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第三章 試されるキズナ
18 正義の代償(2)
しおりを挟む事故から3日が経ってもユイは目覚めない。
「なぜ目を覚まさない?麻酔はもう切れたのだろう?」
――もしや手術で何かミスを犯したのか…!――
ユイの眠る特別病室にて、同席する新堂にラウルが問う。声音は穏やかだが、明らかに怒りが見える。
――言われると思ったよ!全く短絡的だ――
新堂は心の中で罵りながら、平静を装って答える。「おっしゃる通り、麻酔で眠っている訳ではありません」
「ドクター新堂、よもや失敗したのではあるまいな?」
「ダン。それは言いがかりというものだ」
「っ!申し訳ございませんっ」
本当は自分も同意見のラウルだが、ここは紳士な応対を心がける。それが叶ったのはダンのお陰である。
――ダンが言わなければ私が言っていた。…礼を言う――
「脳の機能は複雑なものです。複数のネットワークによって、様々な生命活動が実行されている。このネットワークに少しでも支障が出れば、こういう事も起こり得ます」
――初期の昏睡期間が長引くほど、後遺症も大きくなる傾向にある――
こんな事実は心に留める。これは医者サイドの見解だ。そうなるとも限らない。
「…まさかずっとこのまま、という訳ではあるまい?」
「場合によっては」これは避けられない回答だ。
新堂のこの言葉に、耐え兼ねたラウルの手が懐に伸びた。
「ラウル様っ、お気を確かに…」
ダンにこう諭されて我に返るラウル。
――ここでこの男を殺しても何の意味もない――
やや冷静さを取り戻して質問を始める。「目を覚まさない確率はどれくらいだ」
「断言はできませんが、意識が戻る確率の方が格段に上ですね」
「それは本当か!」
「ええ。ただ心配なのは、目覚めた時に、同時に痛みや苦しみも始まります」
「意識がないせいで、痛みも感じずに済んでいると」
「その通りです」
穏やかな寝顔を前にしては納得するしかない。
――それでも目覚めてほしい。これは私の我がままか…。ユイはどちらを望む?――
しばし悩んだ末に、ラウルは新堂を見る。
「何か手はないのか。目を覚まさせる方法は?」
憂いを帯びたエメラルドグリーンの瞳に見据えられて、新堂も目を逸らせない。
――それにしてもこの男の虹彩は美しい…こういう色は珍しいな――
ラウルと見つめ合う形になっている新堂を、ダンは物凄い形相で睨んでいる。
殺気を感じた新堂は若干怯んだが、気を取り直して医師としての務めを果たすべく淡々と答える。
「外部からの刺激は大切です。積極的に声掛けやスキンシップをしてあげてください。ただし過度の刺激は体に負担になるので厳禁ですが」
「よし。声掛けとスキンシップだな。ユイ、私はここにいる、早く目を覚ませ…」
「ユイ様!ラウル様のためにも、直ちに目を覚ましてください!」
「ダン!…うるさい」
「申し訳ございませんっ!」一々につけ声がデカいダン。
後ろで新堂がため息をついていた。
――やれやれ…!この二人が漫才コンビに見えて来た――
それから一週間、二週間と過ぎ、三週間が経った今日も、ラウルは面会時間を完全無視して病室に留まる。
言われる前からしていたスキンシップ、ユイの手を握ったり頬に触れたりキスをしたりの回数は格段に増え、今ではナースに教わって体のマッサージも手掛ける。
だがこんな努力も虚しく、何の変化もない。
最上階の特別室。ドアの前には警備担当のフォルディス家の部下が、サングラス越しに目を光らせている。
ここに出入りできるのはダンと新堂だけだ。
時折ナースが身の回りの事をしに来るが、もちろん新堂の依頼によるもの。病院スタッフさえも立ち入り禁止となっている。禁止されなくても誰も寄り付こうとは思うまいが!
「ラウル様、少しお休みになってください。その間は自分が代わりに付き添っていますので」
「…ああ、では少しだけ頼む」
やつれた顔のラウルが、名残惜しさを振り切って立ち上がる。
――ああ…何と言うお姿。ラウル様、一刻も早く何とかして差し上げたい!――
ダンはラウルの背を見守って心から思う。
この状況を打破するには、ユイに目覚めてもらう以外にない。
「何かあればすぐに私か新堂を」
「分かっております!さあ、ラウル様はまずお食事を」
「くれぐれも騒ぐなよ?お前の大声などでユイは起きんのだから」
「もちろんですとも!」
何度も愛おし気にユイを振り返り、そしてダンに気の済むまで言いつけ、ようやくドアが閉じられた。
「…っ、ユイ様」
今日も静かに眠り続けるその美しい顔を、泣きそうな顔でダンは覗き込む。
今では誰よりもユイを知る同志のような立場だ。その熱量はともすれば、ラウルを上回るかもしれない。
そんなダンの心境が穏やかなはずがない。
「あれ程に非の打ち所ない王子、ラウル様のキスでも目覚めないとは、とんだ眠り姫だ!」
それは次第に怒りへと変わる。
「なぜ目覚めない?新堂の言うように、目覚めて痛みや苦しみを味わうのが怖いのか?愚かな!あのようなラウル様を、お前はいつまでも見ていられるのか?いつまで甘ったれているつもりだ!目を覚ませ!今すぐにっ!」
怒りは言葉となって滔々とダンの口から溢れ出す。
それでも収まらずついに手が出た。
ユイの細い首に両手が掛かる。あまりにも頼りない。片手だけで容易く折れるだろう。そこへあえてダンは両手を掛ける。
「俺は知っている。お前はこんな事で終わるような人間じゃないと。ほら、早く目を覚まさないと呼吸も止まるぞ?早くっ、目を覚ませぇっ!!」
思い余って力の加減を忘れそうなダンの目に、僅かにユイの表情の変化が映った。
「…んっ」その口から吐息のような声が漏れる。
無意識に態度が改まる抜かりないダン。「ユイ様っ?分かりますか、ユイ様ぁ!」
今やベッドに馬乗りになっている。
そんな事も忘れてユイの顔を真上から見下ろす。
そんな最中にドアが開いた。何という運の悪さか。
「…」
「っ、ラウル様…」
「そこで何をしている、ダン!」
「こ、これはその…誤解なさらないでくださいっ」
足早に病室に入り、すぐさまダンをベッドから引き摺り下ろして床に転がす。
「何を考えている?ユイが魅力的なのは分かるが…」
――意識のない女性を手に掛けるなど!見損なったぞ、ダン?――
「違います!信じてください、自分は誓ってそのような…ああそれより、今ユイ様が声をっ!」
「ユイが目を覚ましたのか!」
二人揃ってユイをまじまじと見下ろす。
「ううっ…。ん…」
「ユイ!聞こえるか、ユイ!新堂を呼べ」
「はっ、直ちに!」
ダンは呼出しブザーの存在を忘れて廊下に飛び出した。
「待ち焦がれたぞ、ユイ…早く私をその瞳に映してくれ。おまえの可愛い声で名前を呼んでくれ…」
床に膝を付き、ベッドに肘を乗せてユイの手を握るラウル。このチャンスを逃すまいと声を掛け続ける。
そのセリフは徐々にエスカレートして行く。
「おまえなしでは私は生きて行けない。それがよく分かった。愛するユイ、早くおまえを心行くまで愛したい。心配せずに目を覚ませ。痛みなど忘れるくらい、私が愛してやろう、身も心も…」
ドアの前まで来ていた新堂とダンだが、漏れ聞こえて来た熱烈な愛の言葉の数々に足が止まる。チラリとダンを見て、先に入れと促す新堂。
それを察してダンは意を決してドアを叩いた。
「あの…ラウル様、ドクター新堂を連れて参りました。入ってもよろしいでしょうか?」
「何を断る必要がある、いいから早く来い!」
部屋の中から浴びせられた罵声に、元々いいダンの姿勢がさらに伸びる。
「はっ!」
「…あなたも大変ですね」
必死なダンを見て、新堂は思わず同情してしまった。
病室内に入ると、ユイが苦痛の表情を浮かべている。
「意識が戻りそうなんだが…」
「そのようですね。診察しましょう」
位置を新堂に譲り、ラウルが横に移動する。手際良く診察を進める新堂を見守る。
それは単なる診察の一環として触れていたに過ぎない。そして最後に新堂の手がユイの額に乗った。
その温もりなのか重みなのか、何かに反応したようにユイが目を開けた。
「ようやくお目覚めだな、眠り姫」
新堂はユイの額に乗せていた手をそっと離し、騒ぎ出しそうな気配を察してラウルとダンを手で制す。何も言うなと。そして新堂がユイに向かって尋ねる。
「ここは病院だ。自分の名前は言えるか?」
このセリフを受け、二人は名前を叫ばずにいた事に安堵した。
固唾をのんでユイの発する声を待つも、その唇は薄く開かれているばかりで何も告げない。表情も虚ろだ。
「声が聞こえていないのか?」ラウルは不安で堪らない。
「それはないと思いますが…」新堂も思案顔になる。損傷部位が聴覚神経に関係しない事を頭の中で再確認した。
「話しかけても?」ラウルが申し出る。
「…ええ、どうぞ」
「ユイ、私が分かるか?ラウルだ。ラウル・フォルディスだ」
「ユイ様!私はダンです!ラウル様の腹心です!」
「ダンさん、もう少し声のボリュームを下げていただけますか?」
「そうなのだ。いつも言っているのだが」
ラウルにジロリと睨まれダンが縮こまる。「申し訳ございませんっ…つい興奮すると」
そんなダンの興奮という言葉で、ラウルが思い出す。
「そういえばお前はさっき、ユイに何をしていたのだ?」
「ユイさんが目を覚ますきっかけですね。私も是非知りたい、教えてください、ダンさん」
――愛するフォルディスのキスでも起きなかったのに、側近のこの男が一体何をしたのか、大いに気になる!――
新堂も同調してダンを問いただす。
「えっ、そ、それはその…」
――クソっ、首を絞めていましたなんて言えるか?…どうする、どうするダン!――
そんなダンに救いの手を差し伸べたのは、何とユイだった。
「うう…ああ…。んっ…」
声を受けてすぐさまその場の視線はユイに戻る。
新堂がすぐに応じる。「どうした?どこか痛むのか」
先程よりも苦し気な表情のユイ。その左手は左側頭部に当てられている。エメラルドリングが窓からの日差しに反射して煌めいた。
「ああ…っ、う、ん」
「今のは肯定か?よし、強めの鎮痛剤を入れよう。…ああ、特別室の新堂だが、薬剤を追加したい」
新堂はナースコールを押すと、その場で指示を出し必要な物を用意させた。
運ばれてきた注射器に、今度は明らかにユイが反応した。それは強烈な拒絶だ。
「ああっ!ん!」
「痛みを取り除くためだ。大人しくしろ。すぐに済む」
「…い、い、やぁ!」
「新堂、ユイが嫌がっている。これは過度の刺激には入らないのか」
冷静なラウルが指摘する。何よりも嫌がるユイを無理やりに従わせようとする新堂が気に入らない。
「激しい痛みを感じ続けるのは体に障る。どちらを選択すべきか、説明しなければ分からないか?」
「…」
黙ってしまったラウルを見て新堂は気づく。
――しまった、つい本音が…――
これまで言葉を選び続けて来たが、ついにポロリと本音が出てしまった。
これまで叱られ続けて来たダンは、こんな状況にあってもさすがに黙り込んでいる。
焦る新堂だが、この時ラウルは逆に関心していた。
――…確かに。やはりこの男は優秀なドクターだ――
「余計な事を言った。治療を続けてくれ」
「ご理解いただけて何よりです」
悲鳴を上げて泣き始めたユイを押さえつけて、新堂は容赦なく針を刺した。
――何と容赦のない…。ユイ様が可哀そうに見えて来たぞ。やはり新堂はユイ様を想ってはいない――
改めて再確認できたダンは、どこか気が晴れた。
「ラウル様、ユイ様の声が聞けましたね。良かった良かった!」
「こんな悲鳴まがいの拒絶の言葉で喜べと?」
「いえ、ダンさんの意見は正しいですよ、フォルディスさん。ユイさんは恐怖の対象である注射器を認識して、拒絶の意思を言葉と態度で示せたんですから」
「そうか…。そうだな」
あらゆるモヤモヤを封印して、ラウルは自分を納得させた。
「目を覚ましてくれただけで十分だ。ユイ、ありがとう」
――ああ…何と尊いのだ!ラウル様、ダンは一生ついて参ります!――
ダンがウルウルした瞳をラウルに向けているのを、新堂は抜かりなく見ていた。
――この二人の関係は大体分かったぞ。なかなか面白いものを発見したじゃないか、ユイ?これは確かに手放しがたいな――
ユイがなぜフォルディス家を気に入っているのか、新堂は何となく分かった気がした。
だがこの見慣れたはずの光景を前にしても、ユイは何の反応もしない。
――自分の名前すらも言えないか。これはなかなか厳しいな――
新堂の表情は険しくなる。
ラウルを残して病室を出た新堂とダン。
「ドクター新堂」
唐突に声を掛けられ、警戒する新堂。「はい…?」
「今後ともユイ様を、どうぞよろしくお願いいたします」
ダンはかしこまって深々と頭を下げた。
「そんなやめてください、頭を上げてください、ダンさん」
――また脅し付けられると思ったよ!どういう風の吹きまわしか――
スキンヘッドを持ち上げた大男ダンが新堂を見下ろす。
「自分はあなたを誤解していたようです。これまでの無礼、謝罪いたします」
「どうしたんです?急にそんな!」ダンの態度急変に、新堂は首を傾げるばかりだ。
廊下の突き当たりの休憩スペースに辿り着くと、新堂が据え付けのソファに腰を下ろす。軽くため息をついて、窓の外を眺めながら呟くように言った。
「大変なのはこれからですよ…」
「そっ!それはどのような意味で!」
慌てたダンが即座に新堂の横に陣取り、縋るように問いかける。
ここでダンに細かい話をするつもりもない新堂は、ラウルには言えない一番重要な事だけを伝える。
「朝霧ユイを知る者ならば分かるはず。フォルディスさんとの甘い時間だけでは、回復は難しいかもしれない」
「んなっ、何だと?!ふざけるな、ラウル様にできない事などない!」
「っ!落ち着いてください!これは私の見解です。どうなるかは分かりませんから」
新堂に掴みかからんばかりのダンだが、言い分は何となく分かっていた。それはユイが、キスではなく首を絞められて目覚めた事とも繋がる。
甘い愛ではユイは戻らない。危険が迫って初めて覚醒するような奴なのだと。
「ああ、そういえば一つ気になっていたんですが…」ある事を思い出した新堂。
「何です?自分に分かる事でしたらお答えします」
「今回の自動車事故ですよ。彼女の運転技術はかなり高かったと思うんですが、一体どのような状況だったんです?」
ダンは一瞬躊躇ったが、真っ直ぐな新堂の視線を受けて口を開いた。
「ユイ様を良くご存じのあなたなら、その正義感の強さもご存じでしょう?」
「それはもう!…つまり、誰かを助けたんですね」
「そうです。横断歩道を渡る子供達を救うため、暴走したトラックに車ごと突っ込んだんです」
新堂は頭を抱えた。薄々分かってはいたが、事実を突きつけられてはこうなる。
「理解できない!自分の身を犠牲にして他人を助けるなど?大切な相手ならともかく、赤の他人だぞ?何の得もないではないか!その結果、ラウル様をこんな目にっ」
「…ええ、全く。私にも分かりませんね」
――フォルディスが疫病神な訳ではなかったか――
新堂もまたラウルやダン同様、正義感など持ち合わせてはいないのだ。
この男が人を助けるのは単に、カネと技術向上のためである。
「ですが、それが朝霧ユイなのです。フォルディスさんはそれも受け入れているんでしょう?」
「…分かりません」
「は?だってお二人はご結婚されると…」
「ご婚約中です!ですが分かりません!ラウル様が一体どうお考えなのか…」
これを聞いて新堂は開いた口が塞がらない。
――何て事だ!全然分かり合ってないじゃないか?繋がっているのは体だけ、とか?…不愉快極まりない!――
本気で自分がユイを奪おうか、新堂にこんな考えが芽生えつつあった。
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