〈旅行記〉意味がなければインドカレーはない

こえ

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カルドゥン・ラのベジタブルスープは富士山のラーメンか

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 ヌブラ渓谷、というところへ行くことになった。
 なんせ、今回の「トレッキングの旅」、そこかパンゴン湖の二択で、その両方を選んだのだ。
 パンゴン湖は『地球の歩き方』(二〇一四年度版)には載っていないが、ヌブラ渓谷は一ページを割いて載っていた。何でもこの本に頼るのは良くないが、この本によると、ヌブラとは「緑の園」を意味するらしい。たしかに、行ってみての感想としては、乾いているけれど心落ち着くオアシスのようなところだった。地理的には、レーの北に位置し、標高は約三二〇〇メートル。といっても、標高三五〇〇メートルのレーから何の起伏もないわけではない。ワイルドな峠越えがあって、旅行者に人気なのだとか。ここはパキスタン国境に近く、軍事的要所として整備されているとはいえ、ハンドル操作を誤れば(誇張でも冗談でもなしに)命を落とすような山道を、何時間もかけて移動するのである。
 ハンドル操作といったが、もちろん車での移動だ。トレッキングとは車でするものなのだから。前日まで、人数が集まらなくて、中止になりかけていたのだが、結局ツアーは成立し、ぼくの他にデリーからの親娘、ジャンムーからのおじさん、計四人プラス、ドライバーで、その峠を越すことになった。実はジャンムーから来たおじさんのことを、密かにジャンムーおじさんと呼んでいた。顔もどことなくジャムおじさんに似ているのだ。
 その峠も、ドライバーからしたらいつもの道で慣れたもので、ちょっとやそっとの「ヒヤッ」では驚かないのだろうが、われわれ四人はしょっちゅう「ヒヤッ」どころか「ドキッ」「ギャッ」、いや「アーメン」の道中であった。
 ここを通るには、パンゴン湖同様、移動にはパーミッションが必要で、三ヶ所あるチェックポストでそれが必要なのだが、ぼくはそのうち二枚を紛失(というか別の添乗員に渡して、彼が同行しなかった)してしまい、ちょっとトラブってしまった。迷惑な外国人である。
 ちなみにジャンムーおじさんの英語の発音が非常に独特で、何を言っているのかほとんどわからなかった。要所要所で、別の同行者である親娘の娘の方に通訳を頼んで理解していた。ジャンムーおじさん英語から娘英語への通訳である。親娘は都会のデリーからの客だが、おじさんの故郷ジャンムーはわけが違う。日本でいったら、青森のおじいちゃんの英語を聞くようなものだろうか。しかしそうはいうものの、なぜかぼくはこのおじさんといちばん気が合った。なんと言っているかはわからないが、彼の優しい眼差しはぼくを癒してくれたし、同じ一人旅の者として、通じるものがあったのかもしれない。おじさんの素性はほとんど聞かなかったが(聞いても何を言っているかわからない)、そんなことよりも、一緒にいて落ち着ける、そんな仲だった。
 
 さて、その峠の名をカルドゥン・ラという。「ラ(la)」とはここの言葉で「峠」の意味。標高は五六〇二メートル(一万八三八〇フィート)。自動車やバイクで通ることのできる、世界で最も高い地点であるとされる。実際のところ「世界一」かどうかは怪しいらしいが、いずれにせよ、五千メートルを超える峠を通るなんてクレイジーだとぼくは思う。当たり前かもしれないが、分厚い雪がまだ残っているではないか。寒いし、頭が痛い。たった一ミリといいながら、十分クレイジーである。
 ここには、チベット仏教の小さな祠(?)や休憩小屋があって、多くの旅人が一息つく地点となっている。World Peaceを願うもよし、コーヒーブレイクや腹ごしらえをするもよし、である。
 そこでぼくは腹ごしらえとすることにした。ドライバーのおすすめで、言われるがままに出てきたのが、小さなカップに入った熱いスープである。これがとにかく旨かった。トロトロのそれは、玉ねぎの甘みがベースなのだろうが、人参やジャガイモの他、少しスパイスも入っているようで、口が喜び、体が喜び、心が喜び、すべてが温まった。今の時間、氷点下ほどではないが、十分に寒いここで、その苦しみを全て解き放ってくれる聖水である。あまりの美味しさに、恥ずかしかったがおかわりした。
 これはこの地方独特の民族料理に違いない、このスープの名前を聞いてまた旅行記に載せよう、いいネタになるぞ、と思ったぼくは、これはなんて名前の料理なんだい、とドライバーに聞いてみた。すると彼はこう答えた。
「ベジタブルスープ」
 そう、野菜スープだ。うん、見ればわかる。でもそうじゃないんだ。そう伝えようと思ったが、多分特別な何かでもなく、本当に野菜スープなのだろう。ぼくはなぜか拍子抜けして、たかが野菜スープに勢い勇んだ自分がまぬけに思えてきた。
 名前はともかく、この味は忘れられない。万年雪の残るこの地で、寒さに震えながら飲んだベジタブルスープは、今回のインドの旅で最もおいしいものだった。
 ここで思い出したのが、富士山で食べるラーメン、である。ぼくは富士山に登ったことはないのでわからないが、その何合目かの山小屋で食べるラーメンがおいしいと聞いたことがあったのだ。みな口をそろえて言うのは、特別な何かが入っているわけではないその普通の味が、えもいわれぬスペシャルな味に感じられるのだという。それにはその「食べる場所」が関係しているのではないか、と。その話を聞いて、食べ物に対する考えが少し変わったのを覚えている。
 もしかして、これもそういうことなのではないか。たしかに、(そのときはそうは思えなかったが)これはただの野菜スープだ。少々のスパーシーさはこの国のものとして、特別な何かはない、普通の飲み物だ。
 ぼくが思うに、「おいしい」というのは、体が、心が喜ぶ何かなのだろう。今自分がここに存在していることの喜びを、全身で感じることのできる、その感覚なのだろうということだ。その喜びを感じる要因として、食べる場所も関係するのかもしれない。
 八月だというのに十分に寒さの厳しい、標高五千メートルの山の上。チベットの祈りの空気漂う神聖な土地で飲んだ、このベジタブルスープが、ぼくを、いや旅人全員を感動させているのだと思うと、感慨深かくなってきた。また、このスープを飲むためだけに、ぼくはカルドゥン・ラに行きたい。まあ、それは嘘なんだけど。
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