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しおりを挟む静寂が戻った。ミサキは軽く息を整えた。呼吸は少し乱れている。この身体の持久力は、かつてのそれとは比べ物にならないほど劣っていた。しかし、技術は通用した。関節技、神経への打撃。力に頼らない戦い方は、この華奢な体でも可能だった。ほんの少しだけ、この状況における光明が見えた気がした。
ミサキは肩で息をしながら、尻餅をついた少年に手を差し伸べた。
「立てるか」
少年は壁にもたれかかったまま、大きな目でミサキを見上げている。血が口の端から垂れ、頬が腫れているが、まだその瞳には反抗心が宿っていた。
「ちっ、別に大丈夫だし。俺一人でもやれたっつーの」
強がるリオに、ミサキは苦笑した。この生意気な態度、嫌いではない。
「リオでよかった?私は……ミサキ。」
とっさに女性らしい名前をと思い苗字を名前のつもりで名乗ったが、この世界ではその名前も女性らしく響くのかは疑わしい。
「…ミサキ」
リオは少し躊躇った後、小さく続けた。
「ありがとよ。でも別に助けてもらう必要なんかなかったからな」
「文句を言うなら、最初から借金なんか作らなければ、いいだろう」
「へっ。そんなの、俺の勝手だ。あんたも、同族なら分かるだろ?稼いだら使う、欲しいもんは欲しいときに手に入れる。」
リオは痣だらけの顔で、それでも口角を上げて言い放った。
その態度に、ミサキは内心呆れつつも、どこかで懐かしさを覚えていた。
――欲望に忠実。生意気で、無鉄砲。昔の俺みたいだ。
ミサキは、内心で呆れながらも、この小生意気な小僧の態度に少しだけ興味を引かれた。元の世界では、こんな口の利き方をする若造は、すぐにリングで沈めていたものだ。
「…闘技場へ向かう途中だ。見学したい」
「ふーん?闘技場かぁ」
リオは、さも知っている風に顎に手を当てた。
「あんた、新しく来たんだろ?この街に。知らねえ顔してるもん。サキュバスが一人で闘技場なんて、普通ありえねえぜ。」
リオは立ち上がり、服についた埃を払うと、ミサキに視線を向ける。
「まあでもあんた強いもんな。なぁ、集落に来てみないか? サキュバスもインキュバスも、まとめて暮らしてる場所があるんだ。お前なら……きっと歓迎されるぜ」
路地を吹き抜ける夜風が、二人の間を撫でた。
ミサキは拳をゆっくりと開き、深く息を吐く。
「集落?」
「ああ、街の外れの、少しわかりにくい場所にあるんだけどさ。みんなで助け合って…ってか、主に借金の取立から逃れるために固まってるって感じか。」
リオは自嘲気味に笑った。
「で、あんたも来いよ。長老が、新しい顔見るの好きだし。それに、闘技場の事情なら、集落の連中の方が詳しいぜ。登録するにしても、下準備はあった方がいいだろ?」
闘技場の事情に詳しい者?それは確かに、有益な情報かもしれない。今の自分は、この世界について何も知らない。闘技場で勝ち上がるためには、情報と準備は不可欠だ。
「…その集落は、安全なのか?」
「まぁな。少なくとも、あのゴブリン共よりはマシさ。隠れ家的な場所だから、よっぽどじゃないと見つからねえ。…なぁ、さっきの戦い方、すげえだったぜ。あれ、教えてくれないか?その代わり、街の案内とかしてやるよ」
ミサキは深く息を吸った。石畳の冷たさが、薄い靴底を通して伝わってくる。背中の翼が、わずかに痙攣した。自分一人では、この未知の世界で生き延び、闘技場の頂点に立つまでの道のりは、想像以上に険しいかもしれない。一時的な拠点として、情報収集の場として…利用できるものは利用する。それは、勝利のためなら手段を選ばない岬健吾の流儀にも合致する。それに、この生意気な小僧を、いずれリングで打ちのめしてやるのも悪くない。
「…わかった。少しだけ、話を聞いてやる。案内しろ、リオ」
「おっし、決まりだな!ついて来いよ、ミサキおばさん!」
リオは軽快に歩き出した。ミサキは内心で「おばさん」という呼び方に若干の殺意を覚えつつ、その後ろについていく。路地を抜け、細い小道を通り、やがて人通りの少ない街の外れへと向かう。
ミサキは前方を歩くリオの小さな背中と、未発達な翼を見つめながら考えた。同胞…か。全く縁のない言葉だ。しかし、この理解不能な世界で、唯一自分と似た境遇を持つ者たちの集団。そこには、もしかしたらこの身体についての情報や、闘技場以外の戦い方――例えば魔法のようなものの手がかりがあるかもしれない。
それでも、彼の心の奥底では、嵐のような戦いの記憶が鳴り止まなかった。観衆の喚声、打撃の衝撃、勝利の瞬間の陶酔。それら全てが、このサキュバスの身体を通して、再び体験できる日を渴望している。
集落はあくまで通過点。最終的な目的地は、あの巨石の闘技場の中心でしかない。彼はそう心に誓い、リオに導かれて、闘技場の喧騒から遠く離れた、夢魔たちの隠れ里へと足を踏み入れた。
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