理かき集めるため、起動中は多大な自然破壊をもたらす。
大気中の霊力を吸えば霊力の分布に偏りが生じて霊力の濃い汚染地域が乱立し、土壌中の霊力を吸えば土地が瞬く間に痩せていく。その土地では農作物はおろか雑草すら死滅する荒地となり、その土壌で住む生物は飢えに苦しんで、そして静かな死を迎えることとなる。
「だがよ、その話だと土ン中に埋めたところで大して変わらなくないか? 結局は土の中に含まれてる霊力も吸っちまうんだろ?」
執事殿が場の空気を緩めてくれたおかげで、少し喋りやすくなった。ついついこっちも口調が緩みがちになる。
「だからこそ下威区は退廃地帯と呼ばれる汚染地域に蝕まれているのですよ」
エレベータの鐘が鳴る。その音色は本来明るいはずなのに、不思議と薄暗く重苦しいものに聞こえた。
応接室にて執事殿が詳しく説明してくれていたが、退廃地帯ってのは下威区の大半を巣食う汚染地域のこと。霊力があまりに濃すぎて、耐性のない同胞はただそこにいるだけで死に絶えるばかりでなく、土壌や水も漏れなく汚染されているため、農耕すらできない荒れ果てた土地だ。
汚染地域は霊力に耐性がない生物は例外なく死に絶えてしまうため、霊力に高い耐性を持つヘルリオン山脈特有のバケモノみたいな植物と、霊力そのものが餌である魔生物たちの楽園となっており、今は彼らが汚染地域の支配者である。
元々はスラム地域だった所もあるが、汚染地域の拡大に伴い下威区東部へ逃げるほかなく、日に日に俺たち下威区民の生息圏は縮小の一途を辿っていた。
「正宗は魔道具維持に伴う負債を下威区民に払わせるため、下威区から消費霊力を賄うシステムを作り上げた」
エレベータの扉が開かれた。執事殿の語りが再開される。その語りが中核に近づくに連れ、体の震えが徐々に強まる。
正宗は魔道具を維持する際に発生する負債を俺たちに擦りつけるため、まず下威区上空に霊子力宇宙空母とかいうものを設置した。
初耳だったのでそこを詳しく聞いてみると、いわゆる爆撃機やら戦闘機やらを格納できる大型の宇宙船みたいなものらしい。
そんなものを平然と使えるって事実だけでも俺の想像力が追いつけないが、その霊子力宇宙空母を中継地点として下威区から霊力を吸い上げ、その霊力を擬巖領に送信して利用している。その影響で霊力分布が狂ってしまい、汚染地域が増えてしまうのだという。
「クソッタレな話だ。忌々しいあの壁のためになんで俺たちが犠牲にならなきゃなんねーんだか」
感想を述べるなら、意味がわかんねー。その一言に尽きる。
要は俺たちの存在価値って、壁を維持するための生き餌ってことじゃねーか。どうして俺たちは人扱いされないのだろう。答えは分かっているけれど、それを口にはしたくない。他のもっともらしい答えを知りたくなる。
どちらにせよ胸糞なことに変わりはないが、そういえば今目の前にいるじゃあないか。その真意を聞くべき相手が。
「アンタに聞きたい。弱ぇ奴は死ねって、アンタらは言いたいのか?」
それは生まれてから今日まで、ずっと流川に聞きたかった問いだった。
武市をクソッタレな縦社会に捻じ曲げたのは、他でもなく流川が全ての元凶だ。赤眼野郎たちはただの子孫にすぎないが、それでも世界の実権を事実上握っているのは赤眼野郎たちである。
彼らの言葉は、世界の意志。ならば赤眼野郎の部下の言葉もまた、相応の力を持っているとみて、相違ない。
執事殿は少しばかり考える素振りを見せたが、すぐに顔を上げ、俺の方へ視線を戻す。
「私から言えることは一つだけ。弱肉強食は自然の摂理、です」
瞼が閉ざされているせいで、何を考えているのか分かりづらく、発言の内容も相まって不気味さが増す。
弱肉強食。その言葉を知らないほど馬鹿じゃない。一日たりとも忘れた日はないくらいだ。
「弱い者は死に、強い者が生き残る。私たち流川は、その摂理に抗うつもりがないだけですね」
エレベータが地下に降りていく。エレベータの駆動音が、途端に重苦しいものに聞こえた。
「その摂理で苦しんでる奴がいるとしても、か?」
「それは野生動物や魔生物だって同じことですので」
「いやよ、ソイツらは人間じゃねーだろ。同じ括りにするのは違うだろ」
「我々も彼らも、種族は違えど``生物``であることに変わりありません。弱肉強食の摂理は全ての生物に対し公平だと私は考えています」
違う。そう言いたい気持ちが溢れそうになる。
今まで色んな奴と出会ってきたが、たとえ殺意があろうが絶望しきっていようが、泥水を啜り蛆に身を投げやがるクソ野郎だろうが、話せばなんとなく共感できる経緯というか背景が透けて見えるものだった。
人と話す上で隔絶された疎外感を覚えることは、実を言うとほとんどない。人と人は違って当然、むしろ自分の中の当たり前が他人に適用されると考える方が馬鹿だ。
もしそうなら、世界はもっと平穏で、周りの奴らは笑顔で満ち溢れているはずだろう。少なくともツムジの理想は叶っていたはずだ。俺も掃き溜めの世界に生きてきて、分かり合えなそうな人種や何かしら抱えている奴らを沢山見てきたから、考え方だって千差万別あってもいいとすら思う。
でも、流川は違った。
住んでいる世界から違う。同じ空間で対等に話しているはずなのに、まるで異世界の住人と会話しているかのような感覚さえ覚える。価値観が違うにしても程度ってものがあると思う。
人と人以外の生き物。確かに種族は違うだけで``生物``であることに変わりはないが、俺としてはやっぱり人は人だし、人以外は人以外だ。
種族が違うなら生活の仕方や生きていく上での思想だって違うものだし、そこを統一してしまうのは違う気がする。何故、と言われると俺たちは人間だからとしか、返す言葉がないのだが。
「俺はただ笑って生きていけたらそれでいい。他は要らないし、それ以上も望まない。俺たち下威区民にとって、必要なもんは人並みの幸せだけなんだよ」
「その幸せを得るにも力は必要だと思いますよ。力なき理想はただの夢想でしかありません」
「そうかな……力じゃなくて、みんなが手と手を取り合えばいいと思うけど」
「それは理想論ですね。手と手を取り合うにも、人は相手を選びます。誰とでも取り合いたいと思いません」
「そりゃそうだが、要は努力だろ? しようとしなきゃ、何も始まんねーよ」
「では貴方は分かり合えない人種と手を組むと? 例えば、人を玩具としかみていない、快楽殺人狂であったとしても?」
「それはちと極端すぎやしねーか……」
「貴方は今、みんなが手と手を取り合えば、と仰いましたよ?」
「いやまあ……言ったけど、そういうことじゃなくてさ……」
「ならば結局、争いは避けられません。己と己の親しい者もいれば、害する人もいる。それらの脅威から守るために戦い、その過程で血が流れることとなろうとも、その血は必要な犠牲でありましょう。過程がどうあれ、一方が勝ち、他方が負けることでしか争いは終わらない。ならば勝つための手段として、力がなければ負けるだけです」
早口で捲し立てられ、反論する気が完全に潰えた。閉ざされた狭い空間の中で話しているのに、俺と執事殿の間には海溝よりも深い溝ができているように思え、本当に遠い所にいる別の存在のように見えてならない。
人って種族は同じでも生まれ育った場所や血筋が違うだけで、こうも隔絶することがあるのか。ものすごく失礼だから声には出さないが、同じ世界に生きる人間だとは、到底思うことができない。差別だと言われようが、これだけ話して異世界人感が拭えないのは生まれて初めてだ。
肩にどっかり疲労感がのしかかる。自分から振っといてなんだが、キャッチボールを続けるのが本格的に苦痛になってきたので、身勝手ながら締めさせていただいた。執事殿もその雰囲気を察したのか、それ以上は何も言ってこなかった。しばらく、お互い無言でエレベータが最下層に辿り着くのを待つ。
周りをきっちり見渡せる程度には照明がしっかり知っているにも関わらず、エレベータ内が薄暗く感じ、下へ下へと降りていく駆動音は依然として重く、そして低い。空調のお陰で空気が澱まないのが唯一の救いだが、空間が狭いのも相まって、息苦しさは拭えなかった。
執事殿の背を見やりながら、赤眼野郎の背が思い浮かぶ。
執事殿の考えは理解したが、赤眼野郎はどうなのか。流川の本家、その当主なのだから同じような考えをしているのか、それとももっと過激なのか。ただ分かることは、流川は弱肉強食の摂理に忠実であるということ。きっと赤眼野郎も弱肉強食の摂理に疑問など抱いてはいないだろう。思いを馳せるだけ、徒労に終わりそうだ。
エレベータの駆動音が鳴り止み、浮遊感も姿を隠す。鐘が鳴り、扉がおもむろに開かれた。
擬巖邸最下層は照明がほとんど点いていないせいで、先が見通せないほど暗い。暗闇はある程度慣れているから全く見通せないことはないものの、それでも空間把握がほんの少しできる程度だ。執事殿の案内がなければ、とてもじゃないが敵の奇襲に備えながら地下の探索をするのは無謀だと言っていい。
「場所は知ってんのか?」
執事殿は無言で頷く。
武ノ壁、その中核を成す魔道具の場所など、擬巖家からすれば最高機密の情報のはずだ。何食わぬ顔で知っているあたり、流石は流川である。ほとんどの奴らが敵に回したがらないわけだ。
執事殿は進もうとする俺を手で制し、懐からデカいアイマスクみたいなものを取り出す。
アイマスクとかは野宿するときによく使っていた必需品の一つだったが、今から敵の最重要区画を落とすのに、まさか寝るわけでもあるまい。それによく見るとアイマスクにしてはやたらめったら物々しい。顔半分を余裕で覆うそのマスクは、見るからに重そうで首が疲れそうだ。
「……な、なんだそりゃあ」
「魔道具です。詳細はお教えできません」
特に興味があるわけじゃなかったし、テキトーに流しておいた。
正直名前ぐらい教えてもいいだろと思ったが、完全に味方になったわけじゃない俺に情報を渡したくないのだろう。
別に信用してもらわなくて結構ではあるんだが、こうもあからさまに不信を突きつけられると心にくるものがある。とはいえ敵の情報を、噂話を聞いたかのように知っているのだから、情報の大切さを学んでいるからこその行動だろう。思うところがある反面、合理的な判断だと少し感心する。
クソデカアイマスクを被ると、アイマスクは仄かな虹色に光りだす。少し辺りを見渡すと、執事殿は俺にしか聞こえないくらいの小さなため息をついた。
「……中核装置はフロアの中央にあります、が」
「あるが?」
「その魔道具を守るように、五人陣取ってますね。肉体能力は相応ですか。雑魚ではありますが、擬巖が配置できる駒から考えると妥当な部類ですかね」
「おいおい、数で不利じゃねーか。勝たねーと魔道具まで辿り着けねーやつだろそれ」
「戦いにおいて重要なのは数ではなく質です。それにこの程度の数の差は、形勢に影響しません」
執事殿の口振りに、迷いは感じられない。勝利は必然であると、背中が物語っていた。
擬巖が用意した、武ノ壁の中核魔道具を守る戦力。どれほどかは分からないが、執事殿がそれなりの雑魚って言うくらいだから、流川基準だと雑魚でも流川以外の奴からみたら強者ってところじゃないだろうか。
俺もそれなりには腕っ節に自信があるが、流石に流川がそれなりの雑魚だと評する奴に勝てるかどうかは不安が残る。不安を感じるときは、いつもなら逃げの一手をかますところだが、今回はその選択ができない。
やはり俺は、大変な相手と手を組んでしまったのだろうか。
一抹の不安が心根に染み込んできた折、執事殿が周りを見渡すばかりで一向に前へ進もうとしないことに気づく。
「なに、してるんだ?」
「罠の確認です。仕掛けられている場合、解除しなければならないので」
罠。その一言で執事殿の動きに一瞬で納得する。
罠には細心の注意を払わなくてはならない。アレは一歩間違えれば一瞬で命を刈り取る悪魔だ。
下威区のスラムでも、年端もいかない孤児を狩るための罠が幾重にも張られている通路とかがたくさんあった。慣れればどれも稚拙な作りだと嫌でも分かるようになるのだが、慣れないうちに嵌まっちまった奴の末路は、どれも筆舌に尽くし難い。
罠にハマる奴に未来はない。それが下威区スラムの暗黙の了解だったと言ってもいい。
「そういや、擬巖の家ン中ってほとんど罠とかなかったな……」
幾度も侵入を繰り返してきた過去を思い返す。
武ノ壁を破壊するため、数えきれないほど擬巖家に忍び込んできた。結果はどれも失敗に終わったが、今までの侵入を思い返しても、嵌まったら詰むような致命的な罠はなかった。
違和感が何もないと言ったら嘘になるが、大陸八暴閥の一角だし、構成員も厄介な奴が多いから罠なんていう姑息な真似をするまでもないと考えていて、それ以降はそういうもんだと割り切ってしまっていた。流川が罠の存在を疑うとなると、自分の認識は改めた方がいいなと思えてくる。
「罠には原始罠の他、魔術罠と魔法罠の二種類がありますからね。貴方が言っている罠は、おそらく原始罠の方でしょう」
辺りを見渡しながら、ペン状の何かを取り出す。そのペンは右に捻ると中間あたりが変形して、中から白い光の粒子が漏れ出した。
俺から見たら何をしているのか到底分からないが、何かしらの作業をしながら罠について懇切丁寧に説明してくれた。
執事殿曰く。大陸八暴閥は、どの暴閥も原始罠を使用しない。
そもそも原始罠っていうのは魔法や魔術といったものを一切使用しない、素人でも色んなものを組み合わせれば作れる文字通り原始的な罠のことだ。一番わかりやすいもので、落とし穴が挙げられる。
では大陸八暴閥が使用する罠とは何なのか。それがさっき言っていた魔術罠や魔法罠のことである。
これらの罠も読んで字の如く、魔術で作られた罠と魔法で作られた罠のことで、これらの罠は実体が魔法陣そのものであるため、罠として機能している間は肉眼で見つけることはできない。
余程霊力の扱いの巧い者ならば肉眼で見切ることも不可能じゃないらしいが、そんな規格外野郎は滅多にいないし、少なくとも魔法関係に疎い俺は、そんな高度な罠を見抜ける自信など当然皆無である。
あくまで俺は、逃げ専門の一般人みたいなものなのだ。
「でもそんなおっかねー罠を当たり前に使うなら、俺はなんで生きてやがるんだ?」
一つの疑問を解決するとまた新たな疑問が飛びついてくる。
俺が擬巖家に侵入した回数は数知れない。もういつからか数えるのをやめてしまったし、今更思い返したくもないのだが、数える気すら失せるくらい何度も敷居を跨いでいるのに、目に見ることのできない罠にハマったことは一度もない。
仮にハマっていたらその時点で俺の命はなかったに等しいが、一度もハマらなかったってのは、あまりに都合が良すぎる。
「それは貴方を殺す気が最初からなかった、ということでしょう」
俺の呟きを拾いながらも、作業の手を緩める様子はない。
「罠を仕掛けず放逐していたということは、貴方を殺さないことで得られる何かがあるということでしょうね」
「何かって何だ……? 侵入者を殺さないことに得なんてあるのか……?」
「それは判然としませんが……ふむ」
顎に手を当て、少し考える素振りを見せるが、すぐに顔を上げ、作業を再開する。
「気になるのでしたら、本人の所に赴けばよろしいかと。きっと、その疑問の答えを教えてもらえるでしょう」
「そんな殊勝なタマとは思えねーが……?」
「いいえ。赴くだけで、相手が勝手に話してくれると思うので、気負う必要は皆無かと」
「……なんでそう言える」
「推測です。まあ、知りたくなければ行かなくてもよろしいかと思いますがね」
そう言い放ち、本格的に作業へ戻っていった。
擬巖の野郎が俺を殺さずに見逃していた理由。知ったところで俺の足しになるとは思えないが、逆に捉えれば好機だ。
はっきり言って俺だけじゃ、擬巖の野郎の所までどうあがいても辿り着けない。罠云々を抜きにしても、夥しく出てくる手下たちの物量の前には多勢に無勢だ。
しかし今は流川と共闘している。流川の圧倒的な力の庇護下にある今、もはや手下たちに邪魔されることもないだろう。気兼ねなく本丸の所まで行くことができるわけだ。
拳を強く握り、胸に手を添える。
俺たち下威区民は長い間、擬巖とその傘下の暴閥やギャングスターの脅威に晒されてきた。理不尽に繰り返される爆撃機からの空襲、汚染地域に飲まれ魔生物に食われる同胞。これまでの人生を振り返れば、俺の周りは同胞の死ばかり。
俺たちの人生、その全てを狂わせた元凶こそ擬巖の当主。何を考え、どんな野郎なのか。武ノ壁を解放するにせよ、野郎を半殺しにするにせよ、その薄汚ぇツラだけは拝んでおかなきゃならねぇ。
そうじゃなきゃ、擬巖の暴挙を止めるため、ただ一人擬巖に挑んで帰らなかったツムジが報われない。
「さて、そろそろいきましょうか。相手方も退屈しておられるでしょうし」
思考の海から強制的に引き上げられる。顔の上半分を覆っていた謎の魔道具を懐にしまい、執事殿は堂々と歩み出す。
執事殿に追従し、索敵がてら辺りを見渡す。中核魔道具があるらしい擬巖邸地下は、とにかく薄暗い。霊灯がほとんどなく、気を抜くと一寸先は闇と思えてしまう。
下威区で活動してきた折、暗闇の中で動くことには慣れている。最初は見えづらくとも、数秒もすれば目が慣れるのだ。
それに、いざとなれば気配だけで戦うこともできる。正直なところ、灯りは必要ないと言っていい。だが、驚くべきは執事殿だ。
常に瞼を閉じているにも関わらず、俺以上に空間を把握しており、まるで目的までの距離を最短になるように計算し、罠や敵感知系の魔道具をすり抜ける最適コースを常に選択しているかのように、その足取りは極めて軽い。
ちょくちょく立ち止まってはすぐに歩き出すし、罠の解除も順調なようである。
うねうねと入り組んだ地下フロアを歩くこと数十分。ようやく灯りを網膜が捉える。
久々に光が目に入ってきたせいで、目玉が悲鳴をあげる。思わず瞼を細めるが、視界を狭めた僅かな隙間から、フロアの中心に安置されてあるソレが、真っ先に目に入った。
「アレが……!!」
部屋の真ん中、透明なケースに厳重に保管されたそれは、ぱっと見の外観は暗い色をした壺だ。
全体的に黒色が基調のそれは、装飾こそ控えめでとにかく黒色が目立つ。調度品としては、あまり印象が良くないが、不思議と目が離せなかった。
装飾も控えめ、形も歪で禍々しささえ覚えるのに、彩られた黒は透き通っているとさえ思える。例えるなら、星も雲も、月ですら映らない常闇の夜。眺めている時間が長いほど吸い込まれそうになる不純物のない暗黒が、本能を魅了する。
アレこそ武ノ壁を支える中核魔道具なんだろうが、俺たちは長い間、あの壺の存在に苦しめられてきたのか。
もっと大掛かりな機械だと勝手に想像していただけに拍子抜けだったが、その実体は魔道具。そこらの機械とは比較にならない性能を秘めている。下威区全域を覆い尽くす結界を張れるのだから、その構造たるや知識の乏しい俺には想像もつかない。
でも、その未知の道具さえ破壊すれば、下威区は解放される。汚染地域の侵食に怯え、同胞同士で殺し合う彼らに、自由を渡してあげられるのだ。俺は、ついにその目前まで来ている。胸の奥底から、躍動が止まらない。
「ケャケャケャ。ワシが仕掛けた魔術罠を全て破壊するとは、流石は``攬災``よな」
魔道具を破壊したい欲望と躍動、そして魔道具の外観から放たれる本能をくすぐる魅惑で完全に意識外に追いやっていたが、薄気味悪いしゃがれた声が、全ての意識を現実へ叩き戻す。
全身黒色のローブを身に纏い、灰色の顎髭を弄る様は、まるで貫禄のある魔導師。
シワだらけの肌に薄汚れた爪、口の隙間から垣間見れる歯のない歯茎。死にっぱぐれの老人に思えるその男は気持ち悪い笑みを浮かべ、俺たちを興味深げに見つめてくる。
「ハッハハハッハァ! アレが正宗様から聞いていた``攬災``かぁ! クソでけぇ大男かと思ったが、意外とチビだなぁ!」
老人の背後であぐらをかき、高らかに笑う壮年のオッサンが目に入る。
男は老人と打って変わって、かなり軽装だった。ボロボロの白いTシャツと短パン、毛の手入れはほとんどしていないのか、年相応に毛深い手足。頭には黒いバンダナをしており、歳の割にはファンキーさを感じさせる。
だがそれ以上に目をひいたのは、彼が肩に担ぐ己の背丈を優に越える刀身を持つ大剣だ。
体の手入れはテキトーそうなのに、その大剣は柄から刀身の切先に至るまで、曇り一つなく磨き上げられている。もはや鏡に匹敵するほどの光沢を放つそれは、地下フロアをほんのり照らす僅かな光を、強く反射させていた。
「代替わりしたばかりでいやんすからそんなもんでいやんしょ。むしろアタイからしたら予想通りでいやんす」
声が女なのにも関わらず、風貌は男そのもの。上顎から生えた前歯は異常に長く、その様相はリスを彷彿とさせる。
しかしながら目が細い。執事殿のように完全に目を閉じているわけではないが、遠目から見るとまるで閉じているかのように思える。前歯だけ見ればリスだが、瞳の奥底を決して見せない糸目は、狡猾で卑怯な、人と人の間をスルリと抜けて欺く妖狐に見えた。
「……相手にとって、不足なし」
狐目の横であぐらをかき、肩に太刀を携える男が、小声で、しかし空間に響き渡るほどの濃厚な低い声音で呟く。
ソイツは瞑想しているのか、狐目と違って完全に目を閉じている。服装も袴だし、持っている武器からしても剣豪なのは間違いない。実際、他の奴らと違って隙がないし。
「天下の流川分家派当主陛下といえど、所詮は小童。私の体で骨抜きしてあげるわ」
あぐらを描いている奴のまた隣には、打って変わって露出度の異常に高い服を着た女が、舌なめずりして執事殿をねっとりと見つめる。
彼女を一言で表すならば、妖艶。
日焼け一つない艶やかで白い肌。男の性を擽り狂わせる肢体。そして己の持つ武器をさらに際立たせる服装。肌面積が異常に広く、服を着ているというより下着だけ着てきたという感じだ。
男の対する魅惑的な態度からして、今まで何人もの男を魅了して食い物にしてきたのだろうが、執事殿は真顔だった。ポーカーフェイスなどではなく、本当に意に介していない様子である。かくいう俺も、そんな下着同然の服着てて寒くないのかなとか、防御性能低くねとか、戦う気ないのかなとか、そんな感想しか浮かばないのだが。
「ふむ、中位暴閥のトップたちが勢揃いか。処分する手間が省けて、こちらとしては好都合だ」
執事殿は、尚も真顔だった。その表情は能面の如く、その深淵を覗くことを許さない。
赤眼野郎たちと一緒にいるときと何ら表情が変わっていないが、どことなく不自然に彩られた作り笑いに、粘ついた暗雲が立ち込めているように思え、その不気味さは赤眼野郎たちと別れる前の比じゃない。気がつけば、敬語が抜け落ちている。
「ケャケャケャ! 貴方様一人でワシら全員を始末すると?」
「お前らごとき、我らが王たる本家派当主様の手を煩わせるまでもない。敵対した時点で死は確定している」
「大言壮語を嘯くものね。確かに家格では大きく劣りますけれど、私たち五人相手に、その武勇を振るえますかしら」
「不要な世話だ。我らが王、流川本家派当主様は擬巖及び擬巖に与する者全てを始末せよとの仰せ。その命を実行するために、我ら分家は存在している」
「ファーフィッフュッフェッ!! とどのつまり、本家の犬というわけでいやんす!! アタシたちと大して変わらんでいやんすね!!」
「好きに解釈しろ。お前らに残された道は二つ。私を弑するか、私に処されるか。それだけだ」
刹那、執事殿を中心に空気が重りと化したかのようにのしかかってきた。それは、この場にいる全てを圧する力。
ツムジから聞いたことがあるが、一定水準を超えた強者は、自分の体内霊力に殺意を込めて放ち、戦場を掌握することができるという。霊力による圧力と書いて、``霊圧``と呼ばれている。
下威区で過ごす上で、そんなものとは無縁だ。殺意や敵意を向けられることは数え切れないほどあったが、そんなものに圧力なんてない。ただ粘ついていて気色悪く、多少の危機感を覚える程度だ。
しかし執事殿から放たれたそれは、明確な殺意のみならず、その殺意でフロア中を満たしている。今この瞬間、執事殿は地下フロア全てを支配したのだ。
殺意を向けられていない俺でさえ身体が重く感じるのだから、矢面に立たされているアイツらが感じている圧力は想像もつかない。
「ケャ……ケャケャ。これはこれは……」
「凄まじい、ですわね」
「ハッハハァ……なるほどな、これが流川かよ。見た目はただのガキだっつーのに、こりゃバケモンじゃねーか」
「いやんす……」
全員、さっきまでの余裕は消え失せていた。それも当然だ。空気が震え、まるで軽い地震が起きていると錯覚するほどの圧力を受けているのだから、正気を保てているだけ、彼らもまた暴閥の当主としての貫禄を有しているのだと改めて感じられる。
だが執事殿に目を向けると、彼ら五人の貫禄など一瞬で霞む。
ただスラムで腐っていただけの俺でも、どちらかが上で、どちらか下か。その差は火を見るより明らかだった。
「死合う前に名乗ってもよろしいかな?」
「本来であれば許されないが、本家派当主様への献上品としよう」
その意味が分からない俺じゃなかった。できれば分かりたくなかったと、心から叫びたい。
執事殿からの霊圧を受け、五人は正確に実力差を理解した。
年齢では彼らの方がずっと上だし、人生経験だって上だ。しかしその力の差は、空と地面ぐらいに相容れない。
執事殿が空を悠然に飛び、その鋭い爪で餌を掠め取る鷹ならば、相対する五人は何の抵抗もできず捕食される蛙だ。
「ケャケャケャ。礼を言うぞ``攬災``よ。ワシの名は骨牌家当主``骸皙``骨牌白骨。左から読んでも右から読んでも、骨牌白骨じゃ」
「ハッハハハッハァ!! 次は俺だなぁ!! 阿羅家当主``羅斬``阿羅魏罹!! よろしくな!!」
「ファーフィッフュッフェッ。伊根家当主``欺狐``伊根田畑でいやんす」
「羽馬家当主``艶麗``羽馬妖艶。短い間でしょうけれど、よろしく``攬災``様」
「……安賀家当主``瞬刹``安賀峯」
全員から霊力が滲み出る。暴閥の当主を名乗るだけあって、それなりの圧力だ。それも五人、待ち受ける側だったなら、それだけで相手の戦意を削げたかもしれない。
そう、待ち受ける側だったなら。
それは安賀峯が名乗った瞬間に起きた。執事殿の姿が消え、どこに行ったと目で追おうとしたそのとき、骨牌白骨と名乗ったおじいさんが、爆発したかのように弾け飛んだのだった。
戦いの結果は、はっきり言って一方的だった。蹂躙、淘汰。その二文字が相応しい。
俺が手を貸す暇もないくらい、決着は一瞬。なんなら出会って戦いが始まるまでの前置きの方が、圧倒的に長かったほどである。
まず骨牌白骨と名乗った老人は、安賀峯と名乗った武士風の男が名乗り終えるのと同時、弾け飛んだ。
何を言っているのか分からないと思うが、俺にもよく分からない。執事殿が消えたと思った瞬間、血飛沫を噴きあげて骨牌家の当主が消し飛んだのである。
次に動いたのは安賀峯と阿羅魏罹だった。安賀峯は鞘から太刀を抜いて横薙ぎに、阿羅魏罹は肩にかけていた大剣を振り上げて執事殿に迫る。
だが、二人の一撃は執事殿に掠りもしない。むしろ二人はひとりでに胴体を両断され、その一生を終えた。
二人の反応速度は決して遅くなく、むしろ常人ではとてもじゃないが反応できない剣速だったが、執事殿の剣捌きはそれ以上。両腕が一瞬だけ掻き消えるほどの速さで、二人を真っ二つに切り結んだのである。
最後に伊根田畑と羽馬妖艶だが、彼らに関しては何もできずに沈んだ。
反応こそできていたが、それも一瞬。執事殿が持っていたはずのナイフが胴体にブッ刺さり、その次の瞬間に雷撃が走ったと思いきや、崩れるように地面に倒れ伏した。そのあとはピクリとも動かず、俺は数瞬遅れて死んだことを認識したのだ。
骨牌白骨が弾け飛んでから、執事殿が武器を鞘にしまうまで体感、およそ一秒半。瞬殺という言葉に相応しい、見事な手際だった。
「さて、装置を止めましょうか」
執事殿は既に興味を失くしているようで、フロア中央に安置されている中核魔道具を指差す。
俺は幾度となく侵入を繰り返し、見つかっては逃げるを延々と繰り返していたが、流石は流川というべきか、目的の場所まで特に苦労もなく辿り着けてしまった。
俺だけだったなら、多分死ぬ気にでもならない限り辿り着けなかっただろう。ただ、それでも思うことはある。それは俺が、目的だと思いつつも死ぬ気になれなかった理由の一つだ。
「……なぁ、殺さなくてもよかったんじゃねーか」
何気なく、その問いを投げた。どうせ帰ってこないことはわかっているのに、だ。
「コイツらだって、同じ暴閥だったんだろ? 俺ぁ暴閥のことなんざよく知らねーけどよ、叩きのめすだけで引いてくれたんじゃねーんかなって」
頭を掻きながら、床に披露されている惨劇を見渡す。
俺はただの下威区民であり、暴閥の出じゃない。分かることといえばスラムでの生活の心得ぐらいなもんであり、暴閥のしきたりなんざ知る機会もクソもなかったが、要は自分の方が強いってことを理解させればいい話であって、殺す必要はなかったんじゃないかと思うのだ。
この世界は弱肉強食。それが世界の摂理であり、共通普遍の原理ってことに忠実なのは理解したが、それと惨殺することは等価じゃない。少なくとも俺なら、叩きのめして実力差を分らせる程度で済ませていた。殺すなんて真似は、絶対にしなかったと思う。もしも殺してしまったなら、それは結局弱者を食い物にする強者となんら変わらなくなってしまうのだから。
「確かに実力差を分らせるだけならば、殺める必要はなかったですね」
「っ!? な、ならなんで……!!」
「先ほども申しました通り、擬巖並びに擬巖に与する者全てを始末せよとの命だからです。そしてそれは我ら分家の総意でもあります。一度始末すると決めたならば、たとえ誰であろうと関係ありません」
「……そんなの……そんなの傲慢がすぎるだろうよ」
沸々とどす黒くて粘ついていて、それでいて熱い感情が胸を焼く。動悸が激しくなり、息苦しささえ感じる。
「たとえどんな理由があろうと、人の命を、人の人生を奪っていい理由なんざねーだろう! 逆に奪われる立場になったら、アンタはどう思うんだ!」
「知れた事。所詮その程度だったのだと、その運命を受け入れるまで」
激情に駆られるがまま怒鳴っちまったが、一切の抑揚もなく無感情に両断されたことで、一度は気絶していた理性が目を覚ます。
問いなんて、投げるまでもない。エレベータの中で交わした会話で、その隔絶した価値観を思い知ったはずだ。
俺たち下威区の民と、流川家じゃあ住んでいる世界が違う。俺たちはいわばいつ死んでもおかしくないスラムの住人だが、相手は武市を建国した王族だ。見ている世界の様相も、聞こえる世界の囀りも、その全てが全くの別世界。本来ならば一生交わることのない人物たちなのだから、思想を擦り合わせるなんて意味のないことなのだ。
それでも、やはり目の前にいると、苦言の一つや二つ呈したくなっちまう。言ってしまえば、下威区の元凶は流川家と言えなくもないのだから。
「話はすみましたか? 私は装置を止めますので、貴方は周囲の警戒を」
色々考え込んでいる間に、執事殿は装置へと興味を移してしまう。話を続けようにも、もはや同じ話題を押し通す雰囲気じゃなくなっていた。言われた通り周囲を警戒に勤しむことにする。
「止まりそうなのか」
話す必要なんてないのかもしれない。むしろミスの原因にしかならない気がするが、自分の中に宿る悶々とした気分を晴らしたい欲望が強い。たとえ蛇足だとしても、そこに人がいるなら、なにかしら話をしたかった。
「問題なく」
まあ、そんなもんである。特に話が進むわけもなく、なけなしの話題は儚く散った。
``武ノ壁``の破壊。それは下威区に住まう者たちにとって叶えたい夢の一つ。
下威区に閉じ込められ、汚染地域にも追い込まれ、暴閥からの迫害も受ける俺たちが自由を手にするには、とにもかくにも``武ノ壁``を壊さないことには始まらない。
いまその悲願の一つが、割とあっさりと叶おうとしている。嬉しいことだ、これ以上の喜びはない。ツムジだって、かつて袂を分かったポンチョ娘だって、きっと両手をあげて喜んでくれるはずだ。
「……なのに、なんでだろうな。素直に喜べないのは」
床に無惨にも放置された惨殺死体を視界の隅に入れる。
中核となる魔道具を守るように立ち塞がった五人は、暴閥の当主だった。俺たちスラムに住まう者たちにしてみれば、仇みたいなもんである。だから擁護するつもりもないし、執事殿に瞬殺されたからと悲しみを感じたりはしないが、やはり殺す必要はなかったように思う。
力の差は歴然としているのだから、戦っても死ぬだけなのは五人だってわかっていたはずだ。執事殿だって、戦えば自分が殺せてしまうことも。
でも両者は、殺し合う手を止めようとしなかった。回避できたはずの争いを、敢えて手に取ったのだ。
俺なら確実に逃げることを選択する。戦っても勝てない相手に戦いに挑む意味なんてないし、生きてりゃいつか良い事あるって言い聞かせて敵前逃亡を決め込むだろう。たとえ逃げ腰の間抜け呼ばわりされようと死ぬよりはマシなのだ。
生きていれば、いつかは道が開ける。そう信じて生き続ける方が絶対良いと思うのに、何故アイツらは死を選んだのだろう。
やっぱり暴閥の考えていることは分からない。共感はもちろんのこと、理屈でも理解できない。戦って死ぬ様を美徳だと思っているのなら、甚だしい勘違いだ。何物よりも尊い、人生でたった一つだけしかない``命``への冒涜でしかない。
「終わりました」
考えたところで答えが出ないことを延々と考えていたら、執事殿がやるべきことを終えていた。
本当に終わったのかどうかを確認しようと思ったが、その必要はなかった。もはやどこにどう繋がれているかも分からないコードやランプ類は、その脈動を止め、光を失っている。なんなら無色透明のガラス箱に封じられていた壺は、すでに執事殿が取り除いてくれていたほどだ。
「それが、俺たちを苦しめていた魔道具か……」
執事殿が手に持つそれを見て、沸々と油が跳ね回る。
見た目は、本当にただの壺だ。異常なまでの黒色に統一されている点を除けば、下威区の道端に落ちている自然に帰りかけの骨董品と大差ない。
だが、その実体は俺たちスラムの同胞を何十年にもわたって苦しめ続けてきた諸悪の根源にして元凶。
コイツがなかったら、多くの同胞が死なずに済んだはずだった。退廃地帯による侵蝕に怯えることもなく、中威区で比較的安全な生活は送れたはずだった。
もちろん決して楽な生活じゃなかっただろうが、それでも下威区という名のゴミ箱に閉じ込められ、死を待つ以外に道はないこともなかったはずなのだ。少なくとも、ツムジが死ぬ必要は―――。
「フーッ……フーッ……フーッ……」
身体が火照る。鼓動が激しい。力みすぎて血圧が上がっているのか、視界に羽虫が飛んでいる。
鍋に入れていた水が急激に沸騰し、蓋ごと弾けて中身が溢れた。そんな勢いで理性が弾け飛んだのは、いつ以来だろうか。
若い頃に暑苦しい感情は全部置いてきたものとばかり思っていたが、そうでもなかったらしい。急いで鍋の蓋を修理して、仕上げに鉄の鎖で雁字搦めにしてしまう。
視界に舞っていた虫の数が減り始めると、壺は粉々に砕け散っていた。遅れてくる拳からの痛み。理性が全身を再び覆い尽くしていくにつれ、認識が現実に追いついていくのを感じとれた。
「……すまねー」
特別仲が良いわけじゃない、むしろ今日が初めて会話する間柄な執事殿相手に見せる態度じゃなかった。
執事殿は暴閥で、俺はスラムで。住んでいる世界が違うのだから、執事殿からしたら俺の感情なんてただ目障りなだけでしかない。そもそも敵地のど真ん中で冷静さを失う時点で自殺しにいっているようなもので、我に帰った今の俺に言わせれば数秒前の俺はナンセンス以外の何者でもなかった。敵がいたら確実に死んでいただろうことを考えると、鍋の蓋の補修を怠っていたと自責の念を胸に刻むしかない。
仲間も守るべきものも全て失った今の俺にとって、生きることが全てだ。生きていたらいつかは良いことがある。その理屈を信じているからってのもあるが、それ以上に俺が死んじまったら、無念にも死んでいった同胞が、あまりにも報われない。
「ここでの作業は終わりだよな? キシシ……これで同胞も少しは救われる……よな」
魔道具は破壊した。もはや同胞たちを阻む忌々しい壁はない。後は下威区を封印した張本人を半殺しにするだけだ。
言いたいことはたくさんあるし、苦情を言わずに帰るなんて勿体ない。第一、執事殿たちの助けがなければ、擬巖領を自由に歩きまわるなんて二度とできないだろう。
「どうでしょうかね」
執事殿が嗤った。その嗤いは脳面のような作り笑いも相まって一層妖しげだ。腹から背骨にかけて氷水が刺し貫く。
「この擬巖領には、地下フロアがいくつもあるのですよ。私たちはエレベータで素通りしましたけれども、ここは最深部なんですよね」
「……それが、どうかしたのか」
「下威区民は武市の生態系最下位の存在。``武ノ壁``を出られぬ者たちを、どう扱おうと生態系上位者の自由である、と言いたいのです」
寒気がした。
最初は何を言っているのか理解できなかったが、俺たちが今いる場所が擬巖邸最下層だというのなら、今までエレベータで素通りしてきたフロアには、一体何があったというのだろうか。
「くっ……!」
考えるよりも先に、身体が動いた。
何度も何度も、幾度となく奪われてきて、また奪われるというのか。あのときは力がなかった。ツムジがいた頃は自分と周りを取りこぼさないように暮らすのが精一杯だった。
でも今なら力がある。ツムジも、ブルーも、守る者も何もない俺に、ただ一つだけ残された戦う力。
こんなもの持っていたところで、守るべき大切なものが何もない今となっては虚しいことこの上ないが、もしも地下フロアに同胞たちが捕らえられていて、今もまだ生きているのならば―――。
「執事殿も早く!」
気持ちに背中を蹴られる俺に対し、執事殿は冷静だ。目を瞑っているだけに、気配もないせいか眠っているかのように思えてしまう。
同胞が捕えられているかもしれないのに、動く気配をまるでみせない執事殿に、沸々と鍋の隙間から沸騰した湯が吹きこぼれ始める。
「下威区民を救助する行為は、私の任務に含まれておりません」
吹きこぼれる勢いが一気に増した。鍋の蓋が弾け、湯気のみならず中のお湯までもが溢れ出す。
「では、私はこれにて」
「ちょ、待……!!」
精一杯手を伸ばすが、その努力も虚しく。執事殿の姿は何もない虚空へ吸われるように掻き消えた。
思わず近くにあったよくわからない機械を殴りつける。割と強めに殴ったが痛みすら感じない。このとき初めて、自分が怒りに塗れていたことに気づいた。
「クソがッ」
身を翻し、エレベータに向かって駆ける。
今だ湧き上がる怒りを走力に変えているせいか、全速力で走っているのに、不思議と疲れを感じない。
理屈では分かっている。何度も何度も思い返しても、自分と執事殿は決して相容れないのだと。下威区民と最上位暴閥じゃあ、住んでいる世界が違うのだと。
分かっている。そんなことは、分かっているんだ。
「ク……ソ……!!」
エレベータに駆け込み上へと向かうボタンだと思われるやつをこれでもかと連打する。
言葉にできない何かが溢れ出しそうで堪らない。ぶつけようにもぶつけるものが周りにないせいで、エレベータに当たり散らかすしかない状況がもどかしく思えてくる。
擬巖に囚われた同胞。最上位の暴閥に囚われた者たちの扱いなんて想像するまでもないが、執事殿の口振りから察するに、同胞は死んでいない。憔悴していようが絶望していようが、生きているのだ。死んでいるのと生きているのとでは大きな差がある。
死んでいるならただ絶望を味わうしかないけれど、生きているならたとえ今絶望しかなくたって、必ず笑える日が来るのだから。
エレベータが止まり、若干の慣性をその身に感じながら、扉がゆっくりと開かれる。扉の隙間から光が漏れ、水晶体が縮む反動が痛みとなって押し寄せる中、ようやく視覚が力を取り戻し終えた。
「くっ……」
かつての同胞は生きていた。それ自体、喜ばしいことだ。
奴隷にすら満たない無能の烙印を押され、もはや野生動物かそれ以下と同等の扱いすらされる自分たちが、こうして生きているだけでも奇跡と言ってもいい。
だが目の前に広がる景色は、思わず死んだ方がマシだったのではと心ない一言を添えたくなるような、地獄絵図だった。
0
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【ふう・・・・何とか間に合ったか。たった一つのスキルか・・・・しかもあ奴の元の名からすれば土関連になりそうじゃが。済まぬが異世界あるあるのチートはない。】
こうして剛史は新た生を異世界で受けた。
そして何も思い出す事なく10歳に。
そしてこの世界は10歳でスキルを確認する。
スキルによって一生が決まるからだ。
最低1、最高でも10。平均すると概ね5。
そんな中剛史はたった1しかスキルがなかった。
しかも土木魔法と揶揄される【土魔法】のみ、と思い込んでいたが【土魔法】ですらない【土】スキルと言う謎スキルだった。
そんな中頑張って開拓を手伝っていたらどうやら領主の意に添わなかったようで
ゴウツク領主によって領地を追放されてしまう。
追放先でも土魔法は土木魔法とバカにされる。
だがここで剛史は前世の記憶を徐々に取り戻す。
『土魔法を土木魔法ってバカにすんなよ?異世界あるあるな前世の謎知識で無双する!』
不屈の精神で土魔法を極めていく剛史。
そしてそんな剛史に同じような境遇の人々が集い、やがて大きなうねりとなってこの世界を席巻していく。
その中には同じく一つスキルしか得られず、公爵家や侯爵家を追放された令嬢も。
前世の記憶を活用しつつ、やがて土木魔法と揶揄されていた土魔法を世界一のスキルに押し上げていく。
但し剛史のスキルは【土魔法】ですらない【土】スキル。
転生時にチートはなかったと思われたが、努力の末にチートと言われるほどスキルを活用していく事になる。
これは所持スキルの少なさから世間から見放された人々が集い、ギルド『ワンチャンス』を結成、努力の末に世界一と言われる事となる物語・・・・だよな?
何故か追放された公爵令嬢や他の貴族の令嬢が集まってくるんだが?
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