この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第一章 幸せのシンボルが呼び寄せたもの

3.大震災の教訓(1)

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 穏やかな五月の昼下がり、私は珍しくピアノに向かっていた。

 私のマンションにあったグランドピアノをここへ運んだ理由は、新堂さんに弾いてほしいからだ。
 その昔、一目惚れして衝動買いした白のピアノ。ただのインテリアとして買ったものだが、意外な事に新堂さんが弾ける事が分かって(それもプロ並みに!)、めでたく本来の役目を果たせる事となった。何を隠そう私は弾けないので?

 新堂さんは幼い頃ピアノに触れた事でその才能に目覚め、一時はピアニストを目指していたとか。けれど、表現(?)の問題で断念したそうだ。
 律義な彼はそれ以来ピアノから遠ざかっていた。

 貰った指輪がキラリと光る左手でコードを押さえながら、鼻歌を歌っていた時だ。

「えっ何?地震……?」
 ゴゴゴ、という音を伴い、室内が大きく縦に揺れる。すぐさまピアノの鍵盤から手を離し蓋を閉じる。
 揺れは収まるどころか、方向を横に変えてさらに大きく揺れ続ける。

「ユイ!大丈夫か!」
「新堂さん!地震、酷い揺れ……」

 書斎の本棚からは大半の書籍が落ち、花瓶は落ちて割れる。急いで食器棚の戸を閉めに向かったが遅かった。
「お気に入りの食器が……っ」
「そんな事はいいから!室内は危険だ、外へ逃げよう」

 差し出された手を取り、真っ直ぐに歩けないくらいの揺れの中、共に外へ出る。
 ここは小高い丘になっているため、大地が揺れる異様な光景が一目瞭然だ。
 どのくらい続いただろう。こんなに長く激しい揺れは経験した事がなかった。そしてこの地震は後に、凄まじい被害を発生させていた。



 地震から三日目の朝、東北のある地方から電話が入った。この震災で被害にあった家族だった。

『新堂先生。どうか、お願いします。妻と娘を……助けてください!』
「なぜ私の所に依頼を?」
『あなたのお噂は、良く耳にしておりました。どんな事をしてでも、妻と娘を救いたいのです……』
「費用がかかりますよ、いいんですね?」
『構いません!一生かかってでもお支払いします!どうか、どうか……』
 電話口で必死に懇願する男性の声がここまで聞こえる。それに対し、彼は沈黙した。

 何を迷っているのか?ボランティアはやらないが、依頼があれば行くと言ったのを私はちゃんと覚えている!
 私としては助けられる命は全て助けたいと思う。だがひねくれ者のこの人は違うようで、これも私達がぶつかる要因となっている。

 横で動向を窺っている私にチラリと視線を移す彼。ここぞとばかりに強く無言のメッセージを送った。その人達を助けてと。

「……分かりました、伺いましょう。二人分で四千万用意してください」
『ありがとうございます!本当に、ありがとう!』

 電話を終えた彼から、小さなため息が聞こえた。
「新堂さん!ありがとう!」
 報酬の額には少々問題ありだが、ここは一先ず良しとしよう。

「何だか、おまえに依頼されたようなもんだな」
「依頼が来たら考えるって言ってたでしょ?」
「考える余地もなかったがね!」
 嫌味をスルーして申し出る。「私もついて行っていい?」
「ダメだと言っても来るんだろ」苦笑いの私に再びため息をつく新堂さん。「まあ、ここに一人残して行くのも心配だしな」
「そうそう!」

 この際理由などどうでもいい。どうしても何かしたい、せずにはいられない。
 メディアは連日、この震災についての報道を流している。それは地震ではなく大津波で流された多くの町や人々だ。
 様々なところで、感動の瞬間や悲痛な叫びが巻き起こっている。こんな私が助けられる命が一つでもあるなら、大喜びで飛んで行く!

「ただし!危険な事には絶対に手を出すなよ?約束を破った時点で、おまえに自由はなくなるからな」
「いつもよりも迫力のあるお言葉で……」肩を竦める私に、「それだけ、おまえを心配してるって事だ」と彼が言った。

 まだ私の体は不安定だ。強い興奮状態にさらされ続ければ、甲状腺疾患の再発の可能性だってある。以前のように身軽に動けないという心配も……。

「分かってる。手は出さないって約束するわ」
「よし。では行くか」



 こうして私達は、早々に被災地へと向かったのだった。

「ユイ、その指輪、まだ着けてるのか」
「もちろん!お守りにするつもりだから」
 命の次に大切なお守りのコルトが手元にない以上、それに代わるものとして。
「何で?」
「いや。渡しておいて何だが、あんまり似合ってないなと思って」
「そんな事ないよ。結構気に入ってるんだから」

 今は鉄の塊を握る事もない。利き手の左にこれがあっても邪魔にはならない。その上、暴れるのを禁止されているのだから、なおさら問題ないではないか?
 ハンドルを握る彼に、左拳を握って突き出してみる。

「そうやって武器にする気だな?」
「違うって!」そういう意味ではなかったのだが。
「分かってるだろうが……」と助手席を睨む彼に、「暴れません!」と言い放つ。
「よろしい」

 こんな事を言い合いながら車を走らせる。ガソリンスタンドに差し掛かった時、長い長い車の列に出くわした。
「どこもガソリンスタンドが大行列ね」
 ガソリンは輸入で賄っている。その給油の船が港に着けないのだ。
「帰りはこの車も給油しないとな……」うんざり気味に彼が言う。
「そうね……。とにかく、先を急ぎましょう」


 高速道路は閉鎖されており、下道でひたすら進むしかなかった。都市部を抜けて震災に遭った地域に入ると、途端に通行量は減って閑散とした光景が続いた。
 至る所で地震の爪痕を感じつつ辿り着いたのは、とある港町。ここにも大津波の被害が生々しく残っていた。

 依頼人の指定した病院は、小高い丘に建っていたため津波の被害は免れたようだ。そこからは、津波に流され跡形もなくなった街が一望できた。

「新堂さん、先に依頼人の所へ行ってあげて」
「ユイは?」
「少し、気持ちを落ち着けてからにする」
「分かった」

 彼を先に行かせてから、私はその先の海を見つめた。沖の方に海上保安庁の巡視艇が見える。流された人々の捜索をしているのだろう。
「言葉にならない……」

 しばらく呆然と見守っていたが、気を取り直して病院内に進む。雑然としてはいたが、思ったほどケガ人で混雑している様子はない。
 むしろここは、家を失った大勢の住民の避難所と化していた。

 廊下の突き当りから彼が現れた。
「ユイ」
「新堂さん!患者さんには会えたの?」
「ああ。あまり先延ばしにはできない状況なんだ。これからすぐにオペをする」
「そう。成功を祈るわ」

 軽く手を上げて彼が答える。私達は一旦別れた。
 精神的な疲れを感じて、長椅子に腰を下ろし大きく息を吐いた時、「どなかたのお見舞いですか?」と横から声をかけられた。
「あっ、いいえ。私はドクターのお供で、神奈川から来ました」
「まあ!神奈川から?それは遠い所、ありがとうございます……」

 ナースに頭を下げられて、慌てて椅子から立ち上がって首を振る。
 着席を促され再び腰を下ろした。

「あの。震災でケガをされた方は、あまりいらっしゃらないんですね」
「ええ……みんな軽症です。掠り傷とか、捻挫とか。中には骨折されたお年寄りもいらっしゃいましたが。ほとんどが、津波に流されて行方不明の方なんです……」
「そうですか」
 まさに生きるか死かだったのだ。それを決めたのは一体誰だ?やり切れない。

 拳を握り締める私にナースが言う。「悲しいし悔しいし辛いです。でも、残った私達が力を合わせて、生きて行く事が大事なんです」
「そうですよね!」私は立ち上がった。
「どちらへ?」
「ちょっと港へ行って来ます。新堂先生が戻ったら伝えてください」

「あっ、ちょっとあなた、港って一体何をしに……」
「朝霧ユイは港へ行ったと伝えてください!」もう一度ナースにはっきりと伝えた。

 足早に外に出ると、表に町役場のワゴン車が来ていた。

 その場を仕切っているふうの男性に声をかける。
「済みません!私も乗せてもらえませんか?」
「君は?」と聞かれて「ボランティアの者です。バスに乗り遅れちゃって……」と当たり障りなく答える。
「ああそう。ご苦労さん!じゃ、乗って!」

 中には数人の若者が乗り込んでいた。どうやら皆、県外から来たボランティアのようだ。私だって気持ちは一緒だ。

「やあ、君も支援活動に?」ボランティア青年の一人が私に声をかけてくる。
「ええ。まあ……」
「これから空港へ行くんだけど、一緒にどう?」
「空港へ?」
「そう。空自の人達と協力して瓦礫の除去をね」
「突然ついてってもいいの?」
「もちろんだよ。現状を是非見てほしいな」

 私は港行きを変更して、空港へと向かった。


 現地に到着し、ボランティア青年達はキビキビとした動きで航空自衛隊員に誘導されるまま去って行った。
 彼等を見送った後、滑走路が一望できるデッキに出る。まだ至る所に瓦礫が散乱しており、空港としての機能を果たせる状況ではなかった。

「ここでお手伝いしたいところだけど……あんまり時間ないのよね」腕時計を確認する。オペはどのくらい進んだだろうか。
「でも、港へ行ってるって伝えてあるから、いっか!」

 そう思い直し、病院へは戻らずに港へと向かう事にした。
 お次はたまたま居合わせた米軍の装甲車に乗せてもらう事ができた。現状などの情報を入手して、手頃な場所で降ろしてもらう。

「グッドラック!」若く逞しい青年が力強く言う。
「サンキュー!」
 あまり多くは話せなかったけれど、この人達には本当に感謝しかない。即座に二万を超える人達が救援に駆けつけてくれた。やっぱり私も何かしたい。

 一人になり、目の前の濁り切った海を眺める。未だどす黒いその色が、ただならぬ不安をかき立てる。
 その先の岩場に、ウエットスーツ姿の女性が座り込んでいるのが見えた。

「うう……っ。くっ!」
 どうやら泣いているようだ。無遠慮だと思ったが、首を突っ込まずにはいられない性格の私は声をかけた。「ねえ、どうかしたの?」
「あ……っ!なっ、何でもないです!」

「海上保安庁の、方ね」ウエットスーツに印字された文字を読み取っての判断だ。
「そうだけど、そうじゃないのかも」
「え?」
「だって私、足手まといだし。今も、邪魔だから向こうへ行ってろって言われて」悔しそうに沖合いの仲間を見つめて言う。

 彼女の横に座って、一緒にそちらを眺める。
「……大変だね」
「女は損だよ!好きで女やってるんじゃないっつーの!」
「それ、良く分かるっ!」
 すぐさま頷いた私に驚いている。「何であなたに分かるのよ?あなた、何してる人?」
「今は、何も。私も世界中の戦地とか、紛争地帯とかに行ったことあるから」
「あなたが?!」小柄な私を見て再び驚いている。

「ふふっ!大丈夫よ、あなたは私よりも体格いいし。見た目も男共に負けてないわ!気合だって、負けてないでしょ?」
「気合、かぁ……」
「苦しい、疲れた、もう嫌だでは、人の命は救えない、だっけ?」
「特救隊のモットー!どうしてそれを?」
 これは海上保安庁の特殊救難隊という専門部隊の合言葉的なものだ。

「私も同じだから。別の世界にいるけど、気持ちは同じつもり。頑張って!女のあなたにしかできない事が必ずある。それを見つけるのよ。向こうの男共が気づかないような、繊細な目が必要な場面で。女だからこそ感じる事を」

 落ち込んでいた彼女の目が変わった気がした。

「名前、聞いてもいい?」
「朝霧ユイ。よろしく」私は右手を差し出す。
 その手を力強く掴んで彼女が立ち上がる。
「私は、弓削真澄。私、頑張ってみるわ。朝霧、ありがと!」
「ええ、頑張って、弓削さん!」

 そして彼女は笑顔を取り戻して、目前の海に飛び込んで行った。

 その直後、後ろから聞き慣れた声が降ってくる。
「手は出していないようだな」
「しっ、新堂さん!……ビックリした、いつからいたの?」
「おまえが熱弁を奮い始めた頃かな」
「もう……。参ったなぁ」

 新堂さんは海に帰って行った彼女を見守りながら、ポケットに手を突っ込んだ。

「ユイを連れて来て良かった」
「叱られるどころか、予想外のセリフね」
「叱るものか。おまえの言葉は、人に勇気を与えられる。命懸けで全てに立ち向かって来た、朝霧ユイの言葉だからこそだ」

 そんな事を言われ、私は思わず下を向いた。
「おいおいユイ、泣くなよ!」
「泣いてない!違うわ。……私は、彼女達には敵わない。そんなんじゃない」こう訴えて再び顔を上げた。何の感情も見せないように気を付けながら。

「ところで新堂さん、オペはどうだったの?」
「ああ。二人とも、もちろん上手く行ったよ」
「良かった」

 沖合いから、弓削さんが私に手を振っているのが見えた。

「もうあんな所まで!?早い!」私も大きく両手を掲げて振り返した。
「まるで人魚姫だな」
「ええ。逞しい人魚姫よ。あ~、私も手伝いたい!」
「ユイ?何か言ったか」
「願望よ、願望!」

「二、三日患者の様子を見たいんだが……大丈夫か?」
 大丈夫かだなんておかしな質問だ。「もちろん。何を心配してるっていうの?」
「……あまり、長居はしたくないんだがね」
「心配しなくても、私は何もしないわ」

「そう願うよ」新堂さんが肩を竦めて言った。


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