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航悠編
32、藍良と青竹-6
しおりを挟む(……来る。来ない。来る……来ない。これで来なかったら、今日他の客を止めたのも全部無駄になるわね……。もったいない)
雪華が帰ったあと、藍良は自室に生けられた花を一人ぼんやりと眺めていた。
階下からは、今宵も盛況な宴の声がかすかに聞こえてくる。
来ぬ待ち人を想って溜息をつくと、廊下から控えめに声がかけられた。
「藍良姐さん。……青竹様が、お見えです」
(……! 来た!)
「……ども。今日は店、出てなかったんすね」
「待ちたい人がいるからって、やめさせてもらったの。……でも、本当に来るとは思ってなかったわ」
――待ち人は、来た。
いつものように音もなく滑り込んだ青竹は、藍良の苦笑にバツが悪そうに頭を掻いた。
「すんません。綺麗事言っても、俺もやっぱ男なんで……誘われたら、無視はできませんでした。今夜はそのつもりで来ました」
「……うん。それでいいの……。気持ちや言葉は嬉しいけど、やっぱり確かな熱が欲しいときもあるわ。これからしばらく会えないなら、なおさら」
雪華の話から、彼らが戦に向かうことは分かっていた。
考えたくはないが、万が一……ということもある。その前に、どうしても青竹にもう一度会いたかった。
足を運んでくれた青竹に、藍良はゆっくりと歩み寄り、隠していた心情を少しずつ晒していく。
「あたしは妓女だから、疑り深いの。言葉と、熱が揃っても……まだ完全には信じきれないわ。……ううん、信じるのを恐れてる」
「……藍良さん」
本当は、怖い。自分の気持ちを認めるのが。
またあの時のように、裏切られるのではないかと恐れている。
けれど今夜言わなければ――彼はしばらく、遠いところに行ってしまう。万が一があれば、永遠に。
それを伝えず別れてしまうのは嫌だった。
さらに一歩、青竹に近付く。
素人の娘のように胸を押さえると、藍良は作っていない切実な顔で青竹を見上げた。
「でも、本当は……信じたいの。君の気持ちが、嘘じゃないって」
「嘘じゃないです。あなたを愛してます。それを、俺の全てをかけて証明します」
きっぱりと言い切った青竹があと一歩の距離を一気に詰め、藍良の手を取った。首の後ろに手を回されて、自然と顔を傾ける。
薄い唇がゆっくりと藍良のそれに触れ、藍良はその背中をかき抱いた。
「……っ。……ん……」
「……藍良さん」
「青竹く――、あ…葉様…? ……青竹…?」
……困った。なんと呼べばいいだろう。
葉様は以前に拒否されたし、今さら呼び捨てというのもなんだか逆に恥ずかしい。
抱き合ったまま数秒押し黙ると、青竹は小さく笑ってますます藍良を抱きしめた。
「いいっす、青竹君で。普通は様付けするとこを君付けだなんて、くだけた感じでなんか可愛いじゃないっすか。……俺、実は結構気に入ってるんす」
「そう……。じゃあ、青竹君――。……ん……っ。……来て――」
整えられた褥にいざなうと、青竹は抗わず、藍良の手管のなすがままになった。
妓遊びが初めてというわけでもないが、慣れているというほどでもない。
名を呼び、呼ばれ――形式上は仕事の一環であることを忘れ、藍良は彼を慈しみ、昂らせた。
青竹の上にまたがり、豊満な乳房を見せつけながらゆっくりと腰をくねらせる。しどけなく崩した鮮やかな着物と、下ろした長い髪が美しい模様を描く。
「んっ……。そう…、いいわ……。ゆっくり、深く……ねぇ、感じて。あたしの中、気持ちいい…?」
「はい……。……っ、藍良さん…っ」
「あ……。駄目、駄目よ。もっと長く……感じて。あたしのことを見て。あたしを焼き付けて。あたしにも、青竹君を感じさせて――」
「……はい。……っ、最高に苦しくて……最高に幸せっす。ああ、すげー綺麗だ。やっぱ誰にも見せたくねえ」
「ん……。嬉しいこと、言ってくれるのね……」
彼もしっかりと男だったようで、情動に任せて貪ってこようとするのを藍良はそっと制した。
繋がったままじっと互いの肌の熱さを味わっていると、青竹がふと藍良の手を握る。そして細い目を、ゆっくりと開いた。
「藍良さん、お願いがあります。嘘でもいいんで……『愛してる』って、言ってくれませんか。あなたの口から、聞かせてほしい」
「え――」
唐突なおねだりに、藍良はきょとんと目を見開いた。
甘い時間を盛り上げる一興かと思いきや、見下ろした青竹はこの上なく真剣な顔をしている。
「こないだは軽く言いましたけど……やっぱ戦に関わる以上、生きて戻れるかは分かりません。そうでなくても、俺は西峨の出身なのでどっかで捕まるかもしれないし――。客に使う嘘でも、冗談めかしてでもいいです。藍良さんにそう言ってもらえたら、俺は無事に帰ってこられる気がするんです」
「…………」
藍良は目を瞬いて青竹を見下ろした。……そういう言葉の催促は、今までにもないことではなかった。
それは自分に入れ上げた客が情事の彩りにせがんだり、何か重要な覚悟を決めた客が『最後の思い出に』とねだったり様々だったが、藍良はそれに毎回応えてきた。
睦言なんて、妓楼では当たり前に放たれる紙屑みたいなものだ。
妓女も客も、本気で信じたりしない。信じたら馬鹿を見る。
それでも何かの思い出になるなら、また自分のところに通ってくれるならと、藍良は慈しみを込めて客が望む言葉を口にしてきた。
だから今回も笑顔でそれを言ってあげようと、紅の剥げた唇を開く。だが――
「……あ……。…………」
「……?」
声に出そうとして、それが喉の奥で詰まった。口内を湿らせると、藍良はもう一度口を開く。
「あい、し――。…………」
「……藍良さん? ……っ」
二度目のそれは、唇が震えて言葉にならなかった。指で口を覆うと、下から見上げた青竹が細い目を見開く。
――言えない。当たり前のように言えていた言葉が……彼の前では、言えない。
想いを込めた言葉は簡単に口にできるものではないのだと、生まれて初めて藍良は知る。
震える指を青竹に包まれて、やっと喉が動いた。
「愛して、る……。愛してる……っ。嘘じゃない……嘘じゃないの――」
「……藍良さん」
「妓女の言葉なんて…綺麗な嘘ばかりで、本当のことなんてほんの少しだけど……っ。でも、嘘じゃないの。信じて――」
「…………」
「無事に帰ってきて……。お願い――!」
ぱたりと青竹の頬に雫が落ちて、自分が泣いているのだと分かった。
……自分で制御できない涙なんて、何年ぶりだろう。素人娘のようにポロポロと涙を流す藍良の背を、青竹が優しくなだめる。
藍良の手を握ると、青竹は力強く頷いた。
「はい。必ず帰ります。帰って、あなたを……もう一度抱きしめます」
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