【完結】斎国華譚 ~亡朝の皇女は帝都の闇に舞う~

多摩ゆら

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ジェダイト編

終、千夜一夜

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 斎の隣国、シルキアは国土の大半を大砂漠が占め、灼熱の太陽が地平を照らす砂の国である。
 年間を通じてその苛酷な気候が大きく変わることはないが、この国にも一応は四季というものがある。一年の大半を占める長い夏が過ぎ、シルキア王都・ウィシュガルを流れる風にも、わずかに秋の気配が感じられるようになってきた。

 王都の中心にある宮殿の執務室で、ジェダイトは書類の見すぎで固くなった眉間をゆっくりとほぐした。

「失礼します。……お疲れのようですね」

「ああ……だが、今日の執務はこれで終わりだ。午前の謁見が長引いた分、早く屋敷に戻ってゆっくりするとしよう」

 影のように近付いてきた従者が、コーヒーカップを執務机に置いた。そこから立ち上る芳醇な香りにジェダイトが碧の目を細めると、侍従は主の休息の時間を邪魔しないように静かに切り出す。

「あの……ジェダイト様。あ、いえ、宰相閣下」

「二人の時は、わざわざ言い直さなくていい。それより、だいぶ声が出しやすくなったな。アーシム」

「はい。今では歌まで歌えるようになり――。子守りで声を出す機会が増えたのが、良いきっかけとなったのでしょう」

「そうか。……長年苦労をして、やっと手に入れた自由だ。家族ともども、大切にしろ」

「はい」

 長い間付き従ってきた従者――今は自由身分となり、ファルシャードと姓を与えたアーシムがうなずく。その顔や喉にはいまだ傷痕が残ってはいたが、そこから発せられる声は以前とは比べ物にならないほど強く明瞭になっていた。
 何より、目の輝きと表情が違う。妻子を得てなおジェダイトに忠誠を誓った彼は、そこで思い出したかのように顔を上げた。

「申し遅れました。あの……謁見希望の申し入れがありました。時間外ですが、是非にと――。今からご案内いたします」

「……?」

 珍しく有無を言わせぬ態度のアーシムに先導され、回廊を歩く。宮殿内の穏やかな光景に、ジェダイトは流れた歳月の長さを思った。



 あの斎との戦の終結から、すでに五年の月日が流れていた。

 戦が終わって、まずはじめに取り組んだのは奴隷解放運動の推進だった。戦の終結に湧く奴隷たちの声を追い風に、多少強引な手段を用いながらもそれを推し進め、ようやく奴隷制を撤廃したのが戦から二年後のことだった。

 その翌年には、女性をこの国に縛り付けていた女人鎖国制度を廃止した。これにより異国を知る女性が増えたことで意識の変革が起き、少しずつではあるが政治の場に関わる女性も出てきた。
 そして昨年、外務大臣から宰相へと昇格し、ジェダイトは名実ともにこの国の官の頂点に立ったのだった。

 この五年、言葉通り西へ東へと奔走してきた。寝る時間も惜しんで仕事に没頭してきた。
 奴隷身分出身という出自はもはやネックにはならず、ジェダイトの周りには協力者があふれた。それが本心からの賛同なのか、それとも策略としてただすり寄ってきたのかは当初はまだ問わなかった。
 とにかく、使えるものはなんでも使って改革を推し進めてきた。今ようやく少し落ち着いて、それを取捨選択しているところだ。

 ジェダイトの人柄に惹かれて、もしくは地位と将来性に惹かれて、はたまた娘が勝手に惚れて、我が子をぜひ妻にと申し出てくる者も多数あった。
 だがジェダイトは、それらすべてを丁重に断ってきた。それが政治的に非常に優れた相手であっても。

 今はまだその時ではないと思ったのもあるが、彼の心の中には消えることのない『導き星』があった。その輝きを、他の女で紛らわすことはどう足掻いてもできそうにはなかった。



 噴水の涼やかな音が聞こえる中庭を抜け、いつもの謁見の間ではなくテラスにたどり着くとアーシムはそっとその場を離れた。
 テラスの中央では、すでに謁見者が平伏して待っていた。海のような青色のヴェールをかぶった女だ。

 女性が単独で謁見に来るのはかなり珍しい。シルキア人にしてはずいぶんと肌が白く、服装から見るに未婚のその女性にジェダイトは柔らかく語りかける。

「お顔を上げて下さい。そのように畏まる必要はありません。先ほどの護衛も下がらせましたから……安心して、お話しして下さって結構ですよ」

「……ふ。なるほど。そういう甘い言葉で、女心を掴むというわけだ」

「……?」

 ヴェールの下からこぼれたのは、流れるようなシルキア語。だが不遜とも言えるその口調に引っ掛かりを覚える。
 長い黒髪が風に揺れ、女がゆっくりと顔を上げる。その赤い唇が弧を描き――

「……久しいな、ジェダ」

 この五年間心に描き続けた、幻のようだった女が目の前で立ち上がった。



「雪華殿……なぜ――」

 少し陽に焼けた、それでもシルキア人と比べると抜けるように白い肌の女にジェダイトは呆然と声をかける。雪華は金糸に縁どられたカフタン姿のジェダイトを眺め、目を細めた。

「なぜ、と来たか。約束は、あんたにだけ課したのではなかっただろう? ようやく外国人女性の入国が許可されたんでな。……これを返しに来た」

 コバルトブルーのドレスをまとった雪華が、耳を指差す。そこに揺れているのは、もはや懐かしい金のピアス。……母の形見だ。

「この短期間で、なかなか無茶をしたようだな。奴隷解放に、女人鎖国制の撤廃か。……その次は、この鬱陶しいヴェールでも廃止してくれると助かる」

 頭にかぶっていたヴェールを取ると、ドレスがよく見えた。首まで覆う高い襟と長い裾、ベルベットの光沢、細かな刺繍。その色は――ジェダイトが切望した海の青。……覚えていてくれたのか。

「まさか宰相にまで上り詰めるとは思わなかったが……本当に、誓いを果たしたんだな。まあ、迎えには来てくれなかったようだが」

「それは――、その」

 見とれていたジェダイトを呼び戻すように、雪華が続ける。最後の拗ねたような口調にジェダイトは慌てて口ごもった。

「良い。私も、あのあと陽連にはいなかったからな。こちらから訪ねなければ、会うのは無理だろうと思っていた。……なぜ会いに来たとでも言いたげな顔だな。私が、気休めを言ったと思ったか?」

「いや……。だが、もう五年も音信不通で……あなたにとっては、思い出したくもない記憶なんじゃないかと思っていた」

 ジェダイトがその姿を想わぬ日は一日たりとてなかったが、便りを出すのははばかられた。
 こちらが想っていても、雪華がどう思っているかは分からない。手ひどい仕打ちを受けた後、ひとときほだされて肌を重ねたが、冷静になってみればやはり憎悪しか残らなかった――という事態も大いにありえた。
 だから会いに行くことはできなかったし、まして再会できるなど夢にも思わなかった。暗い瞳になったジェダイトを雪華は鼻で笑う。

「……ふん、一理はあるな。なにせ出会いは良かったが、その後が最悪だったから。強姦魔だわ、腹黒いわ――」

「っ……」

「でも……何年経っても忘れることができなくて、ようやく気付いた。私はどうやら――あんたを愛しているらしい」

「……!」

 目を見開いたジェダイトに、雪華ははにかむような笑みを向けた。視線が結ばれ、曇りのない眼差しで見つめられる。

「本当に、自虐癖があるとしか思えない。なんだってあんたなのか。何度もそう思ったが――思えば思うほど、自覚せざるを得なかった。まったく……子供よりよほど厄介なものを、私の中に残してくれたな」

「雪華殿……」

「戦が終わって、すぐに会いたかったのは事実だ。けれどシルキア入国の壁はやはり厚くてな。それに、確認したかった。あんたが本当に、私に言ったことを実現してくれるのか。何年かかってでも、その努力の成果が見られたなら会いに行こうと思っていた。……思ったより早かった」

「…………」

 胸が熱くなる。それは今までに感じたことのない感情だった。長い時間と距離を経て、手を伸ばし続けた導き星がジェダイトのところに降りてきた。
 雪華の手を取ると、あの日以来初めて感じる人の温かさに胸が詰まる。その右手には金の指輪が光っていた。

「この指輪――あの祭りの時のものか。今度は……左に、俺から――。ピアスも、もう返さなくて構わない。あなたが引き続き持っていてくれ。俺の感謝と、忠誠と……愛の証に」

 ジェダイトが手を引くと、雪華は吸い込まれるようにその胸に収まった。幻から現実へと姿を変えた女を抱きしめ、ジェダイトは万感の想いで告げた。

「あなたに再びまみえる日を、千夜一夜待ち続けた。……私の女王よ。改めてこの命を捧げましょう」

「だから勝手に死なれては困ると言うのに」


 雪華が笑う。ジェダイトが笑う。斎から遠く離れた、この灼熱の砂の国で。
 乾いた風に混じるは乳香の匂い、水タバコの香り、ウードをつま弾く音。そして――砂の音。

 香りと音にあふれる異国で、男と女は再び出逢った。







アウローラ大陸歴922年

我が国シルキアは港の利を巡り、斎へと戦を仕掛けました。
けれど当時の外交補佐官を中心とした奴隷制に否定的な役人や軍人たちの働きにより、その戦いは早いうちに斎の勝利によって終わりを迎えました。

それから二年後の924年、シルキア王府は奴隷制の撤廃を宣言し、翌925年には女人鎖国制度が廃止されました。
これらの改革を推し進めたのがのちの大宰相、ジェダイト・アル=マリクです。

一説には斎の平民を妻にめとったとも伝えられますが、今となっては定かではありません。
しかしながらその多大なる功績は確かなものであり、彼の名は後世に渡って、シルキア国民の間で広く語り継がれることとなったのです。


「シルキア今昔語り」より





 -完-


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