この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第四章 不屈の精神を養え

35.忍び寄る影(1)

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 午前三時。隣りのベッドから叫び声のようなものが聞こえた気がした。
 辺りはまだ暗い。いくら早起きの新堂さんでも、まだ起床時間には早いだろう。

「……新堂さん?どうしたの、今……何か言った?」
「ごめん、起こしてしまったな」
 気づくと、彼はなぜか私の腕を取って脈を診ているところだった。
 そっと腕を戻して、頬に触れてくる。

「……私、何かあった?」
「違うんだ。ユイは大丈夫。ちょっと、おかしな夢を見てね……」
 違うという割に、私は心配されている気がするのだが。
「珍しいじゃない、あなたが夢なんて……」
「まだ夜中だ。お休み、ユイ」
「うん……お休み……」

 額にキスが落ちると、再び私の意識は眠りの世界へと沈み始める。

「全く、後味の悪い夢だった」
 こんな彼の呟きが、遠くの方で聞こえた。


 そして翌朝。リビングに行くと彼の姿がない。いつもは朝食を済ませて新聞を広げているのだが、まだ起きていないのか?
 少ししてようやく彼が現れた。

「おはよう、新堂さん!」
「ああ、おはよう」どこか眠そうに答える彼に、「眠れなかったの?」と問いかける。
「……まあな。それもこれも、あの変な夢のせいだ」
 そういえばそんな事を言っていた。「何だか疲れた顔してるわね」

「そうか?確かに、少しだるいかもな……」自分の額に手を当てて呟く。
 何があってもケロリとしているこの人でも、たまにはこんな事もあるか。
「ねえ、もう少し寝てたら?今日はお仕事入ってないんでしょ」
「出かける用はないが、大丈夫だ」私の提案はあっさり却下された。

「無理しないでね。立て続けに海外に行ったりして疲れが出たのよ、きっと」
「そうかもな。おまえも同じ条件のはずだが……大丈夫そうだな」私を見て言う。
「私はあなたほど神経すり減らしてないから?全然平気!」
 こんな事を口走ってしまい、慌てて訂正する。「あっ、だから私は仕事じゃないって意味よ?」思い違いほど恐ろしいものはないので。

 ここ数ヶ月、ほぼ連続であちこち飛び回った。特に彼はフランスでひと月の山籠もり生活から始まる。そして二人でシカゴとイギリス。疲れが出てもおかしくない。

「なあユイ。シカゴで入手した漢方薬、飲んでくれてるか?」
「あっ!また忘れたぁ……」
 私の回答を聞いて、やっぱり!と肩を竦める。

 それは彼がシカゴに行った時に入手したもの。追跡していた時に入った怪しげな建物は、闇ルートで仕入れた薬を売る店で、一般に出回っていないこの漢方薬を購入するためだった。それはつまり私のため。面白がって追及しなくて良かった。

「漢方は飲み続けないと意味がないんだ。頼むから真面目に取り組んでくれよ」
「ごめん……食前って言われるとねぇ。忘れちゃうのよ!」
「誰のためにしてると思ってるんだ?」
「はい。私のためです」
 最近は鳴りを潜めているが、耳鳴りや耳閉感、そして立ち上がれないほどの眩暈だってまだ起きる。この症状を少しでも改善しようとしてくれているのだ。

「新堂さん……ホントにゴメンなさい。こうやってあなたをイライラさせてるのって私なのよね」つくづく思う。その昔私のストレスの元凶はこの人だったのだが?
「それはお互い様だろ。俺だってユイを怒らせてる。それにしたってあのイギリスでの事は異常だった。本当に済まなかった」威圧的態度から一転、今度はうな垂れる。
「ふふっ!私達、謝罪しあってるね」この言葉に、そうだな、と彼が笑った。

 お互い様。こんな時こそ、私達は相思相愛だと心から思う。

「だけど、今年は夏があっさり終わったね~。暑いの嫌いだから助かったわ」
「ああ。かなり凌ぎやすかったな。残暑もなさそうだし」
 九月に入り、すっかり涼しくなっている。

「今年は何だか天候不順だもんね……お陰で野菜が偉く高いのよ」
 生活費用のクレジットカード支払いの額が上がったのはそのせいよ?との説明も込めて言ってみた。
「お?これは珍しい。主婦のような話題だな!会社のご婦人方の受け売りだろ」
 ……気づいてくれる訳ないか。「え~え~、そうですが!文句ある?」

「それで、悪夢見たって?どんなの?」興味津々で聞いたのだが……。
「夢?さあ……何だったかな、忘れてしまった」
「え~っ!嘘でしょ、早くない?忘れるの!」あんなに憤慨していたではないか?

「私なんてね、夢の内容ずっと覚えてるよ。それも三、四歳の頃に見たものまで!」
「それは凄い……。そこまで来ると、ある意味特技だな」
「全然役に立たないけどね~」肩を竦めて首を振る。
「どこかの研究者が言ってたが、トレーニング次第では覚えていられるようになるらしい」
「どうやってトレーニングするの?」
「夢日記を付けるんだそうだ」

「へえ~。あなたやったら?」私には全然必要ありませんので。
 新堂さんが即答した。「下らん。時間のムダだ」
「キビシ~イ。自分で話題出しといて!」

 彼が食事を終えたのを見計らって、外出したい旨を伝える。

「ああ。それなら車、使っていいぞ」
「ありがと!」その言葉を待っていたのだ。「昼過ぎには戻れると思うけど」
「ごゆっくり」
「何かあったら連絡してね」
 ポツリと彼が呟く。「……。いつもの逆パターンだな」
「何が?」
「いや、何でもない。気をつけて行け」

「これで俺は、ここに足止めされたって訳か」
 新堂さんのこんな声が後ろから聞こえた。
「そうそう。疲れてるんだから、あなたはゆっくりしてください!」

 私が車を使って行く場所は決まっている。コルトの弾丸調達だ。


 目的を終えて家に帰る。時刻は午後二時を回ったところだ。

 荷物を自室に運んだ後、彼の書斎に顔を出す。「ちゃんと家にいたわね」
「いるさ。ユイじゃあるまいし?」
「何ですって?」
「ちゃんと健康診断もしたからな」こんな言葉に不安になる。「えっ、そんなに具合悪かったの……?」少々の疲れだとしか思っていなかった。

「ああ……いや、そうじゃないんだが、最近きちんと調べてないなと思ってね」
 例え医者でも健診は必要だ。だが、何かを隠しているようにも見える。
「……そうよね。で、どうだったの?」取りあえずこう返す。
「異常なしだ」
「なら良かった!」

「俺も運動しないとなぁ。最近すぐに疲れる。きっと運動不足だな」
「そうよ!大事よ、運動。安心して先生!ユイさんが指導してあげる。何やる?ゴルフかテニス……ああそれとも、基礎トレーニングからがいいかしら」
「やっぱりそう来たか。余計に体を壊しそうだ!」
「新堂先生っ!真面目に答えてください!」この言葉に彼が力なく笑っている。

 そんな彼の顔をまじまじと見て思う。

「運動不足って言うけど、別に太ってないよね、新堂さん。むしろ痩せた?」
「ああ。二キロほど減っていた。あまり食べてなかったからかな。運動すれば腹も空くだろ?」
「そういう事なら何かやろうよ!私も最近怠けがちだから、気を引き締めないと……」ブツブツ言いながら立ち上がる。

 彼を指南する前に、まずは自分なのでは?との思いに至ったのだった。


 夕食の時間、食べ始めて少しすると、彼が箸を置いた。

「あら、もう食べないの?」
 どの皿もまだ半分ほどしか減っていない。
「今日はずっと家にいたし、ほとんど動いてないから、腹が減ってないんだ」
「そんな事ってある?!私なんて、寝てるだけでもお腹空くけど!」
 新陳代謝が活発な証拠だ、と笑って答えて席を立ってしまう。

「あれこれ悩んでられないわ。こうなったら一緒にストレッチしよう、新堂さん!」
 こんな提案も後ろ手を上げて煙に巻き、さっさと行ってしまった。


 そんな事が続き、数日後。仕事を終えて、いつものように家へと続く丘を登って行くと、庭で洗車をしている彼の姿が見えた。

「見違えたわね!ようやく高級外車っぽくなったわ」
 新堂さんの車はいつだってピカピカだった。ここ最近の彼はどこか変だ。
 まるで彼の体調を表すかのように、埃を被って白くなっていたクワトロポルテ。

「おお。ユイ、お帰り」
「ただいま。疲れ、取れたみたいで良かった」彼の顔を見て微笑む。
「久しぶりに洗車したよ」
「ふふっ、お疲れ様」
「早速ドライブにでも行くか?」
「いいわね。じゃあ着替えて来る」

 家に入って行く私を後ろからいつまでも見ている彼に、振り返って声をかける。
「あなたも、着替えたら?」
「あ?ああ、そうだな……そうするか」
 自分の服装を見下ろして納得したようだ。水飛沫を浴びてかなり濡れていたから。

 支度を終えて車に乗り込むと、運転席に乗った彼が聞いてくる。
「さて。どこに行く?」
「どこでも」
「北か南かだけでも決めてくれ」
「じゃあ……西にする?」もう夕方だから、夕焼けでも堪能しよう。

 新堂さんは頷いてサングラスを掛けた。

「それすると、一気にワルになるわね、新堂さん!」
「そうか?西に向かうなら必要だろ?」
「思い出すなぁ、その感じで学校まで迎えに来たよね~」
「そんな事もあったな」
 当時はただの患者だった私をそんなふうに送迎してしまうほど、この人は昔から心配性だ。

「そうそう、私の友達の一人がね、あなたにちょっぴり恋心を抱いてたっけ……」
 紹介しろと何度もねだられたし、いつも私を羨んでいた。誓って言うがあの当時は私にとってはただの地獄だ!
 大体、出会って間もなく無免許と知っていたし、何より優しさの欠片もない男など、大事な友人に会わせられるものか。

「それは初耳だな。そういう事は言ってくれよ!」
 こんな返答が来るとは思わず……。「何よ、言ってたら何かあったの?」
「何かって?」しらばっくれている。
「こっちが聞きたいわよ!ご心配なく。彼女には、あの男はやめた方がいいって、ちゃんと忠告したから」

「恋のライバルは消しとかないとな」
「何が恋のライバルよ。残念でした!あの時の私の王子様は赤尾先輩ですから?」
「そうだったな。本当に残念だよ……」
 こんな返答は、本当に残念がっているのか上の空なだけか区別がつかない。

 ハンドルを握る彼を観察し続けていると、気がついた彼が言った。「……でも今は、俺がユイの王子様だろ?」
「もちろんです!」
 嬉しくなって運転の最中にも関わらず抱きつく。

 途端にクラクションが鳴り響いた。センターラインに迫って併走する車に鳴らされたのだ。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
「いや……、俺こそ……」
 何か言いたそうな顔をしていたが、それきり口を閉ざしてしまう。

 以前同じような事をした時は、わざと車を揺らされて怒られた。大抵そうだ。危ないだろう!と叱られる。けれどなぜか今日は違った。
 視界を塞いだ訳でもないのに、あそこまでハンドル操作を誤るとは……。

 気づけは辺りはすっかり暗くなっていた。
 西へと向かった私達は、箱根の山に辿り着いた。そこは霧が立ち込めている。
「ごめん、私が西だなんて言ったから……」
「こっちは全然天候が違うんだな。参ったな」

 バックミラーには、異様に眩しいヘッドライトの光が先ほどから映り込んでいる。どうやら、スピードを落として走る私達の車にイラ立っているようだ。
「運転、代わって」
「このくらい大丈夫だ。霧で見えないのはおまえだって同じだろ」
「いいからっ!」
 こんなふうに煽られてはじっとしていられない。それに彼はやはり調子が悪そうだ。

 しばしの黙考の後、渋々といった様子で新堂さんがポジション変更に同意した。

 私がハンドルを任された途端、さらに霧が深くなった気がした。でも問題はない。
「そう、私だって見えないわ。でも大丈夫、センターラインさえ見えればね!」
 こう宣言してスピードを上げて行く。

 しばらくして、前方にハザードランプを点けて路肩に停車している車を発見。何しろ直前まで見えなかったため、かなり驚いた。

「きゃっ……ぶつかるとこだった!さっきの車じゃない?何で停車してる訳?あんなに煽っておきながら」失礼しちゃう!と頬を膨らませる。
「この霧だ。さすがに運転不能と判断したんだろう」
「気に入らないわ!」
「おいユイ、あんまりスピード出すなよ……」

 こう言われた側から勢い良く例の車を抜き去る。乗っていた人間は大いに驚いた事だろう。

「全くおまえは!大雨だろうが霧だろうが、いつだってスピードレンジが変わらない。もう恐ろしくて見ていられん……」
 実際彼は、薄目を開けてドアの取っ手にしがみ付いている。
「無理しないで。目、瞑ってていいわよ」
 視界を遮断すれば、マセラティの小気味良いエンジン音だけが楽しめるはずだ。

 先を進んで行くと、路肩に停車している車は他にもたくさんあった。その横を颯爽と走り抜けるクワトロポルテは、神の車というより闇からの使者といったところか。

「大丈夫?新堂さん」
 しばらく経って彼の方を窺うと、「それはこっちのセリフだ」と即答される。
 さらに疲れさせてしまったかもと心配になった。「休憩、しようか?」
「大いに賛成だ。何よりも、おまえに休んでもらいたいね!」
「じゃ、霧が晴れた所で停めるね」

「もういっその事、ここで停めたらいいんじゃないか?」むしろそうしろと、そういうふうにも聞こえる。
「ここで?まっ白で何も見えない!逆に怖いじゃない……?」
「俺と一緒でも怖いのか?」不意に彼が耳元で囁く。
 口説き文句のようなセリフに戸惑う。さすがにこの状況で脇見をする余裕はない。

「っ、こんな時に、集中力の欠けるような事言って来ないでっ!」
「別にそんなつもりはなかった。……ごめん」

 徐々にスピードを緩めて行く。そしてついに停車した。まだ辺りには深い霧が立ち込めている。

「……怖いよ」私はポツリと言った。
「ユイ?」
「さっきの答え。怖い。あなたが、私の前からいなくなってしまいそうで……」
 ヘッドライトに照らされた真っ白な霧を見つめながら訴える。彼はちゃんと私の隣りにいる。なのに、なぜか不安が消えない。

「俺はここにいるじゃないか」
「そうなんだけど!新堂さん、最近何だか元気ないし、私の心も、この霧の中みたいにモヤモヤしてるの」言い終えてハンドルに顔を埋めた。
 彼が優しく背中を擦ってくれる。「そんな事ない。ちゃんと元気になったじゃないか。むしろ俺は、おまえの事の方が心配だよ……」

「私は元気よ?ちゃんと漢方薬も飲んでるし」
「ああ。そうだな」
 私の体を起こして彼が続ける。「心配させてごめんな。医者のクセに、ダメだよな」
「そんな事!全然そんな事ないから」
「ありがとう」
 お互い体を近づけて抱擁する。
「さ、帰りましょ」

 麓に近づいた頃、ようやく霧が晴れた。

「視界がやけにクッキリしたな」
「ホント~。気持ちいいくらいに!」
「ユイの心も、このくらいクリアになってほしいな」
「ふふ!お上手ね、センセ」
「本心だぞ?」
「分かってる」

 新堂さんの不調が、こんなにも私を不安にさせるなんて思っていなかった。彼だって人間なのだから、具合が悪い時だってあるはずなのに?
 新堂和矢はサイボーグではなかった!


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