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第肆話──壺
【廿肆】勾陳
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――その頃。
「……早く終わらぬかの」
屋根の上に立つハルアキにも、疲労の限界がきていた。
呪術を使った通常の結界ならまだしも、式神を配する四神の陣は、召喚状態を保たねばならないため力の消耗が激しいのだ。
おまけに、建物の損傷具合。
結界が綻びを見せた途端、ペシャンコに潰れるに違いない……彼奴がたとえ不死としても、ペシャンコになったところはあまり見たくはない。
結界内の様子は、結界の主としてある程度は感じられる。こうしていても、激しい殺気と「無」に近い奇妙な気配が伝わってくる。
それらが交差しているうちは、彼は生きてはいるだろう。
癖のある髪を川風が揺らす。
ハルアキは目を閉じ、顔の前に掲げる右手に立てた二本の指に意識を集中させる。
とはいえ、疲れは如何ともし難い。
「誰かー、酒を持ってまいれー。一杯呑まねばやっておられぬわ」
しかし、自分から鴉揚羽を遠ざけたのだし、人通りの少ない倉庫街の、空き倉庫の屋根に立っている少年の存在に気付く者などいるはずもない……いや、気付かれても困るが。
「酒でなければ、蜂蜜でも良いぞ。彼奴の不味い紅茶が多少混ざっておっても構わぬ……いや、ミルクパーラーの牛乳か、そうじゃ、シベリアとかいう菓子も美味であった。近頃はケチで食わせてくれぬからの。ライスカレーも食いたいものじゃ……」
そんな事を呟いた後、ハルアキは溜息を吐いた。余計腹が減っただけだ。
その間にも、屋根がゆさゆさと振動する。
このままでは、零の心配よりも、自分が屋根ごと落ちる心配をしなければならないだろう。
対象が式神であれば、力を増す手段があるのだが。
――式神・勾陳。
式神の能力を上げる補佐的な力を持つ。
しかし、勾陳を召喚できる数は一体。四神の何れかを強化しただけでは均衡が崩れて逆効果だ。
何とか四神すべてに均等に力を与える術はないものか。
……と、ハルアキは考えた。
召喚者自身に式神を降ろすのは絶対の禁忌である。意識を乗っ取られ、制御が効かなくなる可能性があるためだ。
――しかし、自身に式神を降ろす術を使う者がいる。
鴉揚羽。
あの女陰陽師は、自身の体の一部に式神を憑依させる技を使いこなす。
この二本の指に力を集中させて、勾陳に補佐させる。
そうすれば、四神に伝わる力が強化され、もうしばらくは結界を維持できるのではないか。
成功する保証はない。失敗すれば、二度と式神を扱えぬ体になるかもしれない。
――あの者を殺す事が、叶わなくなるかもしれない。
その時、突き上げるような振動がハルアキの足元を揺らした。
思い悩んでいる暇はない。どうせこのままでは死を待つのみだ。
あの女子に出来て、余に出来ぬ道理はなかろう。
ハルアキは左手で、ニッカポッカのポケットを探る。そして式札を一枚、右手の指の間に挟むと目を閉じた。
「――勾陳!」
式札が光と化し、左右に伸びる。それは黄金の小さな蛇となって、ハルアキの指に巻き付いた。
「――――!」
灼熱が指を包む。灼け焦げる痛みに顔が歪むが、指を動かす事はない。
余の為に命を懸けている者が居るに、この程度の痛みに屈してなるものか。
金色の旋風がハルアキを包む。
それはより大きな渦となって結界の外辺に届く。
四柱の式神に力が伝わり、結界が眩い光を放つ。
より強固に張られた結界の中心で、だが間もなく、ハルアキはある事に気付いた。
――零の気配が、消えた。
建物の揺れがピタリと収まり、殺気が霧散する。
そして、無色透明のあの気配も、灯が吹き消されたように、不意に消滅したのだ。
動揺は式神にも伝播する。
結界は光を失い、今にも綻びそうに揺らぎはじめる。
大きく見開いたハルアキの瞳が震える。
「まさか……嘘であろう……?」
「不死」という存在について、ハルアキと言えどそこまで詳しい訳ではない。
肉体に死が訪れないとしても、魂は果たしてどうか?
何かの条件で消滅する事は、有り得ない訳ではないだろう。
……いつか彼が、不死である存在を殺さねばならないために、色々と考察を重ねていたのだ。
不死の消滅。
もし、そんな事態であったとしたら……!
その途端、屋根がグラリと揺れた。弱っていた野地板が崩落したのだ。
「うわっ!」
足を取られてよろめく。そのまま穴に吸い込まれそうになり、間一髪、垂木に捕まる。
そして、ぶらんとぶら下がった足元を覗く。
……そこにあったのは、飛行船のように腹を膨らませた山羊頭の怪物のみ。
倉庫の空間を埋め尽くすほどの大きさに膨れて、苦しそうに唸っている。
だがその空間のどこにも、零の姿はなかった。
「どういう事じゃ……?」
怪物の腹は尚も膨らんでいく。
熱気球のように真ん丸な腹を抱え、怪物は悲鳴を上げる。
「ぐうおおおお!!」
その途端。
――パン。
破裂音と共に飛沫が散る。
屋根にぶら下がるハルアキにも、烈風と共にそれが届いた……生臭い赤黒い水。そんな気持ちの悪いものを、頭から被ったからたまらない。
手が滑る。体が宙に浮く。
「うわあああ!」
落下する感覚。
脳が遥か頭上に取り残され、意識が薄らぐ。
――ドスン。
落ちた衝撃を全身に感じる。だが、骨が砕けるほどの痛みはない。何か柔らかいもの上に落ちたようだ。
恐る恐る目を開く。
するとそこには、見覚えのある着物の柄があった……赤黒く濡れてはいるが。
その着物の主――犬神零は、ハルアキを抱えて苦笑した。
「一張羅が汚れてしまいました。やっぱり、活動写真は明日にしませんか?」
「……早く終わらぬかの」
屋根の上に立つハルアキにも、疲労の限界がきていた。
呪術を使った通常の結界ならまだしも、式神を配する四神の陣は、召喚状態を保たねばならないため力の消耗が激しいのだ。
おまけに、建物の損傷具合。
結界が綻びを見せた途端、ペシャンコに潰れるに違いない……彼奴がたとえ不死としても、ペシャンコになったところはあまり見たくはない。
結界内の様子は、結界の主としてある程度は感じられる。こうしていても、激しい殺気と「無」に近い奇妙な気配が伝わってくる。
それらが交差しているうちは、彼は生きてはいるだろう。
癖のある髪を川風が揺らす。
ハルアキは目を閉じ、顔の前に掲げる右手に立てた二本の指に意識を集中させる。
とはいえ、疲れは如何ともし難い。
「誰かー、酒を持ってまいれー。一杯呑まねばやっておられぬわ」
しかし、自分から鴉揚羽を遠ざけたのだし、人通りの少ない倉庫街の、空き倉庫の屋根に立っている少年の存在に気付く者などいるはずもない……いや、気付かれても困るが。
「酒でなければ、蜂蜜でも良いぞ。彼奴の不味い紅茶が多少混ざっておっても構わぬ……いや、ミルクパーラーの牛乳か、そうじゃ、シベリアとかいう菓子も美味であった。近頃はケチで食わせてくれぬからの。ライスカレーも食いたいものじゃ……」
そんな事を呟いた後、ハルアキは溜息を吐いた。余計腹が減っただけだ。
その間にも、屋根がゆさゆさと振動する。
このままでは、零の心配よりも、自分が屋根ごと落ちる心配をしなければならないだろう。
対象が式神であれば、力を増す手段があるのだが。
――式神・勾陳。
式神の能力を上げる補佐的な力を持つ。
しかし、勾陳を召喚できる数は一体。四神の何れかを強化しただけでは均衡が崩れて逆効果だ。
何とか四神すべてに均等に力を与える術はないものか。
……と、ハルアキは考えた。
召喚者自身に式神を降ろすのは絶対の禁忌である。意識を乗っ取られ、制御が効かなくなる可能性があるためだ。
――しかし、自身に式神を降ろす術を使う者がいる。
鴉揚羽。
あの女陰陽師は、自身の体の一部に式神を憑依させる技を使いこなす。
この二本の指に力を集中させて、勾陳に補佐させる。
そうすれば、四神に伝わる力が強化され、もうしばらくは結界を維持できるのではないか。
成功する保証はない。失敗すれば、二度と式神を扱えぬ体になるかもしれない。
――あの者を殺す事が、叶わなくなるかもしれない。
その時、突き上げるような振動がハルアキの足元を揺らした。
思い悩んでいる暇はない。どうせこのままでは死を待つのみだ。
あの女子に出来て、余に出来ぬ道理はなかろう。
ハルアキは左手で、ニッカポッカのポケットを探る。そして式札を一枚、右手の指の間に挟むと目を閉じた。
「――勾陳!」
式札が光と化し、左右に伸びる。それは黄金の小さな蛇となって、ハルアキの指に巻き付いた。
「――――!」
灼熱が指を包む。灼け焦げる痛みに顔が歪むが、指を動かす事はない。
余の為に命を懸けている者が居るに、この程度の痛みに屈してなるものか。
金色の旋風がハルアキを包む。
それはより大きな渦となって結界の外辺に届く。
四柱の式神に力が伝わり、結界が眩い光を放つ。
より強固に張られた結界の中心で、だが間もなく、ハルアキはある事に気付いた。
――零の気配が、消えた。
建物の揺れがピタリと収まり、殺気が霧散する。
そして、無色透明のあの気配も、灯が吹き消されたように、不意に消滅したのだ。
動揺は式神にも伝播する。
結界は光を失い、今にも綻びそうに揺らぎはじめる。
大きく見開いたハルアキの瞳が震える。
「まさか……嘘であろう……?」
「不死」という存在について、ハルアキと言えどそこまで詳しい訳ではない。
肉体に死が訪れないとしても、魂は果たしてどうか?
何かの条件で消滅する事は、有り得ない訳ではないだろう。
……いつか彼が、不死である存在を殺さねばならないために、色々と考察を重ねていたのだ。
不死の消滅。
もし、そんな事態であったとしたら……!
その途端、屋根がグラリと揺れた。弱っていた野地板が崩落したのだ。
「うわっ!」
足を取られてよろめく。そのまま穴に吸い込まれそうになり、間一髪、垂木に捕まる。
そして、ぶらんとぶら下がった足元を覗く。
……そこにあったのは、飛行船のように腹を膨らませた山羊頭の怪物のみ。
倉庫の空間を埋め尽くすほどの大きさに膨れて、苦しそうに唸っている。
だがその空間のどこにも、零の姿はなかった。
「どういう事じゃ……?」
怪物の腹は尚も膨らんでいく。
熱気球のように真ん丸な腹を抱え、怪物は悲鳴を上げる。
「ぐうおおおお!!」
その途端。
――パン。
破裂音と共に飛沫が散る。
屋根にぶら下がるハルアキにも、烈風と共にそれが届いた……生臭い赤黒い水。そんな気持ちの悪いものを、頭から被ったからたまらない。
手が滑る。体が宙に浮く。
「うわあああ!」
落下する感覚。
脳が遥か頭上に取り残され、意識が薄らぐ。
――ドスン。
落ちた衝撃を全身に感じる。だが、骨が砕けるほどの痛みはない。何か柔らかいもの上に落ちたようだ。
恐る恐る目を開く。
するとそこには、見覚えのある着物の柄があった……赤黒く濡れてはいるが。
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