【完結】斎国華譚 ~亡朝の皇女は帝都の闇に舞う~

多摩ゆら

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航悠編

9、手のひらの記憶


 年が明けた。にぎやかに新春を祝っていた街の喧騒けんそうも一息がつき、帰郷していた仲間たちも帰ってきて蒼月楼はまた普段通りに時を刻み始めた。
 そんなある日の朝、雪華は自室の姿見の前で傷の具合を確かめていた。

「……よし」

 年末に負った怪我は、ここ十日以上に渡り宿で大人しくしていたおかげか、ほとんど治癒したようだ。これなら年明けの任務は問題なくこなせるだろう。
 鏡に映る体には、うっすらとかさぶたが残るのみだ。だいぶ消えかかってきたそれを指でなぞると、唐突にある光景を思い出し雪華はぴたりと手を止めた。

「…………」

 怪我をした夜、そしてその後の消毒のたびに、航悠がこうして肌に触れていた。
 大雑把なくせに、そのときだけは壊れものを扱うかのようにそっと――かすかに。

「っ……」

 指の感触を思い出し、小さく背筋が粟立った。同時にあの夜の航悠の視線を思い出し、心臓がどくりと跳ねる。
 だがそれは一瞬のことで、鏡の中の自分と目を合わせる。

(何を……。今までだって、あいつに手当てしてもらったことはある。何も特別なことじゃない)

 航悠に触れるのも触れられるのも、今まで何度となくあったことだ。それは自然な成り行きで、こんな風にあとから意識したことなどない。
 それなのに、今回はどうしてしまったのか。

 きっとあの状況が、少しの背徳感を感じさせるものだったからだ。だから、妙に心乱された。そう結論付けると雪華は袖に手を通し、服を整える。

 部屋を出る前にもう一度振り返り、鏡の中の自分を見つめる。
 まなじりの赤さを、仏頂面でごまかすような表情。

 ――雌の目をしていると、思った。



「……!」

「んあ? おー、おはようさん。……どうした、目玉が落ちそうだぞ」

 気を引き締めて扉を開いたその瞬間、予想だにしないものが目に飛び込んできて雪華は硬直した。
 目前に現れたのは半裸の男だ。肌から湯気を立てた航悠が、真冬だというのに上着を肩に担ぎのんびりとあくびなどしている。

「いきなりお前がいて驚いただけだ。……朝から湯浴みか? この寒いのに酔狂すいきょうな……」

 今の今まで思考を占めていた男の出現に、不覚にも動揺した。たくましい上半身から視線を逸らして溜息をつくと、ぱたりと床に水滴が落ちる。

「朝帰りだったからよ。ふぁ……ねみぃ」

「お前には新年を迎えて生活を改めようとか、そういう抱負はないのか」

「今さらねぇよそんなもん。十代のガキじゃあるまいし」

 またぽたり、と滴が落ちた。雪華は無言で航悠の手から布を引ったくる。

「抱負はなくとも、そのままでいたら風邪を引くのは確実だな。……馬鹿、髪ぐらいちゃんと拭いてこい」

「! いって……おい、やるならもっと優しく…!」

「うるさい。少しかがめ、手が届かない」

「……はいはい」

 ろくに乾いていないその髪をがしがしと拭きはじめると、航悠は大人しく背を丸めた。少し低くなった裸の肩を見つめると、いくつもの薄い傷跡があるのが見える。それから――

(……? なんだ…?)

 肩甲骨のあたりに、数本の赤い筋が斜めに走っている。……刃物による切り傷ではない。何かに引っ掻かれたような――
 そこまで考えて、おのずとそれが付けられた経緯に思い当たる。ちょうど女の腕が回される辺りに刻まれた――情痕。

「…………」

 生々しい女の痕跡に、思わず眉をひそめた。そんな自分に少しだけ動揺する。
 そんなものに惑うような可愛らしい性格はしていない。だいたい航悠がおんなの匂いやら何やら、情事の痕を残して帰ってくること自体そう珍しいことではない。

 それなのに、なぜ今日は目が留まってしまったのだろう。さすがに上半身だけではあるが、飽きるほど見てきた男の裸が、なぜ今日は今までと違って見えるのだろう。
 自分はどうして――航悠を、これほど意識しているのか。

「……服」

「なに? 着せてくれんのか?」

「誰がだ。……いいからさっさと着ろ。話がある」

「お前、本当に台詞に艶ってもんがないよな……」

 適当に髪をかき上げると、航悠はこれまた適当に上着を羽織った。ようやく真正面から視線を向けることができ、雪華は少しだけほっとする。

「……で? なんだよ」

「怪我……完全に治った。もう手当ても必要ない。迷惑をかけたな」

「別にあれぐらい、なんでもねぇよ。……分かった」

 大した興味もなさそうに軽く告げ、航悠が階下へと下りていく。雪華も平静な顔で、そのあとに続いた。
 なんとなく前方の頭を叩きたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえると二人はいつも通りの一日を始めた。


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