【完結】斎国華譚 ~亡朝の皇女は帝都の闇に舞う~

多摩ゆら

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龍昇編

10、雪華の嫉妬

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 年が明けた。にぎやかに新春を祝っていた街の喧騒も一息がつき、帰郷していた仲間たちも帰ってきて蒼月楼はまた普段通りに時を刻み始めた。
 そんなある日の午後、雪華は松雲から薄紅色の文を差し出された。

「雪華。……いつもの」

「……っ」

 ちろりと浮かべられた笑みに、それが誰から預けられた物なのかを一瞬にして悟ってしまった。
 ……どうしていつも、松雲が仲介しているのだろう。いや、航悠や梅林に渡されて変に勘ぐられるよりはマシなのかもしれないが。

「……ありがとう」

 不覚にも少し熱くなった顔でそれを受け取ると、寡黙な男はすべてを知っているかのように黙って目を伏せた。その渋さが逆に恥ずかしさを煽るとは、本人は思ってもいないだろうが。


「まったく……。こんなことなら、前会ったときに約しておけば良かった」

 自室に戻り、ぼやきながら文を開くとかすかな梅の香りが鼻をかすめた。その料紙に記されたたった一行の言葉が、雪華の目を射抜く。


『会いたい。龍』


「……っ」

 カッと頬に血が上ったのが、自分でもはっきりと分かった。思わず口元を押さえ、視線を逸らす。
 丁寧に書かれた文字が伝える、率直な彼の心。その一言に、これまでにないぐらい狼狽した。

「恥ずかしい奴……」

 あの男は、どんな気分でこれを書いたのか。
 黒々とした墨をなぞると、あの雪の日に見た意外にたくましいその手を思い出す。年の暮れに雪華の頭へと置かれた、その温かい感触も。

 新年の朝賀が一息つき、そろそろ彼も休暇が取れるようになったのだろうか。

(会いたい。龍。……会いたい……)

 文字をなぞり終えると、掴みどころのない衝動が胸に湧き上がった。
 これまで感じたことがないほど、熱く――甘やかな。

「っ……」

 雪華は外套がいとうを掴むと、通りに向かって駆け出した。



「――ああ、春蘭。文をありがとうな」

「雪華様……。いらっしゃいませ。いつものお部屋でお待ちですよ」

 薫風楼に着くと、たまたま下に降りていた春蘭が出迎えてくれた。
 松雲に文を託したのはおそらく彼女だろう。礼を言うと春蘭は微笑むが、いつもとは微妙に様相が異なる。

「……春蘭、どうした? 目が赤いが、泣いてたのか?」

「あ……やだ。さっきお掃除していたら、ほこりが入ってしまったみたいで。……顔を洗ってきますね。失礼いたします」

 ぎくりとしたように頬を押さえ、挨拶もそこそこに春蘭が踵を返す。その珍しい様子に目を瞬きながら、雪華は二階へと上がった。


「……失礼」

 薫風楼の一室。もういい加減馴染みになったその部屋の戸を、雪華は一呼吸置いてから静かに開いた。
 今日は二胡の音はない。それでも彼がこの中にいることを、疑いもしなかった。

「ありがとう、来てくれて。ああ……遅くなったな、明けましておめでとう。……会いたかった」

 椅子に腰かけて雪華を出迎えたのは、低く心地よい声。
 少し疲れた顔で、それでも穏やかに笑った男の顔に、彼の望みが自分の望みでもあったことを雪華は認めずにはいられなかった。

「……朝賀は終わったのか。斎国中から使節が来て、大変だったろう」

「楽だったとは言えないが……この情勢だからな。例年よりは少なかったと思う。今月いっぱいは休みが取れないかと思った」

 少し赤くなったのを誤魔化すようにぶっきらぼうに告げると、龍昇が苦笑しながら答える。相変わらず仕事漬けな皇帝に雪華は溜息をついた。

「どうでもいい奴らの対応は、高官に任せればいい。たまにはサボれ。毎回全力で応対していたら身が持たんぞ」

「そう…かな。でも神妙に聞いているふりをしながら、玉座でうたた寝していることもたまにはあるんだ。これでもそれなりに、手の抜き方が分かってきた」

「あんた、そんなことしてるのか。……はぁ、ちゃんと休めばいいものを」

 椅子に腰を下ろすと、いつものように龍昇が茶を淹れてくれる。それを飲み干すと、静かな沈黙が落ちた。だが気詰まりな感じはしない。
 茶の香りと静寂が満たすその空間は、いつの間にか雪華にとって不快なものではなくなっていた。むしろ、どこか懐かしさすら感じる。

「政務……忙しいんだな。シルキアとの情勢はどうなってる」

「残念ながら……。シルキア側の国境付近で、軍備が整えられつつあるのを確認した。戦になるのは、もう避けられないと思う」

「……そうか」

 風の噂で、斎に残っていたシルキアの使節も全員が帰国したと聞いた。おそらくはあの補佐官…ジェダイトも。
 もう、交渉の余地もないということなのだろう。

「皇帝と言っても、できることは本当に少ない。……情けないことだ」

 龍昇の顔には、苦悩と悔しさが滲んでいた。だが雪華はもう、以前のようにそれを責めようとは思えなかった。

 手を尽くしても、どうにもならない勢いというものはある。それでもこの男はその状況を何とかしようと、文字通り身を粉にして働いてきた。
 政務をしている姿を見なくとも、今の姿を見れば龍昇が全力を尽くしていることはおのずと分かる。それをこれ以上責めることなど、誰ができるだろうか。

「……仕方がない。それが時代の流れなんだろう。それを止めることはきっと誰にもできない。だから、あまり自分を責めるな」

 自然とそう告げると、龍昇は驚いたように雪華を見た。その黒い目を見据え、口を開く。少しでもこの男の背負うものが軽くなればいいと願いながら。

「戦が避けられないのなら、せめてそれが有利かつ早めに終わるよう、次の対策を立てた方がいい。被害を抑えることなら、今からでもきっとできる。……起こってしまった出来事を悔やむことも必要だろうが、今考えるべきは未来のことなんじゃないか。あんたには、それを実現する力があると思うが」

 雪華の言葉に龍昇が目を見開く。真正面から向き合いながら雪華は冷静に問いかけた。

「向こうの軍備の程度は? 勝算はありそうなのか」

「え……ああ。把握している限りでは、国境にいる兵は数も質も斎の方がまさっている。たとえシルキアの兵が倍に膨れ上がっても、西峨さいがを取られることはない」

「その根拠は」

「各州に呼びかけて、内々に州軍を派遣してもらう手筈てはずを整えた。間諜がいても動きが悟られぬよう、二重三重の伝達網を敷いている。万が一港が落ちるようなことがあっても、即時に機能を停止させられるように――」

 真剣な表情でそこまで告げると、龍昇はふと口を閉ざした。見上げる雪華の視線に気付いたようだ。雪華はにっと唇に笑みを刻む。

「……ほら、ちゃんと考えてるじゃないか」

「……?」

「未来のことを。……今できる最大限のことを、あんたはちゃんと実現させてる。それは誇るべき点だ」

「……っ」

 龍昇が驚いたように目を見張る。雪華はその瞳を見つめ返し、穏やかに告げた。

「突出した功績など、別になくてもいいんだ。国を真摯にうれえて、民のために働く。そういう君主をいただいた国は、幸せだと思う。……あんたは民に支持されている。私も…あんたみたいな男が皇帝で、良かったと思う。あんたのような人間になら、信じて命を預けられる」

「雪華……」

 龍昇が、まじまじと雪華を見つめた。その視線の強さに少々いたたまれない気持ちになる。

 自分は人に何かを伝えるのがあまり得意ではない。……少しは何か、伝えられただろうか。
 足りない言葉を補うように雪華もまた龍昇を見つめ返していると、やがて龍昇はくしゃりと笑った。ほっとしたような、溶けるような笑みだった。

「あなたに、励まされるとは思わなかった……」

「励ましたわけじゃない。事実を述べただけだ」

「いいや。少なくとも俺は、励まされたよ。……そうだな。力の無さを悔やむよりも、これからできることを考える方がよほど建設的だ。そんな当たり前のことにも視野が狭くなっていて気付かなかった。……あなたは、すごいな」

「当事者じゃないから、のんきな意見が言えるだけだ。私があんたの立場だったら、悔やむ以前に現実から逃避していただろうよ」

 卑下でも何でもなく、それはおそらく事実だった。もし雪華が龍昇の立場だったら…皇女のままであったら、雪華は彼ほど国を憂いていただろうか。
 答えはおそらく、否だ。……憂う以前の問題だ。雪華はきっと、実情を理解することすらできなかっただろう。恵まれた環境にあるもの特有の、甘えと無知ゆえに。

 胸の中に、苦いものが滲んだ。龍昇には偉そうなことを告げながら、過去を悔やんでいるのは雪華も同じだ。真に民のことを憂いている分、龍昇の方がよほど皇族たる資格がある。

「雪華? どうかしたか」

「いや……なんでもない」

「そうか? それで、相談なんだが……」

 居住まいを正し、龍昇が引き締まった面持ちになる。胸に走った痛みを散らすように、雪華も知らず背筋を伸ばすと続く言葉を待った。

「近く、あなたたちに正式に依頼をさせてもらうかもしれない。……戦の中での密偵の依頼だ。もちろん、あなたが嫌でなければで構わないのだが……」

「ああ……なんだ、そのことか。前にも言っただろう。依頼として望まれたなら、協力するのは構わないって。正規の兵はまた違うところに温存しておけ。私たちは好きに使えばいいさ。少し値は張るが、働きはなかなかのものだぞ」

「危険なことをしてほしいわけじゃないんだ。無理そうだったら、すぐに手を引いてくれ。成果によって額面を変えたりはしない」

「……私たちにも、多少の矜持きょうじというものがある。依頼されたら、全力で取り組ませてもらう。正式に依頼するなら悪いが書面を通してくれ」

 苦しげに付け足した龍昇を、雪華はじっと見返した。
 一度告げた言葉を、たがえるつもりはない。たとえその依頼が仲間に拒まれたとしても、雪華一人でも受ける気持ちでいた。そんな雪華を見て龍昇が視線を下げる。

「……すまない」

「? 何を謝る」

「俺は何につけても、覚悟が足りないな。あなたの方がよほど誇り高くて……潔い」

「はは。一度言ったことを取り下げるのがしょうに合わないだけだ。あれこれ調整するのも面倒だしな」

「……分かった。もう少し議論して、正式に書面を送らせてもらう。その上で検討してくれ」

 小さく頭を下げた龍昇に、鷹揚おうように頷いてみせる。……何か立場が逆転しているような気がするが、まあ良しとする。


「そうだ、忘れてた。今日はあんたに、また茶葉を持ってきたんだ。疲れた顔をしてるから丁度いい」

「……もしかして、この間のやつか」

 要件が済み、そういえばと話題を変えると龍昇はとたんに頬を強張らせた。
 先日の茶葉は、そうとう口に苦かったらしい。珍しく取り繕い忘れたようなその表情に雪華は思わず苦笑する。

「そんな情けない顔をするな。今日は違うものだ。この前もひどい顔をされたからな。効果は少し薄いが、ちゃんと美味いやつにした。いま淹れてやる」

「あ……すまない」

「いい。あれのまずさは私も知っているから」

 さすがにバツが悪かったのか、龍昇が少し顔を赤くする。……意外に子供っぽい。
 雪華は花の香りのする茶を二人分淹れると、卓に戻った。

「ありがとう。……甘味、持ってくれば良かったな」

「いいよ。いつもいつも頼んでたら、料理長が驚く。妙な勘ぐりを入れられるぞ」

「……入れられても、構わない」

「……っ」

 ぽつりと漏らされたその言葉に、目を見開いた。だが聞こえなかったふりをして、強引に話題を転換する。……その先は、聞かない方がきっといい。

「そういえば、侍従長の監視はやんだのか? 前に、衛士に探しに来られていただろう」

「ああ……あれか。実はまだ続いている。さすがに妓楼の中までは踏み込まれないだろうが」

 雪華の提示した話題に、龍昇は顔を曇らせて溜息をついた。
 ……まだ続いていたのか。というか、この男もよく抜け出すものだ。
 先ほどの渋面に引き続き、皇帝らしからぬ表情を浮かべた龍昇に雪華は思わず笑みを漏らす。

「くっ……まだ追われてるのか。あんた、いったい何から逃げてるんだ? そんなに嫌ならさっさと片付けてしまえばいいものを」

「そういう訳にはいかない」

「真面目だな。胃に穴を開ける前に、解決しろよ」

「…………」

 龍昇の顔がますます曇る。彼はふと考え込むように瞳を伏せると、雪華の目を捉え、告げた。

「……戦が始まる前に、妃をめとれと言われている」

「……え……」


 それは、まったく予想外の言葉だった。

 一瞬、呼吸を忘れる。だがその意味を解すると、雪華は龍昇から目を逸らしてうなずいた。

「そう……だな。戦が始まれば、どうしても政情は不安定になる。そうなる前に皇帝が身を固め、さらに世継ぎでも宿れば、民はきっと安心するだろう」

「…………」

「本当は、前から言われていたんだろう? いい機会なんじゃないか。そろそろ頃合いだろ」

 ぎこちない笑みを浮かべ、龍昇を見上げる。
 だが龍昇は一歩距離を詰めると、限りなく静かな表情で雪華の顔を見下ろした。

「っ……」

 眼差しが、胸に刺さる。――痛い。
 心にかげりが生まれ、棘を飲み込んだかのようだ。

「……本当に、そう思うか」

「………当たり前だ。私も斎の民のはしくれだから」

 龍昇の静かで深い眼差しから、顔を逸らす。だが次の瞬間、卓に置いていた手に彼の手を重ねられ、そっと握り込まれた。

「…っ」

「……本当に?」

 龍昇の低い問いかけに、握られた手がびくりと震えた。雪華の手をすっぽりと覆う大きな手が、その話題から逃げることを許さない。

 ――答えられない。押し黙った雪華に、すぐ隣から龍昇がつぶやいた。

「前も、同じような話をしたな。そのときもあなたは、俺に身を固めろと言った。俺はそれに、反発を覚えた。……だが今日は、あなたの方が苛立っているように見える。それは俺の思い上がりか……?」

「…………」

 龍昇の顔が見られない。握られた手から伝わる熱が、雪華の中へと浸透していく。

 苛立っている? 自分が…?
 そうなのだろうか。……そうなのかもしれない。

 龍昇のまとう、かすかな伽羅きゃらの香りが強まったような気がした。それは、距離が縮まったから。
 清々しいはずのその香りが、どこか甘く感じられるのは――自分の心が、変わったからか?

 頭の芯が、ぼうとなる。龍昇と体温を分け合い、呼吸を重ねるような、静かで濃密な空間。
 それは、この男が妻を娶れば……消えてしまうはずのものだ。

「雪華……」

 手の力が強められる。耳のそばに落とされた切なく深い響きに、雪華は逆に自分の立場を思い出した。
 重なる手を見つめていた目をきつく閉じ、低く告げる。

「……思い上がりだ。……放せ」

「だったら、振り払えばいい。あなたには造作もないことだろう」

「……っ。言われなくても……!」

 ぐ、と力を込めて引くと、あっさりと手の拘束は緩んだ。自分の手を引き寄せ、胸に抱く。

「…………」

 二人だけの静かで濃密な空間は、雪華によって壊された。立ち上がると、出入り口へきびすを返す。

「来週も、この日に……ここで、会いたい」

「…………」

 背中に投げかけられた声に、雪華は答えられない。答えたいのに……答えられない。

「……待っている」

 静かなその声が、耳に届いた。それを最後に、廊下へと足を踏み出した。



「あら、雪華」

「藍良……」

「男前の旦那、また来てたのね。妓楼にまで来てお茶飲んでるだけなんて、あんた達も変な関係――」

 一階に降りると、廊下ですれ違った藍良がからからと笑い、ふいに笑みをかき消した。
 その表情の変化に目を瞬くと、親友は美しい目に憂いを浮かべて雪華の袖を引っ張る。

「……あんた、帰る前に顔洗っていきなさい」

「え……、なんで」

「気付いてないのね。……あんた、泣きそうな顔してるわよ。そんな顔で帰ったら、みんな心配する」

 とっさに頬を押さえるも、濡れた感触はない。だが人に指摘されるほど自分の表情がいつもとは違っているということに、雪華は狼狽した。

 あの深い眼差しと手の熱さが体から消えてくれない。無言でうつむいた親友を憐れむように、藍良が小さく溜息をついた。

「まったく……泣くことも、言葉にすることも得意じゃないのね。ほんと、不器用なんだから……」


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