虐げられた王女は、人魚の執愛に溺れる

柴田

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3.バスタブ暮らしの人魚

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 ――これは、ハクじゃない。

 一体どういうことかわからず、頭の中はパニック状態だ。
 ハクが死んで魚の姿になったのだろうか。
 そんなありえないことを考えながら、そっと箱の中に戻す。水はすべて流れ出てしまった。

「こんなことに時間を浪費させないでちょうだい。それで、『人魚の涙』はどこにあるの?」

 エルマーレ王国に赴いたときは、いつも『人魚の涙』を仕入れてくるように言われていた。アナスタシアは呆然としたまま荷馬車のほうを指す。
 ユージェニーとミレイユが去ったあと、モーリスがアナスタシアの肩にそっと手を乗せた。

「お姉様、大丈夫?」
「……大丈夫」
「……助けてあげられなくてごめんね」
「ううん……」

 アナスタシアは箱を抱き締め、足早に離れへ向かった。
 フロレンティーナが急いで追いついてくる。彼女もまた、顔色を真っ青にしていた。
 離れの自室に入り、フロレンティーナとともに箱の中を覗き込む。どうか先ほどの光景は幻だったと言ってほしい。

「キュウ~」
「!?」

  箱の中で、ハクが両腕と尾を伸ばしてうーんと伸びをする。じっと見られていることに気づくと、にぱっと笑った。

「ハ、ハク……っ無事だったのね? やっぱりさっきのは幻だったのよ」
「あぁよかったです! わたくし、わたくしっ、てっきり魚になって死んでしまったのかと……っ」

 涙ぐんだフロレンティーナに、アナスタシアはうんうんと激しく頷き返す。
 ハクはそんなふたりを交互に見たあと、ポンッと姿を変えた。先ほど見た青い魚が、箱の中でびくともせずに横たわっている。
 アナスタシアは愕然と口を開け、フロレンティーナは叫び声を上げた。
 それからまたすぐにポンッといつもの姿に戻る。

「……アナスタシア殿下……わたくしは夢を見ているんでしょうか」
「ハクあなた、魔法が使えるの?」

 ピンときたアナスタシアがそう尋ねると、ハクは得意げにした。

「ではまさか、咄嗟に死んだ魚のふりをしたということですか?」

 ハクは「正解!」とでも言うように、ポンポンポンポンッと流れるように魔法を使った。魚、小石、貝殻、そして最後に元の姿へ戻って見せる。自在に魔法が扱えるようだ。

 てっきりハクを死なせてしまったのではないかと思っていた。
 ほっとした途端、足から力が抜けてしまう。

「アナスタシア殿下っ」

 フロレンティーナに支えてもらい、ソファに誘導された。
 様子を窺うように、ハクが尾を使ってぴょんぴょん跳ねている。アナスタシアはそれを両手ですくい上げ、涙を滲ませて頬をすり寄せた。

「それでもごめんね。わたしが箱を落としてしまったとき、びっくりしたでしょう?」
「キュウッキュウッ」

 ハクはアナスタシアの頬に両手と顔をぴたっとつけ、すりすりと身体全体を使って撫でてくる。おまけに慰めるかのように歌を歌ってくれた。
 今の今まで泣きたい気分だったのに、その歌を聞いていると悲しさや悔しさがみるみるうちに薄れていく。頬がくすぐったくて、くふくふと笑い声が喉をついて出た。

 アナスタシアは知らず知らずのうちに自分が笑っていることに気づいてハッとする。
 リント王国にいる間はほとんど感情が動かなくなってしまったのに、嘘のように笑っている自分がいることに自身がいちばん戸惑っていた。
 悪くない気分だ。むしろとてもいい気分かもしれない。
 ハクがユージェニーとミレイユを欺いたのだ。

 笑うアナスタシアを見て、フロレンティーナが慈しむように目尻を下げる。

「ハクをとられなくってよかった。すごく機転が利くのね」
「キュウ!」
「人魚はみんな魔法が使えるの? それともハクが特別?」

 返事をするように鳴き声を上げてくれるが、答えはよくわからなかった。

 魔法を使える存在はとても稀少だ。
 素質がある人間は魔導王国というところに集められることになっている。そこでは魔法についての研究や、生活を豊かにする魔道具の開発などがなされているそうだ。
 しかし魔導王国が建国してからまだ日は浅く、一般に普及するまでには至っていない。

 要請があれば、魔導王国から魔法師が派遣されることもある。
 帝国のような大きな国にはお抱えの魔法師がいるという噂だ。しかしそれには莫大な費用がかかるため、リント王国やエルマーレ王国のような小国には縁遠い。
 話には聞いたことがあったものの、実際に魔法を目にするのは初めてだった。

 宝物入れにハクを戻し、部屋を見渡せるように持ち上げる。

「ハク、今日からわたしとここで暮らすのよ。早くひれが治るといいわね」

 この離宮は、かつて王太子が成人した際に暮らすために建てられた。老朽化により別で新しく離宮が建設されたため、不要になった場所だ。
 広さはまずまずだけれど、とにかく古い。外壁にはひびが入っている箇所が数えきれないほどあるし、すきま風がひどく冬は身体にこたえる寒さだ。

 母が亡くなると城を追いやられ、以来ずっとここで暮らしている。
 使用人は侍女のフロレンティーナただひとりだ。
 彼女はアナスタシアの境遇に同情し、幼い頃から仕えてくれている。不遇な扱いを受ける王女の侍女など何の利点もないのに、親身になって世話を焼いてくれた。
 年が十五個離れており、姉であり母のような存在だ。

 フロレンティーナが一生懸命掃除をしてくれているものの、古めかしさは如何ともしがたい。
 家具もアンティークとこじゃれた言い方をするよりは、使い古しと言ったほうがしっくりくる。

「快適とは言えないかもしれないけれど、なるべくあなたが過ごしやすいように配慮するわ」

 こんな環境でも、アナスタシアにとって離宮は城よりも過ごしやすい場所だった。
 それにユージェニーやミレイユは「汚い」と言って近寄りたがらないため都合がいい。

 そういった事情もあり、離宮にはアナスタシアとフロレンティーナ以外の人間が立ち入ることはほとんどない。故にハクの存在が明るみになる心配も不要だ。
 通いのコックが一人いるにはいるが、滅多なことではアナスタシアの私室になど訪れない。

 ――ハクも気に入ってくれればいいけれど。

 宝物入れのふちに手をかけ、ハクが部屋を見渡している。
 ハクの行動は、まるでこちらの言葉を理解しているように思えてならない。犬や猫と同様に、なんとなくのニュアンスは伝わっているのだろう。

「そうだ、フロレンティーナ。水を入れられるボウルか、鉢のようなものはないかしら。ずっとこの箱ではさすがに狭くてかわいそうだわ」
「そうですね。探してまいります」

 しばらくしてフロレンティーナが持ってきたのは、ほうろうでできた洗面ボウルだった。アナスタシアが毎朝顔を洗うときに使っているものの予備だ。まだひれが治っていないため泳ぎまわるということもないだろう。大きさはじゅうぶんなはずだ。
 水を張り、ハクを移してみる。宝物入れよりはいくらか居心地がよさそうだ。
 もし手狭になったら、また別の容器を探せばいい。


   ◇◇◇


 はじめの一年は目立った問題がなかった。

 しかし裂けた尾びれが治っても、ハクは海に帰ろうとしない。
 それは、翌年エルマーレ王国を訪れる際にこっそりハクも連れていったときのことだ。
 ハクと出会った海岸に行き海に戻そうとしても、アナスタシアの手から離れようとしなかった。必死に手やひれを動かしてしがみつく姿を見て、突き放すことなどできない。

 まだ稚魚だから仕方がない。親とはぐれてしまうと、ひとりで生きていくのは難しいのだろう。それなら成魚になるのを待つべきだ。
 そう自分に言い訳して、結局再びリント王国まで連れ帰ってしまった。

 また一年後、二年後と同じことを繰り返す羽目になったのはもはや言うまでもない。
 何度試しても結果は同じだった。

 どうもハクは海に帰るのが嫌というよりも、アナスタシアといっしょにいたいようなのだ。
 そのことに気づいてからは、海に帰すのを一旦諦めることにした。無理に帰したってきっといいことはない。適切な時期がいつか訪れるはずだ。アナスタシアを親のように思っているなら、親離れをするときが必ずくる。


 そうしていつの間にか七年が経っていた。

 ニワトリの卵サイズだったハクは、すくすくと健やかに育った。想定の十倍以上大きくなってしまい、止まらない成長に恐怖を覚えたほどだ。

 共に過ごして三年目を過ぎる頃に、洗面ボウルを卒業した。次は玄関ホールに飾るような大きな花瓶に移り、それも手狭になるとついにはバスタブを住処とするまでに至った。
 猫足のバスタブなので大きくないとはいえ、尾びれはおろか尾自体が大半はみ出している。上半身もほとんどが水に浸かっていない。ひれの先まで伸ばしたら全長三メートルはありそうだ。

 出会った頃はオスかメスかも判別できなかったが、今ならオスだと断言できた。広い肩幅や、柔らかさのないたくましい上半身は紛れもなくオスだと証明している。

 しかし身体は明らかにオスだったが、顔だけ見ると判断に迷ったかもしれない。
 それは決して女々しいという意味ではく、この世のものとは思えないほど繊細に整った造形をしているからだ。
 真っ白だった髪は毛先だけが瞳と同じ鮮やかな濃いブルーに染まり、ハクをさらに神秘的に魅せる。

 こういうのを人間離れした美貌というのだろう、とアナスタシアは思った。
 ソイルなど比べるに値しない。

 その顔で、未だに小さなときと変わらぬかわいい声で「キュウキュウ」と鳴くのだ。ときどき頭が理解を拒もうとする。

 ひれは元から観賞魚のベタのように優艶だったが、さらに大きく長くなった。海中で泳ぐ姿を見たら大層きれいなのだろう。残念ながら狭いバスタブでは邪魔にしかならなさそうだ。
 鱗は光沢がなまめかしい。まるで粉末にした真珠や細かな金属粉が混ざっているかのような輝きを放っている。
 エルマーレ王国で『人魚の鱗』という宝石を見せてもらったことがあるが、それよりもハクの鱗のほうがずっと美しい。

 歌う声は鳴き声とは違って、低く落ち着いた響きになった。

 上機嫌に鼻歌を歌うハクの尾に、水杓子ですくった水をかける。はみ出ている部分が干からびてしまわないか心配だった。

「やっぱりバスタブは狭くないかしら?」
「キュウ~」

 ハクは笑って尾びれを揺らす。狭くないとアピールしているようだが、サイズが合っていないのは一目瞭然だ。少し身動ぎするだけで水がざぷんざぷんと溢れていく。

 ハクがこの大きさになってからは、エルマーレ王国への年に一回の訪問も取りやめていた。さすがにこっそり馬車に乗せるのは不可能だ。かといって置いていくこともできない。
 相変わらず海には帰りたくないようなので、連れていったところで無駄足に終わるだろう。

 この部屋付きのバスルームのほかに、離宮には別で浴室も設けられている。しかしそちらもバスタブの大きさはさして変わらない。
 アナスタシアのプライベートルームに比べると、誰かが立ち入る危険性が多少増す。そう考えると、現状維持を続ける以外の選択肢が失われた。

 ハク自身も、アナスタシアの寝室のすぐ隣にあるバスルームがいいと強く主張している。バスルームの扉を閉めることも嫌うので、常に開けっ放しだ。
 便利な部屋付きバスルームを占拠されたアナスタシアは、別の浴室の利用を余儀なくされている。

 ハクの歌に耳を澄ませていると、不意にノックの音が響いた。

 入室を許可すると、フロレンティーナがワゴンを押しながら入ってくる。ちょうど夕食の時間だ。部屋にいい香りが立ち込め、ハクがそわそわしはじめた。
 バスルームにローテーブルを置いて、そこに食事を並べていく。そんなおかしな光景も、何年も続けていると見慣れてしまった。

「ありがとうフロレンティーナ。コックは怪しんでなかった?」
「『アナスタシア殿下は小柄なのに本当によく召し上がりますね』って申しておりました。わたくし笑いをこらえるのが大変でございましたよ」
「ふふっ、わたしがこんなに食べたらおなかがはち切れてしまうわ」

 ハクの分の食事を確保するために、コックには多めに作ってもらうようにしている。そのせいでアナスタシアがとんでもない大食漢だと思われていそうだ。
 ハクは本当によく食べる。だからこんなにも大きくなってしまったのだろう。

 稚魚のときはとても小さかったから、成魚になってもあまり大きくならないと高を括っていた。しかし見事に予想を裏切られてしまった。
 ほかの人魚を見たことがないから、成魚のサイズなど知りようがない。このまま食べさせ続けていたら、さらに大きくなってしまう可能性も考えられる。

 フォークとナイフを器用に使って次々と平らげていくハクを眺め、アナスタシアは「そのときはそのときね」と呟いた。

「おいしい?」
「キュー!」

 手づかみで食べていた頃を思うとすごい成長だ。
 肉も魚も野菜もパンも、好き嫌いせずなんでも美味しそうに食べる姿を見ていると、食べる量を減らすなどありえない。むしろ自分の分まであげたくなってしまう。

「あっ、また水をお持ちしないといけませんね」

 バスタブの傍らに置かれている水瓶を覗き込み、フロレンティーナが独り言ちた。
 アナスタシアやフロレンティーナがそばにいないときは、ハクが自ら水杓子で尾に水をかけている。水の消費量が半端ではない。フロレンティーナが毎朝水瓶をいっぱいにしておいてくれるものの、夕方には足りなくなることもしばしばあった。
 離宮の敷地内に井戸があるとはいえ、これだけの水を運ぶのはかなりの重労働だろう。

「わたしも手伝うわ」
「いえいえ、アナスタシア殿下にそのようなことはさせられません。わたくしはこう見えて力持ちなので、ご心配いただかなくても大丈夫ですよ」

 腕まくりをして力こぶを見せつけてくる。アナスタシアが言い募る隙を与えずにそそくさと部屋を出ていってしまった。
 水を汲んだバケツを持って何往復もさせるのは心苦しい。

 思わずため息をついてしまうと、ハクがじーっと見つめてくる。

「ごめんね、気にしないで」
「キュウ……」

 考え込む様子を見せていたハクが、突然バスルームにある窓を指さした。
 鳴きながら訴えているが、何を伝えたいのかよくわからない。頭を悩ませながらとりあえず窓に近づくと、ハクが「キュイ!」と声を上げる。

「窓を開けてほしいの?」

 どうやら正解だったようで、首を上下に振っている。
 窓を開けると、ハクはこちらへ腕を伸ばして指先をくるくるんっと回した。

「今度は何かしら?」

 難しいジェスチャーにアナスタシアが唸っていると、外から「きゃあっ!」と声が聞こえてきた。


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