この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第四章 不屈の精神を養え

  忍び寄る影(2)

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 出勤前の一分でも時が惜しい時間帯に、一足先に仕事に向かった新堂さんから電話が入った。

 驚きながらもすぐに出る。
「もしもし、新堂さん?どうしたの」こんな事は珍しい。
『ユイ。まだ家だろ?忙しいところ悪いが、ちょっと調べてほしいんだ』
「何かあったの?」

『実は、追突事故を起こしてしまった』
「ええっ!?あなたが?」追突されたのではなく?との意を込めて言う。
『ああ、俺がだ。ぼんやりしていた……。どうにも今日はダメだ』

 まだ体調は戻っていないのか。あれからしばらく普通に見えたのだが。

「……で、何を調べればいいの?」
『保険会社の連絡先だ』
「保険って、車の自賠責のね」
『いや。任意保険の……』まだ動揺している様子の彼が言葉を詰まらせる。
「任意保険入ってたの!」
 大金持ち新堂は保険に頼る必要がない。何しろ財力は存分にあるのだから?

「……ゴメン、冷やかしてる場合じゃないよね。分かった、すぐに調べるわ。で、今どこ?」
『来なくていい。これから仕事だろ』
「いいから、今どこ!」

 無理やりに居場所を聞き出すと、保険会社の担当者の連絡先を入手して取るものも取りあえずその場に向かった。
 来るなと言われても行く。こんな事は未だかつてなかった緊急事態なのだから!
 車はないので公共機関を使ったが、最寄り駅がなく最後はタクシーだ。


 現場に着くとすでに相手側は引き上げており、そこには彼とフロントのバンパーに傷を負ったクワトロポルテしかいなかった。

「新堂さんっ!」
「……ユイ。別に来てくれなくても良かったのに。仕事だったんだろ?」
 電話越しに感じた動揺した素振りは見られず、安堵する。
「そんなの気にしないで。それより、ケガはないのね?」彼を見回して尋ねる。
「ああ。俺も、相手も何ともない。物損事故で片付く」
「良かった……」

 ほっとしたのも束の間、彼の顔色を見て不安になる。
「ねえ、顔色良くないわ……具合、悪そう」
「大丈夫だよ」
「でも、今日の依頼は延期した方がいいんじゃない?」

 病院の建物はすでに見えている。現場は目的地近くだったようだ。

「しかし、患者が待っているんだ」
「あなた、さっき言ったわよね。今日はダメだ、って」電話口で確かに聞いた。
 口元に手を当てて無言になる彼。この仕草をする時は返答に困っている証拠。
 私は畳みかけた。「緊急じゃないなら延期!私が伝えに行くわ。直接言った方がいいでしょ、どうせ目の前まで来てるんだし?」

「しかし……」煮え切らない彼に、「今日のオペは緊急なの?」と返事を急かす。
「そんな事はないが」ようやく答えてくれた。
「なら決定ね。乗って、私が運転するから」
「あ、……ああ」

 ぼんやりする彼を後部席に押し込め、取り急ぎ病院へ向かった。

「急病で来れなくなった事にするわ。あなたはここにいて。顔を出されたら辻褄が合わなくなるから」
 病院の駐車場の隅に車を停めて彼に告げる。
「こんな事は前代未聞だ……!」
「まあまあ、そういう時もあるよ。今だけ秘書をさせていただくわね、新堂先生?」
「……よろしく頼むよ、秘書の朝霧さん」彼がほんの少しだけ笑った。

 笑顔で頷きドアを閉めた。

「さてと。こういう格好してて良かったわ」
 会社に行く予定だったので、服装は完璧秘書に見える。バッグからPC用のブルーライトカットメガネを出して掛けてみた。
「さらにイイ感じじゃない?」

 受付で依頼人の病室を聞き出し、一直線に向かう。
 扉の前で患者の名を確認してから、ノックをして返事を待つ。

「どなた?」病室から女性の声がした。
「私、ドクター新堂の秘書の、朝霧と申します」
 名乗ると、すぐに扉が開いて中に通された。

 そこにいた女性は依頼人の母親。そして患者は息子だ。母親は見るからに厄介そうな人物……。新堂さんが延期を渋った理由が何となく判明する。

「あら。新堂先生は?いらっしゃらないみたいだけど、どうなさったの?」
「実は、少し体調を崩されまして。手術の日程を延期していただきたく、そのお願いに私が代理で伺いました」
「まあ……先生がご体調を?お医者様なのに?大丈夫なのかしら!」
 予想通りの反応だ。医者は病気にならないとでも思っているのか?

「重篤なものではありませんが、万全の状態でオペに望みたいとの意向です。どうか、ご承諾いただけないでしょうか」下手に下手にを心がける。
「そんなの当たり前です。具合が悪い中やられて失敗でもしたら……!大事な息子に、もしもの事があったら!」母親は感情的になって騒ぎ出す。

 ああ、面倒クサい!チラリと息子を見やれば、黙りこくって私を見つめていた。

「ご心配には及びません。数日中には予定通りやらせていただきます」あえて息子に向けて笑顔で伝える。
「だけどっ、依頼は依頼よ?こちらはお高い報酬をお支払いしてお願いするの。その辺は、どうしてくれるおつもり?」
「おっしゃるとおりです。全てこちらの都合ですので、通常は一切致しておりませんが、特別に、少々お値引きをさせていただく予定でおります」

 勝手に値引きの話を持ち出した。これまた予想通り、母親の目の色が変わる。
「そうなの……?そういう事ならまあ、いいでしょ」
「ありがとうございます」
 私は恭しく頭を下げると、日程は追って連絡すると告げてその場を後にした。


 こうして急ぎ彼の元へと戻る。

「お待たせ」運転席に乗り込みドアを閉めた。
「結構手強いオバサンだったろ」彼がやや心配そうに聞いてくる。
「あのくらい、何でもないわよ」
「さすが、職場の年配女性で免疫がついてるな」
 その通り。ウチのボスに比べたら何て事はない?「ふふ……そのようね。それと、一つ謝っておきたいんだけど……」

 彼が不思議そうに私を見つめる。

「今回の報酬、値引きしてあげてね」ここは明るく言ってみよう。
「なぜだ?」
「だ~って。そう言っちゃったんだもん」
 目を丸くする彼に向かって、軽く舌を出しておどけてみる。
「分かったよ」

 いつもならば、ここで何らかの反撃があるのだが。何ともあっさり受け入れた彼にやはり不安になる。

「早く帰りましょう。今日はゆっくり休んで」
「お言葉に甘えてそうするよ」

 素直に受け入れてくれた彼に頷くと、私達は帰宅した。


 帰宅してみればまだ昼前だ。これなら午後の仕事には間に合う。
「それじゃ、私、これから会社に行って来るわ」
「これから?」
 これでも責任感は人一倍強いのよ?と付け加えて、さらに彼に外出禁止を言い渡す。

 颯爽と家を出た後、ようやく一息ついた。「ふぅ~……」珍しく疲れた。
 何しろあの新堂さんが追突事故だ。スピードだって滅多に出さないし、いつもあんなに慎重に運転する彼が?
「私がってなら、十分アリなんだけど!」


 この日はどうも、調子が出ずに終わった。

「ただいま~」
「お帰り。夕飯できてるよ」
「ありがと。ねえ、車、もう修理に出したの?」

 庭先にあったのは見慣れない車。代わりにジャガーが停まっていた。

「ああ。凹んだ車で走りたくないからな」
「ふうん……」
 私はよくボコボコの状態で使っていたけれど!何しろ敵が多くて、すぐに壊されるのだから仕方がない。それもまあ、昔話だが。

「代車にジャガーはリッチねぇ~。でも何でまた?」全く別のメーカーではないか。
「俺は何も要求してないぞ?向こうが勝手に気を回したんだ」
 何でも近くにジャガーのディーラーがあって、そこから用立ててもらったとか。
 店側も、あまりに格下の車を貸し出す事に気が引けたのだろうが……。
「知らずに無言の圧でも掛けたんじゃないの?」

 この人は結構こだわるタイプだ。見た目に、という意味だが。
 返事は返ってこなかった。つまり図星か。

「それで、明日はお仕事できそう?」
「ああ。問題ない」
「だったら私が送って行くわ。明日はお休みだから」
「ありがとう」
 断られると思ったが意外にすんなり受け入れられた。やっぱりどこか違和感がある。

「どうかしたか?」
 ぼんやり見つめていたら、不審がられてしまった。
「ううん!何でも。ジャガー運転するの初めてで!楽しみだな~って?……」
 誤魔化した後に何だが、やはり気になる。
「ねえ?体調、本当に大丈夫?一度病院で診てもらっ……」ここまで言って遮られた。「問題ないと言っただろう」

 こういう話は医者の彼にはしずらい。こう言われてしまえばそれ以上は何も言えない。


 そして翌日、二人で依頼人の元へ赴き、彼は仕事を無事にこなした。
 もちろんオペは大成功に終わった。

「新堂先生、本当にありがとうございました!」
「こちらこそ、延期していただいて申し訳なかった。代金は二千五百万で結構です」
「まあっ!五百万円もお値引きしてくださるの?」
「私の気持ちです」
「まさかその分、手を抜いたなんて事は……」卑しい目つきで彼を見上げ呟く母親。

 彼は鋭い視線で牽制した後、あえて何も反論せずに同じセリフを繰り返す。
「私の、気持ち、です」
「おほほほっ!」ただ高笑いを響かせる母親。
 彼の威圧感に、笑って誤魔化すしかなかったのだろう。
 言っていい事と悪い事があるだろうが?思い知ったか!私は無表情をキープしたまま心の中で叫んだ。


 帰りの車内で、ハンドルを操作しながら嘆く。「あ~ん、失敗だったわ!」
「何が?」
「あんな依頼人に、値引きしてやる必要なかったなって」あの母親の耳障りな高笑いがまだ頭に響いている。
「おまえが言い出したんだろ」

「そうよ。だ、か、らっ!失敗だった!……ごめんなさい、勝手な事して」
「気にするな。いいんだ。実際、迷惑かけたのはこっちなんだ。俺の気持ちってところに嘘はない」
「でも……」

 軽く微笑んで彼が私の肩をポンと叩いた。
 気を取り直して運転に集中する。

「今日の運転はやけに慎重だな」
「私らしくないって?」
「そこまでは言ってない」
「いいのよ。だって私今、先生の秘書だから。先生に何かあったら一大事だもの」
「俺はてっきり、右ハンドルに慣れてないせい、とか言うと思った」

「そんな事はユイさんには関係ないんですっ!」
 そう言った矢先に、ウインカーを出そうとしてワイパーを動かしてしまう。
「イヤ~ん!」
「ははは!やっぱりだな、強がりなヤツめ。俺はまだそれ、やってないぞ?」
「まだ、でしょ!そのうちやるから」

 貴島さんがクワトロに初めて乗って同じミスをした時、私は笑った。自分だってやっているではないか?笑う資格はなかった……。

「見なかった事にして!」
「見てしまったものは無理だ」
「イジワルぅ~!」

 こうして笑い声に包まれる車内は、束の間いつもの楽しい時間だった。


 我が家に到着し、それぞれの事を始める。
「少し早いけど、夕飯の支度でも始めるかぁ」手持ち無沙汰になりキッチンへ向かう。

 途中で書斎を覗いたけれど、新堂さんがいない。

 リビングを見渡すと、テラスに佇む彼を発見。
「ここにいたのね。今晩、何食べたい?」
「ああ……。そうだな、任せるよ」心なしか元気のない彼。
「そんなに落ち込まないでよ!」座り込んでいる彼の肩を後ろから叩く。
「落ち込んでなどいない」
「そう?」

 疑う私に、振り返った彼の顔は見事な笑顔だった。
 でもこれが自然に生まれた笑みでない事は一目で分かる。

 私は彼の隣りにしゃがみ込んだ。
「ねえ、だけどさ」
「ん?」彼が横に座った私を見る。
「もし事故して相手がケガをしても、あなたなら自分で治してあげられるよね」
「まあ……そうだな」
「それって、下手にボられる事もない訳じゃない?そういう点では安心ね」

「ケガはさせてないと思うが、事故相手には何かあったら連絡してくれと言ってある」
 私はただ頷く。彼が続ける。
「相手は自動車メーカーの人間だった。車の特性について、色々と教えてくれたよ」
「そっか。良かったわね、いい人みたいで」
「ああ」

 そこで話が途切れてしまった。やっぱり元気がない。
「よ~し、飛びきり精の付くもの作るわね!待ってて」
 私は新堂さんの肩をもう一度叩くと、彼を残してキッチンに向かった。

 この日の夕食も、彼は半分ほどを残した。何度も何度も私に不味い訳じゃないからと、気遣いの言い訳をして。


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