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航悠編
26、藍良と青竹-5
しおりを挟む(……来ない。昼はマメに来るって約束したくせに、あれから一度も顔を見せないってどういうこと?)
「あの、藍良姐さん。どうかしましたか?」
「あ……。なんでもないわ。特に予定もないし、休んでていいわよ。また夕方に来てちょうだい」
「はい。失礼します」
航悠の帰還から半月が過ぎ、普段通りに静かな昼の妓楼で藍良は一人、イライラと机に向かっていた。
客に宛てる恋文…に見せかけた営業用の文を書き散らすが、ちっとも納得のいくものが書けない。
(何をイライラしてるの。たかが半月来なかっただけで、そんなの当たり前じゃない。このあたしが一人の客に振り回されるなんて――)
「客……なのに。……馬鹿ね……」
別に彼のことが、好きなわけじゃない。最近何かと関わることが多かったから、少しほだされているだけだ。
頭ではそう分析するが、藍良は今、自分の感情を持て余していた。花街の玄人として心と体を完璧に律していたはずの自分が、揺らいでいる自覚がある。
(最初は微笑ましく眺めてたはずなのに――)
――彼に初めて会ったのは、雪華と出会って間もない頃だった。
『雪華、下にお迎えが来てるみたいよ』
『ああ、分かった。じゃあそろそろ行くよ』
そう言って親友を見送りに裏門まで出ると、ひょろりと背の高い若い男が立っていた。
やけに目の細い彼は雪華に向かって頭を下げる。
『ああ副長。わざわざ出てきてもらってすんません。松雲さんが不在でちょっと聞きたいことが――。…………』
『……?』
ばち、と視線が合った。笹の葉のように細い目がわずかに見開かれ、青年の顔が紅潮する。
『あの、そちらの美女はもしかして――』
『……あら、口がお上手なのね。藍良です。お名前はなんておっしゃるの?』
『あ……。葉、青竹っす……』
『葉様……。いいえ、青竹君かしら。雪華のお仲間なのね。今度遊びに来てくれると嬉しいわ』
『……っ。は、い……』
ぎくしゃくと頷いた青竹に、藍良は優しく微笑んだ。彼が自分に落ちる瞬間が見て取れるようだった。
金は持っていなさそうだが、ちょっとしたお得意様になってくれればそれで十分だ。笑顔の下で、藍良は算盤をはじいた。
(ただの細客だと思っていたのにね……)
初めはこちらが手玉に取っていたはずだったのに、いつの間にか心を動かされている。
男なんて、信じた分だけ馬鹿を見る。そう思っていたのに、彼の言葉を信じたいと思っている自分がいる。
溜息をついて気持ちを切り替え、もう一度筆を取ったところで廊下から声が掛けられた。
「藍良姐さん。青竹様がおいでです」
「え――」
慌てて書きかけの文を片付け、髪と衣を整える。それが終わった瞬間に扉がからりと開いた。
「ども。久しぶりっす。相変わらず綺麗っすね」
「褒め言葉をありがとう。……でも、ずいぶん遅かったのね。まめに来るって言ったくせに」
「……え?」
「あ……」
経験の浅い妓女が拗ねているような、恨みがましい言い方をしてしまった。はっと口を押さえると、青竹が少し嬉しげな様子で聞いてくる。
「もしかして……俺のこと、待っててくれたんすか」
「……そうね。お客様は大切にしないと」
「ああ……そっちっすか」
矜持を保って微笑でごまかすと、青竹がしゅんとなる。
演技を真に受けられて、喜ぶべきことであるのに藍良もまた、少し寂しくなった。
「なかなか来られなくて、すんません。実は近々シルキアとの戦が始まるみたいなんすけど、どうもそっちで仕事をすることになりそうで」
「え……そうなの」
「はい。だから今度は下手したら数か月、来られないかもしれないっす。……すんません」
「そう……」
シルキアとの状況がかんばしくないことは、街の雰囲気や他の客の話からなんとなく気付いていた。だから、戦が始まると聞いても驚きはなかった。
冷静な藍良の様子に青竹は少し眉を下げる。
「……行かないで、とは言ってくれないんすね」
「あたしが言ったら、君は聞いてくれるのかしら。何か事情があって、その仕事をしているんでしょう?」
「はぁ、まあ」
「だったら情で引き留めるのはむしろ野暮だわ。お互い離れるのが苦しくなるだけじゃない。……あたしなら笑って『無事に帰ってきて、またあたしに会いに来て下さいね』って言うわ。最後に見る顔は、笑顔の方がいいでしょう?」
「……同感っす」
藍良の微笑みに青竹も微笑でうなずく。
泣いて引き留めるような可愛い心は、もうどこかに置いてきてしまった。涙の下で計算するぐらいのしたたかさがなければ、この世界はやっていけない。
……本当は、行ってなどほしくない。だがそれを押し殺し、藍良は軽口で彼を送り出す。
「……藍良さん。一つ聞いてもいいっすか。藍良さんは、どうして花街に?」
「え……」
唐突に青竹が告げた質問に、思わずぽかんとしてしまった。ややしてその意味を理解すると、藍良はたまらず苦笑する。
「妓女に過去を聞くなんて、野暮なことするのね」
「……う。そうっすよね。すんません、今のは忘れて下さい」
「ふぅ、まあいいわ。別に特別なことは何もないんだけどね」
特に隠すことでもないし、彼になら話してもいいかという気になった。以前他の客に聞かれたときは、同情を買うのもまっぴらごめんだったし適当にはぐらかしたのだが。
二人分の茶を淹れなおし、藍良はゆっくりと口を開いた。
「あたしは南斗の貧しい村の生まれなんだけどね。生まれたときから家はかつかつ、いつ売り払われてもおかしくないぐらい家計は火の車だったわ」
「南の出身だったんすか。……意外っす」
「そう? ……でもうちの親はなんとか辛抱してたみたいで、小さい頃に売られることもなく、あたしはそれなりにちゃんと育てられたわ」
両親と故郷を懐かしんで目を細めた藍良は、ふと手元に視線を落とした。
「でも両親は……ううん、村の人たちもみんな、字が読めなくてね。そのせいで領主にいいようにこき使われて、生活はちっとも楽にならなかった。このままこの村にいたら、自分にも同じ未来が待っているんだって思うと……子供心に嫌だったわ。でも年頃になったあたりで、一人の男に出会ったの」
「男…?」
「地方貴族のお大尽の息子が、たまたま村に足を運んだのよ。田舎くさい村の男とは違って、着るものも洗練されてて、村の女の子たちはみんな夢中になった。……あたしも幼かったのね。すっかり骨抜きにされて……体以外は、全部彼に捧げたわ」
「…………」
「で、その彼が地元に戻ることになって……あたしの前に、一枚の紙を差し出したの。『結婚の証文だよ。これに名前を書いて』…って。あたしも当時は字が読めなかったの。でも彼の言葉を信じて……すごく嬉しかった。歳は少し離れてるけど、この人があたしを村から連れ出してくれるんだって、幸せだった」
その当時の胸の高鳴りを思い出し、藍良は苦笑を浮かべる。青竹を見上げると、彼女は困ったように微笑んだ。
「でも、もうオチは分かると思うけど……連れてこられたのは綺麗なお屋敷じゃなくて、帝都の妓楼だったわ。あたしが下手くそな字で名前を書いたのは、結婚の証文なんかじゃなくて、自分を売り飛ばすための借用書だったのよ。あたし、男にだまされて売られちゃったのよね」
「っ……」
「ね? 普通でしょ? 陽連一の妓女だろうと、そこに至るまでの経緯は案外間抜けなものよ」
「……藍良さん」
軽い口調で締めくくったが、青竹は陰鬱な顔で黙り込んでしまった。だから藍良は明るい口調で続ける。
「でも、楼主は失意のあたしを見て褒めてくれたわ。お前は南の生まれにしてはびっくりするぐらい色が白くて美人だって。花街一の妓女になれる素質があるって。……だからあたし、考え直したの。あんな下らない男のことなんて忘れて、この街で咲き誇ってやろうって。あたしの人生だもの。せっかく美人に生まれたのなら、できれば一花咲かせたいじゃない」
青竹の顔が上がる。その目を見つめ、藍良はにこりと笑った。
「それであたし、頑張ったわ。そうしたら、何年後かに噂を聞き付けたのかその昔の男が訪ねてきてね」
「え。……それで、どうしたんですか」
「それがもう、昔の印象とは全然違って野暮な男で。みっともない田舎貴族が来たもんだと呆れちゃったわ。そいつも売ったのが惜しくなったのか、『今夜どうだ?』なんて聞いてきたけど、もちろん袖にしてやったわ。あんな男があたしを抱こうだなんて笑っちゃう」
「藍良さん……」
青竹の顔に、ようやくホッとしたような笑みが戻る。藍良は指を組むと、ゆったりした微笑を彼に送った。
「今の話を信じるか信じないかは、君に任せるわ。まぁ、嘘かもしれないけどね。妓女の言葉なんて、優しさで固めた嘘ばっかりだから」
今話したことはすべて事実だが、それを青竹が信じるとは思っていなかった。悲劇の主人公じみた、お涙頂戴の過去と言われればそうだろう。
だが青竹は藍良の目を見据え、首を横に振った。
「いえ、信じます。……藍良さんがこういうことで嘘をつくとは思えませんから」
「あら、信頼されてるのね。……でもあたしは、男の人の言葉は簡単には信じないわ。痛い目を見てるから」
「……そうっすね。できれば俺の言葉ぐらいは、信じてほしいと思いますけど」
青竹の苦い笑いに、藍良は肩をすくめて応えた。真実を話した引き換えに、藍良も青竹に問いかける。
「なら次は君の番よね。青竹君は、どうして航さんのところに?」
「え――。いや、俺は……」
「あら。あたしに話させて自分は話さないつもり? ……大丈夫よ、ここで話したことはお役人にも口外しないから」
「はぁ。まあ藍良さんに比べるとショボすぎて話す気もしないと思いますけど……。ちょっと借金をこさえて故郷を追われちまって」
「借金?」
「はい。……俺、もともとはでっかい店で帳面を預かっていたんすけど、そこの店主がどうも商才がなくて。だから俺が横から経営に口出ししてたんすよ」
「あら、すごいじゃない」
「はぁ。でもそれで利益が上がって、調子に乗った店主が勝手に店を広げすぎて、今度は大赤字になっちまったんです。で、その責任を『お前のせいだ』ってなすりつけられて。なんかいつの間にか、金を借りた証文の保証人に名前が載ってて。こりゃ命がやべーと思って、夜逃げしてきたんすよね」
淡々と語られたその『過去』に、藍良は目を瞬いた。しばらくして、美しい眉を渋くひそめる。
「……それって、青竹君は何も悪くないんじゃない?」
「そっすね。だからあんま人を信用しすぎるのと、でかい金を狙っていくのは怖いなって学びました。人間、やっぱ地道に生きるのが一番っすね。……んで陽連で行き倒れてたところを頭領と副長に拾われて、あの二人は金回りのこと、わりと無頓着だったんでそのあたりを中心に手伝うようになりました」
「そうなの……。大変だったのね」
「いえいえ。まぁ今はそれなりに楽しくやってますし」
「それにしても、一時とはいえ利益が上がったって……具体的にはどのぐらいになったの?」
「はぁ。そんな大した額じゃないっすけど――」
少し興味が湧いて問いかけると、青竹はけろりとした顔でとんでもない額を言ってきた。
……軽く、豪邸を何軒も買い占められるぐらいの値段だ。藍良は口を押さえて感嘆の息を漏らす。
「商才があるのね……」
「どうなんすかね。でも利益を追求するのはもうこりごりっす」
若いくせに、年寄りみたいなことを言う。けれどその達観はむしろ清々しいものだった。
そうこうしているうちに、廊下から春蘭の声がかけられる。
『――藍良姐さん、夜のお支度に上がりました』
「あ……もう夕方っすか。それじゃあ俺、そろそろ」
「……青竹君。陽連を離れる前に、もう一度ぐらい顔を出してね。……今度は、夜に来て」
立ち上がった青竹に、藍良は背後から声をかけた。驚いたように青竹が振り返る。その顔に、思慕を込めてもう一度告げた。
「……これは、営業じゃないわ。あたしを愛しいと思うなら――夜に来て」
「っ……。……失礼します」
頬を紅潮させた青竹が去ると、まもなく春蘭が現れた。妹分は申し訳なさそうに肩をすくめる。
「すみません、お邪魔してしまって」
「ううん、いいのよ。……さてじゃあ準備しないとね」
「……藍良姐さん、機嫌が良くなりましたね。さっきイライラしてたのが嘘みたい。青竹様のおかげですね」
ニコニコとそんなことを言われ、頬が熱くなる。藍良は手を振ると敏い妹分から顔を逸らした。
「お黙り。生意気なこと言うんじゃないの」
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