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第四章 不屈の精神を養え
36.余韻(1)
しおりを挟む新堂さんのベッドサイドに腰を下ろして額に濡れタオルを当てていると、パチリと目が開いた。
「あっ、ごめん、起こしちゃった?」
「ユイ……」
「何だか熱っぽかったから……余計な事したかな」控えめに聞いてみる。
「いいや。ありがとう、いい気持ちだ」
その答えを聞いてほっとする。「良かった。……大丈夫?」
思えばひと月くらい前のあの夜も、彼は苦しんでいたのかもしれない。私が聞いたのは夢ではなく、本当に新堂さんの呻き声だったとか?
「大丈夫だ。まだ夜中だ、寝てくれ」
彼の返答が聞こえて考え事を中断する。「解熱剤か何か、持ってこようか?」
「自分でやるよ。さあ、おまえは寝るんだ」
「うん……」
新堂さんは濡れタオルを受け取って体を起こした。それはとても億劫そうに。私を隣りのベッドに寝かせると、部屋を出て行った。
この人が熱を出した事など、これまでにあっただろうか。思い返しても記憶にない。
気になって、そっと起き出して後を付いて行く。
彼は書斎に入ると、引き出しから解熱剤と思われるものを手にして、キッチンへ向かった。コップに水を汲む音が響いてくる。
リビングのカーテンの隙間から、濃紺の夜の帳が見えていた。
薬を飲み終えた彼が、私と同じ窓の方を向いた。
「……湯冷めでもしたか?」ため息交じりに、一人呟いているのが聞こえる。
そんな彼に、つい声をかけてしまった。「新堂さん……私にできる事あったら、何でも言ってね」
声に驚いた彼が、リビングの入口に佇んでいた私を振り返る。
「まだ起きてたのか。……ああ、ありがとう」
そして一緒に寝室に戻り、再び床に就いた。
翌朝、私はいつもより早く身支度を整えてキッチンに立つ。
午前九時を過ぎた頃、新堂さんが顔を出した。いつもよりも断然遅い時間だ。
「おはよう、新堂さん。……具合、どう?」
「おはよう。ユイのお陰で良くなったよ。ありがとな」
彼のこんな返答を聞いて嬉しくなる。
実のところあれから寝付けずに、何度も彼の額のタオルを取り替えたりしていた。
「ねえ、スープ作ったんだけど、食べない?」コンロにかけた鍋を見下ろして言う。
「朝から料理するなんて珍しいな」
「ちょっと早く目が覚めちゃって」そういう事にしておく。
「じゃ、いただこうかな」
良かった。「うん!座ってて、持って行くから」
室内には良い香りが充満している。これで彼の食欲を刺激できれば良いのだが。
「はい、どうぞ召し上がれ!栄養満点スープよ」
「手が込んでるな……大変だったろ、作るの」皿の中身を覗き込みながら言う。
煮込みすぎて中の野菜達はほぼ原形を留めていない。もはや流動食か。
「全然!食欲なくても、飲む事ならできると思って」
せっかくだから、ただ煮込んでいただけという事実は秘密にしておこう。
正面に座ってじっと見つめる。
「いただきます」
湯気の立ち上る妙な色の液体をスプーンで掬い、口に運ぶ。
「どう?見た目は悪いけど……味は悪くないでしょ」
「ああ、絶妙な味だな。美味しいよ」
「良かった~!」
「ユイは?」
「もう済ませた」
朝は大抵コーヒーとトースト、そしてフルーツ入りのヨーグルトだが、体調を崩した時は別だ。新堂さんはいつも栄養バランスを考え抜いたメニューを提供してくれる。
ここでやっと恩返しができるというもの。
「熱、下がって良かったわ」彼の額に手を当てて言った。
「ああ。ユイの看病のお陰だ。早く目が覚めたって言うが、あまり睡眠取れてないんじゃないのか?」
「いいの。眠くなったらお昼寝するから!」頬杖をつきながら微笑んだ。
「ご馳走様、美味しかったよ。ありがとう」
「完食ね!」
空になった皿を満足気に見やり、キッチンに運ぶ。
片付けや他の家事もすっかり終えた昼下がり。ソファで寛いでいるのだが、どうにも眠い。
「ふあ~あ……」とうとうあくびが出た。
そんな時、ちょうど彼がリビングに入ってきて見られてしまった。
「眠そうだな」
「少しよ、少し……」
「ごめんな。昨夜、何度も起き出してくれてただろ」
「気づいてたの?!」
「もちろん」
「待って。って事は、あなたも寝てないじゃない!」
「まあ、何だ……」言葉に詰まっている。
こうなったら……。「じゃ、これから一緒にお昼寝しましょ!」
私は彼の手を引いて寝室へ向かう。
「俺は別に眠くないよ」
「いいから、いいから!……。ん?」掴んだ手を持ち上げて彼の腕を見る。
袖が捲れて素肌が露出しているのだが、数箇所にアザがあったのだ。
「新堂さんったら、またぶつけたの?」
「あ、ああ……。そうなんだ」
「これじゃまるで、キハラとトレーニングした後の私みたい。懐かし~!」
この時の私は、動揺している彼に気づいていなかった。
「そんなにアザ作ってたのか?それは問題だな」虐待じゃないのか?と続ける。
「違うったら。訓練よ、訓練!まだ私がこんなふうに強くなる前ね」
「そのアザの分だけ、ユイは強くなったんだな」
「うふふ~っ!いい事言うじゃない?新堂さんも強くなってね!」
こんな事を言っている場合ではなかったのに……!
「ユイ、ごめんな。心配かけて」
私達は、真っ昼間にベッドに入っている。
「何言ってるの!私がいつもそれ言ってあなたに怒られてるんだけど?」
「そうだったな」
布団は掛けず、お互いベッドの上でただ横たわる。
「新堂さん」
返事はなかったが、彼は顔を私の方に向けた。
私は続ける。「私ね、あなたにずっとお返しがしたかった。今までずっとしてもらってばかりだったから。だから今、それができて嬉しいんだ」
「そんなのいいって。俺が勝手にしてる事だし」
「いつも新堂さんに癒されてる。身も心も。今度は私があなたを癒したい。病気を治す事はできないけど」
「十分だよ。ありがとう、ユイ」彼が私の方に手を伸ばしてきた。
手を握るだけでは飽き足らず、私は起き上がって彼のベッドに飛び乗る。
「新堂さんっ、大好きっ!」
「一緒に寝よう」
「うん!」
私達は抱き合って目を閉じた。
少しして、穏やかな寝息が聞こえてきた。どうやら彼が眠ったようだ。その寝顔を堪能してしばし微笑む。
すっかり目が覚めてしまった私は、そっとベッドから抜け出して寝室を出た。
それから少々トレーニングをしたり、部屋で調べ物をしたりして夕方になる。
テラスで煙草を咥えながらぼんやり空を見ていると、後ろに気配を感じた。
「あ、新堂さん。起きたの?」
「ユイ、外で吸ってるつもりだろうが、窓が開いてたら意味ないぞ」
「あっ!ごめ~ん、煙入ってた?」苦笑いで謝罪する。
「おまえはちゃんと、昼寝したのか?」
「したわよ」
私がいつ起き出したのか全く気づいていない様子。
「新堂さん良く寝てたから。先に来ちゃった」
「眠くないって言った俺の方が寝てたな」
私は笑って煙草の火を揉み消した。その手元をぼんやり見つめてくる彼。
「どうしたの?」
「ん?いやな……最近、メスを握ってないな、と」
あの追突事故以来、オペの依頼が入ったという話は聞いていない。
「まさか禁断症状?!」
そうらしい、とおどける新堂さんに言い直す。「腕が鈍るって言いたいんでしょ」
「その通り。日々の鍛錬を怠っている事に、不安を感じてる訳さ」
「その気持ちなら、よ~く分かる。調子が戻ったら挽回するしかないでしょ。私みたいに?」すぐに不調を来たす今の自分は、ずっとそんな事の繰り返しだ。
「そうだよな」
「調子良くないなら、依頼はちゃんとお断りしてね?」こう念を押した。
仕事を終えて会社から帰宅すると、新堂さんはどこかへ出かけているらしく車がなかった。あんな話をした矢先だ。仕事に行った訳ではないだろうが。
今日は珍しく残業で遅くなってしまった。
「ただいま」誰もいない玄関で声を出す。「急いで夕飯作らないと!」
時計はもう午後七時を指している。秋の夜長というだけあり、外はすでに真っ暗。
手早く調理を済ませて、そわそわと落ち着きなくテラスから丘の麓の方を眺める。
「遅いなぁ、新堂さん……」
ここ最近の彼の様子から、出先で何かあったのではと心配になる。
携帯を取り出し電話をかけてみるが、電波の届かない場所か、電源が入っていないのメッセージが流れるばかり。
「どこにいるっていうのよ、もう!」
ドサリとソファに腰を下ろして腕を組むも、ふと思い立って彼の書斎に向かう。
「何か今日の外出の手がかりないかしら……」
相変わらず物が山積みになったデスクから、新しめの書類を見繕ってそっと抜き取って目を通すも、どうもしっくりこない。
それもそのはず!「何これ!去年のじゃないっ」昨年の十月のものだった……。
「んも~っ!ちゃんと整理しといてよね?」
イラ立ち気味に書類を手から離すと、デスク前の椅子に腰掛けPCの電源を入れた。
「こんな事、ずっと昔もやったような気がするなぁ」
出会った当初、同居中の謎の男の素性を知りたい一心で同じ事をした。
そして当然ロックが掛かっていて開けず仕舞い。
「困ったわ……」
引き出しを開けてみると、万年筆が何本か入っていた。
「さすがに、もう持ち歩いてないのね~」
以前は時に武器として登場した彼の万年筆。それを思い出して笑ってしまう。
次に二番目のやや深さのある方を開けると、点滴セットが無造作に入っていた。
「やっぱり彼のお食事はこれなのね……」
引き出しを閉めて立ち上がる。
「やっぱり気になる。捜しに行こう。いざとなったら、ヘリでも船舶でも使うわ」
外は肌寒い。薄手のコートを羽織り外に出た。時刻はもう午後八時を回った。
「手始めに、どこへ向かうべき?」
こう呟きながら、取りあえず麓のレンタカーショップに向かおうとした時、ヘッドライトがこちらを照らした。
「眩しっ……」
車が一台向かって来る。聞き覚えのあるエンジン音だ。
「どうやら、帰って来たみたいね」
ほっとして歩みを止め、庭先で待機する。
「少し遅くなった」新堂さんは私を見て、申し訳なさそうに一言口にした。
こちらも多くは語るまい。「心配したわ」と一言だけ返す。
「済まん。わざわざ外で待たなくてもいいのに」私の肩を抱いて言う。
そんな彼を見上げて言い放つ。「遅くなるなら連絡くらい入れてよね?」
「ああ、悪かった。オペが長引いてね」
「オペ?依頼入ってるなんて言ってなかったじゃない。それに携帯の電源、切れてるんだけど?」今度は立て続けに問いただす。
「ん?」ポケットに手を入れて携帯を確認している。そして「電池切れだ」と携帯を掲げた。
「ウソでしょ?!大事な連絡手段よ?」
彼が顔を上げて私を見つめてくる。
「……何よ」
「いや」明らかに何か反論したげのようだが、何も言ってこない。
「さあ、中に入ろう」私の背に手を当てて、中へと誘導する。
「ねえ、どこまで行ってたの?調子悪いなら、依頼は受けないでって言ったよね?」
「調子は悪くない。渋滞に嵌まってただけだ」
「ホントに?」証拠を見せてくれ!
「ごめんごめん、食事、待っててくれたのか?さあ、早速食べよう。腹が空いたよ」
どこまでも疑う私に、彼はあっさりしたものだった。
新堂さんの言い分はもっともで、様子はいつも通り。それでも何かが腑に落ちない。
「ねえ?帰りに何かあったの?」ダイニングに落ち着き、料理を前に再度尋ねる。
彼の髪がやけに乱れている事に気づいたからだ。
「だからさっき言ったろ。渋滞に……」
「今日って、風、強かったっけ?」新堂さんの髪に手を伸ばして首を傾げる。
すると、ハッとしたように彼が自分の髪に手をやった。
「ああ……、ビル風、だろう?ほら、あそこはいつも風が強いから!」
「あそこってどこよ」どこに行っていたかの答えもまだだが?
不審感は全く消えなかったが、それ以上問いただすのはやめた。
「もういいわ。さ、食べよ!」
何しろ目の前の彼は血色が良くて、本当に調子は悪くなさそうだったから。
「だけどさ。どっかで倒れてるんじゃないかって、本気で心配したんだからね?」
「おいおい、なぜ俺が倒れる?それはおまえだろ。こっちこそ散々心配したぞ」
こう言われては降参だ。舌を出して苦笑いしながら頭を下げた。
「ところで!書斎、大変な事になってない?」
「どういう意味だ?」あらあら気づいてないの?「去年の書類まで残ってるし!それも何であんな上の方に置いてある訳?紛らわしいっ」と強めに言い放つ。
「勝手に見るなよ」どこか拗ねたような声が返ってきた。
「そんな事言われてもね、携帯に出ないあなたが悪いのよ?」
「それ、関係あるか?」
「あるわよ。居所を知りたかったの!」
「ならこれで、俺の気持ちも分かってくれたよな」言っている意味が分からない。「あなたの気持ちって?」
「今どこにいる!って、しょっちゅう問いただしてるだろ?しかも携帯は繋がらない事が多いしなぁ!」との言い分に、「ああ……」と大いに納得。
「お相子だな」彼が勝ち誇った顔になる。「んもう、ズルい!」どうしていつもこういう展開になるのか。
「何がだ」
私は食べる気が失せて箸を置いた。
「もう食べないのか?」
「新堂さんが意地悪言うから、食欲なくなったわ」
「ごめんごめん。もう言わないから、食べろって」
上目遣いに彼を見上げる。「そういう新堂さんだって進んでないじゃない。やっぱり美味しくないでしょ、今日のは手抜きしたから……」
「そんな事ない。美味いよ。少し、食欲がないだけだ」
私に食事を続けるよう手で合図してくる。
「ねえ?私、あなたの秘書やってもいいよ?」
「おお、やっとその気になってくれたか!」
「ただし、スケジュール管理と、書類整理だけ!」
「俺の行動を監視する気だな?」
「当然よ。今どこにいるか把握しないと。忘れてるといけないから言うけど、私、新堂先生のボディガードよ?あなたの命は、私が守るの」
「それは恐縮だ。だが、今の仕事、休めないんだろ?」
「別に休む必要はないわ。何も、あなたと常に行動を共にするとは言ってない」
肩を竦める新堂さん。好きにしろ、と言いたげだ。
「無理、しないでよね?新堂さん……」私が一番言いたいのはこれだけだ。
「無理なんてしてないさ。そっくりそのまま、ユイに返すよ」
「分かってるわよ……」
どうしても言い包められてしまう。相変わらず口の上手い男だから手に負えない。
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