上 下
1 / 6

赤いヤッケの女

しおりを挟む
「あのう、ちょっとすいませんが…」駅構内のベンチに腰かけた俺のそばで若い女の声がする。日本語である。ん?空耳?…とばかり俺はうつむいたままだ。ここは西ドイツのフランクフルト市中央駅構内、異国での一人旅であり、日本語で呼びかけられるはずもないのだ。
 しかしもう一度、今度ははっきりと、まぎれもない日本語で呼びかけられた。「あの、失礼ですが日本の方じゃありません?」ようやくふり向けた俺の眼に赤いヤッケ姿の女性が映る。駅構内とはいえ今は12月で、北海道より緯度の高い厳冬のヨーロッパのこと、そのせいだろうか顔に浮かんだ微笑みは凍りついたもののように見えた。「はい、そうです…」応じようとした刹那構内アナウンスが流れ轟音とともに隣国スイスからの列車がなだれ込んで来た。見れば列車の屋根には10センチほどの雪が一面にこびりついている。隣国の寒さのほどがうかがわれた。しかし実は俺はこの列車に乗ってこれからその他ならぬスイスへと向かう身であった。スキー等の観光の為などでは更々なくて、オーバーだが彼のサウンドオブミュージックのマリア、トラップ一家のごとき、ある意味命がけの転出とも云える身の上だったのである。当地で旅行をしながらバイトもしようと目論んでいたのだが、日本国内ならぬ異国での一人旅、懐具合も逼迫して来て、もし首尾が悪ければ破滅しかねない状況だったのだ。しかしそんな俺の身の上など今のこの女性には関係のないことで、俺は彼女の言葉を待つばかりである。列車の発車までまだ時間があった。渡欧以来3ケ月が過ぎていて、久しぶりの大和撫子との邂逅である。もっともそちらの方では元来奥手だった俺は女性との会話など殆どしたことがなく、ただ同じ日本人であるがゆえに得たセルダムな一時と云えた。髪を肩の下までたらした、瓜実顔のよく整った目鼻立ち、167センチの俺と同じ位の彼女は然るべき化粧とドレスアップをしていれば、まず人目を引く類の女性であったろう。しかし今は俺と同じバックパッカーの出立をしているだけで何の化粧っ気もない。CAN・I・HELP・YOU?とばかり俺は彼女の言葉を待つ。

            【フランクフルト中央駅】
しおりを挟む

処理中です...