久遠の呪祓師―― 怪異探偵犬神零の大正帝都アヤカシ奇譚

山岸マロニィ

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第参話──九十九ノ段

【拾陸】大門ノ向コウ

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 靴下に下駄の鼻緒を押し込んで外に出た桜子は、いびつに欠ける月を見上げて呆然としていた。
 涙が頬に線を描いているのを、下宿から漏れる明かりが照らす。
 ハルアキも何も言えず、ただ桜子の横に立っていた。

 やがてグスンと鼻を啜ると、桜子はポケットのハンカチで顔を拭いた。
 そして呟く。
「……私たち、これからどうすればいいの?」
 ハルアキは答えた。
彼奴あやつに伝えねばならぬ、真実を」

 ――珊瑚の間で、鯉若は待っていたのだろう。
 九十九段から想い人がやって来るのを。
 その無念が、あの階段に遺されたのだ。

「来なかった心中相手を恨んで、姿の似た若い男の人を取り込んでいる、って事なのよね」
「そう考えると、辻褄が合う」
 そしてその呪いを、篠山栴檀は利用した。

 ――二人の恋路を妨げ、鯉若を身請けしようとした張本人である、篠山栴檀が。

「その心中相手の弟子って、今はどうしてるのかしら?」
「大家の話では、伊佐吉いさきちという名と申したな」

 シゲ乃の話はこうだった。
「その伊佐吉って人と鯉若ちゃんは同郷らしくてね。それで話が合ったようだよ。鯉若ちゃん、自分の部屋の襖に絵を描いてもらうって、その画家見習いを呼んでたんだ」

 そうでもしなければ、金のない画家見習いが花魁と会う事など、叶わなかっただろう。
 そうやって積み重ねた想いはだが、伊佐吉によって一方的に断ち切られた。
 寸前になって、死ぬのが怖くなったのだろう。無理はない。

 しかし今、その伊佐吉という弟子の行方を追う手段はない。
 それに、優先せねばならない事が、彼らにはあった。

 桜子は顔を上げた。
「とにかく、あの人のいるところへ行く必要がある訳でしょ? どこに行けばいいの?」
 問題はそこである。――零が取り込まれた異空間。それがどこにあるのかが分からなければ、手の打ちようがない。
 ……それに、もしそれが見付かったとしても、桜子は入れない。
 入れる訳にはいかない。

 ハルアキはさりげなく、ニッカポッカのポケットに手を入れる。
「とりあえず、部屋に戻ってじゃな……」
 そう言いながら式札を取り出そうとしたのだが、その手を桜子に掴まれた。
 彼女は身を屈めて、ハルアキを真正面から見据える。
「また眠らせようってったって、そうはさせないわよ。私は……」
 だが彼女の後ろに立つ、羊の角のように髪を結った美女の姿には気付いていなかった。

 ――式神・太裳たいも
 変化へんげの能力を持つこの式神の、緩やかな衣装の袖が桜子を包む。

 その姿が不意に消えた途端、何かが地面に転がった。
 ハルアキはそれを拾い上げ、顔の前に持ってくる。
「……悪いが、しばらく甲虫カブトムシになっていてもらうぞ」
 抗議するようにバタバタと羽ばたく黒光りした背をそっとなだめ、ハルアキは甲虫をポケットに納めた。

「――さてと、じゃ」
 とはいえ、ハルアキに妙案がある訳ではなかった。
 寒々しい月を見上げながら、ハルアキはくるんと癖のある髪を指先に絡める。

 零が取り込まれた異空間。
 それは、あの屏風と繋がっている事は間違いない。
 しかし、屏風のあの平面の中に、異空間があるとは考えにくい。あれは、異空間の様子を映し出す鏡――。

 そこまで思案を巡らして、ハルアキはハッとした。
 ――そうじゃ、あの絵にある場所に行ってみれば良い。異空間に繋がる何かがあるやも知れぬ。

 シゲ乃から借りた、大きすぎる下駄をカランコロンと鳴らして、ハルアキは駆け出した。

 下宿は浅草の外れ、浅草寺の裏手にある。
 すっかり日は暮れている。黒く聳える凌雲閣を背に通りに出ると、屋台の間を人力車が行き来する田んぼ道になる。
 ここには、芝居ののぼりや商店の看板はない。ポツン、ポツンと道を照らす街灯があるだけだ。
 だが人通りは多い。皆、同じ場所へと向かっていく。
 
 ハルアキは縫うように通りを進む。
 
 その道の先に、夜闇を破る光に包まれた一角が見える。――新吉原だ。
 それを眺め、ハルアキは思った。
 ……結局、桜子が天空に念じた通りになったではないか。全く、侮れぬ奴じゃ。

 道沿いに煌びやかな光を放つ吉原大門。
 派手な装飾のアーチ門から見下ろす弁財天べんざいてんの視線の先までやって来て、ハルアキは足を止めた。
 ――当然ながら、ここから先は、子供がひとりでフラフラと入って行ける場所ではない。
 ハルアキは周囲を見渡すと、人気ひとけのない場所を探す。そして、『お歯黒どぶ』と呼ばれる水路に囲まれた壁の影に身を寄せる。
 そして、式札をポケットから取り出した。

 目的地は、提灯の下がる妓楼の二階。
 ならば、空を飛んだ方が早い。

「太裳」
 式札に念じた途端に現れた美女――先程、桜子を甲虫に変化させた式神に身を任せたハルアキは、次の瞬間にはカラスの姿で宙を舞っていた――その嘴に、甲虫を咥えて。

 通りを彩る街灯をぐるりと巡り、ハルアキは妓楼の二階、窓の外にしつらえられた縁側の手すりに降り立った。
 障子窓をそっと覗く。中は薄暗い。
 今は遊女は仕事中。私室と思われるこの部屋に誰もいないのは当然だ。
 ハルアキは左右を見回すと縁側に降りた。そして暴れる甲虫を脚で押さえ、障子の隅をつつく。その穴に頭を突っ込み、中に潜り込んだ。

 部屋に入った途端、甲虫があしゆびからバタバタと羽音を立てて飛び出した。しかし、薄明るい障子紙を行きつ戻りつしているところを見ると、桜子の意識はないようだ。
 式神の術を掛けられた場合、妖に取り憑かれたのと同様、意識を乗っ取られる事が多い。この甲虫の中で、桜子の意識は眠りに落ち、甲虫の意識が本能的に働いているのだろう。

 ハルアキは畳に下りると翼を広げ――元の少年の姿に戻った。
 部屋の中に立ち、薄闇に目を凝らす。……鴉よりも人間の目の方が、暗さに慣れるまでに時間がかかるのだ。
 しばらくキョロキョロとしていると、襖に描かれた絵が目に付いた。
 ――水面に跳ねる魚を眺める、姉弟と思われる子供ふたり。
 その長閑のどかな風景画は、あまりにも遊郭に似合わない。
 近くに寄ってみる。襖紙は黄ばみ、染みが浮いているところを見ると、描かれてからそれなりの年月が経っているのだろう。

 ――恐らく、四十三年の年月が。
 鯉若が想い人である画家見習いに描かせたものが、部屋の主を変えても、そのまま残されていたのだ。

 しかし、この絵にどういう意味があるのか?
 ハルアキは首を傾げた。

 それから室内を見渡す。
 相変わらず、遊女の私室として使われているようだ。衣紋掛けと鏡台が並び、濃い白粉おしろいの匂いが立ち込めている。
 そちらへ足を向け、ハルアキは考えた。

 九十九段の屏風の、明かりが灯っていた部屋は、間違いなくここである。
 そしてここは、かつて鯉若が暮らしていた部屋。あの襖絵が証拠だ。
 ――となれば、零は、この『裏』にいる。

 異空間にも様々なものがあるが、妖が作り出す異空間は、それらが「人間」であった頃の記憶に関わる場所にある事が多い。
 現実世界の裏側。そこに留められた幻想として、無秩序に広がっているのだ。

 鯉若の怨霊が異空間を創り出しているとすれば、伊佐吉なる人物との思い出の詰まったこの部屋の「裏側」に、それはあると考えるのが妥当だろう。
 問題は、その入口……。

 ハルアキが目を向けたのは、鏡台だった。
 鏡というのは、別の世界への入口となる場合が多々ある。姿を映す、即ち光を反射するという現象の神秘性で、神社の御神体となるほどだ。
 小さい引き出しの上に嵌め込まれた丸鏡を覗く。朧げな明かりの中に顔が映っている。大きさとしては十分だ。

 彼はポケットから護符を取り出した。複雑な呪文が書き込まれたそれを、鏡の上部に貼り付ける。
 そして二本の指を立てると、五芒星を描きながら呪文を唱えた。

 ――その途端、鏡がぼんやりとした光に包まれる。
 繋がった。ハルアキは手を下ろした。

 鏡の向こう。
 そこには、『異空間』としてのこの部屋が映っている。
 ぼんやりと揺れる明かりは、行灯のものだろう。四十三年前であれば、電気は通っていなかったから当然だ。
 ……その明かりの中で揺れる影。
 誰かがいる。

 呼吸を整えてから、ハルアキはそっと鏡面に触れる。――指は、水面を穿つようにそこを通り抜けた。
 それを確認してから、ハルアキは頭を鏡に押し込んだ。

 そして、息を呑んだ。
 今まさに、重なり合おうとするふたつの影。
 あでやかな打掛が男の体に掛かり、露わな肩から伸びた白い手が無造作な束ね髪に絡む。
 甘い吐息がハルアキの耳をくすぐると同時に、ふたつの影は重なった。
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