【完結】幾月依玖(いくつきいく)の生き様-彼女の在り方、彼の愛し方-

久遠れん

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1話・私と彼の出逢いの物語(1)

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 私の母は、よく泣く人でした。

 私のお気に入りのコップを割ってしまったといっては泣いて、私が友人の家に泊まりに行くと寂しいといって泣く人でした。

 私が五歳のときに亡くなった母の思い出は決して多いものではなく、年を重ねるごとに薄れていく記憶に恐怖して、年々忘れていく母の面影を追いかけて、こうしてなにか形に残したいと筆を執ったのです。

 私はなにももってない人間だけれど、幸い、私には小説がありました。

 なにもない私には、たった一つ、小説という武器があったのです。

 幼い頃から本が大好きで、それには色々な理由があったけれど、最も大きな理由の一つは小説を読んでいる間はだれにも邪魔をされなかったから。

 私の世界を壊されなかったから。

 小説の作り出す世界に逃げ込んでいる間は孤独を忘れられたから。

 これは、幼くして母を亡くした私による、私のためだけの、物語。


 * * *


 小説の冒頭を書き出して、ふうと息を吐く。

 たった数行、九行を書くのにとてつもない気力を必要とした。心臓はどくどくとうるさくて、手は情けなくも震えている。

 自分の心情を書き出すということは、それだけ私にとってハードルの高い作業で、辛いコトだった。

 それでも書きたいと思った。

 なにももってない私が唯一誇れる武器は小説だったから。

 毎日、日々をすごすにつれて薄れていく記憶を、今残っているありったけ鮮明な記憶を書きとどめておきたかった。

 そんなことを思い立ったのは、それでも結構前だったと思う。

 すでに最初に思い立ってから優に数年はたっているだろう。

 私はここ数年、ずっと母の事を文字として書き残したいと願いながら、臆病ゆえにそれを出来ずにいた。

 小説を書こうとパソコンに向き合えば、呼吸が苦しくなる。手が冷たくかじかんで震えていた。それでもやっぱり書きたかった。文字として形あるものとして、母の存在を残しておきたかった。

 それは私の自己満足にすぎないと知っていながら、漠然と、この小説を書き上げるときには私は人間として新しい一歩を踏み出せるような気がした。

 それは、なんの確証も核心もない、本当にただただ漠然とした想像だったけれど、あながち外れてはいない気がしたのだ。

 冒頭を書いただけで震える手を押さえつけて、深く息を吐き出す。深呼吸を数度繰り返し、ややおいて私はパソコンの前から離れた。

 机の傍にあるキッチンでマグカップを取り出し、冷蔵庫から牛乳をだす。誕生日プレゼントに友人から貰った不思議の国のアリスがモチーフのマグカップは大きさもほどよく、私のお気に入りの一つだ。

 さしてものの多くない私の部屋で、数少ない女子らしい一品とも言える。

 マグカップの半分ほど牛乳を入れて、これまた誕生日に別の友人から貰ったちょっとお高い蜂蜜を混ぜる。レンジであっためたら、私の癒しの完成。

 ふうと息を吹きかけて、温かな乳白色の液体を口にする。喉を通り抜け胃に落ちる温かさは体を温める目的以上に、心を安らがせた。

 こくり、こくりと。ゆっくりと嚥下して、全部を飲み干して少し考える。二杯目をつごうか思案して、結局そのままシンクで洗った。軽く拭いて棚に戻す。

 そういえば、朝起きて唐突に小説を書こう、なんて思い立ってパソコンの前に座ったから、朝食がまだだ。

 なにか食べるべきだろう。けれど、あいにく食欲がない。

 あまりいいことではないし、病院の先生には怒られるだろうけれど、朝食を抜くことに決めて、のろのろと洗面所に移動する。

 洗面所はキッチンの隣にあるから、移動という移動距離はないのだけど。

 ワンルームの一人暮らし用の部屋には珍しくないつくり。

 まだ寒い季節だけど、なんとなく冷水で顔を洗って、滅多に化粧はしないのだからせめて基礎化粧品くらいいいものを使おうと奮発して買った洗顔料をあわ立てる。

 白いクリームをぼんやりと眺めてからゆっくりと顔を洗い、また冷水で流す。きちんと化粧水と保湿クリームもつけて、朝のしたくは終わり。

 キッチンに戻って二リットルのペットボトルから水をコップについで、所定の位置においている薬を手に取る。朝は三錠。決められた分量を守って口に放り込み、水で押し流す。

 薬を飲むこともあって、胃があれないように、本来なら朝食をとったほうがいいのだけど、本当にそういう気分にはなれなかった。

 さて、私の数少ない朝のルーチンはこれで終わった。今日はなにをしよう。

 小説の続き、は書く気分ではない。というか、かける気がしない。まだ手が震えているのは我ながらなんというか。情けない、というよりは、まだだめかぁ、という気分。

 私にとって、母親というのは、大切な存在ではもちろんあるのだが、私が五歳だったその死に際を思えばトラウマの一つ、といってもよかった。

 母親の死をきっかけに連鎖的に現在まで続いている現実が私を打ちのめすのだ。

 ベッドの上に座り込んで、お気に入りのクッションを抱きしめ、ぼんやりと宙を見る。視界に入る置時計のさす時間は午前十時。案外時間がたっていたなぁ、などと考える。

 ふわりと眠くもないのにでてきた欠伸をかみ殺して、ころん、とベッドに横になる。今日はなにも予定がない。いや、私の場合、予定があるときのほうが圧倒的に少ないのだけど。

 バイトは二日後だ。病院には昨日いったばかり。

 でも、なにも予定はないけれど、暇だとは思わない。

 これが、私の日常。

 二十二歳にもなって、親の臑を齧って一人暮らししてる、私の現状。

 なにが間違っていたんだろう、と時々考える。

 なにを間違えたんだろうと、時々自問する。

 なにかが違えば、なにもかもが違ったのだろうかと、無意味な問いを繰り返す。

 そんなのは幾度も幾度も考えて、考えつくして、行き着く答えはいつも同じ。

 『きっとなにも変わらなかった』

 私が私である限り、この現実は変えようがないものだと、とっくに答えは出ているはずなのに。

 それでも飽きることなく私は自分に疑問を投げかける。

 歯車が一つでも違っていれば、『今』の私はもっと違う『ナニカ』になれたのではないのかと。

 そして今日もいきつく答えは同じと知りながら、数えるのも馬鹿らしいほど繰り返した問いを胸のうちに秘めて、うとうとと私は夢の世界に旅立った。




◤ ̄ ̄ ̄ ̄◥
 あとがき
◣____◢


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