サマネイ

多谷昇太

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第四章 得度式と鏡僧侶

不可解な山本師の笑み

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いち早く俺は可と答えた。『山本師に愛想を尽かされた、嫌われてしまった』などと思うと帰りの道中が思いやられたからだ。なにしろその癖が強い俺だった。図太さがないのか、弱いのか、潔いのか、なんなのか。なんにせよ自分への嫌悪感がまたしても胸中で走り、それを黒い霧のようなものが笑うのだった。山本師は立ち上って合掌一礼したあと(鑑師も返した)俺に「いつでも遊びに来ていいよ」と一言だけを告げて、なにやら俺にとっては意味深な、つかみどころのない笑みを顔に浮かべながら退室して行った。その笑みの意味するところを俺はあとで痛いほど理解することとなる…。
 さてどうだろうか?この弱男のありようは。などと自分で訊くのもふざけた話だが、つい今しがたまで俺にとっては光り輝く存在、山本師の言とその有りように感化されていて、彼の域へいつか、その万分の一でも近づきたいものと本気で奉じていたのだ。実は俺は(拙)詩を旅行中のあちらこちらで書くのだが、その詩にも「弱い」「素直じゃない」「(精進どころか)もっと自分を解放して。自縛を解いて!」などと記しており、蓋しその目指す方向に山本師を見い出す身であったのだ。それがどうだろうか、「いや、そうではない。自律と精進こそが真の方途、みずからを戒め行くが第一」と鑑師から聞けば、またそう云い切れる、ふらつかない師の姿を目の当たりにすれば、簡単に彼此を逆転させてもしまうのだ。尋ねるにどちらが人の目指すべき生き方、またより自然なる方途、その姿だろうか?人間というものへのサマネイ(見習い)でしかない我が身であればこそ、これに迷わないということはない。
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