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龍昇編
9、春蘭と松雲-4
しおりを挟む「え――。わたしが、ですか?」
「ああ。年も明けたことだし、お前ももう十七だ。そろそろいいんじゃないかと思ってな。藍良のもとから一人立ちさせようと考えてる」
それは、春蘭にとって青天の霹靂だった。
新年早々、藍良と共に楼主に呼び出されたかと思えば開口一番、そろそろ客を取らせると言われた。その言葉の重みに春蘭は思わず口を押さえる。
「あ――」
「お前はどう思う? 藍良。お前を店に出したのも、たしか同じ年頃だったと思うが」
「そう……ですね。芸事はだいたい仕込み終わりましたし、心許ないところはありますが、それはおいおい身に付けていけば――」
「藍良姐さんっ…!?」
味方をしてくれると信じていた藍良にまで背中を押され、春蘭は信じられない思いで振り返った。うなずく藍良を満足げに見やり、人のいい楼主はにこりと笑う。
「そうか。藍良に太鼓判を押されたなら、心強い。では来月にでも最初の客を当てることにしよう。これからお前の後ろ盾になってくれるような、上客を選んでやるからな。安心してその日を待ちなさい」
そうして春蘭が望んでもいない確かな約束だけを言い置いて楼主が去ると、春蘭は絶望の眼差しで藍良を見上げた。
「藍良姐さん……。どうして?」
「…………」
美しくいつも優しい春蘭の義姉が、笑みもなく押し黙っている。やがて藍良はその静かな瞳を春蘭に向けると、冷静に告げた。
「春蘭。あたしたちがここにいるのは、何のためだと思っているの? 毎日ご飯が食べられるのはどうして?」
「っ……。分かってます……。でも、こんなすぐじゃなくても――」
「すぐじゃないわ。楼主も言ってたけど、あんたはもう『そういう』歳なのよ。それに少し待ったからって、決心がつくものなの?」
「それ、は……」
――覚悟はしていた。それこそ、この妓楼に入ったその日から分かっていたことだった。いつかは始まる日がくると。
けれどそれが現実として目前に迫ってきた今、春蘭の覚悟は激しく揺らいでしまっていた。その原因は自分でも分かりきっている。
そんな春蘭の動揺を痛ましそうに見やり、藍良が静かに続ける。
「あんたに好きな人がいるのは知ってるわ。でも、あたしたちは妓女……ううん、娼妓なのよ。それはもう、どうしようもないことなの」
「……っ。はい……」
「つらいかもしれないけど、割り切った方が楽だわ。まだ少し時間があるから、ゆっくり気持ちを整理なさい」
「はい……。ありがとうございます」
自分を思いやる義姉の言葉に、春蘭は涙ぐみながらも頷くしかなかった。
その日の午後、週に一度決まって訪れる風変わりな得意客からの頼みを受け、春蘭は同じ花街の中にある蒼月楼へと向かった。てくてくと歩む足が、目的の酒楼が近付くにつれて重くなる。
(雪華様のところに、文を届けに行かないと……。でも松雲様、いるのかな。あの話を聞いてからだと、顔を合わせるのがつらいな……)
溜息をつき、とうとう足が止まってしまう。そんな春蘭をいぶかしむように背後から声がかけられた。
「あれ? 春蘭?」
「ひゃっ!?」
「珍しいな。またお使いか?」
聞き慣れた――大好きな声が突然降ってきて、春蘭は飛び上がるほど驚いた。振り返ると、予想通りの人物がきょとんと立っている。
「しょっ、松雲様……! は、はい。あの、雪華様のところに――」
「ああ……」
それだけで、松雲は春蘭が誰から何を預かったか察したようだった。二人にだけ通じる『秘密』に春蘭の心はまた切なくざわめく。
「あ、忘れてた。明けましておめでとう」
「あ……新年のお慶びを申し上げます。あの、松雲様はずっと陽連に?」
「ああ、特に帰るところもないしな。……? 春蘭。なんだか元気がないな。何か嫌なことでもあったか?」
「え――。あ、いえ。そんなことは……」
松雲が春蘭を見つめ、さらりとつぶやく。その洞察力と何気ない言葉に春蘭は胸が熱くなった。
(気付いて下さった……)
「帰るところだし、雪華への文なら持っていってやるよ。また例の奴だろ? 航悠に知られたら眉間に皺ができそうだが」
「あ、はい。では、お言葉に甘えて――」
預かった文を差し出すと、指先が松雲の手に触れた。冷えた指に大きな手からぬくもりが伝わり、春蘭はぼうっと視線を落とす。
「…………」
「春蘭? 本当にどうした。何かあるなら聞くぞ? それにしても、ずいぶん手が冷たいな。お前は小柄だし、冷えないように気を付けた方がいいぞ」
優しい眼差しに心が揺れる。春蘭はゆっくりと手を引くと、そのぬくもりを閉じ込めるように指を握りしめながら口を開いた。
「あの……、松雲様……」
「うん?」
「あ……。い、いいえ……。何でもありません。すみません、では失礼いたしますね。雪華様によろしくお届け下さい」
「あ、ああ……。じゃあ、またな」
声に出しかけて、喉元でそれが詰まった。眉を下げながら春蘭が別れを告げると、松雲は少し戸惑ったように応じる。
そして彼が蒼月楼に向けて歩きはじめると、春蘭は唇を噛みしめてうつむいた。
「……言えるわけ、ないよ……」
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