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第参話──九十九ノ段
【拾漆】追憶
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「……うちは貧乏でね」
花魁は零の肩に頬を載せ、気だるい声で囁いた。
この異空間に時間の概念はないようだ。常に煌々と提灯が灯り、闇に抗っている。
行灯の朧げな明かりが、艶やかな衣装を、より煽情的に演出する。
しかし、そんな花魁の声は淡々としていた。
「父と母は、朝から晩まで野良仕事。わちきは一日じゅう、ふたつ下の弟の世話をしてたんだよ。ああやって、川の魚を眺めたりしてね」
花魁の目が襖絵に向く。しかしその目の色は、決して悲嘆していない。優しい色だった。
「あの子、絵が上手でね。一目見た景色を、写真のように覚えちまうんだ。それを絵にするから、まるで本物みたいに生き生きとしててね」
――本物みたいに生き生きとした絵。
思い浮かぶのは、篠山栴檀邸の掛け軸の錦鯉だ。
命あるかのような写実的な表現は、見る者の心を惹き付ける。
そして、この襖絵――篠山邸の玄関にあるものよりは技術的な未熟さは否めないが――これもまた、襖という平面の奥に、もうひとつの世界が広がっているかのような趣きがある。
その景色を見る零の心に、嫌な翳りが滲み出すのを感じた。
「でも、うちは貧乏だろ? 紙なんて買えやしない。折れ枝の先を水に浸して、平たい岩に描くのさ。すぐに乾いて消えちまうけどね。……それが、悲しかった。どうしてもあの子の絵を、紙に残してやりたかったんだよ」
花魁の吐息が首筋をくすぐる。
「だからね、女衒がうちに来た時、わちきは喜んで、ついて行く事に決めたのさ」
弟が絵を学べるよう、身を売った姉。
花魁の生い立ちに、零の呼吸は苦しくなる。
しばらく言葉を考えた後、彼は花魁に問い掛けた。
「その弟さんとは、それから会えましたか?」
「会えやしないよ。あの子は天から与えられた才があるんだ。こんな場所へ来やしないさ」
「でも、あなたは私にあの絵を頼んだじゃありませんか。私には才がないとでも?」
悪戯めかした零の言葉に、花魁はころころと笑った。
それから急に声を低める。
「あんたのお師匠は、才のある者を許さない。他人を蹴落とすためなら、何でもやる人さ。……あんたは、嵌められたんだよ」
花魁の細い指が零の着物を握り締めた。震える手に手を重ねると、花魁は声を絞り出す。
「……死にたくなんかないさ。でも、このまま生きている方が地獄だよ。ならばいっそ、本物の地獄で夫婦になろうじゃないか」
涙に濡れた目が零を見上げる。
「伊佐さんと一緒なら、わちきはどこでも幸せなんだ」
――目黒心中。
その一節と重なる台詞。
この花魁は、伊佐なる人物と心中しようとしていた。
伊佐とは、絵描きの卵。才能があったために師匠に疎まれ、死を望むまでに追い詰められていた。
心中の決行を前に、二人の生きた証にと、この襖絵を描いたのかもしれない。
――しかし、零には腑に落ちない事があった。
伊佐、花魁の弟、そして篠山栴檀。この三人の印象が、どうにも重なるのだ。
だが悠長に考えている余裕はなさそうだ。
花魁が髷から長い簪を抜き取ると、それを零の首に押し当てたのだ。
背筋が凍る。
「せえので一緒に突くんだよ」
そう言って花魁は、簪をもう一本抜き、零に手渡した。彼は焦った。
「い、今ですか?」
「そうだよ、今だよ」
花魁が零に跨る。乱れた打掛から白い肩が露わになった。
何とか逃れようと身を捩るが、束ね髪を掴まれ、畳に押し付けられた。首筋に赤い傷が描かれる。
圧し掛かられた耳元で、甘い吐息が囁いた。
「……愛してるよ」
――その光景を鏡の向こうから覗くハルアキの存在に、零が気付く事はなかった。
◇
「うわああああ!!」
ハルアキは意味も分からず、田んぼ道をひたすらに走っていた。
……心配して助けに向かったにも関わらず、あのように淫らな行為を見せ付けてくるとは!
見てはいけないものを見た気持ちになって、ハルアキは子供の姿のまま妓楼を飛び出した。
大きすぎる下駄はどこかで脱げた。そのまま裸足で土を蹴る。
浅草に向かう田んぼ道をひた走り、吉原の灯が小さくなったところで、彼はようやく足を緩めた。
ゼエゼエと肩で息をする。
すると少し気分が落ち着いてきた。
――彼奴は一体どういうつもりじゃ? 子供にあのような姿を見せるとは。
いや、余は子供ではない。……違う、子供じゃ、余は子供なのじゃ。
子供だから、あのような場に不慣れじゃったのじゃ。
このように取り乱したのは、決して嫉妬心などではなく……。
「ええい! 零め! 人の気も知らずに!」
ハルアキは無茶苦茶に癖のある髪を掻き乱した。
そして気付いた。
髪に引っ掛かっている甲虫の存在に。
「…………」
くるんと巻いた長めの髪に絡まって、季節外れの甲虫は身悶えしている。
それを解いてやると無造作にポケットに放り込み、ハルアキは大きく息を吐いた。
……何をしておるのじゃ、余は。
歪に浮かぶ月を眺める。
その冷たい色は、千年前から変わらない。
――そもそも、転生などという邪道を用いてまで千年も生き続けるほどの理由が、『彼』にあったのだろうか。
瞼を閉じれば浮かぶあの顔。
決して笑みを浮かべる事のない美貌で輝く、左右で色の異なる瞳。
……そうなのだ。零が彼である事は、断じてない。
他人の空似なのだ。
だから、心にわだかまっているこのモヤモヤは、偽物なのだ。
トボトボと浅草の街を進む。
夜を知らぬ彩りは、子供の目には眩しすぎた。
路地裏に逸れ、煉瓦塀に凭れて膝を抱える。
伏せた目に、汚れ傷付いた裸足が見えた。
――こんなに惨めな姿を晒しているのは、これで二度目だ。
最初は零と出会った時。留置場の片隅で膝を抱えていたハルアキに、零が話し掛けてきた。
……その顔が、余りに記憶の中の存在に似ていたために、彼の庇護を受ける事にした。
それから二年。
絆や繋がりなどというものに興味はないが、切れない縁というようなものを、なぜか彼に感じているのだ。
そして、それが本物でない事を、心から願っている。
腰の辺りで何かがモゾモゾと動いた。それはポケットから抜け出ると、膝を抱える腕を伝って、再びハルアキの髪に潜り込んだ。どうやらこの場所が気に入ったらしい。
……何にせよ、いつまでも桜子を甲虫のままにしておく訳にはいかない。
それに、どんな理由があろうとも、零をあのままにしてはおけるはずがない。
今、彼を救い出せるのは、彼だけなのだ。
ゆっくりと、ハルアキは立ち上がった。
痛む足で路地を踏みしめ、顔を上げる。
「……戻るかの」
指先でそっと、頭に張り付く甲虫の背を撫でてから、ハルアキは再び歩きだした。
花魁は零の肩に頬を載せ、気だるい声で囁いた。
この異空間に時間の概念はないようだ。常に煌々と提灯が灯り、闇に抗っている。
行灯の朧げな明かりが、艶やかな衣装を、より煽情的に演出する。
しかし、そんな花魁の声は淡々としていた。
「父と母は、朝から晩まで野良仕事。わちきは一日じゅう、ふたつ下の弟の世話をしてたんだよ。ああやって、川の魚を眺めたりしてね」
花魁の目が襖絵に向く。しかしその目の色は、決して悲嘆していない。優しい色だった。
「あの子、絵が上手でね。一目見た景色を、写真のように覚えちまうんだ。それを絵にするから、まるで本物みたいに生き生きとしててね」
――本物みたいに生き生きとした絵。
思い浮かぶのは、篠山栴檀邸の掛け軸の錦鯉だ。
命あるかのような写実的な表現は、見る者の心を惹き付ける。
そして、この襖絵――篠山邸の玄関にあるものよりは技術的な未熟さは否めないが――これもまた、襖という平面の奥に、もうひとつの世界が広がっているかのような趣きがある。
その景色を見る零の心に、嫌な翳りが滲み出すのを感じた。
「でも、うちは貧乏だろ? 紙なんて買えやしない。折れ枝の先を水に浸して、平たい岩に描くのさ。すぐに乾いて消えちまうけどね。……それが、悲しかった。どうしてもあの子の絵を、紙に残してやりたかったんだよ」
花魁の吐息が首筋をくすぐる。
「だからね、女衒がうちに来た時、わちきは喜んで、ついて行く事に決めたのさ」
弟が絵を学べるよう、身を売った姉。
花魁の生い立ちに、零の呼吸は苦しくなる。
しばらく言葉を考えた後、彼は花魁に問い掛けた。
「その弟さんとは、それから会えましたか?」
「会えやしないよ。あの子は天から与えられた才があるんだ。こんな場所へ来やしないさ」
「でも、あなたは私にあの絵を頼んだじゃありませんか。私には才がないとでも?」
悪戯めかした零の言葉に、花魁はころころと笑った。
それから急に声を低める。
「あんたのお師匠は、才のある者を許さない。他人を蹴落とすためなら、何でもやる人さ。……あんたは、嵌められたんだよ」
花魁の細い指が零の着物を握り締めた。震える手に手を重ねると、花魁は声を絞り出す。
「……死にたくなんかないさ。でも、このまま生きている方が地獄だよ。ならばいっそ、本物の地獄で夫婦になろうじゃないか」
涙に濡れた目が零を見上げる。
「伊佐さんと一緒なら、わちきはどこでも幸せなんだ」
――目黒心中。
その一節と重なる台詞。
この花魁は、伊佐なる人物と心中しようとしていた。
伊佐とは、絵描きの卵。才能があったために師匠に疎まれ、死を望むまでに追い詰められていた。
心中の決行を前に、二人の生きた証にと、この襖絵を描いたのかもしれない。
――しかし、零には腑に落ちない事があった。
伊佐、花魁の弟、そして篠山栴檀。この三人の印象が、どうにも重なるのだ。
だが悠長に考えている余裕はなさそうだ。
花魁が髷から長い簪を抜き取ると、それを零の首に押し当てたのだ。
背筋が凍る。
「せえので一緒に突くんだよ」
そう言って花魁は、簪をもう一本抜き、零に手渡した。彼は焦った。
「い、今ですか?」
「そうだよ、今だよ」
花魁が零に跨る。乱れた打掛から白い肩が露わになった。
何とか逃れようと身を捩るが、束ね髪を掴まれ、畳に押し付けられた。首筋に赤い傷が描かれる。
圧し掛かられた耳元で、甘い吐息が囁いた。
「……愛してるよ」
――その光景を鏡の向こうから覗くハルアキの存在に、零が気付く事はなかった。
◇
「うわああああ!!」
ハルアキは意味も分からず、田んぼ道をひたすらに走っていた。
……心配して助けに向かったにも関わらず、あのように淫らな行為を見せ付けてくるとは!
見てはいけないものを見た気持ちになって、ハルアキは子供の姿のまま妓楼を飛び出した。
大きすぎる下駄はどこかで脱げた。そのまま裸足で土を蹴る。
浅草に向かう田んぼ道をひた走り、吉原の灯が小さくなったところで、彼はようやく足を緩めた。
ゼエゼエと肩で息をする。
すると少し気分が落ち着いてきた。
――彼奴は一体どういうつもりじゃ? 子供にあのような姿を見せるとは。
いや、余は子供ではない。……違う、子供じゃ、余は子供なのじゃ。
子供だから、あのような場に不慣れじゃったのじゃ。
このように取り乱したのは、決して嫉妬心などではなく……。
「ええい! 零め! 人の気も知らずに!」
ハルアキは無茶苦茶に癖のある髪を掻き乱した。
そして気付いた。
髪に引っ掛かっている甲虫の存在に。
「…………」
くるんと巻いた長めの髪に絡まって、季節外れの甲虫は身悶えしている。
それを解いてやると無造作にポケットに放り込み、ハルアキは大きく息を吐いた。
……何をしておるのじゃ、余は。
歪に浮かぶ月を眺める。
その冷たい色は、千年前から変わらない。
――そもそも、転生などという邪道を用いてまで千年も生き続けるほどの理由が、『彼』にあったのだろうか。
瞼を閉じれば浮かぶあの顔。
決して笑みを浮かべる事のない美貌で輝く、左右で色の異なる瞳。
……そうなのだ。零が彼である事は、断じてない。
他人の空似なのだ。
だから、心にわだかまっているこのモヤモヤは、偽物なのだ。
トボトボと浅草の街を進む。
夜を知らぬ彩りは、子供の目には眩しすぎた。
路地裏に逸れ、煉瓦塀に凭れて膝を抱える。
伏せた目に、汚れ傷付いた裸足が見えた。
――こんなに惨めな姿を晒しているのは、これで二度目だ。
最初は零と出会った時。留置場の片隅で膝を抱えていたハルアキに、零が話し掛けてきた。
……その顔が、余りに記憶の中の存在に似ていたために、彼の庇護を受ける事にした。
それから二年。
絆や繋がりなどというものに興味はないが、切れない縁というようなものを、なぜか彼に感じているのだ。
そして、それが本物でない事を、心から願っている。
腰の辺りで何かがモゾモゾと動いた。それはポケットから抜け出ると、膝を抱える腕を伝って、再びハルアキの髪に潜り込んだ。どうやらこの場所が気に入ったらしい。
……何にせよ、いつまでも桜子を甲虫のままにしておく訳にはいかない。
それに、どんな理由があろうとも、零をあのままにしてはおけるはずがない。
今、彼を救い出せるのは、彼だけなのだ。
ゆっくりと、ハルアキは立ち上がった。
痛む足で路地を踏みしめ、顔を上げる。
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